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第3章:虚構の王国と洗脳された信者たち
第27話 通信途絶
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午前3時。
東京、港区の佐藤任三郎のオフィス。
窓の外は漆黒の闇に包まれているが、室内のモニター類は煌々と青白い光を放っていた。
エアコンの稼働音だけが響く静寂の中、佐藤、松本愛永、吉田彩、佐々木紘子の4人が、固唾を呑んで画面を見守っていた。
メインモニターに表示されているのは、山梨県の山奥にある『ミライ・アカデミー』周辺の地図データ。
そこに、二つの光点――田中襟華と渡辺千尋の位置を示すGPSシグナルが点滅している。
「……動きが止まったわね」
紘子がリンゴをかじりながら呟いた。
「襟華ちゃんは一般寮のエリア、千尋はVIP棟のエリアで静止してる。就寝時間かしら」
「だといいのですが」
佐藤は眉間に深い皺を刻み、キーボードを叩いた。
襟華たちが潜入してから数時間が経過していた。
予定では、深夜の見回りの隙を突いて、襟華が定期連絡を入れてくるはずだった。
だが、通信はまだない。
ザザッ……ザザ……。
突如、スピーカーから不快なノイズが漏れた。
同時に、モニター上の光点が乱れ、激しく明滅し始めた。
「なっ、何!?」
愛永が身を乗り出す。
「GPSの信号ロスト……いや、座標が乱数化されています」
佐藤の指が高速でキーを叩く。
「通信波形に異常な干渉を確認。……これは、ジャミングです」
「ジャミング?」
彩が眼鏡の位置を直す。
「携帯の電波が入らない山奥だからじゃなくて?」
「いいえ。これは自然な電波障害ではありません。特定の周波数帯を狙い撃ちにして、ホワイトノイズで埋め尽くす……軍用レベルの広帯域妨害です」
佐藤の声が低くなる。
「紘子さんが渡した特殊な通信機でさえ、周波数ホッピングが追いついていない。……敵は、我々の想定以上の『防壁』を持っています」
室内に緊張が走る。
単なる詐欺集団の施設ではない。
そこは、外部からの干渉を一切許さない、独立した「要塞」だったのだ。
ピチャ、ピチャ、ピチャ。
その張り詰めた空気の中で、場違いなほど呑気な音が響いた。
佐藤の足元だ。
そこには、猫用の皿に入ったミルクを、無心で舐めている黒猫の子猫――ダシの姿があった。
小さな舌を出して、一心不乱にミルクを飲んでいる。
時折、満足げに喉をゴロゴロと鳴らし、ミルクのしずくを口の周りにつけて顔を上げる。
「……ミャ?」
ダシは不思議そうに、険しい顔をした人間たちを見上げた。
どうして皆、そんなに怖い顔をしているの? ミルクはこんなに美味しいのに。
その無邪気な瞳は、ここにある危機的状況など知る由もない。
佐藤は一瞬だけ、ダシの方を見た。
その瞳に宿る、微かな優しさ。
だが、すぐに視線をモニターに戻した時には、その目は氷のように冷え切っていた。
「……緊急事態です。現地の二人が、完全に孤立しました」
★★★★★★★★★★★
同時刻。山梨県、『ミライ・アカデミー』VIP棟。
渡辺千尋は、豪華な個室のベッドの中で、冷や汗を流していた。
隠し持っていた骨伝導イヤホンからは、ザザッという砂嵐のような音しか聞こえてこない。
(……ダメね。完全に遮断された)
彼女はシーツの中で拳を握りしめた。
紘子が用意した軍用無線機ですら通じない。つまり、この施設全体が強力なジャミング装置のドームに覆われているということだ。
その時、廊下から足音が聞こえた。
カツ、カツ、カツ……。
規則正しい、複数の足音。スタッフだ。
足音は千尋の部屋の前を通り過ぎ、隣の部屋の前で止まった。
ガチャリと鍵が開く音。
「な、なんだ君たちは! 夜中に……」
中年男性の声。
「教育的指導のお時間です。……あなたは今日、講義中に居眠りをしましたね?」
スタッフの冷淡な声。
「ち、違う! 少し疲れて……うわっ、やめろ! どこへ連れて行く!」
ドサッ、ズルズル……。
何かが引きずられる音と、押し殺したような悲鳴。
そして、静寂。
千尋は息を殺した。
隣の男は「資産家」枠の参加者だったはずだ。それが、些細な理由で深夜に連行された。
この施設には、法も人権もない。あるのは西園寺レオという「教祖」のルールだけ。
(襟華……無事でいて)
千尋は祈るように、壁の向こうの一般寮の方角を見つめた。
★★★★★★★★★★★
一方、一般寮。
田中襟華は、絶体絶命の窮地に立たされていた。
事務室への潜入を諦め、寮に戻ろうとした矢先のことだ。
彼女は、昼間に少しだけ言葉を交わした、借金苦の青年――タカシに出くわした。
彼は自動販売機の陰で震えていた。
「……あ、君」
タナカは襟華を見て、縋るような目で近づいてきた。
「ねえ、君も逃げ出そうとしてるの? 俺もなんだ……怖くて、もう限界で」
襟華は少し警戒したが、彼の涙目を見て、警戒を解いた。
同じ「逃げたい」という思いを持つ仲間だと思ったからだ。
「……うん。ここ、ヤバいよ。一緒に逃げ道を探そう」
襟華は小声で囁いた。
その瞬間。
タカシの表情が、奇妙に歪んだ。
恐怖ではない。
恍惚とした、歪んだ笑顔。
「……見つけた」
タカシは大声で叫んだ。
「スタッフさーん!! ここにいます! 脱走者です! 不純分子です!!」
「は……?」
襟華は凍りついた。
タカシは襟華の腕を掴み、離さない。
「俺は報告しました! これで点数がもらえる! レオ様に褒めてもらえる!」
彼は狂ったように叫び続ける。
裏切り。
いや、これは裏切りですらない。彼は最初から、西園寺のシステムに組み込まれた「監視カメラ」の一つだったのだ。参加者同士を相互に監視させ、密告を奨励する恐怖政治。
「離して! このクズ!」
襟華はタカシの脛を蹴り飛ばすが、彼は痛みさえ感じていないように笑いながらしがみついてくる。
ドタドタと、四方から足音が迫ってくる。
白いポロシャツを着たスタッフたち。そして、うつろな目をした「洗脳済みの見回り隊」たち。
懐中電灯の光が、襟華を照らし出した。
「確保しましたー!」
「教育が必要です!」
「浄化しましょう!」
無数の手が伸びてくる。
襟華は必死に抵抗したが、多勢に無勢だ。
彼女の体は押さえつけられ、冷たい床にねじ伏せられた。
「離せ……! 佐藤……!」
彼女のポケットから、通信機が滑り落ち、スタッフの靴に踏み砕かれた。
バキッ。
その音は、外界との唯一の繋がりが断たれた音だった。
★★★★★★★★★★★
佐藤のアジト。
モニター上の襟華のバイタルサインが、急激に上昇し、そして――消滅した。
警告音が鳴り響く。
「……襟華ちゃん!?」
愛永が叫ぶ。
「バイタルロスト……。通信機が破壊されたか、あるいは……」
彩が言葉を濁す。最悪の想像が頭をよぎる。
佐藤は静かに立ち上がった。
その顔には、一切の感情が浮かんでいない。
だが、その瞳の奥には、溶岩のような怒りが渦巻いているのがわかった。
「……想定していた最悪のケースです」
佐藤はジャケットを脱ぎ捨て、機能性の高いコンバットスーツを装着し始めた。
「潜入作戦は失敗しました。これより、作戦を『強行救出』へ移行します」
彼は壁に掛けてあった車のキーを投げた。
空中でキャッチしたのは、ソファでナイフを研いでいたグレタ・ヴァイスだ。
「待っていたぞ、サトウ」
グレタはニヤリと笑い、立ち上がった。
「あの山道、私の車なら40分で踏破できる。……多少、車体が凹むかもしれないがな」
「構いません。修理費は経費で落とします」
「私も行く!」
小林弥生が、巨大なジュラルミンケースを抱えて走り寄ってきた。
中身は緊急医療キットと、大量の解毒剤だ。
「あの施設の食事、絶対に変な薬が入ってる。……襟華ちゃんたちが薬漬けにされてたら、解毒できるのは私だけだよ!」
「……許可します。ただし、絶対に私の後ろを離れないように」
佐藤は頷き、自身の懐に拳銃と、スタンガンを収めた。
出撃の準備は整った。
佐藤、グレタ、弥生の実働部隊。
残る彩、愛永、紘子は、ここからバックアップを行う。
「行ってくる」
佐藤は玄関で靴を履き替え、ふと振り返った。
そこには、キョトンとした顔でこちらを見ている子猫のダシがいた。
口の周りをミルクで白くし、首をかしげている。
『どこ行くの?』とでも言いたげな瞳。
佐藤はしゃがみ込み、ダシの頭を一度だけ撫でた。
「……お留守番ですよ、ダシ」
それは、自分自身への「必ず帰ってくる」という誓いでもあった。
この平和な光景を守るために、地獄へ行くのだ。
佐藤は立ち上がり、ドアを開けた。
夜の冷気が吹き込んでくる。
「総員、出撃!」
午前4時30分。
山梨県、山間部。
漆黒のBMW M5 CSが、ヘッドライトで闇を切り裂きながら疾走していた。
グレタのドライビングは、限界を超えていた。
ガードレールギリギリをドリフトで抜け、未舗装の悪路をラリーカーのように跳ねながら進む。
後部座席の弥生は、顔を青くして口元を押さえている。
「うっぷ……グレタ、もう少し優しく……」
「我慢しろ。1秒遅れれば、仲間が死ぬかもしれないんだぞ」
グレタはアクセルを緩めない。
助手席の佐藤は、揺れる車内でノートPCを広げ、施設のセキュリティシステムの解析を試みていた。しかし、ジャミングの影響で接続できない。
「……見えてきたぞ」
グレタが声を上げる。
前方の闇の中に、施設の灯りが見えた。
だが、その手前で、道が途切れていた。
キキキキッ!!
BMWが急ブレーキをかけ、土煙を上げて停止する。
ヘッドライトが照らし出したのは、道を完全に塞ぐ巨大な土砂の山だった。
岩石と倒木が積み重なり、車両の通行を阻んでいる。
「土砂崩れ……? 昨日の雨で?」
弥生が窓から顔を出す。
「いいえ」
佐藤が車を降り、懐中電灯で土砂を照らした。
岩肌に、ドリルで砕いたような痕跡がある。
「人為的なものです。……奴ら、最初から外部からの侵入を想定して、唯一の進入路を爆破したのです」
施設までは、まだ2キロある。
車は使えない。
徒歩で、この土砂を乗り越え、道なき山道を進むしかない。
しかも、相手は待ち構えている。
「……歩くぞ」
佐藤はPCを閉じ、バックパックを背負った。
「ここからは登山と潜入の複合ミッションです。……ついてこれますか?」
「ナメるな」
グレタがナイフを抜き、装備を確認する。
「山歩きは得意だ。薬草探しで慣れてるもん」
弥生も医療キットを背負い直す。
空が白み始めていた。
夜明けの光が、土砂の山を不気味に照らす。
その向こうにある『ミライ・アカデミー』は、沈黙を守ったまま、彼らを待ち受けていた。
通信途絶。退路なし。
分断されたチーム「Octogram」は、結成以来最大の危機を迎えていた。
佐藤は一歩、土砂の山へと足を踏み入れた。
東京、港区の佐藤任三郎のオフィス。
窓の外は漆黒の闇に包まれているが、室内のモニター類は煌々と青白い光を放っていた。
エアコンの稼働音だけが響く静寂の中、佐藤、松本愛永、吉田彩、佐々木紘子の4人が、固唾を呑んで画面を見守っていた。
メインモニターに表示されているのは、山梨県の山奥にある『ミライ・アカデミー』周辺の地図データ。
そこに、二つの光点――田中襟華と渡辺千尋の位置を示すGPSシグナルが点滅している。
「……動きが止まったわね」
紘子がリンゴをかじりながら呟いた。
「襟華ちゃんは一般寮のエリア、千尋はVIP棟のエリアで静止してる。就寝時間かしら」
「だといいのですが」
佐藤は眉間に深い皺を刻み、キーボードを叩いた。
襟華たちが潜入してから数時間が経過していた。
予定では、深夜の見回りの隙を突いて、襟華が定期連絡を入れてくるはずだった。
だが、通信はまだない。
ザザッ……ザザ……。
突如、スピーカーから不快なノイズが漏れた。
同時に、モニター上の光点が乱れ、激しく明滅し始めた。
「なっ、何!?」
愛永が身を乗り出す。
「GPSの信号ロスト……いや、座標が乱数化されています」
佐藤の指が高速でキーを叩く。
「通信波形に異常な干渉を確認。……これは、ジャミングです」
「ジャミング?」
彩が眼鏡の位置を直す。
「携帯の電波が入らない山奥だからじゃなくて?」
「いいえ。これは自然な電波障害ではありません。特定の周波数帯を狙い撃ちにして、ホワイトノイズで埋め尽くす……軍用レベルの広帯域妨害です」
佐藤の声が低くなる。
「紘子さんが渡した特殊な通信機でさえ、周波数ホッピングが追いついていない。……敵は、我々の想定以上の『防壁』を持っています」
室内に緊張が走る。
単なる詐欺集団の施設ではない。
そこは、外部からの干渉を一切許さない、独立した「要塞」だったのだ。
ピチャ、ピチャ、ピチャ。
その張り詰めた空気の中で、場違いなほど呑気な音が響いた。
佐藤の足元だ。
そこには、猫用の皿に入ったミルクを、無心で舐めている黒猫の子猫――ダシの姿があった。
小さな舌を出して、一心不乱にミルクを飲んでいる。
時折、満足げに喉をゴロゴロと鳴らし、ミルクのしずくを口の周りにつけて顔を上げる。
「……ミャ?」
ダシは不思議そうに、険しい顔をした人間たちを見上げた。
どうして皆、そんなに怖い顔をしているの? ミルクはこんなに美味しいのに。
その無邪気な瞳は、ここにある危機的状況など知る由もない。
佐藤は一瞬だけ、ダシの方を見た。
その瞳に宿る、微かな優しさ。
だが、すぐに視線をモニターに戻した時には、その目は氷のように冷え切っていた。
「……緊急事態です。現地の二人が、完全に孤立しました」
★★★★★★★★★★★
同時刻。山梨県、『ミライ・アカデミー』VIP棟。
渡辺千尋は、豪華な個室のベッドの中で、冷や汗を流していた。
隠し持っていた骨伝導イヤホンからは、ザザッという砂嵐のような音しか聞こえてこない。
(……ダメね。完全に遮断された)
彼女はシーツの中で拳を握りしめた。
紘子が用意した軍用無線機ですら通じない。つまり、この施設全体が強力なジャミング装置のドームに覆われているということだ。
その時、廊下から足音が聞こえた。
カツ、カツ、カツ……。
規則正しい、複数の足音。スタッフだ。
足音は千尋の部屋の前を通り過ぎ、隣の部屋の前で止まった。
ガチャリと鍵が開く音。
「な、なんだ君たちは! 夜中に……」
中年男性の声。
「教育的指導のお時間です。……あなたは今日、講義中に居眠りをしましたね?」
スタッフの冷淡な声。
「ち、違う! 少し疲れて……うわっ、やめろ! どこへ連れて行く!」
ドサッ、ズルズル……。
何かが引きずられる音と、押し殺したような悲鳴。
そして、静寂。
千尋は息を殺した。
隣の男は「資産家」枠の参加者だったはずだ。それが、些細な理由で深夜に連行された。
この施設には、法も人権もない。あるのは西園寺レオという「教祖」のルールだけ。
(襟華……無事でいて)
千尋は祈るように、壁の向こうの一般寮の方角を見つめた。
★★★★★★★★★★★
一方、一般寮。
田中襟華は、絶体絶命の窮地に立たされていた。
事務室への潜入を諦め、寮に戻ろうとした矢先のことだ。
彼女は、昼間に少しだけ言葉を交わした、借金苦の青年――タカシに出くわした。
彼は自動販売機の陰で震えていた。
「……あ、君」
タナカは襟華を見て、縋るような目で近づいてきた。
「ねえ、君も逃げ出そうとしてるの? 俺もなんだ……怖くて、もう限界で」
襟華は少し警戒したが、彼の涙目を見て、警戒を解いた。
同じ「逃げたい」という思いを持つ仲間だと思ったからだ。
「……うん。ここ、ヤバいよ。一緒に逃げ道を探そう」
襟華は小声で囁いた。
その瞬間。
タカシの表情が、奇妙に歪んだ。
恐怖ではない。
恍惚とした、歪んだ笑顔。
「……見つけた」
タカシは大声で叫んだ。
「スタッフさーん!! ここにいます! 脱走者です! 不純分子です!!」
「は……?」
襟華は凍りついた。
タカシは襟華の腕を掴み、離さない。
「俺は報告しました! これで点数がもらえる! レオ様に褒めてもらえる!」
彼は狂ったように叫び続ける。
裏切り。
いや、これは裏切りですらない。彼は最初から、西園寺のシステムに組み込まれた「監視カメラ」の一つだったのだ。参加者同士を相互に監視させ、密告を奨励する恐怖政治。
「離して! このクズ!」
襟華はタカシの脛を蹴り飛ばすが、彼は痛みさえ感じていないように笑いながらしがみついてくる。
ドタドタと、四方から足音が迫ってくる。
白いポロシャツを着たスタッフたち。そして、うつろな目をした「洗脳済みの見回り隊」たち。
懐中電灯の光が、襟華を照らし出した。
「確保しましたー!」
「教育が必要です!」
「浄化しましょう!」
無数の手が伸びてくる。
襟華は必死に抵抗したが、多勢に無勢だ。
彼女の体は押さえつけられ、冷たい床にねじ伏せられた。
「離せ……! 佐藤……!」
彼女のポケットから、通信機が滑り落ち、スタッフの靴に踏み砕かれた。
バキッ。
その音は、外界との唯一の繋がりが断たれた音だった。
★★★★★★★★★★★
佐藤のアジト。
モニター上の襟華のバイタルサインが、急激に上昇し、そして――消滅した。
警告音が鳴り響く。
「……襟華ちゃん!?」
愛永が叫ぶ。
「バイタルロスト……。通信機が破壊されたか、あるいは……」
彩が言葉を濁す。最悪の想像が頭をよぎる。
佐藤は静かに立ち上がった。
その顔には、一切の感情が浮かんでいない。
だが、その瞳の奥には、溶岩のような怒りが渦巻いているのがわかった。
「……想定していた最悪のケースです」
佐藤はジャケットを脱ぎ捨て、機能性の高いコンバットスーツを装着し始めた。
「潜入作戦は失敗しました。これより、作戦を『強行救出』へ移行します」
彼は壁に掛けてあった車のキーを投げた。
空中でキャッチしたのは、ソファでナイフを研いでいたグレタ・ヴァイスだ。
「待っていたぞ、サトウ」
グレタはニヤリと笑い、立ち上がった。
「あの山道、私の車なら40分で踏破できる。……多少、車体が凹むかもしれないがな」
「構いません。修理費は経費で落とします」
「私も行く!」
小林弥生が、巨大なジュラルミンケースを抱えて走り寄ってきた。
中身は緊急医療キットと、大量の解毒剤だ。
「あの施設の食事、絶対に変な薬が入ってる。……襟華ちゃんたちが薬漬けにされてたら、解毒できるのは私だけだよ!」
「……許可します。ただし、絶対に私の後ろを離れないように」
佐藤は頷き、自身の懐に拳銃と、スタンガンを収めた。
出撃の準備は整った。
佐藤、グレタ、弥生の実働部隊。
残る彩、愛永、紘子は、ここからバックアップを行う。
「行ってくる」
佐藤は玄関で靴を履き替え、ふと振り返った。
そこには、キョトンとした顔でこちらを見ている子猫のダシがいた。
口の周りをミルクで白くし、首をかしげている。
『どこ行くの?』とでも言いたげな瞳。
佐藤はしゃがみ込み、ダシの頭を一度だけ撫でた。
「……お留守番ですよ、ダシ」
それは、自分自身への「必ず帰ってくる」という誓いでもあった。
この平和な光景を守るために、地獄へ行くのだ。
佐藤は立ち上がり、ドアを開けた。
夜の冷気が吹き込んでくる。
「総員、出撃!」
午前4時30分。
山梨県、山間部。
漆黒のBMW M5 CSが、ヘッドライトで闇を切り裂きながら疾走していた。
グレタのドライビングは、限界を超えていた。
ガードレールギリギリをドリフトで抜け、未舗装の悪路をラリーカーのように跳ねながら進む。
後部座席の弥生は、顔を青くして口元を押さえている。
「うっぷ……グレタ、もう少し優しく……」
「我慢しろ。1秒遅れれば、仲間が死ぬかもしれないんだぞ」
グレタはアクセルを緩めない。
助手席の佐藤は、揺れる車内でノートPCを広げ、施設のセキュリティシステムの解析を試みていた。しかし、ジャミングの影響で接続できない。
「……見えてきたぞ」
グレタが声を上げる。
前方の闇の中に、施設の灯りが見えた。
だが、その手前で、道が途切れていた。
キキキキッ!!
BMWが急ブレーキをかけ、土煙を上げて停止する。
ヘッドライトが照らし出したのは、道を完全に塞ぐ巨大な土砂の山だった。
岩石と倒木が積み重なり、車両の通行を阻んでいる。
「土砂崩れ……? 昨日の雨で?」
弥生が窓から顔を出す。
「いいえ」
佐藤が車を降り、懐中電灯で土砂を照らした。
岩肌に、ドリルで砕いたような痕跡がある。
「人為的なものです。……奴ら、最初から外部からの侵入を想定して、唯一の進入路を爆破したのです」
施設までは、まだ2キロある。
車は使えない。
徒歩で、この土砂を乗り越え、道なき山道を進むしかない。
しかも、相手は待ち構えている。
「……歩くぞ」
佐藤はPCを閉じ、バックパックを背負った。
「ここからは登山と潜入の複合ミッションです。……ついてこれますか?」
「ナメるな」
グレタがナイフを抜き、装備を確認する。
「山歩きは得意だ。薬草探しで慣れてるもん」
弥生も医療キットを背負い直す。
空が白み始めていた。
夜明けの光が、土砂の山を不気味に照らす。
その向こうにある『ミライ・アカデミー』は、沈黙を守ったまま、彼らを待ち受けていた。
通信途絶。退路なし。
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