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第4章:最終決戦
第41話 パノプティコンの全貌
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「……また検問よ! 右に切って!」
佐々木紘子の鋭い声が、キャンピングカーの車内に響いた。
運転席のグレタ・ヴァイスが舌打ちし、重たいハンドルを急操作する。
タイヤが悲鳴を上げ、車体は大きく傾きながら脇道へと滑り込んだ。
「クソッ、どうなってるんだ!」
グレタが叫ぶ。
「これで5回目だぞ! 奴ら、俺たちのナビを覗いてるんじゃないか?」
「あり得ません」
後部座席で、佐藤任三郎はノートPCの画面を睨みつけていた。
「全ての通信機器はオフライン、もしくは厳重な暗号化トンネルを通しています。位置情報が漏れるはずがない」
しかし、現実は残酷だった。
松本愛永の海賊放送から一夜。
彼らは都内を脱出しようと試みていたが、どのルートを選んでも、まるで待ち構えていたかのように警察の検問や、バズ・インキュベーションの私兵部隊が現れるのだ。
高速道路は封鎖され、主要な幹線道路にはNシステムと連携した検問所。
裏道を使えば、そこには黒塗りのワンボックスカーが待機している。
「……まるで、未来が見えているみたいね」
渡辺千尋が、窓の隙間から外を伺いながら呟いた。
「私たちが『ここを通ろうかな』と考えた瞬間に、先回りされている気分」
「その通りです」
佐藤はPCを閉じた。
「彼らは見ているのです。……現在ではなく、『未来』を」
キャンピングカーは、ひとまず追跡を振り切り、埼玉県の山間部にある道の駅の裏手、木立の中に停車した。
エンジンを切ると、不気味なほどの静寂が包み込む。
佐藤は全員をテーブルに集めた。
その表情は、かつてないほど険しい。
「皆さん。敵のシステム『パノプティコン』の正体が判明しました」
佐藤はタブレットを取り出し、複雑なネットワーク図を表示させた。
それは、彼が以前ジャッジマン・タナカから押収し、解析を進めていたデータの一部だ。
「パノプティコン……全展望監視システムか」
小林弥生が不安げに呟く。
「ええ。ですが、これは単なる監視カメラ網ではありません」
佐藤は画面をスワイプした。
「SNSの投稿ログ、交通系ICカードの履歴、クレジットカードの決済情報、スマートフォンの位置情報ログ、街頭カメラの顔認証データ……。これら全てのビッグデータをリアルタイムで統合し、AIに学習させているのです」
「……それがどうしたのよ」
田中襟華が膝を抱える。
「個人情報なんて、今さらでしょ」
「問題は、その先です」
佐藤は襟華を見据えた。
「このAIの目的は、監視ではありません。『予測』です」
「予測?」
「人間の行動には、無意識のパターンがあります。空腹時に選ぶ店の傾向、ストレスを感じた時の逃走ルート、仲間を守る時の優先順位……。AIは我々の過去の膨大なデータを学習し、思考パターンを完全に模倣しています」
佐藤は冷徹に告げた。
「つまり、我々が『論理的に最善手』だと思って選んだルートは、AIにとっても『予測確率99%』のルートなのです。……我々は今、氷室レイの手のひらの上で踊らされているに過ぎません」
戦慄が走った。
論理的に考え、合理的に動けば動くほど、敵の予測通りになってしまう。
それは、佐藤任三郎という「完璧主義者」にとって、最大のジレンマだった。
「じゃあ、どうすればいいの?」
松本愛永が声を上げた。
「ここでじっとしてろって言うの? それこそ袋の鼠じゃない」
「いいえ。動かなければ死にます」
佐藤は立ち上がり、ジャケットのポケットから「あるもの」を取り出した。
コロン。
テーブルの上に転がったのは、小さな白い立方体。
サイコロだ。
「……サイコロ?」
全員が呆気にとられる。
「これより、全ての意思決定をこのサイコロに委ねます」
佐藤は大真面目な顔で言った。
「次の分岐を右に行くか左に行くか。昼食を食べるか抜くか。どこで寝るか。……全て、運で決めます」
「はぁ!?」
紘子が呆れた声を出す。
「あんた、正気? 私たちの命をギャンブルに賭けるって言うの?」
「ギャンブルではありません。……これは、論理への反逆です」
佐藤はサイコロを指差した。
「AIは論理の怪物です。因果関係のないランダムな行動は予測できません。……我々が生き残る道はただ一つ。予測不能な『ノイズ』になることです」
「……なるほどな」
グレタがニヤリと笑った。
「機械には理解できないバカになれ、ってことか。……悪くない」
「さらに」
佐藤は続けた。
「電子機器は全て電源オフ。バッテリーも抜いてください。このキャンピングカーのナビも切ります」
彼はダッシュボードから、古びた紙の道路地図と、アナログなコンパスを取り出した。
「ここからは、地図と磁石だけが頼りです。……スマホも、ネットも、GPSもない旅です」
「えぇー……」
現代っ子の襟華が絶望的な声を上げる。
「マジで? スマホなしとか死ぬんだけど」
「死ぬよりマシでしょう」
佐藤はサイコロを拾い上げ、愛永に手渡した。
「さあ、愛永さん。……最初の運命を決めてください」
愛永はサイコロを受け取った。
その小さな重み。
彼女はフッと笑い、手の中で転がした。
「いいわよ。……私の強運、見せてあげる」
彼女が高々と放り投げたサイコロが、テーブルの上で跳ねた。
出目は『1』。
「『1』は……北西。群馬方面の山道です」
佐藤が地図を確認する。
「あそこは道も狭いし、何もない。……論理的に考えれば、絶対に選ばないルートです」
「決定だな」
グレタがエンジンをかけた。
「行くぞ、野郎ども! ミステリーツアーの始まりだ!」
キャンピングカーが動き出す。
行き先は、誰も知らない。AIさえも予測できない、カオスな旅路へ。
午後3時。
スマホの電源を切った車内は、奇妙な静けさと、手持ち無沙汰な空気に包まれていた。
「……暇だ」
襟華がテーブルに突っ伏している。
「スマホがないと、手持ち無沙汰で死にそう」
「本でも読みなさいよ」
千尋が文庫本を読んでいた。
「デジタルデトックスだと思えば、悪くないわ」
佐藤は助手席で、紙の地図と格闘していた。
自動で現在地が表示されない地図は、今の彼らにとって解読困難な暗号書のようだ。
「……現在地ロスト。おそらく、この県道のどこかですが」
「おいおい、ナビゲーター失格だな」
グレタが笑う。
「まあいい。道がある限り、どこかには着く」
車は山道を揺られながら進んでいく。
不便だ。効率が悪い。
だが、不思議と焦燥感はなかった。
常に何かに追われ、通知に急かされていた日常から切り離された、奇妙な解放感。
「ねえ、社長」
後部座席から、愛永が顔を出した。
彼女は変装用の伊達メガネをかけ、少し大きめのパーカーを着ている。
「ちょっと休憩しない? ……いい場所、見つけたの」
彼女が指差したのは、道路脇にある寂れたドライブインだった。
『手打ちそば』の幟がはためいている。
「……サイコロを振りますか?」
「いいえ。これは『直感』よ」
愛永は強引にグレタに合図を送り、車を停めさせた。
「……ちょっと、付き合ってよ」
愛永は佐藤の手を引き、強引に車外へと連れ出した。
「え、私ですか?」
「他の皆は休憩中よ。……あんたが一番、煮詰まった顔してたから」
二人はドライブインの裏手にある、渓谷を見下ろすベンチに座った。
眼下には清流が流れ、新緑の木々が風に揺れている。
デジタルなノイズが一切ない、圧倒的な自然の音。
「……ふぅ」
愛永は大きく伸びをした。
「空気が美味しい。……東京のスタジオとは大違いね」
「そうですね」
佐藤も深呼吸をした。肺の中に、冷たく澄んだ空気が満ちていく。
「ねえ、覚えてる?」
愛永がポツリと言った。
「私たちが初めて会った時のこと。……私、あんたのこと『最悪な詐欺師』だと思ってた」
「否定はしません。……私はあなたを利用しましたから」
「そうね。でも……」
愛永は佐藤の方を向き、その瞳を覗き込んだ。
「あの時、あんたが言ってくれたのよ。『あなたの言葉には力がある』って」
彼女は自分の掌を見つめた。
マイクを握り、何百万もの人々に声を届けてきた手。
「テレビ局をクビになって、全部失って……正直、怖かった。私にはもう、価値がないんじゃないかって」
彼女の声が微かに震える。
常に強気で、女王様のように振る舞っていた彼女の、等身大の弱さ。
「でもね、昨日の海賊放送。……コメント欄、見た?」
「いいえ。通信を切っていましたから」
「バカね」
愛永は泣きそうな顔で笑った。
「すごかったのよ。『待ってた』『愛永ちゃんおかえり』って……。アンチもいたけど、それ以上に、私の言葉を待っててくれる人たちがいた」
彼女は空を見上げた。
「私、気づいたの。……場所なんてどこでもいい。テレビでも、ネットでも、こんな山奥のドライブインでも」
愛永は立ち上がり、風の中で両手を広げた。
「私が私である限り、私の声は届く。……それを教えてくれたのは、あんたよ、佐藤任三郎」
彼女の表情は、晴れやかだった。
憑き物が落ちたような、清々しい笑顔。
「だから……責任取りなさいよね」
「責任?」
「私が天下を取るまで、あんたがプロデュースし続けること。……途中で死んだりしたら、許さないから」
愛永は悪戯っぽくウィンクし、佐藤の胸元をトン、と小突いた。
「……契約更新ですね」
佐藤は苦笑した。
「承知しました。……報酬は高くつきますよ」
「出世払いでお願いね」
二人は笑い合った。
その時、風に乗って微かな匂いが漂ってきた。
「……ん? これ、出汁の匂い?」
愛永が鼻をひくつかせる。
「いいえ。これは……蕎麦つゆと、天ぷらの油の匂いです」
佐藤の分析官としての嗅覚が反応した。
「しかも、ただのドライブインの蕎麦ではない。……この胡麻油の香ばしさ、相当こだわっています」
「嘘、マジ? ……お腹空いた!」
二人は顔を見合わせ、ドライブインへと駆け出した。
論理でも予測でもない。ただの「食欲」という本能に従って。
店に入ると、そこには驚くべき光景があった。
無愛想な店主が出してきたのは、この山奥で採れた山菜の天ぷらと、挽きたての十割蕎麦。
ミシュランの星付き店にも劣らない、奇跡のような逸品だった。
「……うまっ!!」
愛永が目を丸くして蕎麦をすする。
「何これ、香りすごい! コシも最強!」
「……偶然の勝利ですね」
佐藤も静かに舌鼓を打った。
AIには、この店の味は予測できない。
データ上はただの「寂れたドライブイン」でしかないからだ。
だが、人間だけが、その価値を発見できる。
「……やっぱり、アナログも悪くないわね」
愛永は満足げに蕎麦湯を飲み干した。
店を出ると、キャンピングカーの方から賑やかな声が聞こえてきた。
襟華たちが、川で水切りをして遊んでいる。グレタまでが本気になって石を投げている。
佐藤は思った。
我々は追い詰められているのではない。
新しい世界を、冒険しているのだと。
「……行きましょう、愛永さん」
佐藤は愛永に手を差し出した。
「次のサイコロが、どこへ導くか。……楽しみになってきました」
「ええ。地獄の底でも、天国でも。……あんたとなら、退屈しなさそうだしね」
愛永はその手を取り、力強く握り返した。
その掌の温もりは、どんな高度なAIにも予測できない、確かな「生」の証明だった。
二人は仲間たちの待つ車へと戻っていく。
その背中には、もう迷いはなかった。
佐々木紘子の鋭い声が、キャンピングカーの車内に響いた。
運転席のグレタ・ヴァイスが舌打ちし、重たいハンドルを急操作する。
タイヤが悲鳴を上げ、車体は大きく傾きながら脇道へと滑り込んだ。
「クソッ、どうなってるんだ!」
グレタが叫ぶ。
「これで5回目だぞ! 奴ら、俺たちのナビを覗いてるんじゃないか?」
「あり得ません」
後部座席で、佐藤任三郎はノートPCの画面を睨みつけていた。
「全ての通信機器はオフライン、もしくは厳重な暗号化トンネルを通しています。位置情報が漏れるはずがない」
しかし、現実は残酷だった。
松本愛永の海賊放送から一夜。
彼らは都内を脱出しようと試みていたが、どのルートを選んでも、まるで待ち構えていたかのように警察の検問や、バズ・インキュベーションの私兵部隊が現れるのだ。
高速道路は封鎖され、主要な幹線道路にはNシステムと連携した検問所。
裏道を使えば、そこには黒塗りのワンボックスカーが待機している。
「……まるで、未来が見えているみたいね」
渡辺千尋が、窓の隙間から外を伺いながら呟いた。
「私たちが『ここを通ろうかな』と考えた瞬間に、先回りされている気分」
「その通りです」
佐藤はPCを閉じた。
「彼らは見ているのです。……現在ではなく、『未来』を」
キャンピングカーは、ひとまず追跡を振り切り、埼玉県の山間部にある道の駅の裏手、木立の中に停車した。
エンジンを切ると、不気味なほどの静寂が包み込む。
佐藤は全員をテーブルに集めた。
その表情は、かつてないほど険しい。
「皆さん。敵のシステム『パノプティコン』の正体が判明しました」
佐藤はタブレットを取り出し、複雑なネットワーク図を表示させた。
それは、彼が以前ジャッジマン・タナカから押収し、解析を進めていたデータの一部だ。
「パノプティコン……全展望監視システムか」
小林弥生が不安げに呟く。
「ええ。ですが、これは単なる監視カメラ網ではありません」
佐藤は画面をスワイプした。
「SNSの投稿ログ、交通系ICカードの履歴、クレジットカードの決済情報、スマートフォンの位置情報ログ、街頭カメラの顔認証データ……。これら全てのビッグデータをリアルタイムで統合し、AIに学習させているのです」
「……それがどうしたのよ」
田中襟華が膝を抱える。
「個人情報なんて、今さらでしょ」
「問題は、その先です」
佐藤は襟華を見据えた。
「このAIの目的は、監視ではありません。『予測』です」
「予測?」
「人間の行動には、無意識のパターンがあります。空腹時に選ぶ店の傾向、ストレスを感じた時の逃走ルート、仲間を守る時の優先順位……。AIは我々の過去の膨大なデータを学習し、思考パターンを完全に模倣しています」
佐藤は冷徹に告げた。
「つまり、我々が『論理的に最善手』だと思って選んだルートは、AIにとっても『予測確率99%』のルートなのです。……我々は今、氷室レイの手のひらの上で踊らされているに過ぎません」
戦慄が走った。
論理的に考え、合理的に動けば動くほど、敵の予測通りになってしまう。
それは、佐藤任三郎という「完璧主義者」にとって、最大のジレンマだった。
「じゃあ、どうすればいいの?」
松本愛永が声を上げた。
「ここでじっとしてろって言うの? それこそ袋の鼠じゃない」
「いいえ。動かなければ死にます」
佐藤は立ち上がり、ジャケットのポケットから「あるもの」を取り出した。
コロン。
テーブルの上に転がったのは、小さな白い立方体。
サイコロだ。
「……サイコロ?」
全員が呆気にとられる。
「これより、全ての意思決定をこのサイコロに委ねます」
佐藤は大真面目な顔で言った。
「次の分岐を右に行くか左に行くか。昼食を食べるか抜くか。どこで寝るか。……全て、運で決めます」
「はぁ!?」
紘子が呆れた声を出す。
「あんた、正気? 私たちの命をギャンブルに賭けるって言うの?」
「ギャンブルではありません。……これは、論理への反逆です」
佐藤はサイコロを指差した。
「AIは論理の怪物です。因果関係のないランダムな行動は予測できません。……我々が生き残る道はただ一つ。予測不能な『ノイズ』になることです」
「……なるほどな」
グレタがニヤリと笑った。
「機械には理解できないバカになれ、ってことか。……悪くない」
「さらに」
佐藤は続けた。
「電子機器は全て電源オフ。バッテリーも抜いてください。このキャンピングカーのナビも切ります」
彼はダッシュボードから、古びた紙の道路地図と、アナログなコンパスを取り出した。
「ここからは、地図と磁石だけが頼りです。……スマホも、ネットも、GPSもない旅です」
「えぇー……」
現代っ子の襟華が絶望的な声を上げる。
「マジで? スマホなしとか死ぬんだけど」
「死ぬよりマシでしょう」
佐藤はサイコロを拾い上げ、愛永に手渡した。
「さあ、愛永さん。……最初の運命を決めてください」
愛永はサイコロを受け取った。
その小さな重み。
彼女はフッと笑い、手の中で転がした。
「いいわよ。……私の強運、見せてあげる」
彼女が高々と放り投げたサイコロが、テーブルの上で跳ねた。
出目は『1』。
「『1』は……北西。群馬方面の山道です」
佐藤が地図を確認する。
「あそこは道も狭いし、何もない。……論理的に考えれば、絶対に選ばないルートです」
「決定だな」
グレタがエンジンをかけた。
「行くぞ、野郎ども! ミステリーツアーの始まりだ!」
キャンピングカーが動き出す。
行き先は、誰も知らない。AIさえも予測できない、カオスな旅路へ。
午後3時。
スマホの電源を切った車内は、奇妙な静けさと、手持ち無沙汰な空気に包まれていた。
「……暇だ」
襟華がテーブルに突っ伏している。
「スマホがないと、手持ち無沙汰で死にそう」
「本でも読みなさいよ」
千尋が文庫本を読んでいた。
「デジタルデトックスだと思えば、悪くないわ」
佐藤は助手席で、紙の地図と格闘していた。
自動で現在地が表示されない地図は、今の彼らにとって解読困難な暗号書のようだ。
「……現在地ロスト。おそらく、この県道のどこかですが」
「おいおい、ナビゲーター失格だな」
グレタが笑う。
「まあいい。道がある限り、どこかには着く」
車は山道を揺られながら進んでいく。
不便だ。効率が悪い。
だが、不思議と焦燥感はなかった。
常に何かに追われ、通知に急かされていた日常から切り離された、奇妙な解放感。
「ねえ、社長」
後部座席から、愛永が顔を出した。
彼女は変装用の伊達メガネをかけ、少し大きめのパーカーを着ている。
「ちょっと休憩しない? ……いい場所、見つけたの」
彼女が指差したのは、道路脇にある寂れたドライブインだった。
『手打ちそば』の幟がはためいている。
「……サイコロを振りますか?」
「いいえ。これは『直感』よ」
愛永は強引にグレタに合図を送り、車を停めさせた。
「……ちょっと、付き合ってよ」
愛永は佐藤の手を引き、強引に車外へと連れ出した。
「え、私ですか?」
「他の皆は休憩中よ。……あんたが一番、煮詰まった顔してたから」
二人はドライブインの裏手にある、渓谷を見下ろすベンチに座った。
眼下には清流が流れ、新緑の木々が風に揺れている。
デジタルなノイズが一切ない、圧倒的な自然の音。
「……ふぅ」
愛永は大きく伸びをした。
「空気が美味しい。……東京のスタジオとは大違いね」
「そうですね」
佐藤も深呼吸をした。肺の中に、冷たく澄んだ空気が満ちていく。
「ねえ、覚えてる?」
愛永がポツリと言った。
「私たちが初めて会った時のこと。……私、あんたのこと『最悪な詐欺師』だと思ってた」
「否定はしません。……私はあなたを利用しましたから」
「そうね。でも……」
愛永は佐藤の方を向き、その瞳を覗き込んだ。
「あの時、あんたが言ってくれたのよ。『あなたの言葉には力がある』って」
彼女は自分の掌を見つめた。
マイクを握り、何百万もの人々に声を届けてきた手。
「テレビ局をクビになって、全部失って……正直、怖かった。私にはもう、価値がないんじゃないかって」
彼女の声が微かに震える。
常に強気で、女王様のように振る舞っていた彼女の、等身大の弱さ。
「でもね、昨日の海賊放送。……コメント欄、見た?」
「いいえ。通信を切っていましたから」
「バカね」
愛永は泣きそうな顔で笑った。
「すごかったのよ。『待ってた』『愛永ちゃんおかえり』って……。アンチもいたけど、それ以上に、私の言葉を待っててくれる人たちがいた」
彼女は空を見上げた。
「私、気づいたの。……場所なんてどこでもいい。テレビでも、ネットでも、こんな山奥のドライブインでも」
愛永は立ち上がり、風の中で両手を広げた。
「私が私である限り、私の声は届く。……それを教えてくれたのは、あんたよ、佐藤任三郎」
彼女の表情は、晴れやかだった。
憑き物が落ちたような、清々しい笑顔。
「だから……責任取りなさいよね」
「責任?」
「私が天下を取るまで、あんたがプロデュースし続けること。……途中で死んだりしたら、許さないから」
愛永は悪戯っぽくウィンクし、佐藤の胸元をトン、と小突いた。
「……契約更新ですね」
佐藤は苦笑した。
「承知しました。……報酬は高くつきますよ」
「出世払いでお願いね」
二人は笑い合った。
その時、風に乗って微かな匂いが漂ってきた。
「……ん? これ、出汁の匂い?」
愛永が鼻をひくつかせる。
「いいえ。これは……蕎麦つゆと、天ぷらの油の匂いです」
佐藤の分析官としての嗅覚が反応した。
「しかも、ただのドライブインの蕎麦ではない。……この胡麻油の香ばしさ、相当こだわっています」
「嘘、マジ? ……お腹空いた!」
二人は顔を見合わせ、ドライブインへと駆け出した。
論理でも予測でもない。ただの「食欲」という本能に従って。
店に入ると、そこには驚くべき光景があった。
無愛想な店主が出してきたのは、この山奥で採れた山菜の天ぷらと、挽きたての十割蕎麦。
ミシュランの星付き店にも劣らない、奇跡のような逸品だった。
「……うまっ!!」
愛永が目を丸くして蕎麦をすする。
「何これ、香りすごい! コシも最強!」
「……偶然の勝利ですね」
佐藤も静かに舌鼓を打った。
AIには、この店の味は予測できない。
データ上はただの「寂れたドライブイン」でしかないからだ。
だが、人間だけが、その価値を発見できる。
「……やっぱり、アナログも悪くないわね」
愛永は満足げに蕎麦湯を飲み干した。
店を出ると、キャンピングカーの方から賑やかな声が聞こえてきた。
襟華たちが、川で水切りをして遊んでいる。グレタまでが本気になって石を投げている。
佐藤は思った。
我々は追い詰められているのではない。
新しい世界を、冒険しているのだと。
「……行きましょう、愛永さん」
佐藤は愛永に手を差し出した。
「次のサイコロが、どこへ導くか。……楽しみになってきました」
「ええ。地獄の底でも、天国でも。……あんたとなら、退屈しなさそうだしね」
愛永はその手を取り、力強く握り返した。
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