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第52話 購買部の争奪戦と翡翠の輝き
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5月最後の日、月曜日。
中間試験も終わり、部活動や委員会活動が本格的に再開された桜花学園は、活気に満ち溢れていた。
昼休みを告げるチャイムが鳴り響くと同時に、校舎内には地響きのような足音が轟く。
全校生徒が一斉に目指す場所――購買部への大移動だ。
俺は、混雑を避けるために時間をずらして教室を出たが、購買部の前はすでに戦場と化していた。
怒号にも似た注文の声と、お釣りを受け取る硬貨の音。
需要と供給のバランスが崩壊した、極めて原始的なマーケットがそこにはあった。
「……おばちゃーん! カツサンド残ってる!?」
「売り切れだよ!」
「マジかよー!」
悲喜こもごもの声が交錯する中、人波の端で立ち尽くしている女子生徒の姿を見つけた。
花村結衣先輩だ。
あどけなさと健康的な色気が同居した美少女。
艶やかな黒髪のセミロングが揺れ、少しサイズの合っていないブラウスが、彼女の豊かなプロポーションを強調している。
だが、今の彼女の表情は泣き出しそうに歪んでいた。
「……うぅ、押さないでぇ……」
彼女は人波に揉まれ、カウンターに近づくことすらできずに弾き出されていた。
おっとりとした彼女の性格では、この生存競争に勝ち残ることは不可能に近い。
彼女の視線は、ショーケースの奥にある一つのパンに釘付けになっている。
『期間限定・いちごメロンパン』。
女子生徒に大人気のレアアイテムだ。残りはあと2個。
「……買えないよぉ……」
彼女が諦めかけた、その時だった。
俺は人混みの流れを見極めた。
力任せに割り込むのは二流だ。人の流れには必ず隙間が生じる。流体力学の応用だ。
俺は生徒たちの肩と肩の間を縫うように、滑らかにカウンターへと接近した。
財布から小銭を正確に取り出し、おばちゃんに声をかける。
「すみません。いちごメロンパンを一つ」
「あいよ! 西園寺くん、相変わらずスマートだねぇ」
顔馴染みになった購買のおばちゃんが、最後の一つを袋に入れて渡してくれた。
俺はそれを受け取り、再び人波を縫って脱出する。
そして、肩を落として教室に戻ろうとしていた結衣先輩の前に立った。
「……花村先輩」
「へ? ……あ、西園寺くん」
彼女は驚いたように顔を上げた。
その瞳には、涙が滲んでいる。
「どうぞ。お探しのものはこれでしょう?」
俺は『いちごメロンパン』を差し出した。
彼女の目が、マンガのように大きく見開かれる。
「えっ……!? ええっ!? なんで分かったの!? それに、あんな凄い人混みだったのに……!」
「たまたま、運良く買えただけですよ」
「すごぉい! 西園寺くん、魔法使いだぁ!」
彼女はパンを受け取り、パァッと花が咲くような満面の笑みを浮かべた。
その笑顔の破壊力たるや。
計算高いビジネスの世界や、昨日のCM撮影現場での張り詰めた空気とは対極にある、純度100%の癒やし。
俺の中の41歳の精神が、日向ぼっこをしている猫のように安らいでいくのを感じる。
「……ありがとう! 王子様! お礼に、一口あげるね!」
「いえ、僕は昼食を持っていますから」
「え~? 美味しいのにぃ」
彼女は嬉しそうにパンの袋を開けた。
甘いイチゴの香りが漂う。俺たちは並んで中庭のベンチへと向かい、そこで別れた。
結衣先輩と別れ、教室へ戻るために渡り廊下を歩いていた時のことだ。
前方から、凛とした空気を纏った女子生徒が歩いてきた。
霧島セイラ先輩だ。
腰まで届く艶やかな黒髪、日本人離れした彫りの深いエキゾチックな美貌。
その圧倒的な存在感は、すれ違う生徒たちが思わず道を空けてしまうほどだ。
彼女は俺に気づくと、足を止めた。
その切れ長の瞳が、俺をじっと見つめている。
「……ごきげんよう、霧島先輩」
「……見たわよ、さっきの」
彼女は呆れたように、しかし口元には微かな笑みを浮かべて言った。
「購買でのアレ。……まるで手品ね。あんな人混みをすり抜けるなんて」
「おや、見ていらしたんですか。……お恥ずかしい」
「結衣が心配で様子を見に行ったら、貴方が颯爽と現れたのよ。……あの子、教室に戻ってきてからずっと『王子様が助けてくれた!』って大騒ぎしてるわ」
セイラ先輩は小さく溜息をついたが、その表情は柔らかい。
親友が笑顔でいることが、彼女にとっても嬉しいのだろう。
「花村先輩の笑顔は、学園の平和に貢献していますから。……守る価値があります」
「……調子がいいわね。でも、感謝はしておくわ。あの子、あのパンを楽しみにしてたから」
彼女はふっと視線を逸らし、窓の外を見た。
初夏の日差しが、彼女の横顔を美しく照らし出している。
「……そういえば、生徒会の方はいかがですか? 鷹森がいなくなって、少しは風通しが良くなりましたか?」
「ええ。膿が出たおかげで、随分と動きやすくなったわ。……まあ、まだ処理すべき書類の山は残っているけれど」
彼女は肩をすくめた。
「膿」を排除したのが誰なのか、彼女は薄々勘づいているのかもしれない。
だが、あえて追及はしてこない。それが彼女なりの距離感であり、信頼の証だ。
「西園寺くん。……貴方、放課後は空いてる?」
「ええ。特には」
「そう。なら、結衣の相手をしてあげてくれない? ……あの子、また貴方と遊びたがってるのよ。私は生徒会の残務処理があるから、付き合ってあげられないの」
彼女は少しバツが悪そうに、上目遣いで俺を見た。
「……私の代わりに、あの子を楽しませてあげなさい。これは副会長命令よ?」
「……承知いたしました。光栄な任務です」
俺が恭しく一礼すると、彼女は満足げに頷き、長い髪を翻して去っていった。
すれ違いざま、甘く冷たい香水の香りが漂う。
氷の女王からの、不器用な依頼。
悪くない午後になりそうだ。
放課後。
セイラ先輩の「命令」通り、俺は結衣先輩に連行され、渋谷の街へ出ていた。
「ねえねえ西園寺くん、こっちこっち!」
彼女が俺の手を引いて入ったのは、公園通りにある『ソニープラザ』だ。
輸入雑貨やコスメ、お菓子が所狭しと並ぶ、女子高生の聖地。
店内は甘い香りと、極彩色のポップな商品で埋め尽くされている。
「見て見て! このケアベア、可愛くない!?」
「……ええ。色彩感覚が独特ですね」
「こっちのペンケースもいいなぁ。……あ、このお菓子、セイラちゃんが好きそうな味!」
彼女は店内を蝶のように飛び回り、次々と商品を手に取っては俺に見せてくる。
その無邪気な姿は、見ているだけで飽きない。
俺は彼女の買い物かごを持ち、後ろをついて回る従者のようなポジションに収まっていた。
だが、悪い気はしない。
彼女が楽しそうに笑っているだけで、周囲の空気が浄化されていくような気がするからだ。
「……あ、これ」
彼女が足を止めたのは、輸入コスメのコーナーだった。
手に取ったのは、淡いピンク色のリップグロス。
「これね、雑誌で見て欲しかったんだぁ。……似合うかな?」
彼女は鏡の前でグロスを唇に当ててみた。
ぽってりとした唇が、さらに艶やかに強調される。
その無自覚な色気に、俺は一瞬、視線のやり場に困った。
「……とても、よくお似合いですよ」
「えへへ、ほんと? ……じゃあ、これ買っちゃお!」
彼女は満足げにレジへ向かった。
買い物を終え、店を出ると、日は少し傾きかけていた。
「付き合ってくれてありがとう、西園寺くん! ……これ、お礼!」
彼女は袋の中から、海外製のグミのパッケージを取り出した。
クマの形をした、カラフルなグミだ。
「これ食べて、疲れ取ってね!」
「ありがとうございます。……いただきます」
俺はグミを一粒、口に放り込んだ。
強烈な甘さと、人工的なフルーツの香り。
だが、不思議と悪くない味だった。
彼女と駅で別れ、俺は次の目的地へと向かった。
結衣先輩と別れた後、俺は渋谷の喧騒を抜け、会員制のスポーツジムへと足を運んだ。
ここは芸能人や経営者が多く利用する、セキュリティのしっかりしたジムだ。
更衣室でトレーニングウェアに着替え、フロアへ。
最新のマシンが並ぶ中、俺は黙々とフリーウェイトエリアに向かった。
ベンチプレス、デッドリフト、スクワット。
BIG3と呼ばれる基本種目を、正しいフォームでこなしていく。
15歳の肉体は、負荷をかければかけるほど素直に反応し、成長していく。
41歳の知識で効率的に追い込み、15歳の回復力で修復する。
最強のサイクルだ。
一通り汗を流した後、ラウンジで休憩を取る。
カウンターで注文したのは、ジム特製の『プロテインスムージー』だ。
バナナ、ベリー、豆乳、そしてホエイプロテインをブレンドした一杯。
1999年当時、プロテインといえば「粉っぽくて不味い」のが相場だったが、ここは違う。
しっかりとシェイクされ、フルーツの甘みで飲みやすく調整されている。
「……ふぅ」
冷たいスムージーが、火照った体に染み渡る。
筋肉が栄養を求めて悲鳴を上げ、そして満たされていく感覚。
ビジネスの戦略を練るのも楽しいが、こうして自分の肉体と対話する時間もまた、俺にとっては不可欠なメンテナンスだ。
窓の外には、夕暮れの渋谷の街が広がっている。
明日からは6月。
衣替えと共に、季節も、そして物語も変わっていく予感がした。
ジムを出て、俺はいつものように東急百貨店本店のデパ地下へと向かった。
今日の夕食は、5月最後の夜を飾るに相応しい、目にも鮮やかな和食にしよう。
鮮魚コーナーへ向かう。
ショーケースの中で一際輝いているのは、初夏の魚たちだ。
俺が選んだのは、『刺身の盛り合わせ』ではない。
自分の目で選び、柵で買う。
千葉県産の天然マダイ。透明感のある白身が美しい。
長崎県産のケンサキイカ。甘みが強く、ねっとりとした食感が特徴だ。
そして、大分県産の関アジ。ブランド魚だ。脂の乗りと身の締まりが違う。
これらを柳刃包丁で引く。それが一番美味い。
次に青果コーナー。
今日の主役はこれだ。
『うすい豆』。
関西ではポピュラーだが、関東ではまだ珍しいえんどう豆の一種だ。
グリンピースよりも皮が薄く、甘みが強く、ホクホクとした食感がある。
鞘から出した豆は、宝石のような翡翠色をしている。
これを「翡翠煮」にする。
さらに、変わり種として酒屋のコーナーへ。
日本酒の仕込み水を使った『地サイダー』を購入した。
佐賀県の酒蔵が作っているもので、強めの炭酸と、水本来の甘みが特徴だ。
アルコールは控えるが、料理に合う清涼感が欲しかった。
最後に、日本茶専門店で『玉露』を購入。
京都・宇治の最高級品『天下一』。
低温で淹れることで、出汁のような濃厚な旨味を抽出できる。
両手に食材を抱え、俺は帰宅した。
すぐに調理に取り掛かる。
まずはうすい豆からだ。
鞘から豆を取り出す。鮮やかな緑色。
鍋に出汁、薄口醤油、塩、みりんを合わせて煮立たせ、冷ましておく。
別の鍋で湯を沸かし、塩を入れる。
豆を投入し、再沸騰してから2分。茹で過ぎは禁物だ。
火を止め、鍋ごと冷水につけて急冷する。
これで鮮やかな緑色が定着する。
冷めたら、豆を先ほどの出汁に浸す。
味が染み込み、さらに色が冴える。
この「浸し地」に漬けておく時間が、豆を宝石に変える魔法だ。
次に刺身。
柳刃包丁を研ぎ直し、精神を統一する。
マダイは薄造りではなく、あえて厚めの平造りにする。弾力を楽しむためだ。
イカは細かく飾り包丁を入れ、甘みを引き出しやすくする。
関アジは生姜とネギを添えて。
サイダーは、グラスごと冷凍庫でキンキンに冷やしておく。
ダイニングテーブルに料理を並べる。
ガラスの器に盛られた『うすい豆の翡翠煮』。
透き通るような緑色が、涼やかで美しい。
有田焼の皿に盛られた『刺身三点盛り』。
そして、『仕込み水のサイダー』。
「いただきます」
まずはサイダーを一口。
シュワッという強い刺激の後、驚くほどまろやかな水の味が広がる。
甘さは控えめで、食事の邪魔をしない。
口の中が清められるようだ。
次に翡翠煮。
スプーンですくって口に運ぶ。
薄皮がプチッと弾け、中からホクホクとした豆の甘みと、上品な出汁の香りが溢れ出す。
……美味い。
シンプルだが、素材の力がダイレクトに伝わってくる。
青臭さは微塵もない。春から初夏へと移ろう季節の味がする。
そして刺身。
マダイを醤油に少しだけつけて。
噛みしめると、強烈な弾力と旨味。
イカは舌に絡みつき、濃厚な甘みを残して溶けていく。
関アジの脂はサラリとしていて、生姜との相性が抜群だ。
そこに、50度まで冷ました玉露を啜る。
……衝撃だ。
お茶とは思えない、トロリとした舌触りと、凝縮された旨味。
まるで極上のスープを飲んでいるようだ。
魚の脂を洗い流すのではなく、包み込んで昇華させる。
一人静かな食卓だが、心は満たされている。
結衣先輩の笑顔、セイラ先輩との密約、そして最高の食材たち。
1999年5月31日。
5月最後の一日は、穏やかに、そして美しく暮れていった。
明日からは6月。
俺の物語は、また新たな展開を迎えることになるだろう。
中間試験も終わり、部活動や委員会活動が本格的に再開された桜花学園は、活気に満ち溢れていた。
昼休みを告げるチャイムが鳴り響くと同時に、校舎内には地響きのような足音が轟く。
全校生徒が一斉に目指す場所――購買部への大移動だ。
俺は、混雑を避けるために時間をずらして教室を出たが、購買部の前はすでに戦場と化していた。
怒号にも似た注文の声と、お釣りを受け取る硬貨の音。
需要と供給のバランスが崩壊した、極めて原始的なマーケットがそこにはあった。
「……おばちゃーん! カツサンド残ってる!?」
「売り切れだよ!」
「マジかよー!」
悲喜こもごもの声が交錯する中、人波の端で立ち尽くしている女子生徒の姿を見つけた。
花村結衣先輩だ。
あどけなさと健康的な色気が同居した美少女。
艶やかな黒髪のセミロングが揺れ、少しサイズの合っていないブラウスが、彼女の豊かなプロポーションを強調している。
だが、今の彼女の表情は泣き出しそうに歪んでいた。
「……うぅ、押さないでぇ……」
彼女は人波に揉まれ、カウンターに近づくことすらできずに弾き出されていた。
おっとりとした彼女の性格では、この生存競争に勝ち残ることは不可能に近い。
彼女の視線は、ショーケースの奥にある一つのパンに釘付けになっている。
『期間限定・いちごメロンパン』。
女子生徒に大人気のレアアイテムだ。残りはあと2個。
「……買えないよぉ……」
彼女が諦めかけた、その時だった。
俺は人混みの流れを見極めた。
力任せに割り込むのは二流だ。人の流れには必ず隙間が生じる。流体力学の応用だ。
俺は生徒たちの肩と肩の間を縫うように、滑らかにカウンターへと接近した。
財布から小銭を正確に取り出し、おばちゃんに声をかける。
「すみません。いちごメロンパンを一つ」
「あいよ! 西園寺くん、相変わらずスマートだねぇ」
顔馴染みになった購買のおばちゃんが、最後の一つを袋に入れて渡してくれた。
俺はそれを受け取り、再び人波を縫って脱出する。
そして、肩を落として教室に戻ろうとしていた結衣先輩の前に立った。
「……花村先輩」
「へ? ……あ、西園寺くん」
彼女は驚いたように顔を上げた。
その瞳には、涙が滲んでいる。
「どうぞ。お探しのものはこれでしょう?」
俺は『いちごメロンパン』を差し出した。
彼女の目が、マンガのように大きく見開かれる。
「えっ……!? ええっ!? なんで分かったの!? それに、あんな凄い人混みだったのに……!」
「たまたま、運良く買えただけですよ」
「すごぉい! 西園寺くん、魔法使いだぁ!」
彼女はパンを受け取り、パァッと花が咲くような満面の笑みを浮かべた。
その笑顔の破壊力たるや。
計算高いビジネスの世界や、昨日のCM撮影現場での張り詰めた空気とは対極にある、純度100%の癒やし。
俺の中の41歳の精神が、日向ぼっこをしている猫のように安らいでいくのを感じる。
「……ありがとう! 王子様! お礼に、一口あげるね!」
「いえ、僕は昼食を持っていますから」
「え~? 美味しいのにぃ」
彼女は嬉しそうにパンの袋を開けた。
甘いイチゴの香りが漂う。俺たちは並んで中庭のベンチへと向かい、そこで別れた。
結衣先輩と別れ、教室へ戻るために渡り廊下を歩いていた時のことだ。
前方から、凛とした空気を纏った女子生徒が歩いてきた。
霧島セイラ先輩だ。
腰まで届く艶やかな黒髪、日本人離れした彫りの深いエキゾチックな美貌。
その圧倒的な存在感は、すれ違う生徒たちが思わず道を空けてしまうほどだ。
彼女は俺に気づくと、足を止めた。
その切れ長の瞳が、俺をじっと見つめている。
「……ごきげんよう、霧島先輩」
「……見たわよ、さっきの」
彼女は呆れたように、しかし口元には微かな笑みを浮かべて言った。
「購買でのアレ。……まるで手品ね。あんな人混みをすり抜けるなんて」
「おや、見ていらしたんですか。……お恥ずかしい」
「結衣が心配で様子を見に行ったら、貴方が颯爽と現れたのよ。……あの子、教室に戻ってきてからずっと『王子様が助けてくれた!』って大騒ぎしてるわ」
セイラ先輩は小さく溜息をついたが、その表情は柔らかい。
親友が笑顔でいることが、彼女にとっても嬉しいのだろう。
「花村先輩の笑顔は、学園の平和に貢献していますから。……守る価値があります」
「……調子がいいわね。でも、感謝はしておくわ。あの子、あのパンを楽しみにしてたから」
彼女はふっと視線を逸らし、窓の外を見た。
初夏の日差しが、彼女の横顔を美しく照らし出している。
「……そういえば、生徒会の方はいかがですか? 鷹森がいなくなって、少しは風通しが良くなりましたか?」
「ええ。膿が出たおかげで、随分と動きやすくなったわ。……まあ、まだ処理すべき書類の山は残っているけれど」
彼女は肩をすくめた。
「膿」を排除したのが誰なのか、彼女は薄々勘づいているのかもしれない。
だが、あえて追及はしてこない。それが彼女なりの距離感であり、信頼の証だ。
「西園寺くん。……貴方、放課後は空いてる?」
「ええ。特には」
「そう。なら、結衣の相手をしてあげてくれない? ……あの子、また貴方と遊びたがってるのよ。私は生徒会の残務処理があるから、付き合ってあげられないの」
彼女は少しバツが悪そうに、上目遣いで俺を見た。
「……私の代わりに、あの子を楽しませてあげなさい。これは副会長命令よ?」
「……承知いたしました。光栄な任務です」
俺が恭しく一礼すると、彼女は満足げに頷き、長い髪を翻して去っていった。
すれ違いざま、甘く冷たい香水の香りが漂う。
氷の女王からの、不器用な依頼。
悪くない午後になりそうだ。
放課後。
セイラ先輩の「命令」通り、俺は結衣先輩に連行され、渋谷の街へ出ていた。
「ねえねえ西園寺くん、こっちこっち!」
彼女が俺の手を引いて入ったのは、公園通りにある『ソニープラザ』だ。
輸入雑貨やコスメ、お菓子が所狭しと並ぶ、女子高生の聖地。
店内は甘い香りと、極彩色のポップな商品で埋め尽くされている。
「見て見て! このケアベア、可愛くない!?」
「……ええ。色彩感覚が独特ですね」
「こっちのペンケースもいいなぁ。……あ、このお菓子、セイラちゃんが好きそうな味!」
彼女は店内を蝶のように飛び回り、次々と商品を手に取っては俺に見せてくる。
その無邪気な姿は、見ているだけで飽きない。
俺は彼女の買い物かごを持ち、後ろをついて回る従者のようなポジションに収まっていた。
だが、悪い気はしない。
彼女が楽しそうに笑っているだけで、周囲の空気が浄化されていくような気がするからだ。
「……あ、これ」
彼女が足を止めたのは、輸入コスメのコーナーだった。
手に取ったのは、淡いピンク色のリップグロス。
「これね、雑誌で見て欲しかったんだぁ。……似合うかな?」
彼女は鏡の前でグロスを唇に当ててみた。
ぽってりとした唇が、さらに艶やかに強調される。
その無自覚な色気に、俺は一瞬、視線のやり場に困った。
「……とても、よくお似合いですよ」
「えへへ、ほんと? ……じゃあ、これ買っちゃお!」
彼女は満足げにレジへ向かった。
買い物を終え、店を出ると、日は少し傾きかけていた。
「付き合ってくれてありがとう、西園寺くん! ……これ、お礼!」
彼女は袋の中から、海外製のグミのパッケージを取り出した。
クマの形をした、カラフルなグミだ。
「これ食べて、疲れ取ってね!」
「ありがとうございます。……いただきます」
俺はグミを一粒、口に放り込んだ。
強烈な甘さと、人工的なフルーツの香り。
だが、不思議と悪くない味だった。
彼女と駅で別れ、俺は次の目的地へと向かった。
結衣先輩と別れた後、俺は渋谷の喧騒を抜け、会員制のスポーツジムへと足を運んだ。
ここは芸能人や経営者が多く利用する、セキュリティのしっかりしたジムだ。
更衣室でトレーニングウェアに着替え、フロアへ。
最新のマシンが並ぶ中、俺は黙々とフリーウェイトエリアに向かった。
ベンチプレス、デッドリフト、スクワット。
BIG3と呼ばれる基本種目を、正しいフォームでこなしていく。
15歳の肉体は、負荷をかければかけるほど素直に反応し、成長していく。
41歳の知識で効率的に追い込み、15歳の回復力で修復する。
最強のサイクルだ。
一通り汗を流した後、ラウンジで休憩を取る。
カウンターで注文したのは、ジム特製の『プロテインスムージー』だ。
バナナ、ベリー、豆乳、そしてホエイプロテインをブレンドした一杯。
1999年当時、プロテインといえば「粉っぽくて不味い」のが相場だったが、ここは違う。
しっかりとシェイクされ、フルーツの甘みで飲みやすく調整されている。
「……ふぅ」
冷たいスムージーが、火照った体に染み渡る。
筋肉が栄養を求めて悲鳴を上げ、そして満たされていく感覚。
ビジネスの戦略を練るのも楽しいが、こうして自分の肉体と対話する時間もまた、俺にとっては不可欠なメンテナンスだ。
窓の外には、夕暮れの渋谷の街が広がっている。
明日からは6月。
衣替えと共に、季節も、そして物語も変わっていく予感がした。
ジムを出て、俺はいつものように東急百貨店本店のデパ地下へと向かった。
今日の夕食は、5月最後の夜を飾るに相応しい、目にも鮮やかな和食にしよう。
鮮魚コーナーへ向かう。
ショーケースの中で一際輝いているのは、初夏の魚たちだ。
俺が選んだのは、『刺身の盛り合わせ』ではない。
自分の目で選び、柵で買う。
千葉県産の天然マダイ。透明感のある白身が美しい。
長崎県産のケンサキイカ。甘みが強く、ねっとりとした食感が特徴だ。
そして、大分県産の関アジ。ブランド魚だ。脂の乗りと身の締まりが違う。
これらを柳刃包丁で引く。それが一番美味い。
次に青果コーナー。
今日の主役はこれだ。
『うすい豆』。
関西ではポピュラーだが、関東ではまだ珍しいえんどう豆の一種だ。
グリンピースよりも皮が薄く、甘みが強く、ホクホクとした食感がある。
鞘から出した豆は、宝石のような翡翠色をしている。
これを「翡翠煮」にする。
さらに、変わり種として酒屋のコーナーへ。
日本酒の仕込み水を使った『地サイダー』を購入した。
佐賀県の酒蔵が作っているもので、強めの炭酸と、水本来の甘みが特徴だ。
アルコールは控えるが、料理に合う清涼感が欲しかった。
最後に、日本茶専門店で『玉露』を購入。
京都・宇治の最高級品『天下一』。
低温で淹れることで、出汁のような濃厚な旨味を抽出できる。
両手に食材を抱え、俺は帰宅した。
すぐに調理に取り掛かる。
まずはうすい豆からだ。
鞘から豆を取り出す。鮮やかな緑色。
鍋に出汁、薄口醤油、塩、みりんを合わせて煮立たせ、冷ましておく。
別の鍋で湯を沸かし、塩を入れる。
豆を投入し、再沸騰してから2分。茹で過ぎは禁物だ。
火を止め、鍋ごと冷水につけて急冷する。
これで鮮やかな緑色が定着する。
冷めたら、豆を先ほどの出汁に浸す。
味が染み込み、さらに色が冴える。
この「浸し地」に漬けておく時間が、豆を宝石に変える魔法だ。
次に刺身。
柳刃包丁を研ぎ直し、精神を統一する。
マダイは薄造りではなく、あえて厚めの平造りにする。弾力を楽しむためだ。
イカは細かく飾り包丁を入れ、甘みを引き出しやすくする。
関アジは生姜とネギを添えて。
サイダーは、グラスごと冷凍庫でキンキンに冷やしておく。
ダイニングテーブルに料理を並べる。
ガラスの器に盛られた『うすい豆の翡翠煮』。
透き通るような緑色が、涼やかで美しい。
有田焼の皿に盛られた『刺身三点盛り』。
そして、『仕込み水のサイダー』。
「いただきます」
まずはサイダーを一口。
シュワッという強い刺激の後、驚くほどまろやかな水の味が広がる。
甘さは控えめで、食事の邪魔をしない。
口の中が清められるようだ。
次に翡翠煮。
スプーンですくって口に運ぶ。
薄皮がプチッと弾け、中からホクホクとした豆の甘みと、上品な出汁の香りが溢れ出す。
……美味い。
シンプルだが、素材の力がダイレクトに伝わってくる。
青臭さは微塵もない。春から初夏へと移ろう季節の味がする。
そして刺身。
マダイを醤油に少しだけつけて。
噛みしめると、強烈な弾力と旨味。
イカは舌に絡みつき、濃厚な甘みを残して溶けていく。
関アジの脂はサラリとしていて、生姜との相性が抜群だ。
そこに、50度まで冷ました玉露を啜る。
……衝撃だ。
お茶とは思えない、トロリとした舌触りと、凝縮された旨味。
まるで極上のスープを飲んでいるようだ。
魚の脂を洗い流すのではなく、包み込んで昇華させる。
一人静かな食卓だが、心は満たされている。
結衣先輩の笑顔、セイラ先輩との密約、そして最高の食材たち。
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一つ一つ努力していけば、きっと開かれる未来は輝いているに違いない。
そう思っていたんだけど、俺、弱くない?
希少属性である闇魔法に目覚めたのはよかったけど、攻撃力に乏しい。
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