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第54話 初夏の市場調査と泳ぐ鮎の塩焼き
しおりを挟む衣替えから一夜明け、桜花学園の校内はすっかり夏服の白さに染まっていた。
梅雨入り前の貴重な晴れ間。湿度の低い爽やかな風が、開け放たれた窓から吹き抜けていく。
昼休み。俺は、混雑する食堂を避け、渡り廊下の自販機コーナーでミネラルウォーターを買っていた。
硬貨を投入しようとした時、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
「あ、西園寺くん! 奇遇だね~」
花村結衣先輩だ。
夏服のブラウスは、冬服以上に彼女の健康的なプロポーションを強調している。
あどけなさと豊満さが同居した奇跡のバランス。
第1ボタンを開けた首筋は白く、艶やかな黒髪がサラサラと肩にかかっている。
彼女はイチゴオレのパックを両手で持ち、無防備な笑顔を向けてきた。
「こんにちは、花村先輩。……良い天気ですね」
「うん! お洗濯日和だね~。……あ、そういえばね! こないだ教えてもらった数学のところ、小テストで満点取れたんだよ!」
彼女は嬉しそうに報告した。
以前、階段の踊り場で三角関数を教えた件だ。
「それは素晴らしい。先輩の努力の成果ですよ」
「えへへ、西園寺くんのおかげだよ~。……あ、これあげる! お祝いのお裾分け!」
彼女はポケットから、個包装されたクッキーを取り出した。
手作りだろうか。少し形がいびつだが、そこが愛らしい。
「ありがとうございます。……いただきます」
「うん! ……また、教えてね? 王子様!」
彼女は悪戯っぽくウインクし、ふんわりとした足取りで去っていった。
「王子様」という呼び名は相変わらず気恥ずかしいが、彼女の純粋な好意は、ビジネスで荒んだ心を癒やす清涼剤だ。
俺はクッキーを大切にポケットにしまい、午後の授業へと向かった。
放課後。
俺は制服から着替え、渋谷の街へと繰り出した。
今日は特定の誰かと会う予定はない。純粋な市場調査の日だ。
41歳の経験則から言えば、ビジネスのヒントは会議室ではなく、街の雑踏の中に落ちている。
まずは『TSUTAYA』へ。
レンタルランキングの棚を眺める。
映画、音楽、ゲーム。今、大衆が何を求め、何に時間を費やしているのか。
宇多田ヒカルのアルバムが依然として驚異的なセールスを記録している。R&Bの浸透。本物志向への回帰。
着メロ事業においても、単なるメロディの再現だけでなく、音質へのこだわりが差別化要因になるだろう。
次にコンビニへ。
新商品の棚をチェックする。
飲料、菓子、雑誌。パッケージデザインのトレンド、キャッチコピーの傾向。
「癒やし」「健康」といったキーワードが増えている。
世紀末の不安を和らげる商品が求められている証拠だ。
さらに、公園通りにある宝石店とパン屋を回る。
高価格帯の商品と、日常的な食品。
消費の二極化が進んでいる。
デフレの足音が聞こえる一方で、価値あるものには金を惜しまない層も確実に存在する。
俺が狙うべきは、その両方だ。
最後に、文化村通りの大型書店『ブックファースト』へ。
ここが本日のメインだ。
ビジネス書、技術書、そしてサブカルチャー誌。
情報の洪水に身を浸す。
平積みにされた新刊の中から、以下の3冊を選び取った。
『JavaによるWebアプリケーション開発』
『消費者心理のメカニズム』
『2001年宇宙の旅(新訳版)』
技術、心理、そしてSF的想像力。
これらが俺の脳内で化学反応を起こし、新たなビジネスモデルの種となる。
レジで会計を済ませ、重い紙袋を手にする。
知識の重みは、心地よい。
書店を出た俺は、その足で東急百貨店本店のデパ地下へと向かった。
青果コーナー。
贈答用のフルーツが並ぶ一角で、宝石のように輝く赤い果実を見つけた。
サクランボの王様、『佐藤錦』だ。
山形県産のハウス栽培もの。この時期の初物は、粒が大きく、糖度が際立って高い。
桐箱に綺麗に並べられたその姿は、食べるのが惜しいほどの美しさだ。
「……これを一つ。リボンをかけてください」
俺は迷わず購入した。
自分用ではない。
これから会う、特別な「パートナー」への手土産だ。
東急本店からタクシーに乗り、向かった先は六本木。
会員制のカラオケバーだ。
以前、ゴシップ騒動の時に天童くるみさんを連れてきた店である。
完全個室、防音完備。アイドルが人目を気にせず羽を伸ばせる数少ない聖域。
部屋に入ると、すでに彼女は来ていた。
「よっ! 遅いじゃない、レオ」
天童くるみだ。
今日の彼女は、オフショルダートップスにミニスカートという、少し攻めた私服姿だ。
大きなサングラスを外すと、猫のような瞳が俺を捉えて輝く。
CM撮影を経て自信をつけた彼女は、以前よりも堂々としており、トップアイドルのオーラを隠そうともしていない。
「お待たせしました、くるみさん。……また歌っていましたか?」
「ううん。今日は喉を休めてるの。……ただ、あんたの顔が見たかっただけ」
彼女は少し照れくさそうに言って、ソファの隣をポンと叩いた。
俺はそこに座り、先ほど買った紙袋を渡した。
「……これ、差し入れです」
「えっ、何? ……うわぁっ! すごい!」
箱を開けた瞬間、くるみさんが歓声を上げた。
整然と並んだルビー色の佐藤錦。
「佐藤錦じゃない! しかもこんな大粒……! 高かったでしょ?」
「くるみさんの笑顔に比べれば、安いものですよ」
「……もう。そういうキザなとこ、ホント変わんないわね」
彼女は呆れつつも、嬉しそうに一粒摘んだ。
口に含むと、甘酸っぱい果汁が弾けたようで、目を細めて「ん~!」と声を漏らす。
「美味しい……! 甘くて、味が濃い!」
「でしょう。初物です」
彼女は次々とサクランボを口に運ぶ。
その仕草が、小動物のように愛らしい。
俺はドリンクを注文し、彼女が食べるのを満足げに眺めた。
先日渡した「専用携帯」は、テーブルの上に置かれている。
肌身離さず持っていてくれているようだ。
「……ねえ、レオ。学園祭、来るんでしょ?」
「涼さんの大学の?」
「そう。あたしも行くからさ、現地で合流しようよ。……変装してデート、悪くないでしょ?」
彼女は悪戯っぽくウインクした。
アイドルの「お忍びデート」。
リスクはあるが、スリルもある。
「いいですね。……君を守る役目は、僕が引き受けます」
「ふふ、頼りにしてるわよ。ナイト様」
1時間ほど話し込み、彼女の送迎車が来る時間になった。
俺たちは店を出て、裏口で別れた。
彼女の手には、空になった桐箱と、満たされた心が残ったはずだ。
くるみさんと別れた後、俺は再び渋谷へ戻り、会員制スポーツジムへ向かった。
市場調査で歩き回った疲れを、心地よい疲労に変えるためだ。
トレーニングウェアに着替え、ランニングマシンで5キロほど走る。
さらに、マシンを使って全身の筋肉に刺激を入れる。
15歳の肉体は、使えば使うほど研ぎ澄まされていく。
汗が滴り落ちる。
思考のノイズが排出され、クリアになっていく感覚。
ワークアウト後、ラウンジでドリンクを注文した。
『特製アミノ酸ウォーター』。
BCAAとクエン酸を高濃度で配合した、リカバリー専用ドリンクだ。
氷の入ったグラスで一気に飲み干す。
酸味が五臓六腑に染み渡り、枯渇したエネルギーが充填されていく。
「……ふぅ。生き返る」
時計を見ると、もう夕方だ。
スーパーの開店時間に合わせて、俺はジムを出た。
向かうは東急本店のデパ地下。
今日の夕食のテーマは「初夏の清涼」だ。
鮮魚コーナーへ直行する。
狙いは『鮎』だ。
6月に入り、鮎漁が解禁されたばかり。
ショーケースには、緑がかった背中と、黄色い斑点を持つ美しい魚体が並んでいる。
『和歌山県産 天然若鮎』。
養殖物とは違う、苔を食べて育った天然物特有の「スイカの香り」がする。
小ぶりだが、身が締まっていて美しい。これを3尾購入。
次に青果コーナー。
枝豆の走り、『早生枝豆』を枝付きで。
鮮度が命の枝豆は、枝から外した瞬間から味が落ちる。枝付きを買うのが鉄則だ。
さらに、新生姜。
白く透き通るような肌の生姜を、甘酢漬けにする。
味噌汁の具には、絹ごし豆腐と三つ葉を。
最後に、日本茶専門店『ルピシア』へ。
今日合わせるのは、最高級の『玉露』だ。
京都・宇治の『甘露』。
これを氷水でじっくりと抽出する「水出し」にする。
熱湯で淹れるよりもカフェインや渋みが抑えられ、テアニンという旨味成分だけが凝縮された、極上の甘露水となる。
両手に食材を抱え、俺はタクシーで帰宅した。
帰宅後、俺はすぐに調理に取り掛かる。
まずは玉露の準備だ。
急須に茶葉をたっぷりと入れ、その上に氷を山盛りに乗せる。
常温の水をごく少量注ぎ、あとは氷が溶けるのを待つ。
一滴一滴、時間をかけて抽出する「氷出し」。
これが夕食の時間にちょうど飲み頃になる。
次に、新生姜の甘酢漬け。
生姜を繊維に沿って極薄にスライスし、さっと湯通しする。
熱いうちに、甘酢に漬け込む。
生姜の辛味が抜け、淡いピンク色に染まっていく。
即席のガリだが、市販品とは香りが違う。
枝豆は、枝から切り離し、両端をハサミで切る。
塩で揉んで産毛を取り、塩を入れた熱湯で4分。
茹で上がったらザルに広げ、団扇で扇いで急冷する。
水っぽくならないよう、水には晒さない。
そして、メインの鮎。
ここが腕の見せ所だ。
鮎の表面のぬめりを優しく洗い流し、水分を拭き取る。
そして「串打ち」。
口から串を入れ、エラ蓋の硬い部分に刺し、魚体を波打たせるように縫って、尾びれの手前に出す。
『うねり串』と呼ばれる技法だ。
これにより、鮎がまるで川を泳いでいるかのような躍動感ある姿で焼き上がる。
ヒレにはたっぷりと「化粧塩」を施す。焦げを防ぎ、美しく仕上げるためだ。
全体に振り塩をし、遠火の強火でじっくりと焼く。
グリルの中で、鮎の脂が炭に落ち、香ばしい煙が立ち上る。
皮はパリッと、身はふっくらと。
香魚と呼ばれる所以である、独特の芳香がキッチンに広がる。
味噌汁は、一番出汁を取り、さいの目に切った豆腐を入れる。
沸騰直前で火を止め、味噌を溶く。
最後に三つ葉を散らす。
ダイニングテーブルに料理を並べる。
波打つように盛り付けられた鮎の塩焼き。
鮮やかな緑の枝豆。
透き通るピンクの新生姜。
そして、氷が溶けきった急須から、最後の一滴まで絞り出した玉露。
グラスに注ぐと、とろりとした翡翠色の液体が揺れる。
「いただきます」
まずは玉露を一口。
……衝撃だ。
お茶という概念を超えた、濃厚な出汁のような旨味。
舌の上で転がすと、強い甘みと清涼感が広がる。
苦味は一切ない。
これが「本物」の玉露の力だ。
次に鮎。
頭からガブリといく。
パリッとした皮の香ばしさ、ホクホクとした白身の甘み、そしてワタのほろ苦さ。
これらが口の中で渾然一体となる。
そこに玉露を含む。
魚の脂を、お茶の旨味が包み込み、さらに深い味わいへと昇華させる。
日本酒もいいが、この組み合わせもまた至高だ。
枝豆をつまみ、新生姜で口をリセットする。
初夏の味覚が、身体の隅々まで染み渡っていく。
一人静かな夕食だが、その豊かさはどんな晩餐会にも負けない。
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