63 / 65
第63話 偽りの王子と深紅のキャベツ
しおりを挟む
梅雨入り宣言が出されたばかりの東京は、朝から厚い雲に覆われ、湿度を含んだ生温かい風が吹いていた。
私立桜花学園の社会科見学2日目。
本日は都内の班別自由行動となっている。多くの生徒が渋谷や原宿へ繰り出す中、俺は、上野恩賜公園の緑深い並木道を歩いていた。
目的地は『国立西洋美術館』。
ル・コルビュジエが設計した本館自体が芸術作品であり、モネやロダンなどの松方コレクションを収蔵する、日本有数の美の殿堂だ。
喧騒を離れ、静寂の中で思索に耽るには最適な場所――のはずだった。
「……騒がしいな」
美術館の前庭には、普段の静謐さとは無縁の黒山の人だかりができていた。
テレビカメラの放列と、黄色い歓声を上げる女性たちの群れ。
その中心に、一人の青年が立っていた。
「ご安心ください。失われた『睡蓮』の習作は、必ず僕が見つけ出してみせますよ。……芸術を愛する、貴女の笑顔のためにね」
テレビカメラに向かって、甘いマスクを綻ばせる青年。
身長180cmを超える長身に、完璧に仕立てられたスリーピーススーツ。色素の薄い茶髪を風になびかせ、その仕草一つ一つが洗練された俳優のように優雅だ。
そして特筆すべきは、初夏だというのに両手に着用された、滑らかな革製の手袋。
神宮寺レイ。26歳。
「探偵界の貴公子」「平成のシャーロック」として、メディアに引っ張りだこの私立探偵だ。
最近、ワイドショーで彼の特集を見ない日はない。難事件を鮮やかに解決し、被害者に寄り添う姿勢から「癒やし系探偵」として主婦層から絶大な支持を得ている。
(……実物は初めて見るが、随分と芝居がかった男だな)
俺は冷めた目でその光景を眺めていた。
41歳の精神を持つ俺からすれば、彼の振る舞いは計算され尽くした「演出」にしか見えない。
その時、ふと彼と視線が合った気がした。
群衆の中にいる俺を、彼のアイスブルーに近い瞳が正確に射抜く。
彼はカメラに向かって微笑んだまま、群衆をかき分け、真っ直ぐにこちらへ歩いてきた。
「……やあ。君も、『美』の探求者かな?」
至近距離で見ると、その肌は陶器のように滑らかで、作り物めいた美しさがあった。
周囲の女性たちが「えっ、誰あの美少年?」「神宮寺様のお知り合い?」とざわめく。
「……初めまして、神宮寺さん。西園寺玲央と申します。ただの通りすがりの学生ですよ」
俺は慇懃に会釈をした。
神宮寺レイは、俺の名前を聞いた瞬間、微かに眉を動かした。
「西園寺……。ああ、噂の『若き投資家』くんか。君のことは耳にしているよ」
彼は手袋をしたままの手を差し出してきた。
握手を求められている。だが、その瞳の奥には、友愛とは程遠い、冷徹な計算の光が宿っていた。
「少し、時間を貰えるかな? ……君とは、一度ゆっくり話してみたかったんだ。『ロジック』の通じる相手としてね」
表向きは爽やかな誘い。だが、それは拒否権のない強制力を帯びていた。
面白そうだ。俺はこの「偽りの王子様」の手を取ることにした。
俺たちが向かったのは、美術館に併設されたカフェ『すいれん』ではなく、公園を出て少し歩いた先にある老舗ホテルの一室だった。
予約されていた個室のラウンジ。
神宮寺レイは、上着を脱ぐこともなく、ソファに深く腰掛けた。
「……単刀直入に言おう。君、この辺りの土地開発にも噛んでいるそうだね?」
人払いを済ませた途端、彼の口調から「王子様」の甘さが消え失せた。
代わりに現れたのは、温度のない、無機質な合理主義者の顔だ。
「噛んでいる、とは人聞きが悪いですね。将来有望なエリアの不動産を、適正価格で取得しているだけです」
「ふん。……君のやり方は合理的だ。感情論を排し、数字と確率だけで未来を予測する。僕と同じ匂いがするよ」
彼は革手袋をした指先で、テーブルの上の角砂糖を弄んだ。
「人間というのは愚かだ。感情、情愛、義理……そんな不確定要素に行動を支配されている。僕が解決した事件の犯人たちもそうだった。愛だの憎しみだの、くだらない動機で破滅していく。……僕はね、そういう非合理的な存在が反吐が出るほど嫌いなんだよ」
「……それで、手袋を?」
「ああ。愚か者の菌に触れたくないからね」
彼は薄く笑った。その笑顔は、テレビで見せるものとは似ても似つかない、氷のように冷たい嘲笑だった。
徹底的な合理主義。潔癖なまでの論理至上主義。
なるほど、これが本性か。
「それで、僕に何の用ですか?」
「警告さ。……君は最近、目立ちすぎている。学園の不祥事、芸能事務所の買収、そして裏社会との接触。……僕の『計算式』において、君という変数は少々邪魔なんだ」
彼は身を乗り出し、俺の目を覗き込んだ。
「君のやっていることは『遊び』だ。だが、僕は『仕事』としてこの街の秩序を管理している。……あまり調子に乗らないことだね、西園寺くん。君の完璧なロジックが破綻する瞬間を、僕は楽しみにしているよ」
それは明確な宣戦布告だった。
俺はコーヒーを一口啜り、静かにカップを置いた。
「忠告、感謝します。ですが、僕の変数は貴方の計算式には収まりませんよ。……僕が見ているのは、貴方が軽蔑する『人間の感情』も含めた、もっと大きな市場ですから」
「……ほう。面白い」
神宮寺レイは目を細めた。
互いに譲れない一線がある。
俺たちは笑顔で握手を交わし、決裂した。
彼とはいずれ、ビジネスか、あるいは別の形で対立することになるだろう。
夕刻。
渋谷駅前のハチ公前広場は、週末を待ちわびる若者たちで溢れかえっていた。
俺は帰宅の途につき、駅前の喧騒を避けるように歩いていたが、ふと見覚えのある後ろ姿を見つけた。
桜木マナだ。
彼女は柱の陰で、誰かを待っているようだった。その表情には、不安と、隠しきれない微かな期待が滲んでいる。
(……誰かと待ち合わせか?)
少し離れた場所から様子を窺う。
やがて、人混みをかき分けて現れたのは、日向翔太だった。
「ようマナ! 待たせたな!」
「ううん、大丈夫。……どうしたの、翔太? 急に呼び出したりして……」
マナの声が少し上擦っている。
幼馴染からの突然の呼び出し。場所は金曜日の渋谷。
彼女の中で「もしかして、告白?」という淡い期待が芽生えても不思議ではない。翔太との関係に失望しつつも、長年の想いはそう簡単には消えないものだ。
だが、翔太の口から出た言葉は、そんな乙女心を粉々に粉砕するものだった。
「いやー、頼みがあってさ! ……お前、生徒会副会長の霧島先輩と仲良くなったんだろ? あの美人な先輩!」
「……え? セイラちゃんのこと?」
「そうそう! いやー、あんな美人が先輩にいるとかマジで役得だよな。でさ、マナ。お前から霧島先輩の連絡先、聞いてきてくんない?」
「…………は?」
マナの動きが止まった。
時が止まったかのように、彼女の瞳から光が失われていく。
「連絡先……? 翔太が、セイラちゃんの?」
「おう! いきなり俺が聞いたら警戒されるかもしんねーじゃん? でもマナなら上手く聞き出せるだろ? 『幼馴染がファンなんですぅ』とか言ってさ!」
翔太は悪びれもせず、ヘラヘラと笑っている。
自分の頼みがどれほど残酷で、無神経なものか、1ミリも理解していない。
マナを利用して、マナの友人に近づこうとする。しかも「お前なら警戒されない」という、マナを完全に「無害な仲介役」としか見ていない発言。
「……嫌よ」
「は? なんでだよ。減るもんじゃねーだろ。頼むよ~、一生のお願い!」
「嫌! ……私、帰る」
マナは顔を伏せ、逃げるように走り出した。
「おい、待てよマナ! ……ちぇっ、なんだよアイツ。ケチだなー」
取り残された翔太は、不満げに舌打ちをして髪を掻きむしった。
俺は、走り去るマナの背中と、相変わらず自分のことしか考えていない翔太を交互に見やり、深く嘆息した。
(……決定打だな)
今の言葉で、マナの心に残っていた最後の「幼馴染への情」は凍りついたはずだ。
俺が手を貸すまでもない。翔太は自らの手で、マナとの絆を完全に断ち切ったのだ。
帰宅後。
俺は『グラン・エターナル麻布』の広大なキッチンに立っていた。
今日の夕食のテーマは「癒やしと再生」だ。
傷ついた心には、温かく、そして手のかかった料理が一番効く。もっとも、これを食べるのは俺一人だが、料理という行為そのものが、俺自身の精神安定剤でもある。
メニューは『最高級ロールキャベツのトマト煮込み』。
まずはキャベツだ。愛知県産の甘みの強い冬キャベツを使用する。
芯をくり抜き、丸ごと茹でて一枚ずつ丁寧に剥がす。葉の固い軸は削ぎ切りにして、みじん切りにしてタネに混ぜ込む。無駄は出さない。
タネには、合挽き肉ではなく、国産黒毛和牛の切り落としを包丁で叩いてミンチにしたものを使う。そこに、あめ色になるまで炒めた玉ねぎ、パン粉、牛乳、卵、ナツメグ、そして先ほどのキャベツの軸を加える。
粘りが出るまで手早く練り、空気を抜いて俵型に成形する。
ここからが職人技だ。
キャベツの葉を広げ、タネを置く。手前から巻き、左右を折り込み、最後までクルクルと巻く。巻き終わりは爪楊枝を使わず、葉の端を中に押し込んで固定する。これで煮込んでも崩れない。
鍋に隙間なくロールキャベツを並べ、そこに完熟トマトを湯むきして裏ごしした特製ソースを注ぎ込む。
コンソメ、ローリエ、そして隠し味に味噌とハチミツを少々。
弱火でじっくり、コトコトと煮込むこと40分。
その間に、サイドメニューの準備だ。
北海道産のスイートコーンを、たっぷりの発酵バターでソテーする『コーンバター』。
醤油を数滴垂らし、焦がしバターの香りを立たせる。シンプルだが、素材の力が問われる一品だ。
パンは、広尾の有名ブーランジェリーで焼きたてを買ってきた『バゲット・トラディション』。
皮はバリッと香ばしく、中はモチモチとして小麦の香りが強い。
「……よし」
鍋の蓋を開けると、ふわりとトマトと肉の濃厚な香りが立ち上った。
キャベツはとろけるように柔らかくなり、ソースを含んで艶やかに輝いている。
ダイニングテーブルに料理を運び、セラーから一本のワインを取り出した。
『シャトー・マルゴー 1983』。
本来なら未成年の俺が口にすべきではないが、自宅というプライベートな空間における、料理を引き立てるための「ソース」の一種として解釈する。
グラスに注がれた深紅の液体は、照明を受けてルビーのように妖しく煌めいた。
「いただきます」
ナイフを入れると、ロールキャベツは抵抗なくスッと切れた。
断面からは肉汁が溢れ出し、トマトソースと混ざり合う。
口に運ぶと、キャベツの甘みと和牛の旨味が爆発した。トマトの酸味が全体を引き締め、決して重くならない。
そこに、マルゴーを一口。
ベルベットのような舌触りと、花のような芳醇な香り。
濃厚な肉料理の余韻を、優雅に洗い流してくれる。
「……悪くない」
独りごちて、俺は窓の外に広がる東京の夜景を見下ろした。
無数の光の粒。その一つ一つに、誰かの生活があり、感情がある。
マナは今頃、部屋で泣いているかもしれない。
神宮寺レイは、冷たい部屋で次の獲物を探しているかもしれない。
だが、俺はこの温かい食卓で、明日への活力を蓄える。
感情も論理も、全てを飲み込んで、俺は俺の道を行く。
私立桜花学園の社会科見学2日目。
本日は都内の班別自由行動となっている。多くの生徒が渋谷や原宿へ繰り出す中、俺は、上野恩賜公園の緑深い並木道を歩いていた。
目的地は『国立西洋美術館』。
ル・コルビュジエが設計した本館自体が芸術作品であり、モネやロダンなどの松方コレクションを収蔵する、日本有数の美の殿堂だ。
喧騒を離れ、静寂の中で思索に耽るには最適な場所――のはずだった。
「……騒がしいな」
美術館の前庭には、普段の静謐さとは無縁の黒山の人だかりができていた。
テレビカメラの放列と、黄色い歓声を上げる女性たちの群れ。
その中心に、一人の青年が立っていた。
「ご安心ください。失われた『睡蓮』の習作は、必ず僕が見つけ出してみせますよ。……芸術を愛する、貴女の笑顔のためにね」
テレビカメラに向かって、甘いマスクを綻ばせる青年。
身長180cmを超える長身に、完璧に仕立てられたスリーピーススーツ。色素の薄い茶髪を風になびかせ、その仕草一つ一つが洗練された俳優のように優雅だ。
そして特筆すべきは、初夏だというのに両手に着用された、滑らかな革製の手袋。
神宮寺レイ。26歳。
「探偵界の貴公子」「平成のシャーロック」として、メディアに引っ張りだこの私立探偵だ。
最近、ワイドショーで彼の特集を見ない日はない。難事件を鮮やかに解決し、被害者に寄り添う姿勢から「癒やし系探偵」として主婦層から絶大な支持を得ている。
(……実物は初めて見るが、随分と芝居がかった男だな)
俺は冷めた目でその光景を眺めていた。
41歳の精神を持つ俺からすれば、彼の振る舞いは計算され尽くした「演出」にしか見えない。
その時、ふと彼と視線が合った気がした。
群衆の中にいる俺を、彼のアイスブルーに近い瞳が正確に射抜く。
彼はカメラに向かって微笑んだまま、群衆をかき分け、真っ直ぐにこちらへ歩いてきた。
「……やあ。君も、『美』の探求者かな?」
至近距離で見ると、その肌は陶器のように滑らかで、作り物めいた美しさがあった。
周囲の女性たちが「えっ、誰あの美少年?」「神宮寺様のお知り合い?」とざわめく。
「……初めまして、神宮寺さん。西園寺玲央と申します。ただの通りすがりの学生ですよ」
俺は慇懃に会釈をした。
神宮寺レイは、俺の名前を聞いた瞬間、微かに眉を動かした。
「西園寺……。ああ、噂の『若き投資家』くんか。君のことは耳にしているよ」
彼は手袋をしたままの手を差し出してきた。
握手を求められている。だが、その瞳の奥には、友愛とは程遠い、冷徹な計算の光が宿っていた。
「少し、時間を貰えるかな? ……君とは、一度ゆっくり話してみたかったんだ。『ロジック』の通じる相手としてね」
表向きは爽やかな誘い。だが、それは拒否権のない強制力を帯びていた。
面白そうだ。俺はこの「偽りの王子様」の手を取ることにした。
俺たちが向かったのは、美術館に併設されたカフェ『すいれん』ではなく、公園を出て少し歩いた先にある老舗ホテルの一室だった。
予約されていた個室のラウンジ。
神宮寺レイは、上着を脱ぐこともなく、ソファに深く腰掛けた。
「……単刀直入に言おう。君、この辺りの土地開発にも噛んでいるそうだね?」
人払いを済ませた途端、彼の口調から「王子様」の甘さが消え失せた。
代わりに現れたのは、温度のない、無機質な合理主義者の顔だ。
「噛んでいる、とは人聞きが悪いですね。将来有望なエリアの不動産を、適正価格で取得しているだけです」
「ふん。……君のやり方は合理的だ。感情論を排し、数字と確率だけで未来を予測する。僕と同じ匂いがするよ」
彼は革手袋をした指先で、テーブルの上の角砂糖を弄んだ。
「人間というのは愚かだ。感情、情愛、義理……そんな不確定要素に行動を支配されている。僕が解決した事件の犯人たちもそうだった。愛だの憎しみだの、くだらない動機で破滅していく。……僕はね、そういう非合理的な存在が反吐が出るほど嫌いなんだよ」
「……それで、手袋を?」
「ああ。愚か者の菌に触れたくないからね」
彼は薄く笑った。その笑顔は、テレビで見せるものとは似ても似つかない、氷のように冷たい嘲笑だった。
徹底的な合理主義。潔癖なまでの論理至上主義。
なるほど、これが本性か。
「それで、僕に何の用ですか?」
「警告さ。……君は最近、目立ちすぎている。学園の不祥事、芸能事務所の買収、そして裏社会との接触。……僕の『計算式』において、君という変数は少々邪魔なんだ」
彼は身を乗り出し、俺の目を覗き込んだ。
「君のやっていることは『遊び』だ。だが、僕は『仕事』としてこの街の秩序を管理している。……あまり調子に乗らないことだね、西園寺くん。君の完璧なロジックが破綻する瞬間を、僕は楽しみにしているよ」
それは明確な宣戦布告だった。
俺はコーヒーを一口啜り、静かにカップを置いた。
「忠告、感謝します。ですが、僕の変数は貴方の計算式には収まりませんよ。……僕が見ているのは、貴方が軽蔑する『人間の感情』も含めた、もっと大きな市場ですから」
「……ほう。面白い」
神宮寺レイは目を細めた。
互いに譲れない一線がある。
俺たちは笑顔で握手を交わし、決裂した。
彼とはいずれ、ビジネスか、あるいは別の形で対立することになるだろう。
夕刻。
渋谷駅前のハチ公前広場は、週末を待ちわびる若者たちで溢れかえっていた。
俺は帰宅の途につき、駅前の喧騒を避けるように歩いていたが、ふと見覚えのある後ろ姿を見つけた。
桜木マナだ。
彼女は柱の陰で、誰かを待っているようだった。その表情には、不安と、隠しきれない微かな期待が滲んでいる。
(……誰かと待ち合わせか?)
少し離れた場所から様子を窺う。
やがて、人混みをかき分けて現れたのは、日向翔太だった。
「ようマナ! 待たせたな!」
「ううん、大丈夫。……どうしたの、翔太? 急に呼び出したりして……」
マナの声が少し上擦っている。
幼馴染からの突然の呼び出し。場所は金曜日の渋谷。
彼女の中で「もしかして、告白?」という淡い期待が芽生えても不思議ではない。翔太との関係に失望しつつも、長年の想いはそう簡単には消えないものだ。
だが、翔太の口から出た言葉は、そんな乙女心を粉々に粉砕するものだった。
「いやー、頼みがあってさ! ……お前、生徒会副会長の霧島先輩と仲良くなったんだろ? あの美人な先輩!」
「……え? セイラちゃんのこと?」
「そうそう! いやー、あんな美人が先輩にいるとかマジで役得だよな。でさ、マナ。お前から霧島先輩の連絡先、聞いてきてくんない?」
「…………は?」
マナの動きが止まった。
時が止まったかのように、彼女の瞳から光が失われていく。
「連絡先……? 翔太が、セイラちゃんの?」
「おう! いきなり俺が聞いたら警戒されるかもしんねーじゃん? でもマナなら上手く聞き出せるだろ? 『幼馴染がファンなんですぅ』とか言ってさ!」
翔太は悪びれもせず、ヘラヘラと笑っている。
自分の頼みがどれほど残酷で、無神経なものか、1ミリも理解していない。
マナを利用して、マナの友人に近づこうとする。しかも「お前なら警戒されない」という、マナを完全に「無害な仲介役」としか見ていない発言。
「……嫌よ」
「は? なんでだよ。減るもんじゃねーだろ。頼むよ~、一生のお願い!」
「嫌! ……私、帰る」
マナは顔を伏せ、逃げるように走り出した。
「おい、待てよマナ! ……ちぇっ、なんだよアイツ。ケチだなー」
取り残された翔太は、不満げに舌打ちをして髪を掻きむしった。
俺は、走り去るマナの背中と、相変わらず自分のことしか考えていない翔太を交互に見やり、深く嘆息した。
(……決定打だな)
今の言葉で、マナの心に残っていた最後の「幼馴染への情」は凍りついたはずだ。
俺が手を貸すまでもない。翔太は自らの手で、マナとの絆を完全に断ち切ったのだ。
帰宅後。
俺は『グラン・エターナル麻布』の広大なキッチンに立っていた。
今日の夕食のテーマは「癒やしと再生」だ。
傷ついた心には、温かく、そして手のかかった料理が一番効く。もっとも、これを食べるのは俺一人だが、料理という行為そのものが、俺自身の精神安定剤でもある。
メニューは『最高級ロールキャベツのトマト煮込み』。
まずはキャベツだ。愛知県産の甘みの強い冬キャベツを使用する。
芯をくり抜き、丸ごと茹でて一枚ずつ丁寧に剥がす。葉の固い軸は削ぎ切りにして、みじん切りにしてタネに混ぜ込む。無駄は出さない。
タネには、合挽き肉ではなく、国産黒毛和牛の切り落としを包丁で叩いてミンチにしたものを使う。そこに、あめ色になるまで炒めた玉ねぎ、パン粉、牛乳、卵、ナツメグ、そして先ほどのキャベツの軸を加える。
粘りが出るまで手早く練り、空気を抜いて俵型に成形する。
ここからが職人技だ。
キャベツの葉を広げ、タネを置く。手前から巻き、左右を折り込み、最後までクルクルと巻く。巻き終わりは爪楊枝を使わず、葉の端を中に押し込んで固定する。これで煮込んでも崩れない。
鍋に隙間なくロールキャベツを並べ、そこに完熟トマトを湯むきして裏ごしした特製ソースを注ぎ込む。
コンソメ、ローリエ、そして隠し味に味噌とハチミツを少々。
弱火でじっくり、コトコトと煮込むこと40分。
その間に、サイドメニューの準備だ。
北海道産のスイートコーンを、たっぷりの発酵バターでソテーする『コーンバター』。
醤油を数滴垂らし、焦がしバターの香りを立たせる。シンプルだが、素材の力が問われる一品だ。
パンは、広尾の有名ブーランジェリーで焼きたてを買ってきた『バゲット・トラディション』。
皮はバリッと香ばしく、中はモチモチとして小麦の香りが強い。
「……よし」
鍋の蓋を開けると、ふわりとトマトと肉の濃厚な香りが立ち上った。
キャベツはとろけるように柔らかくなり、ソースを含んで艶やかに輝いている。
ダイニングテーブルに料理を運び、セラーから一本のワインを取り出した。
『シャトー・マルゴー 1983』。
本来なら未成年の俺が口にすべきではないが、自宅というプライベートな空間における、料理を引き立てるための「ソース」の一種として解釈する。
グラスに注がれた深紅の液体は、照明を受けてルビーのように妖しく煌めいた。
「いただきます」
ナイフを入れると、ロールキャベツは抵抗なくスッと切れた。
断面からは肉汁が溢れ出し、トマトソースと混ざり合う。
口に運ぶと、キャベツの甘みと和牛の旨味が爆発した。トマトの酸味が全体を引き締め、決して重くならない。
そこに、マルゴーを一口。
ベルベットのような舌触りと、花のような芳醇な香り。
濃厚な肉料理の余韻を、優雅に洗い流してくれる。
「……悪くない」
独りごちて、俺は窓の外に広がる東京の夜景を見下ろした。
無数の光の粒。その一つ一つに、誰かの生活があり、感情がある。
マナは今頃、部屋で泣いているかもしれない。
神宮寺レイは、冷たい部屋で次の獲物を探しているかもしれない。
だが、俺はこの温かい食卓で、明日への活力を蓄える。
感情も論理も、全てを飲み込んで、俺は俺の道を行く。
0
あなたにおすすめの小説
異世界帰りの俺、現代日本にダンジョンが出現したので異世界経験を売ったり配信してみます
内田ヨシキ
ファンタジー
「あの魔物の倒し方なら、30万円で売るよ!」
――これは、現代日本にダンジョンが出現して間もない頃の物語。
カクヨムにて先行連載中です!
(https://kakuyomu.jp/works/16818023211703153243)
異世界で名を馳せた英雄「一条 拓斗(いちじょう たくと)」は、現代日本に帰還したはいいが、異世界で鍛えた魔力も身体能力も失われていた。
残ったのは魔物退治の経験や、魔法に関する知識、異世界言語能力など現代日本で役に立たないものばかり。
一般人として生活するようになった拓斗だったが、持てる能力を一切活かせない日々は苦痛だった。
そんな折、現代日本に迷宮と魔物が出現。それらは拓斗が異世界で散々見てきたものだった。
そして3年後、ついに迷宮で活動する国家資格を手にした拓斗は、安定も平穏も捨てて、自分のすべてを活かせるはずの迷宮へ赴く。
異世界人「フィリア」との出会いをきっかけに、拓斗は自分の異世界経験が、他の初心者同然の冒険者にとって非常に有益なものであると気づく。
やがて拓斗はフィリアと共に、魔物の倒し方や、迷宮探索のコツ、魔法の使い方などを、時に直接売り、時に動画配信してお金に変えていく。
さらには迷宮探索に有用なアイテムや、冒険者の能力を可視化する「ステータスカード」を発明する。
そんな彼らの活動は、ダンジョン黎明期の日本において重要なものとなっていき、公的機関に発展していく――。
異世界ハズレモノ英雄譚〜無能ステータスと言われた俺が、ざまぁ見せつけながらのし上がっていくってよ!〜
mitsuzoエンターテインメンツ
ファンタジー
【週三日(月・水・金)投稿 基本12:00〜14:00】
異世界にクラスメートと共に召喚された瑛二。
『ハズレモノ』という聞いたこともない称号を得るが、その低スペックなステータスを見て、皆からハズレ称号とバカにされ、それどころか邪魔者扱いされ殺されそうに⋯⋯。
しかし、実は『超チートな称号』であることがわかった瑛二は、そこから自分をバカにした者や殺そうとした者に対して、圧倒的な力を隠しつつ、ざまぁを展開していく。
そして、そのざまぁは図らずも人類の命運を握るまでのものへと発展していくことに⋯⋯。
悪役貴族に転生したから破滅しないように努力するけど上手くいかない!~努力が足りない?なら足りるまで努力する~
蜂谷
ファンタジー
社畜の俺は気が付いたら知らない男の子になっていた。
情報をまとめるとどうやら子供の頃に見たアニメ、ロイヤルヒーローの序盤で出てきた悪役、レオス・ヴィダールの幼少期に転生してしまったようだ。
アニメ自体は子供の頃だったのでよく覚えていないが、なぜかこいつのことはよく覚えている。
物語の序盤で悪魔を召喚させ、学園をめちゃくちゃにする。
それを主人公たちが倒し、レオスは学園を追放される。
その後領地で幽閉に近い謹慎を受けていたのだが、悪魔教に目を付けられ攫われる。
そしてその体を魔改造されて終盤のボスとして主人公に立ちふさがる。
それもヒロインの聖魔法によって倒され、彼の人生の幕は閉じる。
これが、悪役転生ってことか。
特に描写はなかったけど、こいつも怠惰で堕落した生活を送っていたに違いない。
あの肥満体だ、運動もろくにしていないだろう。
これは努力すれば眠れる才能が開花し、死亡フラグを回避できるのでは?
そう考えた俺は執事のカモールに頼み込み訓練を開始する。
偏った考えで領地を無駄に統治してる親を説得し、健全で善人な人生を歩もう。
一つ一つ努力していけば、きっと開かれる未来は輝いているに違いない。
そう思っていたんだけど、俺、弱くない?
希少属性である闇魔法に目覚めたのはよかったけど、攻撃力に乏しい。
剣術もそこそこ程度、全然達人のようにうまくならない。
おまけに俺はなにもしてないのに悪魔が召喚がされている!?
俺の前途多難な転生人生が始まったのだった。
※カクヨム、なろうでも掲載しています。
チート魅了スキルで始まる、美少女たちとの異世界ハーレム生活
仙道
ファンタジー
リメイク先:「視線が合っただけで美少女が俺に溺れる。異世界で最強のハーレムを作って楽に暮らす」
ごく普通の会社員だった佐々木健太は、異世界へ転移してして、あらゆる女性を無条件に魅了するチート能力を手にする。
彼はこの能力で、女騎士セシリア、ギルド受付嬢リリア、幼女ルナ、踊り子エリスといった魅力的な女性たちと出会い、絆を深めていく。
ブラック国家を制裁する方法は、性癖全開のハーレムを作ることでした。
タカハシヨウ
ファンタジー
ヴァン・スナキアはたった一人で世界を圧倒できる強さを誇り、母国ウィルクトリアを守る使命を背負っていた。
しかし国民たちはヴァンの威を借りて他国から財産を搾取し、その金でろくに働かずに暮らしている害悪ばかり。さらにはその歪んだ体制を維持するためにヴァンの魔力を受け継ぐ後継を求め、ヴァンに一夫多妻制まで用意する始末。
ヴァンは国を叩き直すため、あえてヴァンとは子どもを作れない異種族とばかり八人と結婚した。もし後継が生まれなければウィルクトリアは世界中から報復を受けて滅亡するだろう。生き残りたければ心を入れ替えてまともな国になるしかない。
激しく抵抗する国民を圧倒的な力でギャフンと言わせながら、ヴァンは愛する妻たちと甘々イチャイチャ暮らしていく。
幼馴染達と一緒に異世界召喚、だけど僕だけ別な場所に飛ばされた先は異世界の不思議な無人島だった。
アノマロカリス
ファンタジー
よくある話の異世界召喚…
スマホのネット小説や漫画が好きな少年、洲河 愽(すが だん)。
いつもの様に幼馴染達と学校帰りの公園でくっちゃべっていると地面に突然魔法陣が現れて…
気付くと愽は1人だけ見渡す限り草原の中に突っ立っていた。
愽は幼馴染達を探す為に周囲を捜索してみたが、一緒に飛ばされていた筈の幼馴染達は居なかった。
生きていればいつかは幼馴染達とまた会える!
愽は希望を持って、この不思議な無人島でサバイバル生活を始めるのだった。
「幼馴染達と一緒に異世界召喚、だけど僕の授かったスキルは役に立つものなのかな?」
「幼馴染達と一緒に異世界召喚、だけど僕は幼馴染達よりも強いジョブを手に入れて無双する!」
「幼馴染達と一緒に異世界召喚、だけど僕は魔王から力を授かり人類に対して牙を剥く‼︎」
幼馴染達と一緒に異世界召喚の第四弾。
愽は幼馴染達と離れた場所でサバイバル生活を送るというパラレルストーリー。
はたして愽は、無事に幼馴染達と再会を果たせるのだろうか?
俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。
true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。
それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。
これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。
日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。
彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。
※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。
※内部進行完結済みです。毎日連載です。
S級クラフトスキルを盗られた上にパーティから追放されたけど、実はスキルがなくても生産力最強なので追放仲間の美少女たちと工房やります
内田ヨシキ
ファンタジー
[第5回ドラゴンノベルス小説コンテスト 最終選考作品]
冒険者シオンは、なんでも作れる【クラフト】スキルを奪われた上に、S級パーティから追放された。しかしシオンには【クラフト】のために培った知識や技術がまだ残されていた!
物作りを通して、新たな仲間を得た彼は、世界初の技術の開発へ着手していく。
職人ギルドから追放された美少女ソフィア。
逃亡中の魔法使いノエル。
騎士職を剥奪された没落貴族のアリシア。
彼女らもまた、一度は奪われ、失ったものを、物作りを通して取り戻していく。
カクヨムにて完結済み。
( https://kakuyomu.jp/works/16817330656544103806 )
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる