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黎明の誓いと、琥珀色のスープ
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東の空が白み始め、迷宮市場に朝の気配が忍び寄る頃。
地下特有の湿った冷気が、夜明け前の霧となって石畳を這っていた。
レインたちは人目を避けるようにして、路地裏の影を縫いながら屋台『真実の匙』へと戻ってきた。
誰も口を聞かなかった。
沈黙は鉛のように重いが、それは敗北による絶望ではない。あまりにも巨大な真実を目の当たりにし、各々がその意味を噛み砕くために必要な、儀式のような静寂だった。
屋台のボロボロの椅子にシルヴィアがドサリと腰を下ろし、セオがカウンターに突っ伏して長い溜息をつく。レインは無言で上着を脱ぎ、竈に残っていた種火に新しい薪をくべた。
パチパチと薪が爆ぜる乾いた音だけが、張り詰めた静寂を少しずつ埋めていく。
「……信じられん」
最初に口を開いたのは、シルヴィアだった。
彼女は重い兜を外し、カウンターに置く。汗ばんだ銀髪を手櫛でかき上げるその指先は、悔しさからか微かに震えていた。
「一級鑑定士といえば、国家公務員と同等の権限を持つエリートだ。彼らの署名一つで、商品の価値が決まり、市場の流通が左右される。……本来なら、市場の健全性を守る最後の砦であるはずの彼らが、まさか毒の流通に関与していたとは」
シルヴィアの声には、騎士としての誇りを傷つけられた怒りと、信じていた体制への失望が滲んでいた。
「しかも、ただの見過ごしじゃない。積極的に『新商品』の開発に関わってる口ぶりだった」
セオが眼鏡を外し、白衣の裾で丁寧に拭きながら補足する。その表情からは、いつもの飄々とした色が消え、科学者としての冷徹な怒りが浮かんでいた。
「あの倉庫にあった量、そして『実験』という言葉……。奴らはこの市場を、巨大な人体実験場にするつもりだよ。魔薬の臨床データを取るには、身寄りのない冒険者や貧民はうってつけだからね。……中毒性、副作用、致死量。それらのデータを集め、より『効率的に』依存させる薬を作るつもりだ」
その言葉に、レインの手が一瞬止まった。
人体実験。
脳裏に浮かぶのは、リズの悲痛な叫びと、血を吐いて倒れたという仲間の姿。そして、市場で虚ろな目をして毒入りの食品を貪っていた人々の顔。
かつてレインが憧れ、目指した鑑定士の姿は、人々の命と笑顔を守るための「真実の守り手」だったはずだ。それが今や、最も悪質な加害者となり果てている。
知識と権威を悪用し、弱者を食い物にする。それはレインが最も許せない「料理への冒涜」と同じ、いや、それ以上に醜悪な行為だった。
「……腐ってやがる」
レインは吐き捨てるように言った。
怒りが腹の底でどす黒い炎となって渦巻いている。拳を握り締めすぎて、爪が掌に食い込むのを感じた。だが、その怒りをそのまま吐き出せば、冷静さを失い、奴らの思う壺になるだけだ。
戦うためには、熱い心と、冷たい頭が必要だ。
レインは深く息を吸い込み、竈の火を見つめた。
揺らめく炎が、彼の瞳に宿る理性の光を呼び覚ます。
「……腹が減っては戦ができん。まずは温かいものでも腹に入れよう。徹夜明けの身体には、燃料が必要だ」
レインが取り出したのは、昨日仕入れておいた『黄金玉葱』と、少し硬くなったフランスパン、そして『牛魔』の骨から取った濃厚なブイヨンだ。
手慣れた手つきで玉葱を極薄にスライスしていく。トントントントン、と軽快な包丁の音が、重苦しい空気を切り裂いていく。
熱したフライパンにバターを溶かし、大量の玉葱を投入する。
最初は強火で、水分が飛んだら弱火でじっくりと。
焦げる寸前、玉葱がキャラメル色に輝き、甘い香りが立ち上るまで、レインは無心で木べらを動かし続けた。
この単純作業が、乱れた心を整えてくれる。
十分に炒めた玉葱にブイヨンを注ぐと、ジュワァッという音と共に、芳醇で香ばしい香りが屋台いっぱいに広がった。それは張り詰めていた神経を優しく解きほぐす、母の愛のような香りだ。
耐熱の器にスープを注ぎ、一口大にカットして軽く炙ったパンを浮かべ、その上から『大山羊』のチーズをたっぷりと乗せる。
それを、熾火の整ったオーブンへ。
数分後。
チーズがぐつぐつと沸き立ち、香ばしい焦げ目がついた頃合いを見計らって、レインは器を取り出した。
「お待ちどう。レイン特製『オニオングラタンスープ』だ」
コトッ、と音を立てて置かれた器からは、チーズが焦げた暴力的なまでに食欲をそそる香りと、玉葱の甘い湯気が立ち上っていた。
「……いただきます」
シルヴィアがおずおずとスプーンを入れる。
スプーンの背で表面のチーズを割ると、中から琥珀色のスープが溢れ出す。トロトロに溶けたチーズと、スープを吸ってずっしりと重くなったパンが絡み合い、熱々のまま持ち上がる。
ふうふう、と息を吹きかけ、それを口に運んだ瞬間。
シルヴィアの蒼い瞳が、大きく見開かれた。
「んっ……!」
熱い。けれど、それ以上に優しい。
極限まで炒め抜かれた玉葱の凝縮された甘みと、牛骨の力強い旨味。それらがチーズの濃厚な塩気と混ざり合い、冷え切った身体の芯まで染み渡っていく。
徹夜の疲れと、真実を知ったショックで凍りついていた心が、ゆっくりと溶かされていく感覚。
「……美味しい。なんて、優しい味なんだ……」
シルヴィアの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
彼女は慌てて指先で拭ったが、その表情は憑き物が落ちたように穏やかだった。
「レイン、君は魔法使いか? ただのスープなのに、飲むだけで勇気が湧いてくる」
「料理は魔法だよ。命を頂き、命を繋ぐ魔法だ。……毒なんかとは、真逆のな」
レインもまた、自身のスープを啜りながら呟いた。
そうだ。俺たちの武器はこれだ。
奴らが毒で命を弄ぶなら、俺たちは料理で命を支える。その対比こそが、俺たちの正義だ。
「はふっ、あふっ! んまーい! 脳細胞が喜んでるよ!」
隣ではセオが猫舌と格闘しながら、猛烈な勢いでスープを平らげていた。
「この玉葱のメイラード反応……完璧な計算だ。精神安定作用のあるハーブも少し入ってるね? さすがレイン君、抜け目がない」
三人は無言でスープを啜り、パンを齧り、腹を満たした。
器が空になる頃には、窓の外はすっかり明るくなっていた。身体は温まったが、これからの作戦会議には、もっと冴えた頭が必要だ。
「さて……腹は満ちたが、脳味噌のほうはまだ寝ぼけてるな」
レインは空になった器を下げると、棚の奥から小さな麻袋と、厳重に封をされた木箱を取り出した。
「デザートといこう。これからの話には、糖分とカフェインが必須だ」
レインが取り出したのは、漆黒の豆と、ゴツゴツした茶色い塊だった。
豆の方は『覚醒豆』。魔力を含んでおり、覚醒作用が強い。
そして茶色い塊は、『黒カカオの実』を発酵・乾燥させ、すり潰して固めたカカオマスだ。
「まずは目を覚ますか」
レインは手挽きのミルに豆を入れ、ガリガリと回し始めた。
硬い豆が砕ける感触と、豊潤で香ばしい香りが漂い始める。それは深煎りの豆特有の、焦げたような、それでいて甘い、大人の香りだ。
挽きたての粉をドリッパーにセットし、少し冷ました湯を注ぐ。
ポタ、ポタ……。
蒸らしの時間を経て、黒い雫がサーバーへと落ちていく。立ち上る湯気は、市場の朝霧よりも濃く、深く、三人の鼻孔をくすぐった。
「いい香りだ……。泥のような眠気が吹き飛ぶようだ」
「だろう? こいつは『夜の守り人』って呼ばれる最高級品だ」
レインはコーヒーを抽出する傍らで、別の鍋で生クリームを温め始めた。
沸騰直前で火を止め、刻んだカカオマスと少量のバター、そして隠し味のブランデーを投入する。
ゆっくりと、空気を抱き込ませないように混ぜ合わせる。
ゴツゴツしていた塊が、熱によって艶やかな黒い液体へと変わっていく。
乳化。
水分と油分が奇跡的なバランスで融合し、滑らかなガナッシュが生まれる瞬間だ。
レインはそれを一口大に冷やし固める時間はなかったため、とろりとした状態のまま小さな陶器のカップに注ぎ、仕上げに純白の粉糖を雪のように振った。
「『ホット・生チョコレート』だ。スプーンですくって舐めてくれ。……それと、淹れたてのコーヒーだ」
レインは湯気の立つコーヒーカップと、濃厚なチョコが入った器を二人の前に差し出した。
シルヴィアは、目の前の黒い甘露に釘付けになっていた。
「こ、これは……なんという艶めかしさだ……」
彼女は震える手でスプーンを取り、チョコをすくう。
口に含んだ瞬間。
シルヴィアの肩がビクリと跳ねた。
「んぅ……ッ!」
濃厚。あまりにも濃厚なカカオの香りが口いっぱいに爆発し、次の瞬間には体温で瞬時に溶けて、喉の奥へと滑り込んでいく。
強烈な甘さとほろ苦さ、そしてブランデーの芳醇な香り。
脳の血管が一気に開き、至福の信号が全身を駆け巡る。
「あま……とろける……。これは、ダメだ。騎士としてダメになってしまう……」
シルヴィアは頬を紅潮させ、うっとりと目を細めた。その表情は、どんな宝石を見た時よりも幸せそうだ。
すかさず、ブラックコーヒーを一口。
キリッとした苦味が、口の中に残った甘さを洗い流し、鮮烈なコントラストを生み出す。
「苦い、けど美味い! この甘さと苦さの往復……永遠に続けられるぞ!」
「脳への糖分補給効率が異常に高いね。テオブロミンとカフェインの相乗効果か……。これなら三日三晩の徹夜計算も余裕だ」
セオもまた、高速でスプーンを動かしながら絶賛した。
レイン自身もコーヒーを煽り、カフェインが血液に乗って全身を巡るのを感じた。
視界がクリアになり、思考の霧が晴れていく。
「よし。……目が覚めたところで、作戦会議と行こうか」
レインは空になったカップを置き、鋭い眼光を取り戻した。
「ターゲットは三日後。『灰色倉庫』への次の搬入だ」
「セオの話では、そこで『新商品』の実験データか何かの受け渡しが行われる可能性がある」
シルヴィアが未練がましくチョコの器を舐め……コホン、と咳払いをして騎士の顔に戻り、地図をテーブルに広げる。
「敵はヴォルク商会の私兵団およそ二十名と、ギルドから派遣された護衛。かなりの戦力差があるが……」
「正面突破はしない。俺たちの目的は殲滅じゃない。『証拠の確保』だ」
レインは地図上の一点を指差した。
「一つ、毒入り素材の現物。一つ、ギルドとの癒着を示す帳簿や契約書。そして、可能なら一級鑑定士の顔と名前を白日の元に晒す」
「証拠さえあれば、私が騎士団と王宮に直接告発できる。父であるランカスター公爵の名を使ってもいい。だが、確実な物証がなければ握りつぶされる」
シルヴィアの言葉に、セオが手を挙げた。
「物理的な証拠確保なら、僕に任せてよ。新作の『映像記録水晶』がある。音声と映像を同時に記録できる優れものさ。……まあ、まだ熱暴走して爆発しない保証はないけど」
「爆発は困るが、記録は頼む。……シルヴィアは、万が一の時の戦闘と、脱出ルートの確保だ。あの迷宮のような倉庫街で、俺たちが逃げ切るにはあんたの剣が必要だ」
「承知した。私の剣に誓って、君たちには指一本触れさせない」
役割は決まった。
レインは鑑定眼で真実を見抜き、セオはそれを記録し、シルヴィアが道を切り開く。
これ以上ない、完璧な布陣だ。
「……ねえ、レイン」
不意に、シルヴィアが真剣な眼差しでレインを見つめた。
その瞳は、コーヒーの湯気越しに揺れている。
「怖くはないか? 相手は君がかつて所属していた組織だ。それを敵に回すということは、君の過去そのものと戦うことでもある。……もし失敗すれば、今度こそ君はこの国にいられなくなるかもしれない」
レインはカップの底に残った黒い澱を見つめた。
怖いか。
かつて、権力に押しつぶされ、声を上げることもできずに追放されたあの日。あの時の無力感と恐怖は、今も心の奥底にこびりついている。
「……怖くないと言えば嘘になる」
レインは素直に認めた。
だが、彼は顔を上げ、竈の残り火を見つめ、静かに、けれど力強く答えた。
「だが、俺はもう『無能』と呼ばれて逃げ出したあの頃の俺じゃない。……この屋台で、本物の料理を作って、客が美味いと言って笑ってくれる。リズが、あんたが、俺の料理で笑顔になってくれる。……それを守るためなら、俺はどんな巨大な敵とも戦える」
その言葉に、シルヴィアは眩しいものを見るように微笑んだ。それは、甘いチョコレートを食べた時よりも、もっと深く、柔らかな笑みだった。
セオもまた、感心したように口笛を吹く。
「決まりだね。……じゃあ、僕はラボに戻って準備を進めるよ。三日後、最高のショーを見せてやろう」
「私も一度屋敷に戻り、根回しをしておく。……レイン、無理はするなよ。あと、その……作戦が終わったら、またあのチョコを作ってくれ」
二人が立ち上がり、店を出て行く。
朝の光が市場に満ち、外からは少しずつ活気のある物音が聞こえ始めていた。
レインは一人、残った食器を洗いながら、窓の外を見下ろした。
三日後。
それが全ての決着の日だ。
王都の食を、そして未来を守るため、追放された料理人の最後の戦いが始まろうとしていた。
「……待っていろよ、リズ。そして、毒を食わされた全ての人たち」
レインは洗い終えた皿を棚に戻すと、師匠の形見の包丁を研ぎ始めた。
シャリ、シャリ、と澄んだ音が店内に響く。
その音は、まるで戦場へと赴く戦士が剣を磨く音のように、静かで、鋭い決意に満ちていた。
琥珀色のスープと、黒き甘露がくれた力が、彼の背中を押していた。
地下特有の湿った冷気が、夜明け前の霧となって石畳を這っていた。
レインたちは人目を避けるようにして、路地裏の影を縫いながら屋台『真実の匙』へと戻ってきた。
誰も口を聞かなかった。
沈黙は鉛のように重いが、それは敗北による絶望ではない。あまりにも巨大な真実を目の当たりにし、各々がその意味を噛み砕くために必要な、儀式のような静寂だった。
屋台のボロボロの椅子にシルヴィアがドサリと腰を下ろし、セオがカウンターに突っ伏して長い溜息をつく。レインは無言で上着を脱ぎ、竈に残っていた種火に新しい薪をくべた。
パチパチと薪が爆ぜる乾いた音だけが、張り詰めた静寂を少しずつ埋めていく。
「……信じられん」
最初に口を開いたのは、シルヴィアだった。
彼女は重い兜を外し、カウンターに置く。汗ばんだ銀髪を手櫛でかき上げるその指先は、悔しさからか微かに震えていた。
「一級鑑定士といえば、国家公務員と同等の権限を持つエリートだ。彼らの署名一つで、商品の価値が決まり、市場の流通が左右される。……本来なら、市場の健全性を守る最後の砦であるはずの彼らが、まさか毒の流通に関与していたとは」
シルヴィアの声には、騎士としての誇りを傷つけられた怒りと、信じていた体制への失望が滲んでいた。
「しかも、ただの見過ごしじゃない。積極的に『新商品』の開発に関わってる口ぶりだった」
セオが眼鏡を外し、白衣の裾で丁寧に拭きながら補足する。その表情からは、いつもの飄々とした色が消え、科学者としての冷徹な怒りが浮かんでいた。
「あの倉庫にあった量、そして『実験』という言葉……。奴らはこの市場を、巨大な人体実験場にするつもりだよ。魔薬の臨床データを取るには、身寄りのない冒険者や貧民はうってつけだからね。……中毒性、副作用、致死量。それらのデータを集め、より『効率的に』依存させる薬を作るつもりだ」
その言葉に、レインの手が一瞬止まった。
人体実験。
脳裏に浮かぶのは、リズの悲痛な叫びと、血を吐いて倒れたという仲間の姿。そして、市場で虚ろな目をして毒入りの食品を貪っていた人々の顔。
かつてレインが憧れ、目指した鑑定士の姿は、人々の命と笑顔を守るための「真実の守り手」だったはずだ。それが今や、最も悪質な加害者となり果てている。
知識と権威を悪用し、弱者を食い物にする。それはレインが最も許せない「料理への冒涜」と同じ、いや、それ以上に醜悪な行為だった。
「……腐ってやがる」
レインは吐き捨てるように言った。
怒りが腹の底でどす黒い炎となって渦巻いている。拳を握り締めすぎて、爪が掌に食い込むのを感じた。だが、その怒りをそのまま吐き出せば、冷静さを失い、奴らの思う壺になるだけだ。
戦うためには、熱い心と、冷たい頭が必要だ。
レインは深く息を吸い込み、竈の火を見つめた。
揺らめく炎が、彼の瞳に宿る理性の光を呼び覚ます。
「……腹が減っては戦ができん。まずは温かいものでも腹に入れよう。徹夜明けの身体には、燃料が必要だ」
レインが取り出したのは、昨日仕入れておいた『黄金玉葱』と、少し硬くなったフランスパン、そして『牛魔』の骨から取った濃厚なブイヨンだ。
手慣れた手つきで玉葱を極薄にスライスしていく。トントントントン、と軽快な包丁の音が、重苦しい空気を切り裂いていく。
熱したフライパンにバターを溶かし、大量の玉葱を投入する。
最初は強火で、水分が飛んだら弱火でじっくりと。
焦げる寸前、玉葱がキャラメル色に輝き、甘い香りが立ち上るまで、レインは無心で木べらを動かし続けた。
この単純作業が、乱れた心を整えてくれる。
十分に炒めた玉葱にブイヨンを注ぐと、ジュワァッという音と共に、芳醇で香ばしい香りが屋台いっぱいに広がった。それは張り詰めていた神経を優しく解きほぐす、母の愛のような香りだ。
耐熱の器にスープを注ぎ、一口大にカットして軽く炙ったパンを浮かべ、その上から『大山羊』のチーズをたっぷりと乗せる。
それを、熾火の整ったオーブンへ。
数分後。
チーズがぐつぐつと沸き立ち、香ばしい焦げ目がついた頃合いを見計らって、レインは器を取り出した。
「お待ちどう。レイン特製『オニオングラタンスープ』だ」
コトッ、と音を立てて置かれた器からは、チーズが焦げた暴力的なまでに食欲をそそる香りと、玉葱の甘い湯気が立ち上っていた。
「……いただきます」
シルヴィアがおずおずとスプーンを入れる。
スプーンの背で表面のチーズを割ると、中から琥珀色のスープが溢れ出す。トロトロに溶けたチーズと、スープを吸ってずっしりと重くなったパンが絡み合い、熱々のまま持ち上がる。
ふうふう、と息を吹きかけ、それを口に運んだ瞬間。
シルヴィアの蒼い瞳が、大きく見開かれた。
「んっ……!」
熱い。けれど、それ以上に優しい。
極限まで炒め抜かれた玉葱の凝縮された甘みと、牛骨の力強い旨味。それらがチーズの濃厚な塩気と混ざり合い、冷え切った身体の芯まで染み渡っていく。
徹夜の疲れと、真実を知ったショックで凍りついていた心が、ゆっくりと溶かされていく感覚。
「……美味しい。なんて、優しい味なんだ……」
シルヴィアの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
彼女は慌てて指先で拭ったが、その表情は憑き物が落ちたように穏やかだった。
「レイン、君は魔法使いか? ただのスープなのに、飲むだけで勇気が湧いてくる」
「料理は魔法だよ。命を頂き、命を繋ぐ魔法だ。……毒なんかとは、真逆のな」
レインもまた、自身のスープを啜りながら呟いた。
そうだ。俺たちの武器はこれだ。
奴らが毒で命を弄ぶなら、俺たちは料理で命を支える。その対比こそが、俺たちの正義だ。
「はふっ、あふっ! んまーい! 脳細胞が喜んでるよ!」
隣ではセオが猫舌と格闘しながら、猛烈な勢いでスープを平らげていた。
「この玉葱のメイラード反応……完璧な計算だ。精神安定作用のあるハーブも少し入ってるね? さすがレイン君、抜け目がない」
三人は無言でスープを啜り、パンを齧り、腹を満たした。
器が空になる頃には、窓の外はすっかり明るくなっていた。身体は温まったが、これからの作戦会議には、もっと冴えた頭が必要だ。
「さて……腹は満ちたが、脳味噌のほうはまだ寝ぼけてるな」
レインは空になった器を下げると、棚の奥から小さな麻袋と、厳重に封をされた木箱を取り出した。
「デザートといこう。これからの話には、糖分とカフェインが必須だ」
レインが取り出したのは、漆黒の豆と、ゴツゴツした茶色い塊だった。
豆の方は『覚醒豆』。魔力を含んでおり、覚醒作用が強い。
そして茶色い塊は、『黒カカオの実』を発酵・乾燥させ、すり潰して固めたカカオマスだ。
「まずは目を覚ますか」
レインは手挽きのミルに豆を入れ、ガリガリと回し始めた。
硬い豆が砕ける感触と、豊潤で香ばしい香りが漂い始める。それは深煎りの豆特有の、焦げたような、それでいて甘い、大人の香りだ。
挽きたての粉をドリッパーにセットし、少し冷ました湯を注ぐ。
ポタ、ポタ……。
蒸らしの時間を経て、黒い雫がサーバーへと落ちていく。立ち上る湯気は、市場の朝霧よりも濃く、深く、三人の鼻孔をくすぐった。
「いい香りだ……。泥のような眠気が吹き飛ぶようだ」
「だろう? こいつは『夜の守り人』って呼ばれる最高級品だ」
レインはコーヒーを抽出する傍らで、別の鍋で生クリームを温め始めた。
沸騰直前で火を止め、刻んだカカオマスと少量のバター、そして隠し味のブランデーを投入する。
ゆっくりと、空気を抱き込ませないように混ぜ合わせる。
ゴツゴツしていた塊が、熱によって艶やかな黒い液体へと変わっていく。
乳化。
水分と油分が奇跡的なバランスで融合し、滑らかなガナッシュが生まれる瞬間だ。
レインはそれを一口大に冷やし固める時間はなかったため、とろりとした状態のまま小さな陶器のカップに注ぎ、仕上げに純白の粉糖を雪のように振った。
「『ホット・生チョコレート』だ。スプーンですくって舐めてくれ。……それと、淹れたてのコーヒーだ」
レインは湯気の立つコーヒーカップと、濃厚なチョコが入った器を二人の前に差し出した。
シルヴィアは、目の前の黒い甘露に釘付けになっていた。
「こ、これは……なんという艶めかしさだ……」
彼女は震える手でスプーンを取り、チョコをすくう。
口に含んだ瞬間。
シルヴィアの肩がビクリと跳ねた。
「んぅ……ッ!」
濃厚。あまりにも濃厚なカカオの香りが口いっぱいに爆発し、次の瞬間には体温で瞬時に溶けて、喉の奥へと滑り込んでいく。
強烈な甘さとほろ苦さ、そしてブランデーの芳醇な香り。
脳の血管が一気に開き、至福の信号が全身を駆け巡る。
「あま……とろける……。これは、ダメだ。騎士としてダメになってしまう……」
シルヴィアは頬を紅潮させ、うっとりと目を細めた。その表情は、どんな宝石を見た時よりも幸せそうだ。
すかさず、ブラックコーヒーを一口。
キリッとした苦味が、口の中に残った甘さを洗い流し、鮮烈なコントラストを生み出す。
「苦い、けど美味い! この甘さと苦さの往復……永遠に続けられるぞ!」
「脳への糖分補給効率が異常に高いね。テオブロミンとカフェインの相乗効果か……。これなら三日三晩の徹夜計算も余裕だ」
セオもまた、高速でスプーンを動かしながら絶賛した。
レイン自身もコーヒーを煽り、カフェインが血液に乗って全身を巡るのを感じた。
視界がクリアになり、思考の霧が晴れていく。
「よし。……目が覚めたところで、作戦会議と行こうか」
レインは空になったカップを置き、鋭い眼光を取り戻した。
「ターゲットは三日後。『灰色倉庫』への次の搬入だ」
「セオの話では、そこで『新商品』の実験データか何かの受け渡しが行われる可能性がある」
シルヴィアが未練がましくチョコの器を舐め……コホン、と咳払いをして騎士の顔に戻り、地図をテーブルに広げる。
「敵はヴォルク商会の私兵団およそ二十名と、ギルドから派遣された護衛。かなりの戦力差があるが……」
「正面突破はしない。俺たちの目的は殲滅じゃない。『証拠の確保』だ」
レインは地図上の一点を指差した。
「一つ、毒入り素材の現物。一つ、ギルドとの癒着を示す帳簿や契約書。そして、可能なら一級鑑定士の顔と名前を白日の元に晒す」
「証拠さえあれば、私が騎士団と王宮に直接告発できる。父であるランカスター公爵の名を使ってもいい。だが、確実な物証がなければ握りつぶされる」
シルヴィアの言葉に、セオが手を挙げた。
「物理的な証拠確保なら、僕に任せてよ。新作の『映像記録水晶』がある。音声と映像を同時に記録できる優れものさ。……まあ、まだ熱暴走して爆発しない保証はないけど」
「爆発は困るが、記録は頼む。……シルヴィアは、万が一の時の戦闘と、脱出ルートの確保だ。あの迷宮のような倉庫街で、俺たちが逃げ切るにはあんたの剣が必要だ」
「承知した。私の剣に誓って、君たちには指一本触れさせない」
役割は決まった。
レインは鑑定眼で真実を見抜き、セオはそれを記録し、シルヴィアが道を切り開く。
これ以上ない、完璧な布陣だ。
「……ねえ、レイン」
不意に、シルヴィアが真剣な眼差しでレインを見つめた。
その瞳は、コーヒーの湯気越しに揺れている。
「怖くはないか? 相手は君がかつて所属していた組織だ。それを敵に回すということは、君の過去そのものと戦うことでもある。……もし失敗すれば、今度こそ君はこの国にいられなくなるかもしれない」
レインはカップの底に残った黒い澱を見つめた。
怖いか。
かつて、権力に押しつぶされ、声を上げることもできずに追放されたあの日。あの時の無力感と恐怖は、今も心の奥底にこびりついている。
「……怖くないと言えば嘘になる」
レインは素直に認めた。
だが、彼は顔を上げ、竈の残り火を見つめ、静かに、けれど力強く答えた。
「だが、俺はもう『無能』と呼ばれて逃げ出したあの頃の俺じゃない。……この屋台で、本物の料理を作って、客が美味いと言って笑ってくれる。リズが、あんたが、俺の料理で笑顔になってくれる。……それを守るためなら、俺はどんな巨大な敵とも戦える」
その言葉に、シルヴィアは眩しいものを見るように微笑んだ。それは、甘いチョコレートを食べた時よりも、もっと深く、柔らかな笑みだった。
セオもまた、感心したように口笛を吹く。
「決まりだね。……じゃあ、僕はラボに戻って準備を進めるよ。三日後、最高のショーを見せてやろう」
「私も一度屋敷に戻り、根回しをしておく。……レイン、無理はするなよ。あと、その……作戦が終わったら、またあのチョコを作ってくれ」
二人が立ち上がり、店を出て行く。
朝の光が市場に満ち、外からは少しずつ活気のある物音が聞こえ始めていた。
レインは一人、残った食器を洗いながら、窓の外を見下ろした。
三日後。
それが全ての決着の日だ。
王都の食を、そして未来を守るため、追放された料理人の最後の戦いが始まろうとしていた。
「……待っていろよ、リズ。そして、毒を食わされた全ての人たち」
レインは洗い終えた皿を棚に戻すと、師匠の形見の包丁を研ぎ始めた。
シャリ、シャリ、と澄んだ音が店内に響く。
その音は、まるで戦場へと赴く戦士が剣を磨く音のように、静かで、鋭い決意に満ちていた。
琥珀色のスープと、黒き甘露がくれた力が、彼の背中を押していた。
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田舎おじさんのダンジョン民宿へようこそ!〜元社畜の俺は、民宿と配信で全国初のダンジョン観光地化を目指します!〜
咲月ねむと
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東京での社畜生活に心身ともに疲れ果てた主人公・田中雄介(38歳)が、故郷の北海道、留咲萌町に帰郷。両親が遺したダンジョン付きの古民家を改装し、「ダンジョン民宿」として開業。偶然訪れた人気配信者との出会いをきっかけに、最初の客を迎え、民宿経営の第一歩を踏み出す。
笑えて、心温かくなるダンジョン物語。
※この小説はフィクションです。
実在の人物、団体などとは関係ありません。
日本を舞台に繰り広げますが、架空の地名、建造物が物語には登場します。
スキル【土いじり】でパーティを追放された俺、開墾した畑からダンジョンが生えてきた。
夏見ナイ
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「役立たず」の烙印を押され、パーティを追放されたアルフォンス。彼のスキルは戦闘に不向きな【土いじり】。失意の彼は都会を離れ、辺境の地で静かに農業を営むことを決意する。
しかし、彼が畑を耕すと、そこから不思議なダンジョンが生えてきた!
ダンジョン内では、高級ポーションになる薬草や伝説の金属『オリハルコン』が野菜のように収穫できる。地味だと思われた【土いじり】は、実はこの『農園ダンジョン』を育てる唯一無二のチートスキルだったのだ。
噂を聞きつけ集まる仲間たち。エルフの美少女、ドワーフの天才鍛冶師……。気づけば彼の農園は豊かな村へ、そして難攻不落の要塞国家へと発展していく。
一方、彼を追放したパーティは没落の一途を辿り……。
これは、追放された男が最強の生産職として仲間と共に理想郷を築き上げる、農業スローライフ&建国ファンタジー!
《レベル∞》の万物創造スキルで追放された俺、辺境を開拓してたら気づけば神々の箱庭になっていた
夏見ナイ
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勇者パーティーの雑用係だったカイは、魔王討伐後「無能」の烙印を押され追放される。全てを失い、死を覚悟して流れ着いた「忘れられた辺境」。そこで彼のハズレスキルは真の姿《万物創造》へと覚醒した。
無から有を生み、世界の理すら書き換える神の如き力。カイはまず、生きるために快適な家を、豊かな畑を、そして清らかな川を創造する。荒れ果てた土地は、みるみるうちに楽園へと姿を変えていった。
やがて、彼の元には行き場を失った獣人の少女やエルフの賢者、ドワーフの鍛冶師など、心優しき仲間たちが集い始める。これは、追放された一人の青年が、大切な仲間たちと共に理想郷を築き、やがてその地が「神々の箱庭」と呼ばれるまでの物語。
ただのFランク探索者さん、うっかりSランク魔物をぶっとばす 規格外ダンジョンに住んでいるので、無自覚に最強でした
むらくも航
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旧題:ただのFランク探索者さん、うっかりSランク魔物をぶっとばして大バズりしてしまう~今まで住んでいた自宅は、最強種が住む規格外ダンジョンでした~
Fランク探索者の『彦根ホシ』は、幼馴染のダンジョン配信に助っ人として参加する。
配信は順調に進むが、二人はトラップによって誰も討伐したことのないSランク魔物がいる階層へ飛ばされてしまう。
誰もが生還を諦めたその時、Fランク探索者のはずのホシが立ち上がり、撮れ高を気にしながら余裕でSランク魔物をボコボコにしてしまう。
そんなホシは、ぼそっと一言。
「うちのペット達の方が手応えあるかな」
それからホシが配信を始めると、彼の自宅に映る最強の魔物たち・超希少アイテムに世間はひっくり返り、バズりにバズっていく──。
隠して忘れていたギフト『ステータスカスタム』で能力を魔改造 〜自由自在にカスタマイズしたら有り得ないほど最強になった俺〜
桜井正宗@オートスキル第1巻発売中
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能力(スキル)を隠して、その事を忘れていた帝国出身の錬金術師スローンは、無能扱いで大手ギルド『クレセントムーン』を追放された。追放後、隠していた能力を思い出しスキルを習得すると『ステータスカスタム』が発現する。これは、自身や相手のステータスを魔改造【カスタム】できる最強の能力だった。
スローンは、偶然出会った『大聖女フィラ』と共にステータスをいじりまくって最強のステータスを手に入れる。その後、超高難易度のクエストを難なくクリア、無双しまくっていく。その噂が広がると元ギルドから戻って来いと頭を下げられるが、もう遅い。
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『捨てられシスターと傷ついた獣の修繕日誌』~「修理が遅い」と追放されたけど、DIY知識チートで壊れた家も心も直して、幸せな家庭を築きます
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【12/6 日間ランキング17位!】
「魔法で直せば一瞬だ。お前の手作業は時間の無駄なんだよ」
そう言われて勇者パーティを追放されたシスター、エリス。
彼女の魔法は弱く、派手な活躍はできない。 けれど彼女には、物の声を聞く『構造把握』の力と、前世から受け継いだ『DIY(日曜大工)』の知識があった。
傷心のまま辺境の村「ココン」に流れ着いた彼女は、一軒のボロ家と出会う。 隙間風だらけの壁、腐りかけた床。けれど、エリスは目を輝かせた。
「直せる。ここを、世界で一番温かい『帰る場所』にしよう!」
釘を使わない頑丈な家具、水汲み不要の自動ポンプ、冬でもポカポカの床暖房。
魔法文明が見落としていた「手間暇かけた技術」は、不便な辺境生活を快適な楽園へと変えていく。
やがてその温かい家には、 傷ついた銀髪の狼少女や、 素直になれないツンデレ黒猫、 人見知りな犬耳の鍛冶師が集まってきて――。
「エリス姉、あったか~い……」「……悔しいけど、この家から出られないわね」
これは、不器用なシスターが、壊れた家と、傷ついた心を修繕していく物語。 優しくて温かい、手作りのスローライフ・ファンタジー!
(※一方その頃、メンテナンス係を失った勇者パーティの装備はボロボロになり、冷たい野営で後悔の日々を送るのですが……それはまた別のお話)
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