追放鑑定士はダンジョン市場で偽物グルメを暴く ――屋台ひとつで成り上がり、王都の“味”を取り戻す――

ken

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裏帳簿の黒い霧と、再会の監査官

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 巨大な倉庫の内部は、甘ったるい腐臭と、冷徹な静寂に支配されていた。

 レイン、シルヴィア、セオの三人は、息を潜めてその深淵へと進んでいく。

 天井の採光窓から差し込む僅かな月明かりが、整然と積み上げられた木箱の影を長く伸ばし、まるで墓標の群れのように見せていた。



「……待って」



 先頭を進んでいたセオが、小声で制止した。

 彼は白衣のポケットから取り出した集音器を耳に当て、神経質そうに眼鏡の位置を直す。



「奥で音がする。……紙を捲るような、乾いた音だ」

「人がいるのか?」

「心拍音も拾える。一人じゃないかもしれない。……レイン君、ここは接触を避けるべきだ。僕の計算では、敵の警備体制が整うまであと数分しかない。証拠だけ確保して撤退するのが、生存確率を最大化する選択だ」



 セオの提案は合理的だった。

 だが、レインの足は止まらなかった。

 彼の『異端の鑑定眼』が、闇の奥にある「何か」を強烈に捉えていたからだ。それは単なる敵の気配ではない。この事件の核心に繋がる、禍々しいほどの「真実」の輝き。



「……証拠なら、あそこにある」



 レインが指差したのは、実験スペースの脇にある、乱雑に書類が積み上げられた事務机だった。

 そこには、一冊の分厚い革張りの帳面が無造作に置かれている。



「シルヴィア、周囲の警戒を頼む。セオは記録の準備を」

「了解だ。……だがレイン、無理はするなよ」



 シルヴィアが短剣を抜き、音もなく闇に溶け込む。

 その横顔は、緊張感に研ぎ澄まされ、冷たい彫像のように美しかった。濃紺のフードから零れる銀髪が、僅かな光を受けて流星の尾のように煌めく。戦場という死地にあってなお、彼女の高潔な美しさは、泥中の蓮のように際立っていた。



 レインは机に駆け寄り、帳面を開いた。

 指先がページを走る。

 そこに記されていたのは、表の市場では決して目にすることのない、闇の取引記録だった。



 ――『迷宮素材 受払控』。



 日付、搬入量、そして取引相手の暗号名。

 だが、レインの眼には、その暗号の意味が手に取るようにわかった。



「……やっぱりだ」



 レインの指がある項目で止まる。



 『回復用蜜……納入先:ヴォルク商会』

 『火用粉……使用用途:害虫駆除』



 回復用蜜。これは間違いなく、あの毒入り霊蜜の原液だ。

 そして、火用粉。

 害虫駆除という名目で記載されているが、その横に走り書きされたメモには『屋台への散布完了』『効果確認済』とある。

 害虫とは、レインたち料理人のことだ。

 奴らは、レインの店を潰すための資材すらも、業務の一環としてここで管理していたのだ。



「……なんて連中だ」



 レインは怒りで震える手を押さえ、そのページを破り取ろうとした。

 いや、これだけでは足りない。

 この帳簿そのものが、ギルドと商会の癒着を示す決定的な証拠になる。



「セオ、この帳簿を――」



 レインが振り返ろうとした、その時だった。



 ガチャン。



 重い金属音が、倉庫の入り口付近で響いた。

 全員の動きが凍りつく。

 溶解液で壊したはずの鍵ではない。外側から、正規の合鍵で別のロックを解除する音だ。

 続いて、ギィ……という錆びついた蝶番の音と共に、重厚な鉄扉が開く。



「……ふぅ。夜明け前の空気は冷えるな」



 入ってきたのは、一人の男だった。

 上質な厚手の外套を羽織り、革靴の音を高く響かせながら、我が物顔で倉庫へと入ってくる。

 その胸元には、月光を反射して鈍く光る銀色のバッジ。

 先ほど、外で黒ローブの男と密会していた、鑑定ギルドの職員だ。



「おい、ザガン。例の『竜の涙』の配合データだが、少し修正が必要だぞ。上層部がもっと即効性を求めている」



 男は誰もいないはずの虚空に向かって話しかけながら、真っ直ぐにレインたちがいる実験スペースへと歩いてくる。

 このままでは、鉢合わせになる。



「レイン君、マズい! 隠れる場所がない!」



 セオが焦ったように囁く。

 木箱の影に隠れるか? いや、男の視線は正確にこの机の方を向いている。帳簿がないことに気づかれれば、すぐに捜索が始まるだろう。

 逃げ場はない。



 レインは覚悟を決めた。

 逃げ隠れして、背中から撃たれるのは御免だ。

 それに、この男の顔には見覚えがあった。

 かつてギルドにいた頃、レインの提出した鑑定書を「生意気だ」と言って破り捨て、彼を無能と罵った上司の一人。

 腐敗の象徴。



(……ちょうどいい。挨拶してやるか)



 レインは隠れていた木箱の影から、堂々と姿を現した。

 手には、奪い取った裏帳簿を握りしめたまま。



「――早朝出勤ご苦労様です、監査官殿」



 その声は、静まり返った倉庫によく通った。

 男の足がピタリと止まる。

 彼は目を丸くし、幽霊でも見たかのように口を開けた。



「な……誰だ、貴様」

「お忘れですか? かつて貴方が『役立たずの三等』と呼んで追放した、レイン・オルコットですよ」



 レインは一歩、前に出た。

 魔導ランプの光が、レインの顔を照らし出す。その瞳は、獲物を追い詰めた猛禽類のように鋭く、冷徹な光を放っていた。



「レ、レイン……だと? あの無能鑑定士か!?」



 男――ギルド監査官、バロウズは、驚愕の後に、瞬時に激しい怒りの形相を浮かべた。



「貴様、ここがどこだか分かっているのか! 王都鑑定ギルドの管理施設だぞ! 不法侵入で即刻処刑してやる!」

「管理施設? 笑わせないでください」



 レインは手にした帳簿をバロウズに見せつけるように掲げた。



「ここは毒の製造工場だ。そしてこの帳簿は、あんたたちが市場の人々を実験動物扱いしていた動かぬ証拠だ」

「き、貴様……それを見たのか!」



 バロウズの顔色が蒼白になり、次いで殺意に満ちた赤色へと変わる。

 彼は懐から攻撃用の魔導杖を取り出し、レインに向けた。



「返せ! それは国家機密だ! 薄汚いドブネズミが触れていい代物ではない!」

「断る。これは、あんたたちが食い物にしてきた人々の、血と涙の記録だ。……必ず、白日の元に晒させてもらう」



 レインは引かない。

 一歩も。

 その背後には、音もなく抜刀したシルヴィアが控え、セオが何やら怪しげなフラスコを構えている。



「ふん……仲間を連れてきたか。だが、甘いな」



 バロウズはニヤリと歪んだ笑みを浮かべた。

 追い詰められた人間の顔ではない。まだ奥の手を残している者の、余裕に満ちた笑みだ。



「私が一人でここに戻ってくると思ったか? ……なぁ、ザガン」



 バロウズが虚空に向かって呼びかける。

 瞬間。

 倉庫の奥、闇の深淵から、ねっとりとした甘い匂いが爆発的に膨れ上がった。



「――ええ。まったく、困ったネズミたちですね」



 倉庫の最奥。積み上げられた木箱のさらに向こうから、影が揺らめきながら現れた。

 黒いローブを纏った男。

 だが、その顔は先日のザガンではない。

 顔の半分を銀色の仮面で覆った、異様な風貌の男だった。



「……誰だ」



 レインが問う。

 仮面の男は、手にした杖でコツコツと床を叩きながら、優雅に歩み寄ってくる。その背後には、ゆらゆらと陽炎のように揺れる、武装した兵士たちの影があった。



「私はこの工場の管理者。……そして、君たちが探している『供給元』の、ほんの末端に過ぎない者ですよ」



 甘い匂いが、鼻腔を突き刺す。

 それは熟しすぎた果実のような、あるいは腐りかけた蜜のような、死と誘惑の香り。

 レインの『異端の鑑定眼』が警鐘を鳴らす。

 目の前の男は、バロウズのような小悪党ではない。

 もっと底知れない、純粋な悪意の塊だと。



「ようこそ、私の実験室へ。……君たちの身体で、この『新商品』の効能を試させてもらえるのかな?」



 退路は塞がれた。

 前方には魔導杖を構えるギルド監査官。

 奥には正体不明の仮面の男と、私兵団。

 逃げ場のない密室で、レインたちは最大の危機を迎える。



 レインは帳簿を懐にしまい、師匠の形見のナイフを逆手に構えた。



「……上等だ。まとめて料理してやるよ」



 夜明け前の倉庫で、最悪の遭遇戦が幕を開けようとしていた。
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