18 / 43
第2章:七重奏のヒロイン・カオス編
第18話 天才の食卓事情
しおりを挟む
金曜日、昼下がり。
練馬ダンジョン、第8階層。
薄暗い洞窟の中に、俺の足音と、背後から聞こえるブツブツとした呟きだけが響いていた。
「……歩幅75センチ、一定。呼吸リズム、乱れなし。魔力放出量、測定不能レベルで微弱……やはり異常です」
背後霊のように張り付いているのは、今朝アパートの前で待ち伏せしていた国立魔法大学の研究員、中村瞳だ。
彼女は白衣を翻し、タブレット端末を操作しながら、俺の一挙手一投足をデータ化し続けている。
「……おい。いつまでついてくる気だ」
「データが揃うまでです。貴方の行動パターン、戦闘思考、そして生体反応……すべてを解明するまでは」
瞳は眼鏡の位置を直し、冷徹に言い放った。
彼女のスキル『解析眼』は常に発動しており、俺を丸裸にしようとしているらしい。
正直、やりにくいことこの上ない。
ポチは「なんか嫌な奴だ」と俺の肩で唸り、五右衛門は『旦那、あの女の視線、値踏みするようで気に食わねえでヤンス』と布の中に引きこもっている。
「……はぁ」
俺はため息をつき、目の前に現れたオークに向かって歩いた。
オークが棍棒を振り上げる。
俺は立ち止まらず、すれ違いざまにナイフを一閃させた。
ザンッ。
オークの首が飛び、胴体が崩れ落ちる。
いつもの作業だ。
「……ッ!」
背後で、瞳が息を呑む気配がした。
「今の攻撃……初速が音速を超えていましたが、衝撃波が発生していません。空気抵抗を『切断』している……? いえ、空間そのものを滑っているような……」
彼女はタブレットに猛烈な勢いで数値を打ち込んでいく。
「鈴木さん! 今の感覚、言語化できますか!? 筋肉をどう動かしましたか!? 魔力回路の接続はどうなっていますか!?」
「……知らん。適当に振ったら死んでた」
「適当!? そんな非論理的な……! もう一度お願いします! 今度はスローで!」
無理を言うな。
俺は無視して魔石を回収した。
この調子で一日中つきまとわれるのかと思うと、頭痛がしてくる。
探索を開始して数時間が経過した頃。
異変が起きた。
ドサッ。
背後で、何かが倒れる音がした。
振り返ると、瞳が地面に倒れ伏していた。
「おい、どうした!?」
俺は慌てて駆け寄る。
敵の奇襲か? 罠か?
いや、周囲にモンスターの気配はない。
瞳を抱き起こすと、彼女の体は驚くほど軽く、そして冷たかった。
「……す、みません。少し……眩暈が……」
「怪我か? どこをやられた?」
「いえ……ただの、エネルギー不足です……」
「は?」
瞳は震える手で、白衣のポケットから何かを取り出した。
それは、空になったゼリー飲料のパッケージだった。
「……ここ3日ほど、研究に没頭していて……これを2つ飲んだきりで……」
「……」
俺は絶句した。
3日でゼリー2つ。
しかも、ダンジョン探索という高負荷な環境下で、脳をフル回転させ続けていたのだ。
ガス欠を起こして当然だ。
「アホなのか天才なのかハッキリしろ」
「思考することにカロリーを使いすぎて……固形物を摂取するのを忘れていました……」
瞳はぐったりと俺の腕にもたれかかる。
このままでは、彼女は栄養失調で死ぬか、モンスターの餌になるかだ。
いくらストーカーとはいえ、目の前で野垂れ死にさせるわけにはいかない。
「……まったく。世話の焼ける」
俺はため息をつき、背中の五右衛門を開いた。
中から携帯用の魔導コンロと、コッヘル、そして水と食材を取り出す。
「ここで少し休憩する。ポチ、周囲の警戒だ」
「ワフッ!(了解!)」
俺はその場で、即席の野外調理を開始した。
今の瞳に必要なのは、即効性のあるエネルギーと、冷え切った体を温める塩分、そして何より「生きる気力」を取り戻させる旨味だ。
メニューは『鯖の味噌煮定食』に決定。
もちろん、一から煮込む時間はないので、秘密兵器を使う。
高級缶詰『金華さばの味噌煮』だ。
これだけでも十分美味いが、俺流のアレンジを加えることで、極上の山飯に昇華させる。
コッヘルに鯖缶を汁ごと空ける。
そこに、持参したスライス生姜と、斜め切りにした長ネギをたっぷりと投入する。
さらに、ここがポイントだ。
隠し味に、バターをひとかけら。
そして、一味唐辛子を少々。
火にかける。
グツグツと味噌ダレが煮立ち、バターが溶けて黄金色の油膜を作る。
味噌の香ばしさとバターのコク、そして生姜の爽やかな香りが混ざり合い、暴力的なまでの食欲を刺激する匂いが洞窟内に充満した。
もう一つの鍋で、パックご飯を湯煎する。
シェラカップで即席味噌汁を作る。
所要時間、5分。
即席・鯖味噌バター定食の完成だ。
「……おい。起きろ」
俺は瞳の上半身を支え、出来立ての鯖味噌を差し出した。
「……匂い……?」
「飯だ。食わないと死ぬぞ」
瞳は虚ろな目でコッヘルの中を見た。
茶色い煮込み。見た目は地味だ。
しかし、彼女の鼻がピクリと動く。
生存本能が、その香りに反応したのだ。
「……いただきます」
彼女は震える手で割り箸を持ち、鯖の身を大きくほぐして口に運んだ。
パクッ。
「…………ッ!!」
瞬間。
瞳の目がカッと見開かれた。
死んでいた魚のような目に、光が戻る。
いや、光どころではない。閃光のような輝きが宿った。
「……な、なんですか、これ……?」
彼女は信じられないものを見るような目で、鯖味噌を見つめた。
「脳の血管が拡張していく……。ドーパミン、エンドルフィン、セロトニンが爆発的に分泌されています……。たかが缶詰なのに、なぜこんなに……脳が喜んでいるの……?」
「腹が減ってるからだろ。あとバターだ。脂質と糖質と塩分は、疲れた脳には麻薬みたいなもんだ」
「いえ、違います! ただのカロリー摂取ではありません!」
瞳は叫び、猛烈な勢いで食べ始めた。
熱々の白飯に鯖味噌を乗せ、汁ごとかき込む。
味噌のコクとバターの芳醇さが、淡白な白飯と絡み合い、口の中で旨味の爆弾となる。
生姜とネギがアクセントになり、いくらでも食べられる。
「んん~っ! 美味しい! 美味しいです!」
瞳の頬が紅潮し、眼鏡が湯気で曇る。
先ほどまでの冷徹な研究者の仮面が剥がれ落ち、ただ「美味しい」という感情に支配された、一人の空腹な女性の顔になっていた。
「この味の構成……塩分濃度、旨味成分の相乗効果、そして加熱によるメイラード反応……すべてが『黄金比』で計算されています! 鈴木さん、貴方は天才ですか!? いえ、魔法使いですか!?」
「ただの料理好きなおっさんだよ」
俺は苦笑いしながら、彼女に水を渡した。
あっという間に完食。
瞳は空になったコッヘルを愛おしそうに抱きしめ、恍惚とした表情で俺を見た。
「……私、決めました」
「何をだ」
「貴方の身体データだけでなく、『料理データ』も収集します。貴方の作る食事は、人類の栄養学を、いえ、幸福論を革新する『未知の魔法薬』です」
瞳の目が、これまで以上にギラギラと輝き始めた。
ストーカーとしての熱量が、数倍に跳ね上がった音。
「これから毎日、貴方の食事をサンプルとして摂取させてください。これは研究です。拒否権はありません」
「……勘弁してくれ」
俺は頭を抱えた。
だが、とりあえず彼女の命は救えたようだ。
瞳が動けるようになったのを確認し、俺たちはダンジョンを後にした。
地上に戻ると、夕暮れ時になっていた。
ダンジョン出口の広場で、瞳が名残惜しそうに俺を見る。
「では、私は一度大学に戻り、今日のデータを整理します。……明日の朝、また伺いますので」
「来るなと言っても来るんだろ。勝手にしろ」
俺は手を振って彼女を追い払った。
さて、これでやっと一人の時間が……。
「あ、鈴木さーん!」
不意に、聞き覚えのある声がした。
広場のベンチから、一人の女性が立ち上がり、こちらに手を振っている。
帽子を目深に被り、サングラスをかけた変装スタイル。
トップランカー、高橋すずだ。
「……げっ」
「『げっ』とは何ですか! 待ちくたびれましたよ!」
すずは駆け寄ってくると、少しむくれたように頬を膨らませた。
「今日は約束通り、美味しいお酒の買い出しに行くんですよ! 忘れてたんですか?」
「……忘れてないよ。ただ、ちょっと仕事が長引いてな」
そういえば、そんな約束をしていた気がする。すずが「美味しい日本酒が入荷した店があるから案内する」と言っていたのだ。
「もう、仕方ないですね。……でも、無事でよかったです」
すずは俺の顔を見て、ふわりと笑った。
サングラスを外したその瞳は、夕日を反射して優しく輝いている。
「行きましょう、鈴木さん。美味しいお酒、選びに行きますよ!」
「ああ。……荷物持ちは任せろ」
俺たちは並んで歩き出した。
商店街の魚屋、酒屋、そして八百屋。
すずは変装しているものの、そのオーラは隠しきれず、時折すれ違う人々が振り返る。
だが、彼女は気にする様子もなく、俺にあれこれと話しかけてくる。
「このワイン、絶対和食に合いますよ! あ、こっちの日本酒も捨てがたいですね……」
「両方買えばいい。今日は俺の奢りだ」
「ふふ、太っ腹ですね!」
楽しそうだ。
俺も、昼間の瞳とのやり取りで疲れた精神が、少しずつ癒やされていくのを感じた。
こうして見れば、ただの買い物だが、はたから見ればデートに見えなくもない。
トップランカーとのデート。
贅沢な時間だ。
「……鈴木さん」
買い物を終え、帰り道の公園で。
すずがベンチに座り、缶コーヒーを飲みながら呟いた。
「私、こうやって誰かと買い物するの、久しぶりです」
「そうなのか?」
「はい。いつも訓練か、ダンジョンか、撮影ですから。……普通の女の子みたいな時間、すごく新鮮で」
彼女はコーヒーの缶を両手で包み込み、俺を見た。
「ありがとうございます。付き合ってくれて」
「……礼を言われるようなことじゃない。俺も、悪くなかったよ」
俺が素っ気なく答えると、すずは嬉しそうに笑った。
その笑顔は、どんな魔導具よりも輝いて見えた。
少し離れた場所から、その様子をじっと観察している白衣の影がいることに、俺たちはまだ気づいていなかった。
「……サンプル名『高橋すず』。対象『鈴木悠作』に対する好感度、測定不能レベルで上昇中。……興味深い。これも研究対象ですね」
瞳は眼鏡を光らせ、新たなデータを記録し始めた。
俺の周りには、どうやら平穏という文字はないらしい。
練馬ダンジョン、第8階層。
薄暗い洞窟の中に、俺の足音と、背後から聞こえるブツブツとした呟きだけが響いていた。
「……歩幅75センチ、一定。呼吸リズム、乱れなし。魔力放出量、測定不能レベルで微弱……やはり異常です」
背後霊のように張り付いているのは、今朝アパートの前で待ち伏せしていた国立魔法大学の研究員、中村瞳だ。
彼女は白衣を翻し、タブレット端末を操作しながら、俺の一挙手一投足をデータ化し続けている。
「……おい。いつまでついてくる気だ」
「データが揃うまでです。貴方の行動パターン、戦闘思考、そして生体反応……すべてを解明するまでは」
瞳は眼鏡の位置を直し、冷徹に言い放った。
彼女のスキル『解析眼』は常に発動しており、俺を丸裸にしようとしているらしい。
正直、やりにくいことこの上ない。
ポチは「なんか嫌な奴だ」と俺の肩で唸り、五右衛門は『旦那、あの女の視線、値踏みするようで気に食わねえでヤンス』と布の中に引きこもっている。
「……はぁ」
俺はため息をつき、目の前に現れたオークに向かって歩いた。
オークが棍棒を振り上げる。
俺は立ち止まらず、すれ違いざまにナイフを一閃させた。
ザンッ。
オークの首が飛び、胴体が崩れ落ちる。
いつもの作業だ。
「……ッ!」
背後で、瞳が息を呑む気配がした。
「今の攻撃……初速が音速を超えていましたが、衝撃波が発生していません。空気抵抗を『切断』している……? いえ、空間そのものを滑っているような……」
彼女はタブレットに猛烈な勢いで数値を打ち込んでいく。
「鈴木さん! 今の感覚、言語化できますか!? 筋肉をどう動かしましたか!? 魔力回路の接続はどうなっていますか!?」
「……知らん。適当に振ったら死んでた」
「適当!? そんな非論理的な……! もう一度お願いします! 今度はスローで!」
無理を言うな。
俺は無視して魔石を回収した。
この調子で一日中つきまとわれるのかと思うと、頭痛がしてくる。
探索を開始して数時間が経過した頃。
異変が起きた。
ドサッ。
背後で、何かが倒れる音がした。
振り返ると、瞳が地面に倒れ伏していた。
「おい、どうした!?」
俺は慌てて駆け寄る。
敵の奇襲か? 罠か?
いや、周囲にモンスターの気配はない。
瞳を抱き起こすと、彼女の体は驚くほど軽く、そして冷たかった。
「……す、みません。少し……眩暈が……」
「怪我か? どこをやられた?」
「いえ……ただの、エネルギー不足です……」
「は?」
瞳は震える手で、白衣のポケットから何かを取り出した。
それは、空になったゼリー飲料のパッケージだった。
「……ここ3日ほど、研究に没頭していて……これを2つ飲んだきりで……」
「……」
俺は絶句した。
3日でゼリー2つ。
しかも、ダンジョン探索という高負荷な環境下で、脳をフル回転させ続けていたのだ。
ガス欠を起こして当然だ。
「アホなのか天才なのかハッキリしろ」
「思考することにカロリーを使いすぎて……固形物を摂取するのを忘れていました……」
瞳はぐったりと俺の腕にもたれかかる。
このままでは、彼女は栄養失調で死ぬか、モンスターの餌になるかだ。
いくらストーカーとはいえ、目の前で野垂れ死にさせるわけにはいかない。
「……まったく。世話の焼ける」
俺はため息をつき、背中の五右衛門を開いた。
中から携帯用の魔導コンロと、コッヘル、そして水と食材を取り出す。
「ここで少し休憩する。ポチ、周囲の警戒だ」
「ワフッ!(了解!)」
俺はその場で、即席の野外調理を開始した。
今の瞳に必要なのは、即効性のあるエネルギーと、冷え切った体を温める塩分、そして何より「生きる気力」を取り戻させる旨味だ。
メニューは『鯖の味噌煮定食』に決定。
もちろん、一から煮込む時間はないので、秘密兵器を使う。
高級缶詰『金華さばの味噌煮』だ。
これだけでも十分美味いが、俺流のアレンジを加えることで、極上の山飯に昇華させる。
コッヘルに鯖缶を汁ごと空ける。
そこに、持参したスライス生姜と、斜め切りにした長ネギをたっぷりと投入する。
さらに、ここがポイントだ。
隠し味に、バターをひとかけら。
そして、一味唐辛子を少々。
火にかける。
グツグツと味噌ダレが煮立ち、バターが溶けて黄金色の油膜を作る。
味噌の香ばしさとバターのコク、そして生姜の爽やかな香りが混ざり合い、暴力的なまでの食欲を刺激する匂いが洞窟内に充満した。
もう一つの鍋で、パックご飯を湯煎する。
シェラカップで即席味噌汁を作る。
所要時間、5分。
即席・鯖味噌バター定食の完成だ。
「……おい。起きろ」
俺は瞳の上半身を支え、出来立ての鯖味噌を差し出した。
「……匂い……?」
「飯だ。食わないと死ぬぞ」
瞳は虚ろな目でコッヘルの中を見た。
茶色い煮込み。見た目は地味だ。
しかし、彼女の鼻がピクリと動く。
生存本能が、その香りに反応したのだ。
「……いただきます」
彼女は震える手で割り箸を持ち、鯖の身を大きくほぐして口に運んだ。
パクッ。
「…………ッ!!」
瞬間。
瞳の目がカッと見開かれた。
死んでいた魚のような目に、光が戻る。
いや、光どころではない。閃光のような輝きが宿った。
「……な、なんですか、これ……?」
彼女は信じられないものを見るような目で、鯖味噌を見つめた。
「脳の血管が拡張していく……。ドーパミン、エンドルフィン、セロトニンが爆発的に分泌されています……。たかが缶詰なのに、なぜこんなに……脳が喜んでいるの……?」
「腹が減ってるからだろ。あとバターだ。脂質と糖質と塩分は、疲れた脳には麻薬みたいなもんだ」
「いえ、違います! ただのカロリー摂取ではありません!」
瞳は叫び、猛烈な勢いで食べ始めた。
熱々の白飯に鯖味噌を乗せ、汁ごとかき込む。
味噌のコクとバターの芳醇さが、淡白な白飯と絡み合い、口の中で旨味の爆弾となる。
生姜とネギがアクセントになり、いくらでも食べられる。
「んん~っ! 美味しい! 美味しいです!」
瞳の頬が紅潮し、眼鏡が湯気で曇る。
先ほどまでの冷徹な研究者の仮面が剥がれ落ち、ただ「美味しい」という感情に支配された、一人の空腹な女性の顔になっていた。
「この味の構成……塩分濃度、旨味成分の相乗効果、そして加熱によるメイラード反応……すべてが『黄金比』で計算されています! 鈴木さん、貴方は天才ですか!? いえ、魔法使いですか!?」
「ただの料理好きなおっさんだよ」
俺は苦笑いしながら、彼女に水を渡した。
あっという間に完食。
瞳は空になったコッヘルを愛おしそうに抱きしめ、恍惚とした表情で俺を見た。
「……私、決めました」
「何をだ」
「貴方の身体データだけでなく、『料理データ』も収集します。貴方の作る食事は、人類の栄養学を、いえ、幸福論を革新する『未知の魔法薬』です」
瞳の目が、これまで以上にギラギラと輝き始めた。
ストーカーとしての熱量が、数倍に跳ね上がった音。
「これから毎日、貴方の食事をサンプルとして摂取させてください。これは研究です。拒否権はありません」
「……勘弁してくれ」
俺は頭を抱えた。
だが、とりあえず彼女の命は救えたようだ。
瞳が動けるようになったのを確認し、俺たちはダンジョンを後にした。
地上に戻ると、夕暮れ時になっていた。
ダンジョン出口の広場で、瞳が名残惜しそうに俺を見る。
「では、私は一度大学に戻り、今日のデータを整理します。……明日の朝、また伺いますので」
「来るなと言っても来るんだろ。勝手にしろ」
俺は手を振って彼女を追い払った。
さて、これでやっと一人の時間が……。
「あ、鈴木さーん!」
不意に、聞き覚えのある声がした。
広場のベンチから、一人の女性が立ち上がり、こちらに手を振っている。
帽子を目深に被り、サングラスをかけた変装スタイル。
トップランカー、高橋すずだ。
「……げっ」
「『げっ』とは何ですか! 待ちくたびれましたよ!」
すずは駆け寄ってくると、少しむくれたように頬を膨らませた。
「今日は約束通り、美味しいお酒の買い出しに行くんですよ! 忘れてたんですか?」
「……忘れてないよ。ただ、ちょっと仕事が長引いてな」
そういえば、そんな約束をしていた気がする。すずが「美味しい日本酒が入荷した店があるから案内する」と言っていたのだ。
「もう、仕方ないですね。……でも、無事でよかったです」
すずは俺の顔を見て、ふわりと笑った。
サングラスを外したその瞳は、夕日を反射して優しく輝いている。
「行きましょう、鈴木さん。美味しいお酒、選びに行きますよ!」
「ああ。……荷物持ちは任せろ」
俺たちは並んで歩き出した。
商店街の魚屋、酒屋、そして八百屋。
すずは変装しているものの、そのオーラは隠しきれず、時折すれ違う人々が振り返る。
だが、彼女は気にする様子もなく、俺にあれこれと話しかけてくる。
「このワイン、絶対和食に合いますよ! あ、こっちの日本酒も捨てがたいですね……」
「両方買えばいい。今日は俺の奢りだ」
「ふふ、太っ腹ですね!」
楽しそうだ。
俺も、昼間の瞳とのやり取りで疲れた精神が、少しずつ癒やされていくのを感じた。
こうして見れば、ただの買い物だが、はたから見ればデートに見えなくもない。
トップランカーとのデート。
贅沢な時間だ。
「……鈴木さん」
買い物を終え、帰り道の公園で。
すずがベンチに座り、缶コーヒーを飲みながら呟いた。
「私、こうやって誰かと買い物するの、久しぶりです」
「そうなのか?」
「はい。いつも訓練か、ダンジョンか、撮影ですから。……普通の女の子みたいな時間、すごく新鮮で」
彼女はコーヒーの缶を両手で包み込み、俺を見た。
「ありがとうございます。付き合ってくれて」
「……礼を言われるようなことじゃない。俺も、悪くなかったよ」
俺が素っ気なく答えると、すずは嬉しそうに笑った。
その笑顔は、どんな魔導具よりも輝いて見えた。
少し離れた場所から、その様子をじっと観察している白衣の影がいることに、俺たちはまだ気づいていなかった。
「……サンプル名『高橋すず』。対象『鈴木悠作』に対する好感度、測定不能レベルで上昇中。……興味深い。これも研究対象ですね」
瞳は眼鏡を光らせ、新たなデータを記録し始めた。
俺の周りには、どうやら平穏という文字はないらしい。
119
あなたにおすすめの小説
俺の伯爵家大掃除
satomi
ファンタジー
伯爵夫人が亡くなり、後妻が連れ子を連れて伯爵家に来た。俺、コーは連れ子も可愛い弟として受け入れていた。しかし、伯爵が亡くなると後妻が大きい顔をするようになった。さらに俺も虐げられるようになったし、可愛がっていた連れ子すら大きな顔をするようになった。
弟は本当に俺と血がつながっているのだろうか?など、学園で同学年にいらっしゃる殿下に相談してみると…
というお話です。
覚悟は良いですか、お父様? ―虐げられた娘はお家乗っ取りを企んだ婿の父とその愛人の娘である異母妹をまとめて追い出す―
Erin
恋愛
【完結済・全3話】伯爵令嬢のカメリアは母が死んだ直後に、父が屋敷に連れ込んだ愛人とその子に虐げられていた。その挙句、カメリアが十六歳の成人後に継ぐ予定の伯爵家から追い出し、伯爵家の血を一滴も引かない異母妹に継がせると言い出す。後を継がないカメリアには嗜虐趣味のある男に嫁がられることになった。絶対に父たちの言いなりになりたくないカメリアは家を出て復讐することにした。7/6に最終話投稿予定。
追放された私の代わりに入った女、三日で国を滅ぼしたらしいですよ?
タマ マコト
ファンタジー
王国直属の宮廷魔導師・セレス・アルトレイン。
白銀の髪に琥珀の瞳を持つ、稀代の天才。
しかし、その才能はあまりに“美しすぎた”。
王妃リディアの嫉妬。
王太子レオンの盲信。
そして、セレスを庇うはずだった上官の沈黙。
「あなたの魔法は冷たい。心がこもっていないわ」
そう言われ、セレスは**『無能』の烙印**を押され、王国から追放される。
彼女はただ一言だけ残した。
「――この国の炎は、三日で尽きるでしょう。」
誰もそれを脅しとは受け取らなかった。
だがそれは、彼女が未来を見通す“預言魔法”の言葉だったのだ。
料理の上手さを見込まれてモフモフ聖獣に育てられた俺は、剣も魔法も使えず、一人ではドラゴンくらいしか倒せないのに、聖女や剣聖たちから溺愛される
向原 行人
ファンタジー
母を早くに亡くし、男だらけの五人兄弟で家事の全てを任されていた長男の俺は、気付いたら異世界に転生していた。
アルフレッドという名の子供になっていたのだが、山奥に一人ぼっち。
普通に考えて、親に捨てられ死を待つだけという、とんでもないハードモード転生だったのだが、偶然通りかかった人の言葉を話す聖獣――白虎が現れ、俺を育ててくれた。
白虎は食べ物の獲り方を教えてくれたので、俺は前世で培った家事の腕を振るい、調理という形で恩を返す。
そんな毎日が十数年続き、俺がもうすぐ十六歳になるという所で、白虎からそろそろ人間の社会で生きる様にと言われてしまった。
剣も魔法も使えない俺は、少しだけ使える聖獣の力と家事能力しか取り柄が無いので、とりあえず異世界の定番である冒険者を目指す事に。
だが、この世界では職業学校を卒業しないと冒険者になれないのだとか。
おまけに聖獣の力を人前で使うと、恐れられて嫌われる……と。
俺は聖獣の力を使わずに、冒険者となる事が出来るのだろうか。
※第○話:主人公視点
挿話○:タイトルに書かれたキャラの視点
となります。
世界最強の賢者、勇者パーティーを追放される~いまさら帰ってこいと言われてももう遅い俺は拾ってくれた最強のお姫様と幸せに過ごす~
aoi
ファンタジー
「なぁ、マギそろそろこのパーティーを抜けてくれないか?」
勇者パーティーに勤めて数年、いきなりパーティーを戦闘ができずに女に守られてばかりだからと追放された賢者マギ。王都で新しい仕事を探すにも勇者パーティーが邪魔をして見つからない。そんな時、とある国のお姫様がマギに声をかけてきて......?
お姫様の為に全力を尽くす賢者マギが無双する!?
無能な勇者はいらないと辺境へ追放されたのでチートアイテム【ミストルティン】を使って辺境をゆるりと開拓しようと思います
長尾 隆生
ファンタジー
仕事帰りに怪しげな占い師に『この先不幸に見舞われるが、これを持っていれば幸せになれる』と、小枝を500円で押し売りされた直後、異世界へ召喚されてしまうリュウジ。
しかし勇者として召喚されたのに、彼にはチート能力も何もないことが鑑定によって判明する。
途端に手のひらを返され『無能勇者』というレッテルを貼られずさんな扱いを受けた上に、一方的にリュウジは凶悪な魔物が住む地へ追放されてしまう。
しかしリュウジは知る。あの胡散臭い占い師に押し売りされた小枝が【ミストルティン】という様々なアイテムを吸収し、その力を自由自在に振るうことが可能で、更に経験を積めばレベルアップしてさらなる強力な能力を手に入れることが出来るチートアイテムだったことに。
「ミストルティン。アブソープション!」
『了解しましたマスター。レベルアップして新しいスキルを覚えました』
「やった! これでまた便利になるな」
これはワンコインで押し売りされた小枝を手に異世界へ突然召喚され無能とレッテルを貼られた男が幸せを掴む物語。
~ワンコインで買った万能アイテムで幸せな人生を目指します~
転移術士の成り上がり
名無し
ファンタジー
ベテランの転移術士であるシギルは、自分のパーティーをダンジョンから地上に無事帰還させる日々に至上の喜びを得ていた。ところが、あることがきっかけでメンバーから無能の烙印を押され、脱退を迫られる形になる。それがのちに陰謀だと知ったシギルは激怒し、パーティーに対する復讐計画を練って実行に移すことになるのだった。
治療院の聖者様 ~パーティーを追放されたけど、俺は治療院の仕事で忙しいので今さら戻ってこいと言われてももう遅いです~
大山 たろう
ファンタジー
「ロード、君はこのパーティーに相応しくない」
唐突に主人公:ロードはパーティーを追放された。
そして生計を立てるために、ロードは治療院で働くことになった。
「なんで無詠唱でそれだけの回復ができるの!」
「これぐらいできないと怒鳴られましたから......」
一方、ロードが追放されたパーティーは、だんだんと崩壊していくのだった。
これは、一人の少年が幸せを送り、幸せを探す話である。
※小説家になろう様でも連載しております。
2021/02/12日、完結しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる