ロスト・ファンタジスタ

ken

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第9話 蝉時雨のプレリュード

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「……おにーちゃん、いつまで脱いでるの? お顔、赤いよ?」

 洗面所に立ち尽くし、自分自身の「黄金の膝」に見入っていた悠作は、足元から響いた無垢な声に跳ね上がった。そこには、黄色い通園バッグを肩にかけ、不思議そうに首を傾げる5歳の真二がいた。
 2009年の記憶では、真二は生意気な口を叩く大学生だった。それが今は、驚くほど整った顔立ちの幼稚園児として目の前にいる。

「あ、いや……なんでもない。ちょっと、膝に蚊が止まってただけだ。ほら、真二、先に行ってろ」

「蚊? いないよ。おにーちゃん、昨日から変だよ。早くお着替えしないと、和子ちゃんにまた怒鳴られるよ。今日は大事な日だって言ってたもん」

「和子ちゃん……」

 自分の母親を「ちゃん」付けで呼ぶ真二の無邪気さが、かえって悠作の胸を締め付けた。悠作は真二の背中を優しく押し出すと、逃げるように浴室へ飛び込み、シャワーの蛇口を捻った。

 降り注ぐお湯の熱さが、皮膚を刺すように生々しい。
 悠作は鏡に映った11歳の自分の頬を、赤くなるほど強くつねった。鮮明な痛みが脳を走る。立ち上る湯気の匂い、排水溝を流れる水の音。すべてが夢にしては精巧すぎた。

(これは、いわゆる『やり直し』なのか? 2009年の俺が死の間際に見ている走馬灯か、それとも……)

 シャワーを止め、濡れたままの身体で立ち尽くすと、両膝には確かな力強さが宿っていた。
 2009年の俺を苦しめていた、あの石灰化したような重み、骨が削れるような摩擦感。それらが一切ない。関節の隙間には十分な軟骨が満ち、靭帯は鋼のバネのようにしなやかだ。
 世界一の戦術眼が、今、最高の器を手に入れたのだ。その全能感に、悠作は身震いした。

 シャワーを上がり、バスタオルで髪を拭きながらリビングへ行くと、そこには父・泰三がいた。
 父はダイニングテーブルで、1995年の日付が刻まれた『読売新聞』を大きく広げている。
 日付は1995年8月26日。
 その文字を見た瞬間、悠作の頭の中で何かが火花を散らした。

「……8月26日」

 ざわつく胸を押さえ、父の隣からスポーツ欄を覗き込む。
 そこには、メジャーリーグ1年目で全米を席巻する野茂英雄の快投を伝える見出しが踊っていた。国内ではJリーグ・サントリーシリーズの順位表があり、ヴェルディ川崎の三浦知良やラモス瑠偉が代表戦に向けて招集されたニュースが小さく載っている。

(1995年。日本サッカーが急速にプロの色を帯び始め、フランスW杯の予選という地獄に向かう前夜……。そして、今日は……)

「悠作! いつまでボサッとしてるの!」

 キッチンから、母の怒鳴り声が飛んできた。彼女は八王子の住宅街でも一際目を引く美人で、PTAの集まりに行けば父親たちが色めき立つほどの美貌を誇っている。その彼女が、朝の忙しさで額に汗を浮かべながら、悠作の前にエプロン姿で立ちはだかった。

「今日は八王子少年サッカー大会の決勝戦でしょ! 相手は読売のジュニアなのよ。あんたが勝手にライバル視して、一週間前から騒いでたじゃないの」

 その言葉で、悠作の記憶の蓋が完全に開いた。
 そうだ。11歳の俺にとって、今日の試合は人生最大の転機だった。
 読売日本FCジュニア。後のヴェルディジュニア。エリート集団である彼らを相手に、俺はこの日、人生で初めて「自分の才能が通用しないかもしれない」という恐怖を味わったのだ。そして、その焦りが、後に無理なプレイスタイルを生む遠因にもなっていた。

 ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。

「おっ、噂をすれば。菊雄君が来たわよ」

 和子が玄関へ向かう。
 悠作の心臓が激しく脈打つ。2009年、共にテキーラを煽り、泥酔してスタジアムに忍び込んだあの親友に、11歳の姿で会う。

「ちわーっす。悠作、起きてっか?」

 玄関から聞こえてきたのは、まだ声変わりをしていない、けれどどこか野太い少年の声だった。
 リビングに入ってきたのは、少しサイズの大きなミズノのジャージを羽織った、11歳の京滝菊雄だった。
 小柄だが岩のように頑強な体躯、天然パーマの黒髪、そして不敵な笑み。2009年の彼と寸分違わぬ「野性」が、そこにはあった。

「……菊雄」

 強烈な懐かしさが、悠作を襲う。
 菊雄は、2009年のあの不遜な態度とは少し違い、まだどこか素直な瞳で悠作を見ていた。

「なんだよ、お前。幽霊でも見たような顔しやがって。昨日、緊張して眠れなかったのか? 0点だぞ、そんな顔」

「……いや。ちょっと、目覚めが良すぎてな」

 悠作が短く返すと、和子が菊雄を食卓に招いた。

「菊雄君、朝ご飯まだでしょ? 悠作の弁当の残りのウインナー、食べちゃいなさい。あと牛乳も飲みなさいよ。背が伸びないわよ」

「あ、あざーっす。和子さん、相変わらず美人っすね」

 ませた口調で菊雄がウインナーを口に運ぶ。
 その傍らで、真二が「きくおーーー!」と叫びながら駆け寄り、菊雄の膝の上に強引に這い上がった。

「あ、こら、真二。菊雄君のご飯の邪魔だろ」

「いいよ、和子さん。こいつ、俺のこと大好きだからな」

 菊雄は慣れた手つきで、自分より小さな真二の頭を撫でながら、和子の作った赤いウインナーを真二の口にも分けてやっている。
 真二は本当に菊雄を慕っているようで、2009年では大学生だった彼が、今は無邪気に菊雄のジャージを引っ張って笑っている。
 その光景を見て、悠作は妙な実感を抱いた。

(そうだ。未来ではあんなに言い合っていたが、子供の頃、真二にとってのヒーローは俺じゃなく、このハチャメチャな菊雄だったんだな……)

 ふと、新聞を読んでいた父・泰三が顔を上げ、菊雄に問いかけた。

「菊雄君。今日の決勝、相手はあの『読売』だ。勝機はあると思うかい?」

 悠作は、菊雄が「勝つに決まってんだろ!」と吠えるのを予想した。
 だが、菊雄は飲みかけの牛乳を置き、少しの間を置いてから答えた。

「……正直、五分五分っすね。相手の10番、阿部ってやつ。あいつはヤバい。ポジション取りが正確すぎて、俺のドリブルのコースを全部消してくるんっすよ。……でも、俺たちがバラバラに動かなきゃ、穴はあると思ってます」

 悠作は、その受け答えに猛烈な違和感を抱いた。
 11歳の菊雄。まだマラドーナに憧れ、力任せに左足を振り抜いていたはずのあいつが、今の発言はあまりに「落ち着き」すぎていないか。戦術的な分析を、しかも相手の実力を認めた上で行うなんて、当時の菊雄にはあり得ないことだった。

(まさか……菊雄、お前、まさか『知ってる』のか?)

 悠作の頭の中に、ある仮説が浮かぶ。
 だが、それを確かめる前に、菊雄は話を続けた。

「特に、あの阿部の脇のスペース。あそこを悠作がどう使うかで、全部決まると思うんっすよ。な、悠作?」

 菊雄の視線が、悠作の瞳を貫いた。
 その瞳の奥には、11歳の少年には不釣り合いな、深い洞察力が宿っているように見えた。

 悠作は、朝食をかき込むと、すぐに立ち上がった。

「菊雄。ちょっと早く行こう。公園で、確かめたいことがある」

「おっ、珍しいな、お前から誘うなんて。いいぜ」

 二人は和子と泰三に見送られ、真二の「がんばってー!」という声を受けながら外に出た。
 夏の熱気が、肌を容赦なく焙る。
 八王子の住宅街を抜けた先にある『ひまわり公園』。かつて俺たちが、それこそ血が出るまでボールを蹴り合った場所だ。
 
 悠作の計画は、こうだった。
 公園で菊雄と1対1を行い、あいつの「反応速度」と「思考の質」を確認する。もし菊雄もタイムリープしているのなら、その動きを見れば一瞬で分かるはずだ。
 
 しかし、公園の入り口が見えた時、悠作の計算は脆くも崩れ去った。

「遅い。15分も遅刻よ。決勝当日に何考えてるの?」

 公園のベンチの横、木陰に立っていたのは、一人の美少女だった。
 小学6年生。だが、その凛とした佇まいは同年代の男子を寄せ付けない気高さがある。
 長い黒髪をポニーテールにまとめ、ノースリーブのシャツから伸びる白い腕には、すでに一端のアスリートのような、無駄のない筋肉のラインが浮かんでいる。
 
 京滝瞳。
 2009年では菊雄の妻であり、美人看護師として悠作の膝を管理していた彼女。
 1995年の瞳は、可憐さと勝気さが同居した、息を呑むような美少女だった。

「瞳……。なんでお前がここに」

「なんで? 決まってるでしょ。今日の対戦相手のスカウティングよ。読売の昨日の準決勝のビデオ、昨夜のうちに全部チェックし終わったわ」

 瞳は生意気に鼻を鳴らし、手に持っていたストップウォッチを悠作に突き出した。

「悠作、あんたは体が重そう。まずは瞳が主導して、動的ストレッチから。菊雄はその後、ペナルティエリア外からのシュート練習。阿部の守備網を崩すには、あんたたちの個人技の精度をあと2パーセント上げる必要があるの。わかった?」

 瞳の、圧倒的な「司令塔」としての采配。
 悠作は呆気にとられた。
 そうだ。この時代の瞳は、サッカー部のマネージャーのような立場でありながら、実質的な戦術顧問のような役割を担っていたのだ。彼女の美貌に惹かれてサッカー部に入る男子は後を絶たなかったが、彼女のあまりの厳しさに、ほとんどの者が一週間持たずに逃げ出していた。

「……瞳。俺は、菊雄と1対1をやりたいんだ」

「ダメ。今のあんたの筋肉の張りじゃ、怪我をするわ。私のメニューが先よ。それとも、私の言うことが聞けないっていうの?」

 瞳が、その大きな瞳を少しだけ細めて悠作を睨む。
 その瞳には、逆らえないほどの意志の強さが宿っていた。

「……わかったよ」

 悠作は観念して、公園の地面に手をついた。
 計画していた菊雄との「真意の探り合い」は、瞳という強烈なヒロインの介入によって先送りにされた。

 1995年、八王子の夏。
 世界一の才能を持つ悠作と、底知れない違和感を纏う菊雄、そして独裁的な美少女・瞳。
 三人の天才が揃った時、決勝戦を前にした「最後の練習」が、蝉時雨の中で幕を開けた。

「さあ、始めるわよ。悠作、腰が高いわ! 寝起きのボケたおじいちゃんみたいな顔してないで、さっさと今の筋肉に火を入れなさい!」

 瞳の、11歳の少女らしい語気の強い叱咤。
 悠作は苦笑しながら、隣の菊雄を見た。菊雄は、以前の彼なら「うるせえよ瞳!」と言い返していたはずの場面で、ただ静かに、そして完璧なフォームでストレッチをこなしていた。
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