勇者召喚に巻き込まれた家族のサバイバル

ken

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制約という名の蓋

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 私は、ギリギリと歯を噛みしめながらヴァレリア・ノルディス副大臣を睨み続けていた。

 帰れない。
 現時点では無理。
 それだけでも腹の底が煮えるのに、直は“勇者”として持ち上げられ、王女の手元で保護される。私たちは「面倒はそちらで」と投げられ、丁寧な部屋に押し込められた。

 同じ召喚の被害者のはずなのに、扱いは天と地だ。

 ヴァレリアは、私の視線を真正面から受け止めた。逃げない。怯えない。だからといって味方だとも言えない。礼儀がある分、余計に分からない。感情ではなく、秤でこちらを測っている目だ。

 私が言葉を吐き出す前に――母が、静かに口を開いた。

「ひとつ、伺ってもよろしいですか」

 母の声は震えていない。けれど、指先はかすかに固い。自分を必死に支えているのが伝わる。ジェイミーは、こういう時に泣き崩れる人ではない。泣きたいのを奥へ押し込めて、代わりに“問い”を作る人だ。

 ヴァレリアが頷く。

「どうぞ」

 母は一瞬だけ、父の腕の中のコハクを見た。コハクは不安そうに鼻先を動かし、父の胸に体を寄せている。その温もりを確認してから、母はヴァレリアへ視線を戻した。

「先ほどの鑑定の場で、私たちの情報が……皆の前で口にされました。あれは、もう取り返しがつかないのですか?」

 ヴァレリアの表情が、ほんの僅かに変わった。
 驚いたような顔――というより、母が“正しい順番”で質問を投げたことに対する反応だ。怯えて叫ぶでも、怒鳴って抗議するでもなく、「次に何が起きるか」を見据えている。

 私は内心で舌を巻いた。母は今、帰還の議論より先に“被害の拡大”を止めようとしている。帰れない現実を呪うより、家族が今夜奪われないための楔を探している。

 ヴァレリアは、小さく息を吐いた。

「……完全には難しいでしょう。あの場にいた人間の耳と目に、情報は触れています」

 母は、そこで一歩踏み込んだ。

「では――“今からでも”蓋をすることはできますか。誰かに売られたり、広められたりする前に」

 その瞬間、ヴァレリアの眉がほんの少し上がった。
 驚き。だがそれは、母の発想が“この世界の常識”に触れているという驚きだった。

 私は気づく。母は日本で設計士として、業務用台所の“動線とリスク”を読んできた。火傷、転倒、混雑、誤作動。事故は起きてからでは遅い。なら、起きる前に塞ぐ。――母はその発想で動いている。

 母はさらに続けた。声は落ち着いているのに、言葉は鋭い。

「もし、国としてそれが可能なら。……副大臣、あなたの裁量で、今すぐ動かせますか?」

 ヴァレリアは、一拍の沈黙を置いた。
 そして――ゆっくりと首を振った。

「簡単ではありません。ですが……不可能とも言い切れません」

 私の背筋に、冷たい線が走った。
 “可能”があるなら、なぜ最初からやらなかった。
 その疑念が口から出そうになった瞬間、母が別の動きを見せた。

 母は、指輪に触れた。

 結婚指輪――父と母が、何度喧嘩しても、結局は外さなかったものだ。金属の光は控えめで、派手な宝石はない。けれど、母にとってそれは「家族である証明」だ。

 母はそれを、ゆっくりと外し、掌に乗せた。

 そして、ヴァレリアへ差し出した。

「……これは、賄賂のつもりではありません。あなたが今ここで“国を動かす”なら、あなたにも危険が及ぶのでしょう。なら、責任の形として預けさせてください」

 息を呑む音が、室内に落ちた。
 父の目が見開かれ、月子が「母さん」と小さく声を漏らした。コハクが不安そうに鼻を鳴らし、指輪の匂いを嗅ぐように首を伸ばした。

 私の胸が、どくんと強く跳ねた。
 母は今、家族の“最後の芯”を差し出そうとしている。相手を信じているからではない。こちらが今、交渉の札を持たないからだ。札がないなら、札を作る――それが母の覚悟だ。

 ヴァレリアは、明らかに驚いた顔をした。
 そして、すぐに、苦い微笑みを浮かべた。

「……受け取れません」

 母の指が、わずかに止まる。

 ヴァレリアは、言葉を慎重に選んだ。

「それは、あなたの人生です。行政が、善意から生まれた重みを受け取るべきではありません。……まして、いまの状況で“預かる”など。あなたにとって、二重の損失になります」

 母は、指輪を握りしめた。
 握りしめた指先が白い。

「では、どうすれば」

 母の声が、ほんの少しだけ揺れた。泣き声ではない。限界に近い声だ。

 ヴァレリアが答えようとした、その時だった。

 扉がノックされた。
 控えめだが、急いでいるリズム。

「副大臣閣下」

 入ってきたのは、役人っぽい男だった。年齢は若く見えるが、身のこなしが堅い。紙束――いや、薄い板のようなものを抱えている。木札か、羊皮紙か、あるいは魔法の媒体か。いずれにせよ“仕事”を運ぶ姿だ。

 男は私たちを一瞬だけ見て、すぐヴァレリアの横へ寄る。
 そして、耳打ちした。

 声は聞こえない。けれど、ヴァレリアの目が、ほんの僅かに細くなる。
 次の瞬間、彼女は溜息をついた。

 深い溜息だった。
 それは「面倒だ」の溜息ではない。
 「最悪のタイミングで最悪の報告が来た」という、責任者の溜息だ。

 役人の男は一礼し、静かに下がった。扉が閉まり、室内の空気がまた重くなる。

 ヴァレリアは、私たちに向き直った。

「……想定より早い。すでに“売り込み”が始まっています」

 月子の顔が険しくなる。

「誰が。何を」

「あなた方です」

 ヴァレリアは、躊躇なく言った。

「先ほどの場にいた者の中に、商会と繋がる者がいます。口の軽い者もいる。……そして、情報は金になります。とりわけ、貴方たちの“能力”は」

 母が、唇を噛んだ。
 父の腕が、コハクを抱く力を強める。コハクが「くぅ」と小さく鳴き、父の胸に顔を押し付けた。

 私は、奥歯をきしませた。
 どうやって秘匿する。どうやって止める。
 政治の言葉で「最大限尽くす」と言ったところで、噂は噂として勝手に走る。人間の口は塞げない。――いや、この世界では魔法がある。

「……どうするつもりですか」

 私の声は低かった。怒りを含んだ低さだ。

 ヴァレリアは、迷いなく答えた。

「魔法で蓋をします」

 月子が眉をひそめる。

「蓋?」

 ヴァレリアは説明した。淡々と、しかし要点を外さずに。

「“制約”を課します。あの場にいた全員に。話すこと、書くこと、伝達すること――特定の情報に触れる行為そのものを、禁じる魔法です」

 私は思わず、息を止めた。
 そんなことが、できるのか。

「……そんなこと、できるなら最初から」

 口から零れた。止められなかった。
 ヴァレリアは責めるような顔をしない。ただ、現実を告げる。

「簡単ではありません。制約魔法は強い。適用範囲を誤れば、国家の統治そのものが揺らぎます。“思想統制”と取られることもある。反対派が飛びつけば、殿下の独断どころか、政府の暴走として糾弾される」

 つまり、政治の爆弾だ。
 国を守るために使うべき力を、“私たちの秘匿”のために使う。だから重い。

 ヴァレリアは、視線を落とさず続けた。

「だから、限定します。あなた方の“スキル情報”だけに。個人の生年月日や細かな経歴まで縛れば反発が増える。――狙いは一点。『葛石家の能力に関する具体情報』が外へ出ないようにする」

 母が、かすれた声で言った。

「……そんな魔法を、あの場にいた全員に?」

「はい」

 ヴァレリアは言い切った。

「範囲は“あの場にいた者”。目撃者だけを対象にします。違反した場合は、言葉が喉で止まる。文字が崩れる。あるいは……体に反動が出る」

 月子が顔をしかめた。

「強制じゃないですか」

「そうです」

 ヴァレリアは、そこで初めて“政治家ではない顔”を見せた。疲れた顔だ。

「だから、大事になる。ですが――大事にしないと、あなた方は今夜、狩られる」

 その言葉が、刃のように室内に落ちた。

 狩られる。
 買われる、奪われる、囲われる。
 私はこの世界に来てから、まだろくに時間が経っていないのに、もう“人間として扱われない未来”が見え始めている。

 父が静かに尋ねた。

「……その制約は、直たちにも?」

 ヴァレリアは一拍置いた。

「“あの場にいた者”には等しくかかります。勇者だろうと、鑑定士だろうと、騎士だろうと。……例外を作れば、そこから漏れます」

 月子が、小さく笑った。冷えた笑いだ。

「じゃあ、直が自慢げに喋り散らかすのも止まるわけだ」

 ヴァレリアは肯定も否定もしない。政治家の習性だ。
 ただ、はっきり言った。

「止めます。止めないと終わる」

 母の手が、指輪を握ったまま震えていた。
 ヴァレリアはそれに気づき、視線を指輪へ落とした。

「……先ほどの件ですが」

 母が身構える。
 ヴァレリアは首を振った。

「受け取りません。ですが、代わりに約束はします。私は行政として、あなた方を“物”として扱わせない。そのために必要な手は打つ」

 約束。
 紙でも印でもない約束。
 それでも、今の私たちには、その言葉の重みを頼るしかない。

 私は深く息を吸い、吐いた。
 頭の中で、現実を整理する。

 王女の独断で召喚。反対派多数。帰還は現時点で無理。
 鑑定の場で情報が漏れた。狙われる。
 政府は“制約魔法”で口を塞ぐ――それほどの大事。

 つまり、私たちの存在は、もう小さな事故ではない。
 国家を揺らす火種になり得る。
 だからこそ、誰かが私たちを“拾って”しまえば、外交のカードにも、商会の武器にもなる。

 私は気づく。
 怖いのは王女だけじゃない。
 この国そのものが、私たちを“価値”として見始めた瞬間が、いまなのだ。

「……いつ発動しますか」

 私が問うと、ヴァレリアは即答した。

「今から準備します。夜が来る前に。遅れれば遅れるほど、漏れます」

 月子が顎を引いた。

「私たちは?」

「移動します。安全な場所へ。……護衛を増やす」

 父の腕の中で、コハクが小さく鼻を鳴らした。
 “安全な場所”という言葉が、慰めにも脅しにも聞こえる。

 ヴァレリアは立ち上がった。
 その動きは優雅で、無駄がない。まるで、社内の緊急会議へ向かう役員のように、迷いがない。
 だが――その背中に、疲労が滲んでいる。国を相手に火消しをする背中だ。

「最後にひとつ」

 ヴァレリアは私たちを見て言った。

「制約魔法は“万能”ではありません。耳と口は塞げても、欲望までは塞げない。あなた方を狙う者は、言葉を失ってもなお、別の手を使う」

 私は目を細めた。

「つまり」

「つまり――ここからが本当の始まりです」

 その言葉が、丁寧な天井の下で、鈍い鐘の音みたいに響いた。

 私は家族を見た。
 母は指輪を握り直し、父はコハクを抱え、月子は拳をほどいて指を開いた。
 そして私は、睨むのをやめた。

 怒りは消えない。
 けれど怒りだけでは、家族は守れない。

 “制約”という名の蓋が落ちる。
 それは私たちを守る蓋であると同時に、この国が私たちを“封じる”蓋でもある。

 ――大事だ。間違いなく。

 私の胸の奥で、嫌な予感が、静かに形を持ちはじめていた。

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