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第10話 客間の甘い匂い
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忙しいのだろう。ヴァレリア・ノルディス副大臣は、必要なことだけを言い切ると、椅子の背からすっと立ち上がった。
「制約は、今日中にかけます。……それまで、ここで待機を。護衛は増やします」
それだけ。
慰めの言葉も、安心させるための余計な説明もない。むしろ余計なものを削ったぶん、彼女の言葉は冷たく硬い刃みたいに胸へ刺さる。
副大臣は扉へ向かい、途中で一度だけこちらを振り返った。
その目には感情より“責任”が濃く、疲れより“決断”が濃い。
次の瞬間、扉が閉まり――丁寧な天井の下に、私たちだけが取り残された。
騎士に先導され、通された先は、まるでヨーロッパの宮殿を切り取ったような客間だった。
壁は淡い色の石で磨かれ、天井には蔦と花の意匠が浮き彫りになっている。窓は高く、外の光をやわらかく落とす薄布のカーテンが揺れていた。
足元の絨毯は厚い。沈み込むほど柔らかいのに、歩けば足音が吸い込まれていく。
家具も、ただ豪華なだけじゃない。座れば背中が自然に伸び、肘を置けば力が抜ける。“人を静かにさせるための作り”が徹底されている。
案内役の使用人――メイド服の女性は、ぎこちない日本語で「お部屋、ふたつ」と言った。
隣室と合わせて二部屋。私と父、月子と母で分けても十分に使えるように用意したらしい。
けれど。
「……一部屋でいいです」
言ったのは私だった。
声は低く、喉の奥が乾いている。
メイドが一瞬だけ困った顔をしたが、すぐに柔らかい笑みを作り直した。
“こういう要望はよくある”と言いたげな手つきで、もう一度小さくお辞儀をする。
私たちは結局、片方の客間だけに固まった。
離れるのが怖かった。
この場所で、扉一枚隔てるだけで、家族の気配が遠くなるのが耐えられなかった。
父はソファに腰を落とし、膝の上のコハクを抱え直す。
指先で、耳の付け根をゆっくり撫でる。そこは、コハクが一番安心する場所だ。
コハクは、さっきまで興奮していた。
部屋中を走り回り、匂いを嗅ぎ、絨毯に鼻先を擦り付け、カーテンの揺れに吠えかけて、また匂いを嗅ぎ――落ち着きのない子どもみたいに、世界を確かめていた。
けれど今は違う。
父の膝の上で、丸くなり、呼吸がゆっくりになっている。
小さな胸が上下するたび、こちらの緊張が少しずつほどけそうになる。
……ほどけないけど。
メイドが銀の盆に乗せて、茶器を運んできた。
湯気の立つカップ。香りは、たぶん紅茶だ。花みたいに甘い匂いがして、鼻腔の奥をくすぐる。
なのに、飲む気がしなかった。
喉は渇いているのに、胃が受け付けない。
口へ運べば、身体が「ここで安心していい」と誤解しそうで怖い。
母はカップの縁に指を置いたまま動かず、月子はソファの端に座り、コハクのぽちゃぽちゃのお尻を撫でている。
撫で方がやけに丁寧で、笑ってしまいそうになる。笑える状況じゃないのに。
私は、息を吐いた。
ため息は、思ったより長く出た。
「……はぁ」
月子が、コハクの尻を撫でながら言う。
「兄ちゃん、顔。さっきから“手術前に最悪の説明を受けた医者”みたいな顔してる」
医者なのは私だ。
なのに“説明を受けた側”の顔をしていると言われると、妙に納得がいって腹が立つ。
「最悪の説明、受けたからな」
私が返すと、月子は鼻で笑った。
「帰れません。現時点では無理です。情報漏れました。狙われます。……はい詰み。ってね」
口調は軽い。
けれど、その軽さが“余裕”じゃなく“崩れないための壁”だと分かる。月子は、こういう時ほど冗談っぽく言う。そうしないと、心が折れるのを知っているから。
母が、静かに言った。
「……私、指輪、差し出すつもりだったのよね」
その言葉に、部屋の空気が一段重くなる。
父がコハクを撫でる手を止めた。
コハクが「くぅ」と小さく鳴き、父の手を求めるように鼻先を押し付ける。父は慌てて撫で直しながら、言った。
「出さなくていい。……出させない」
声が震えている。
怒りより、不安が先に立っている震えだ。
母は、指輪のある左手を胸の前で握りしめた。
「でも、何も持ってないと思ったの。私たち、ここで……」
言葉が途切れた。
母が言いたかったのは“取引の札がない”ということだろう。
この世界で、私たちは身分も、後ろ盾も、通貨も、常識も持っていない。あるのは家族と、犬と、そして――人に値踏みされる“何か”だけだ。
私は、喉の奥で苦いものが転がるのを感じた。
「母さん、もういい。やったことは、やろうとしたことは分かる。……でも二度とやらないでくれ」
母が、わずかに目を見開く。
「悠一郎」
「誰かに“重み”を預けたら、そこで終わる。こっちの芯が抜ける。芯が抜けたら――家族は守れない」
医者の言葉じゃない。
でも、医者として一番嫌な瞬間は、患者や家族が“諦める”瞬間だ。諦めた瞬間に、身体は一気に負け始める。
母は、ゆっくり頷いた。
それだけで、私は少し救われた気がした。……救われた気がしただけだ。現実は変わらない。
月子が、コハクの尻を揉みながら言った。
「でさ。制約、今日中にかけるって言ってたよね。……あれ、相当ヤバいって意味だよね」
「“大事”だって言ってたな」
私は呟いた。
人の口を魔法で塞ぐ。
そんなことが、この国では“できる”。そして“やる”。
それだけでも、背筋が寒いのに――それをやらないと、私たちは今夜、狩られる。
「兄ちゃん」
月子の声が少しだけ硬くなる。
「私たち、ここで“守られてる”って言われてるけどさ。守られるって、つまり管理されるってことだよね」
その言葉に、私は黙る。
否定できない。
守るためには、囲う。囲うためには、自由を削る。
父が小さく言う。
「……コハクは、どうなるんだろうな」
その言葉が、私の胸を刺す。
家族の中で、コハクだけは何も分かっていない。
分からないまま、匂いと気配と声のトーンだけで危険を嗅ぎ取っている。だから吠える。だから震える。
「コハクは、俺が守る」
父は言い切った。
その言い切り方が、逆に危うくて、私は怖くなる。父は普段、強がらない。強がらない父が強がっている時、内側ではもう折れかけている。
母が静かに言った。
「守るなら、まず落ち着きましょう。……睡眠も、食事も必要よ」
正論。
でも正論が、今は遠い。私はカップを見た。湯気はまだ立っている。香りが甘い。何も飲みたくないのに、身体は渇いている。
私は、ゆっくりとカップに手を伸ばした。
指先が熱い。
口へ運ぶ途中で、ほんの少しだけ手が震えた。
その瞬間、なぜか――胸の奥が、ひくりと反応した。
“ここで落ち着け”と。
“呼吸を整えろ”と。
誰かに言われたわけではないのに、頭の中に短い指示が浮かぶような感覚。
……嫌な予感ではない。
むしろ、焦りの海に浮かぶ小さな浮き輪みたいな感覚。
私はカップを口に当て、ほんの少しだけ啜った。
温かい液体が喉を通り、身体の奥へ落ちていく。胃が拒否しなかった。驚くほど、普通に飲めた。
「飲める?」
母が尋ねる。
「……少しなら」
私が答えると、母も恐る恐るカップを持った。父は片手でコハクを抱え、もう片手でカップに触れたが、結局置いたままにした。月子は、コハクの尻を撫で続けている。癖になってるのかもしれない。
沈黙が落ちる。
豪奢な部屋は、沈黙を吸い込み、外へ漏らさない。
だから余計に、思考の音が大きくなる。
私は言った。
「ここで、決めておこう」
母がこちらを見る。父も見る。月子も、やっと手を止めて顔を上げた。コハクだけが、のんびりと瞬きをする。
「何を?」
月子が問う。
「まず――もう余計な情報は出さない。誰にも。聞かれても答えない。答えさせない」
母が頷く。父も頷く。
月子は少しだけ笑って言った。
「それ、最初にやるやつじゃない? もう遅くない?」
「遅い。でも、遅いなら遅いなりに、止める」
私はカップを置いた。
「次。家族は絶対に離れない。部屋が二つあっても、一つでいい。寝る時も、順番で起きる。……最低限、誰かが必ず起きてる」
父が目を見開く。
「起きてるって……」
「ここは安全じゃない。副大臣が味方でも、この国が味方でもない。狙うやつは、言葉が塞がれても別の手で来る」
あの言葉が、頭の奥で鈍く鳴り続けていた。
“口を塞げても、欲望は塞げない”。
母が息を吸い、吐いた。
「分かった。交代で。……私も起きるわ」
月子が短く言う。
「私、夜強い。最初の番やる」
父は、コハクを抱きしめるようにして頷いた。
「俺もやる。……コハクもいるし」
コハクは自分の名前に反応したのか、尻尾をぽふっと振った。
その無邪気さが、胸を締めつける。
私は、最後に言った。
「それと――直のことは、考えない」
月子が一瞬、目を細める。
「考えない?」
「考えたら腹が立つ。腹が立つと判断が鈍る。判断が鈍ったら終わる。……今は、家族のことだけ」
母が、少しだけ笑った。
泣き笑いに近い笑みだ。
「……悠一郎、あなた、医師でよかったわ」
それが褒め言葉なのか、祈りなのか、分からない。
けれど私は、頷いた。
その時だった。
――コン、コン。
控えめなノック。
でも、急ぎのリズム。
私たちの身体が一斉に硬直する。
父の腕が、反射でコハクを抱き締める。コハクが「わんっ」と短く吠えた。月子がソファから立ち上がり、母が私の背へ手を添える。
扉の向こうから、低い声がした。
「副大臣閣下より伝達。……まもなく“制約”の準備に入る。関係者を集めるため、皆さまにも確認事項がある」
確認事項。
その言葉が、嫌に引っかかる。
私は息を吸って、扉へ向かった。
背中に、家族の視線と、コハクの気配が刺さる。
――丁寧な客間の甘い匂いが、急に遠くなる。
「制約は、今日中にかけます。……それまで、ここで待機を。護衛は増やします」
それだけ。
慰めの言葉も、安心させるための余計な説明もない。むしろ余計なものを削ったぶん、彼女の言葉は冷たく硬い刃みたいに胸へ刺さる。
副大臣は扉へ向かい、途中で一度だけこちらを振り返った。
その目には感情より“責任”が濃く、疲れより“決断”が濃い。
次の瞬間、扉が閉まり――丁寧な天井の下に、私たちだけが取り残された。
騎士に先導され、通された先は、まるでヨーロッパの宮殿を切り取ったような客間だった。
壁は淡い色の石で磨かれ、天井には蔦と花の意匠が浮き彫りになっている。窓は高く、外の光をやわらかく落とす薄布のカーテンが揺れていた。
足元の絨毯は厚い。沈み込むほど柔らかいのに、歩けば足音が吸い込まれていく。
家具も、ただ豪華なだけじゃない。座れば背中が自然に伸び、肘を置けば力が抜ける。“人を静かにさせるための作り”が徹底されている。
案内役の使用人――メイド服の女性は、ぎこちない日本語で「お部屋、ふたつ」と言った。
隣室と合わせて二部屋。私と父、月子と母で分けても十分に使えるように用意したらしい。
けれど。
「……一部屋でいいです」
言ったのは私だった。
声は低く、喉の奥が乾いている。
メイドが一瞬だけ困った顔をしたが、すぐに柔らかい笑みを作り直した。
“こういう要望はよくある”と言いたげな手つきで、もう一度小さくお辞儀をする。
私たちは結局、片方の客間だけに固まった。
離れるのが怖かった。
この場所で、扉一枚隔てるだけで、家族の気配が遠くなるのが耐えられなかった。
父はソファに腰を落とし、膝の上のコハクを抱え直す。
指先で、耳の付け根をゆっくり撫でる。そこは、コハクが一番安心する場所だ。
コハクは、さっきまで興奮していた。
部屋中を走り回り、匂いを嗅ぎ、絨毯に鼻先を擦り付け、カーテンの揺れに吠えかけて、また匂いを嗅ぎ――落ち着きのない子どもみたいに、世界を確かめていた。
けれど今は違う。
父の膝の上で、丸くなり、呼吸がゆっくりになっている。
小さな胸が上下するたび、こちらの緊張が少しずつほどけそうになる。
……ほどけないけど。
メイドが銀の盆に乗せて、茶器を運んできた。
湯気の立つカップ。香りは、たぶん紅茶だ。花みたいに甘い匂いがして、鼻腔の奥をくすぐる。
なのに、飲む気がしなかった。
喉は渇いているのに、胃が受け付けない。
口へ運べば、身体が「ここで安心していい」と誤解しそうで怖い。
母はカップの縁に指を置いたまま動かず、月子はソファの端に座り、コハクのぽちゃぽちゃのお尻を撫でている。
撫で方がやけに丁寧で、笑ってしまいそうになる。笑える状況じゃないのに。
私は、息を吐いた。
ため息は、思ったより長く出た。
「……はぁ」
月子が、コハクの尻を撫でながら言う。
「兄ちゃん、顔。さっきから“手術前に最悪の説明を受けた医者”みたいな顔してる」
医者なのは私だ。
なのに“説明を受けた側”の顔をしていると言われると、妙に納得がいって腹が立つ。
「最悪の説明、受けたからな」
私が返すと、月子は鼻で笑った。
「帰れません。現時点では無理です。情報漏れました。狙われます。……はい詰み。ってね」
口調は軽い。
けれど、その軽さが“余裕”じゃなく“崩れないための壁”だと分かる。月子は、こういう時ほど冗談っぽく言う。そうしないと、心が折れるのを知っているから。
母が、静かに言った。
「……私、指輪、差し出すつもりだったのよね」
その言葉に、部屋の空気が一段重くなる。
父がコハクを撫でる手を止めた。
コハクが「くぅ」と小さく鳴き、父の手を求めるように鼻先を押し付ける。父は慌てて撫で直しながら、言った。
「出さなくていい。……出させない」
声が震えている。
怒りより、不安が先に立っている震えだ。
母は、指輪のある左手を胸の前で握りしめた。
「でも、何も持ってないと思ったの。私たち、ここで……」
言葉が途切れた。
母が言いたかったのは“取引の札がない”ということだろう。
この世界で、私たちは身分も、後ろ盾も、通貨も、常識も持っていない。あるのは家族と、犬と、そして――人に値踏みされる“何か”だけだ。
私は、喉の奥で苦いものが転がるのを感じた。
「母さん、もういい。やったことは、やろうとしたことは分かる。……でも二度とやらないでくれ」
母が、わずかに目を見開く。
「悠一郎」
「誰かに“重み”を預けたら、そこで終わる。こっちの芯が抜ける。芯が抜けたら――家族は守れない」
医者の言葉じゃない。
でも、医者として一番嫌な瞬間は、患者や家族が“諦める”瞬間だ。諦めた瞬間に、身体は一気に負け始める。
母は、ゆっくり頷いた。
それだけで、私は少し救われた気がした。……救われた気がしただけだ。現実は変わらない。
月子が、コハクの尻を揉みながら言った。
「でさ。制約、今日中にかけるって言ってたよね。……あれ、相当ヤバいって意味だよね」
「“大事”だって言ってたな」
私は呟いた。
人の口を魔法で塞ぐ。
そんなことが、この国では“できる”。そして“やる”。
それだけでも、背筋が寒いのに――それをやらないと、私たちは今夜、狩られる。
「兄ちゃん」
月子の声が少しだけ硬くなる。
「私たち、ここで“守られてる”って言われてるけどさ。守られるって、つまり管理されるってことだよね」
その言葉に、私は黙る。
否定できない。
守るためには、囲う。囲うためには、自由を削る。
父が小さく言う。
「……コハクは、どうなるんだろうな」
その言葉が、私の胸を刺す。
家族の中で、コハクだけは何も分かっていない。
分からないまま、匂いと気配と声のトーンだけで危険を嗅ぎ取っている。だから吠える。だから震える。
「コハクは、俺が守る」
父は言い切った。
その言い切り方が、逆に危うくて、私は怖くなる。父は普段、強がらない。強がらない父が強がっている時、内側ではもう折れかけている。
母が静かに言った。
「守るなら、まず落ち着きましょう。……睡眠も、食事も必要よ」
正論。
でも正論が、今は遠い。私はカップを見た。湯気はまだ立っている。香りが甘い。何も飲みたくないのに、身体は渇いている。
私は、ゆっくりとカップに手を伸ばした。
指先が熱い。
口へ運ぶ途中で、ほんの少しだけ手が震えた。
その瞬間、なぜか――胸の奥が、ひくりと反応した。
“ここで落ち着け”と。
“呼吸を整えろ”と。
誰かに言われたわけではないのに、頭の中に短い指示が浮かぶような感覚。
……嫌な予感ではない。
むしろ、焦りの海に浮かぶ小さな浮き輪みたいな感覚。
私はカップを口に当て、ほんの少しだけ啜った。
温かい液体が喉を通り、身体の奥へ落ちていく。胃が拒否しなかった。驚くほど、普通に飲めた。
「飲める?」
母が尋ねる。
「……少しなら」
私が答えると、母も恐る恐るカップを持った。父は片手でコハクを抱え、もう片手でカップに触れたが、結局置いたままにした。月子は、コハクの尻を撫で続けている。癖になってるのかもしれない。
沈黙が落ちる。
豪奢な部屋は、沈黙を吸い込み、外へ漏らさない。
だから余計に、思考の音が大きくなる。
私は言った。
「ここで、決めておこう」
母がこちらを見る。父も見る。月子も、やっと手を止めて顔を上げた。コハクだけが、のんびりと瞬きをする。
「何を?」
月子が問う。
「まず――もう余計な情報は出さない。誰にも。聞かれても答えない。答えさせない」
母が頷く。父も頷く。
月子は少しだけ笑って言った。
「それ、最初にやるやつじゃない? もう遅くない?」
「遅い。でも、遅いなら遅いなりに、止める」
私はカップを置いた。
「次。家族は絶対に離れない。部屋が二つあっても、一つでいい。寝る時も、順番で起きる。……最低限、誰かが必ず起きてる」
父が目を見開く。
「起きてるって……」
「ここは安全じゃない。副大臣が味方でも、この国が味方でもない。狙うやつは、言葉が塞がれても別の手で来る」
あの言葉が、頭の奥で鈍く鳴り続けていた。
“口を塞げても、欲望は塞げない”。
母が息を吸い、吐いた。
「分かった。交代で。……私も起きるわ」
月子が短く言う。
「私、夜強い。最初の番やる」
父は、コハクを抱きしめるようにして頷いた。
「俺もやる。……コハクもいるし」
コハクは自分の名前に反応したのか、尻尾をぽふっと振った。
その無邪気さが、胸を締めつける。
私は、最後に言った。
「それと――直のことは、考えない」
月子が一瞬、目を細める。
「考えない?」
「考えたら腹が立つ。腹が立つと判断が鈍る。判断が鈍ったら終わる。……今は、家族のことだけ」
母が、少しだけ笑った。
泣き笑いに近い笑みだ。
「……悠一郎、あなた、医師でよかったわ」
それが褒め言葉なのか、祈りなのか、分からない。
けれど私は、頷いた。
その時だった。
――コン、コン。
控えめなノック。
でも、急ぎのリズム。
私たちの身体が一斉に硬直する。
父の腕が、反射でコハクを抱き締める。コハクが「わんっ」と短く吠えた。月子がソファから立ち上がり、母が私の背へ手を添える。
扉の向こうから、低い声がした。
「副大臣閣下より伝達。……まもなく“制約”の準備に入る。関係者を集めるため、皆さまにも確認事項がある」
確認事項。
その言葉が、嫌に引っかかる。
私は息を吸って、扉へ向かった。
背中に、家族の視線と、コハクの気配が刺さる。
――丁寧な客間の甘い匂いが、急に遠くなる。
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