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丁寧な天井
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王女様らしき金髪碧眼の若い女は、直一家だけを引き連れて、まるで「主役は回収した」とでも言うように去っていった。
残されたのは、私たち――葛石家四人と、父の腕の中のコハク。
そして、王女が振り向きざまに投げた一言。
「……面倒はそちらで」
その命令を受け取った壮年の女性が、静かに前へ出る。
目立つ仕草はない。声も大きくない。なのに、空気が彼女を中心に組み替わる。騎士たちの足取りが揃い、召喚担当者の男の顔が露骨に安堵に傾いた。
――つまり、この人が“現場の支配”を引き継いだ。
彼女は私たちの距離感を壊さないように、しかし逃げ道を作らない絶妙な位置に立つと、柔らかい口調で言った。
「こちらでの説明は相応しくありません。別室へご案内いたします」
月子がすぐに返す。
「拒否したら?」
壮年の女性は、微笑みを崩さず、淡々と答えた。
「おすすめいたしません。……皆さまの安全のためにも」
安全のため。
その言い方がもう、こちらの自由を前提にしていない。
私は家族を見た。
母は唇を硬く結んでいる。父はコハクの背をゆっくり撫で、落ち着かせている。月子は怒りを飲み込み、目の奥を冷やしている。
抵抗したところで向こうに勝てない。
鎧の騎士たちが囲んでいる。腰の剣は飾りではない。――抜かれる未来が、現実として目の前にある。
私は小さく頷いた。
「……案内してください。ただし、家族は離れない」
「承知いたしました」
壮年の女性は、たったそれだけで話を終わらせた。
説得もしない。言い争いもしない。決定事項として通す。
それが一番、怖い。
私たちはひしと寄り添い合い、移動した。
父を中心に、コハクを守る輪。母が私の背に重なるように歩き、月子が半歩前で周囲を睨む。私は視線を前に固定し、呼吸を整える。恐怖を見せたら、ここでは負ける。
廊下は石造りで、天井が高い。
灯りは魔法なのか、壁の装飾がぼんやり光っている。足音が反響し、鎧の擦れる音が近い。
騎士たちの歩調は、こちらに合わせているようで、実際は“囲いを保つための距離”を維持しているだけだ。
途中、何度も扉を抜けた。
鍵の音がする。開閉のたび、自由が一枚ずつ剥がれていく気がした。
やがて、厚い扉の前で止まる。
壮年の女性が短く指示を出すと、騎士が扉を開いた。
中は、広間とは別世界だった。
石の冷気が薄れ、木の匂いと、乾いた薬草の香りが混ざっている。
厚い絨毯。低いテーブル。柔らかな背もたれの椅子。陶器の水差しと、温かい飲み物まで用意されている。
そして何より――ここには歓声がない。見世物の目もない。静けさがある。
……丁寧だ。
丁寧だからこそ、逆に分かる。
これは“客人の部屋”ではない。
暴れさせないための部屋。落ち着かせて、納得させて、従わせるための部屋だ。
「どうぞ、お掛けくださいませ」
壮年の女性が着席を促した。
近くで見る彼女は、さらに“異質”だった。
薄い色合いの、長い金髪を一つにまとめている。顔立ちは端正で、肌はくすみがない。背が高く、すらっとした体形。姿勢が恐ろしく良い。
その雰囲気は、外国の大手企業の重役――年齢を感じさせない“美魔女おば様”の幹部と言えば伝わるだろうか。怒鳴らずに部下を動かし、笑ったまま首を切れる人間の気配。
先ほどのベテラン鑑定士には、礼儀がなかった。
この人には礼儀がある。
だから、余計に厄介だ。
私たちは椅子に腰を下ろした。もちろん離れない。
父はコハクを膝に抱えたまま座る。コハクは絨毯の匂いを嗅いで、小さく鼻を鳴らした。環境が変わっても、父の腕の中だけが安全圏だと分かっている。
壮年の女性は、ゆっくりと一礼した。
「改めまして。アウレリオス王国――内閣副大臣、ヴァレリア・ノルディスと申します」
内閣副大臣。
その肩書きが、ずしりと腹に落ちる。
つまり、王女の尻拭いを命じられる立場であり、同時に私たちの扱いを決められる立場でもある。
月子が、間髪入れずに言う。
「謝罪からどうぞ。さっきの鑑定士。個人情報を勝手に晒した」
ヴァレリアは、視線を逸らさず、静かに頭を下げた。
「ご不快とご恐怖を与えましたこと、お詫び申し上げます。鑑定士の振る舞いは、行政としても容認できません」
言葉の選び方が“政治”だ。
同情でも怒りでもない。責任の所在を限定しつつ、最低限の礼を払う。
けれど、頭を下げたという事実だけは重い。少なくとも、広間で笑っていた連中よりは話が通じる。
私は核心だけを突いた。
「私たちは、なぜここにいる。帰れるのか。帰れないなら、なぜ帰れない」
父がコハクの頭を撫でる手を止めた。
母が息を浅くした。
月子の指が、テーブルの縁をぎゅっと掴む。
ヴァレリアは一拍置いてから、淡々と告げた。
「皆さまは――『勇者召喚』に巻き込まれた可能性が高いです」
母の瞳が揺れる。
父の喉が小さく鳴った。
私は頷いた。そこはもう、第3話の時点で察している。問題はその先だ。
「そして、この召喚は……王女殿下の独断によるものです」
月子が鼻で笑う。
「独断? 国の術式を? あの若い女が?」
ヴァレリアは表情を崩さないまま、しかし言葉を少しだけ重くした。
「殿下は……強い執着をお持ちです。“国を守る力”に。あるいは、“自分が国を救うという物語”に」
私は、さっきの“ゴミを見る目”を思い出した。
直に向けた上機嫌な視線。私たちに向けた冷たい掃き捨て。
「周囲は反対していたんですか」
私が問うと、ヴァレリアは短く頷いた。
「かなり。召喚は、外交的にも内政的にも火種になります。成功すれば『他国への威嚇』と捉えられる。失敗すれば『国が暴走した』と見なされる。……アウレリオスは、わざわざそんな賭けをする必要がない国です」
彼女の説明は、理屈としては分かりやすかった。
むしろ分かりやすいぶん、怒りが増す。
「必要がないのに、やった。独断で。巻き込まれたのが私たち」
ヴァレリアは、ほんの僅かに目を細めた。
否定しない。つまり、それが事実に近い。
「ここはアウレリオス王国。香辛料、薬草の栽培、加工、流通――それらで富を築いています。周辺諸国とも同盟を結び、交易路も確保されている。軍事力も、国力も、安定している」
母がかすれた声で問う。
「それなら……どうして、勇者召喚なんて」
ヴァレリアの答えは短かった。
「政治ではなく、個人の感情です」
その言葉が、私の背中を冷やした。
国が動いているのではない。王女の感情が国を動かしている。
だからこそ、危険だ。正しさで止められない。
月子が低く言った。
「じゃあ、帰る方法は?」
部屋の空気が張り詰めた。
父の腕の中のコハクが、短く鼻を鳴らして、こちらを見る。
――帰りたい。帰りたい。帰りたい。
そう訴えているようで、胸が痛んだ。
ヴァレリアは、言いづらいことを告げる人間の顔をした。
それでも、逃げなかった。少なくとも今は。
「結論から申し上げます」
私は呼吸を整えた。
医師として、悪い知らせを聞く時の呼吸を知っている。酸素を入れなければ、感情に呑まれる。
「現時点では……帰還は困難です」
困難。
政治家の言葉だ。断言を避けるための言葉。
月子が、鋭く刺した。
「困難って何ですか。無理なのか、可能性があるのか。どっち」
ヴァレリアは一秒だけ沈黙し、そして言った。
「……今すぐは、無理です」
母が小さく息を吸い、吐けなくなったように肩を震わせた。
父の指先が、コハクの毛を掴むように強く撫で、すぐに力を緩めた。父自身が自分を抑えたのが分かった。
私は、頭の中で冷静に整理する。
戻す術式がない。準備不足。独断強行。
“鍵”が揃っていない。
つまり、こちらは召喚された時点で詰んでいる。
「理由を」
私が短く言うと、ヴァレリアは頷いた。
「召喚術式は、呼び出しより戻しのほうが難易度が高い。本来、戻しの術式を含めて準備し、儀式は実行されます。……しかし今回、殿下は急ぎすぎた。戻しの系が、組まれていない」
月子が唇を歪めた。
「私たちは失敗の尻拭いってことですね」
ヴァレリアは、否定しなかった。
「……行政としては、責任を取ります。皆さまの安全を確保し、生活を保障し、必要な支援を用意します」
その言葉を聞いて、私は逆に確信した。
“保障”という言葉が出る時点で、自由はない。
保護という名の管理が始まる。
父が静かに言った。
「犬は。コハクは、どうなる」
ヴァレリアの目が一瞬だけ柔らかくなる。けれど、それは情ではなく“処理の確認”だ。
「愛犬も含めて、皆さまは一体として扱います。……ただし」
また“ただし”だ。
私は、先に言った。
「狙われますか」
ヴァレリアは、肯定した。
「先ほどの鑑定結果は、すでに多くの者が見ています。能力に価値を見出す者は必ず出ます。とりわけ――」
彼女は言葉を区切り、こちらを見た。
「高位の“収納”は、軍も商会も欲しがる。扱いを誤れば、皆さまは奪われる」
月子の顔が、一段冷える。
母の背筋が真っ直ぐになる。
父がコハクを抱く腕を、さらに強く締めた。
私は、胸の奥で何かが決まっていくのを感じた。
ここで泣いても、怒鳴っても、帰れない。
帰れないなら――守るしかない。
「直たちは」
私が問うと、ヴァレリアの表情がわずかに硬くなった。
「勇者と認定された者は……殿下の手元で保護されます」
保護。
その言葉が、吐き気がするほど嫌だった。直が守られる? あいつが?
巻き込まれた私たちが“面倒”として投げられ、あいつは“主役”として抱え込まれる。
私は笑いそうになった。笑ったら壊れる。
ヴァレリアは淡々と言った。
「葛石家の皆さまは、別の形で守ります。……ただ、今はまだ公にできません。殿下の独断が露見すれば、国が割れる」
つまり、私たちは政治の都合で隠される。
丁寧な天井の下、丁寧な言葉で囲われる。
母が震える声で言った。
「……じゃあ、私たちは帰れないのに、ここに居続けるしかないんですか」
ヴァレリアは、静かに頷いた。
「現時点では」
その四文字が、決定打だった。
私は奥歯を噛みしめ、血の味がするほど強く耐えた。
結局――無理らしい。
帰れない。
今すぐは、無理。
そしてこの国は、必要がないのに召喚をした。独断で。感情で。
私たちは、政治の後始末としてここにいる。
父の腕の中で、コハクが小さく鳴いた。
その声が、私の胸を締めつける。
私は父の膝の上の小さな体に視線を落とし、心の中で誓った。
――守る。
帰れないなら、なおさら守る。
この丁寧な檻の中で、家族が壊されないように。
ヴァレリアは最後に、落ち着いた声で言った。
「では、具体的な“保護”の手順をご説明いたします。……皆さまの意思も、そこで伺いましょう」
意思。
その言葉が、どこまで本当かは分からない。
けれど今は、情報が欲しい。
敵が欲しがるものも、味方が差し出すものも、全部。
私は頷いた。
「聞かせてください」
――家族を守るために。
残されたのは、私たち――葛石家四人と、父の腕の中のコハク。
そして、王女が振り向きざまに投げた一言。
「……面倒はそちらで」
その命令を受け取った壮年の女性が、静かに前へ出る。
目立つ仕草はない。声も大きくない。なのに、空気が彼女を中心に組み替わる。騎士たちの足取りが揃い、召喚担当者の男の顔が露骨に安堵に傾いた。
――つまり、この人が“現場の支配”を引き継いだ。
彼女は私たちの距離感を壊さないように、しかし逃げ道を作らない絶妙な位置に立つと、柔らかい口調で言った。
「こちらでの説明は相応しくありません。別室へご案内いたします」
月子がすぐに返す。
「拒否したら?」
壮年の女性は、微笑みを崩さず、淡々と答えた。
「おすすめいたしません。……皆さまの安全のためにも」
安全のため。
その言い方がもう、こちらの自由を前提にしていない。
私は家族を見た。
母は唇を硬く結んでいる。父はコハクの背をゆっくり撫で、落ち着かせている。月子は怒りを飲み込み、目の奥を冷やしている。
抵抗したところで向こうに勝てない。
鎧の騎士たちが囲んでいる。腰の剣は飾りではない。――抜かれる未来が、現実として目の前にある。
私は小さく頷いた。
「……案内してください。ただし、家族は離れない」
「承知いたしました」
壮年の女性は、たったそれだけで話を終わらせた。
説得もしない。言い争いもしない。決定事項として通す。
それが一番、怖い。
私たちはひしと寄り添い合い、移動した。
父を中心に、コハクを守る輪。母が私の背に重なるように歩き、月子が半歩前で周囲を睨む。私は視線を前に固定し、呼吸を整える。恐怖を見せたら、ここでは負ける。
廊下は石造りで、天井が高い。
灯りは魔法なのか、壁の装飾がぼんやり光っている。足音が反響し、鎧の擦れる音が近い。
騎士たちの歩調は、こちらに合わせているようで、実際は“囲いを保つための距離”を維持しているだけだ。
途中、何度も扉を抜けた。
鍵の音がする。開閉のたび、自由が一枚ずつ剥がれていく気がした。
やがて、厚い扉の前で止まる。
壮年の女性が短く指示を出すと、騎士が扉を開いた。
中は、広間とは別世界だった。
石の冷気が薄れ、木の匂いと、乾いた薬草の香りが混ざっている。
厚い絨毯。低いテーブル。柔らかな背もたれの椅子。陶器の水差しと、温かい飲み物まで用意されている。
そして何より――ここには歓声がない。見世物の目もない。静けさがある。
……丁寧だ。
丁寧だからこそ、逆に分かる。
これは“客人の部屋”ではない。
暴れさせないための部屋。落ち着かせて、納得させて、従わせるための部屋だ。
「どうぞ、お掛けくださいませ」
壮年の女性が着席を促した。
近くで見る彼女は、さらに“異質”だった。
薄い色合いの、長い金髪を一つにまとめている。顔立ちは端正で、肌はくすみがない。背が高く、すらっとした体形。姿勢が恐ろしく良い。
その雰囲気は、外国の大手企業の重役――年齢を感じさせない“美魔女おば様”の幹部と言えば伝わるだろうか。怒鳴らずに部下を動かし、笑ったまま首を切れる人間の気配。
先ほどのベテラン鑑定士には、礼儀がなかった。
この人には礼儀がある。
だから、余計に厄介だ。
私たちは椅子に腰を下ろした。もちろん離れない。
父はコハクを膝に抱えたまま座る。コハクは絨毯の匂いを嗅いで、小さく鼻を鳴らした。環境が変わっても、父の腕の中だけが安全圏だと分かっている。
壮年の女性は、ゆっくりと一礼した。
「改めまして。アウレリオス王国――内閣副大臣、ヴァレリア・ノルディスと申します」
内閣副大臣。
その肩書きが、ずしりと腹に落ちる。
つまり、王女の尻拭いを命じられる立場であり、同時に私たちの扱いを決められる立場でもある。
月子が、間髪入れずに言う。
「謝罪からどうぞ。さっきの鑑定士。個人情報を勝手に晒した」
ヴァレリアは、視線を逸らさず、静かに頭を下げた。
「ご不快とご恐怖を与えましたこと、お詫び申し上げます。鑑定士の振る舞いは、行政としても容認できません」
言葉の選び方が“政治”だ。
同情でも怒りでもない。責任の所在を限定しつつ、最低限の礼を払う。
けれど、頭を下げたという事実だけは重い。少なくとも、広間で笑っていた連中よりは話が通じる。
私は核心だけを突いた。
「私たちは、なぜここにいる。帰れるのか。帰れないなら、なぜ帰れない」
父がコハクの頭を撫でる手を止めた。
母が息を浅くした。
月子の指が、テーブルの縁をぎゅっと掴む。
ヴァレリアは一拍置いてから、淡々と告げた。
「皆さまは――『勇者召喚』に巻き込まれた可能性が高いです」
母の瞳が揺れる。
父の喉が小さく鳴った。
私は頷いた。そこはもう、第3話の時点で察している。問題はその先だ。
「そして、この召喚は……王女殿下の独断によるものです」
月子が鼻で笑う。
「独断? 国の術式を? あの若い女が?」
ヴァレリアは表情を崩さないまま、しかし言葉を少しだけ重くした。
「殿下は……強い執着をお持ちです。“国を守る力”に。あるいは、“自分が国を救うという物語”に」
私は、さっきの“ゴミを見る目”を思い出した。
直に向けた上機嫌な視線。私たちに向けた冷たい掃き捨て。
「周囲は反対していたんですか」
私が問うと、ヴァレリアは短く頷いた。
「かなり。召喚は、外交的にも内政的にも火種になります。成功すれば『他国への威嚇』と捉えられる。失敗すれば『国が暴走した』と見なされる。……アウレリオスは、わざわざそんな賭けをする必要がない国です」
彼女の説明は、理屈としては分かりやすかった。
むしろ分かりやすいぶん、怒りが増す。
「必要がないのに、やった。独断で。巻き込まれたのが私たち」
ヴァレリアは、ほんの僅かに目を細めた。
否定しない。つまり、それが事実に近い。
「ここはアウレリオス王国。香辛料、薬草の栽培、加工、流通――それらで富を築いています。周辺諸国とも同盟を結び、交易路も確保されている。軍事力も、国力も、安定している」
母がかすれた声で問う。
「それなら……どうして、勇者召喚なんて」
ヴァレリアの答えは短かった。
「政治ではなく、個人の感情です」
その言葉が、私の背中を冷やした。
国が動いているのではない。王女の感情が国を動かしている。
だからこそ、危険だ。正しさで止められない。
月子が低く言った。
「じゃあ、帰る方法は?」
部屋の空気が張り詰めた。
父の腕の中のコハクが、短く鼻を鳴らして、こちらを見る。
――帰りたい。帰りたい。帰りたい。
そう訴えているようで、胸が痛んだ。
ヴァレリアは、言いづらいことを告げる人間の顔をした。
それでも、逃げなかった。少なくとも今は。
「結論から申し上げます」
私は呼吸を整えた。
医師として、悪い知らせを聞く時の呼吸を知っている。酸素を入れなければ、感情に呑まれる。
「現時点では……帰還は困難です」
困難。
政治家の言葉だ。断言を避けるための言葉。
月子が、鋭く刺した。
「困難って何ですか。無理なのか、可能性があるのか。どっち」
ヴァレリアは一秒だけ沈黙し、そして言った。
「……今すぐは、無理です」
母が小さく息を吸い、吐けなくなったように肩を震わせた。
父の指先が、コハクの毛を掴むように強く撫で、すぐに力を緩めた。父自身が自分を抑えたのが分かった。
私は、頭の中で冷静に整理する。
戻す術式がない。準備不足。独断強行。
“鍵”が揃っていない。
つまり、こちらは召喚された時点で詰んでいる。
「理由を」
私が短く言うと、ヴァレリアは頷いた。
「召喚術式は、呼び出しより戻しのほうが難易度が高い。本来、戻しの術式を含めて準備し、儀式は実行されます。……しかし今回、殿下は急ぎすぎた。戻しの系が、組まれていない」
月子が唇を歪めた。
「私たちは失敗の尻拭いってことですね」
ヴァレリアは、否定しなかった。
「……行政としては、責任を取ります。皆さまの安全を確保し、生活を保障し、必要な支援を用意します」
その言葉を聞いて、私は逆に確信した。
“保障”という言葉が出る時点で、自由はない。
保護という名の管理が始まる。
父が静かに言った。
「犬は。コハクは、どうなる」
ヴァレリアの目が一瞬だけ柔らかくなる。けれど、それは情ではなく“処理の確認”だ。
「愛犬も含めて、皆さまは一体として扱います。……ただし」
また“ただし”だ。
私は、先に言った。
「狙われますか」
ヴァレリアは、肯定した。
「先ほどの鑑定結果は、すでに多くの者が見ています。能力に価値を見出す者は必ず出ます。とりわけ――」
彼女は言葉を区切り、こちらを見た。
「高位の“収納”は、軍も商会も欲しがる。扱いを誤れば、皆さまは奪われる」
月子の顔が、一段冷える。
母の背筋が真っ直ぐになる。
父がコハクを抱く腕を、さらに強く締めた。
私は、胸の奥で何かが決まっていくのを感じた。
ここで泣いても、怒鳴っても、帰れない。
帰れないなら――守るしかない。
「直たちは」
私が問うと、ヴァレリアの表情がわずかに硬くなった。
「勇者と認定された者は……殿下の手元で保護されます」
保護。
その言葉が、吐き気がするほど嫌だった。直が守られる? あいつが?
巻き込まれた私たちが“面倒”として投げられ、あいつは“主役”として抱え込まれる。
私は笑いそうになった。笑ったら壊れる。
ヴァレリアは淡々と言った。
「葛石家の皆さまは、別の形で守ります。……ただ、今はまだ公にできません。殿下の独断が露見すれば、国が割れる」
つまり、私たちは政治の都合で隠される。
丁寧な天井の下、丁寧な言葉で囲われる。
母が震える声で言った。
「……じゃあ、私たちは帰れないのに、ここに居続けるしかないんですか」
ヴァレリアは、静かに頷いた。
「現時点では」
その四文字が、決定打だった。
私は奥歯を噛みしめ、血の味がするほど強く耐えた。
結局――無理らしい。
帰れない。
今すぐは、無理。
そしてこの国は、必要がないのに召喚をした。独断で。感情で。
私たちは、政治の後始末としてここにいる。
父の腕の中で、コハクが小さく鳴いた。
その声が、私の胸を締めつける。
私は父の膝の上の小さな体に視線を落とし、心の中で誓った。
――守る。
帰れないなら、なおさら守る。
この丁寧な檻の中で、家族が壊されないように。
ヴァレリアは最後に、落ち着いた声で言った。
「では、具体的な“保護”の手順をご説明いたします。……皆さまの意思も、そこで伺いましょう」
意思。
その言葉が、どこまで本当かは分からない。
けれど今は、情報が欲しい。
敵が欲しがるものも、味方が差し出すものも、全部。
私は頷いた。
「聞かせてください」
――家族を守るために。
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バレット男爵家の三男として生まれた僕は、魔力がなく、家でおちこぼれとしてぞんざいに扱われている。
しかし、僕には錬金術の才能があることに気づき、この家を出ると決めた。
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