勇者召喚に巻き込まれた家族のサバイバル

ken

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消える紙束、残る息づかい

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 扉が閉まってから、部屋の空気は一度も柔らかくならなかった。
 暖炉は飾りのように沈黙し、天井は高すぎて、息を吐くたびに自分の小ささだけが増していく。父の膝の上で丸くなったコハクだけが、こちらの胸の固さを知らない顔で、鼻先を震わせていた。

 母が机上の紙を揃え、万年筆のキャップをきちんと閉める。月子は椅子の背に片手を置いたまま、扉へ視線をやった。私は窓の外――薄いレースの向こうにある光の方向を一瞬だけ見て、すぐに戻す。外の世界が明るいほど、こちらの自由が暗く見える。

 ノックは一度だけ。礼儀の形をとっているが、許可を求める音ではない。

「お食事をお持ちいたしました」

 メイドの声は丁寧で、同時に、距離を保った硬さがあった。扉が開くと、甘い香りが先に流れ込む。焼きたてのパンの匂いと、温いスープの湯気、それに香草のような爽やかさ。胃が反射で動いた。喉が渇いているのに、唾がうまく出ない。

 銀のトレーを抱えたメイドが二人、後ろに騎士が一人。騎士は部屋へ半歩も入らず、扉の外からこちらを測っている。監視という言葉が、喉の奥で形になりかけて、飲み込まれた。

 メイドは言われたとおり机に並べ始める。椀、皿、皿、皿。薄い磁器の光沢が、ここが“客”のために用意した舞台だと告げる。舞台の上で安全かどうかを判断するのは、こちらの仕事になってしまった。

 母が小さく息を吐き、視線だけで合図する。声は出さない。
 私たちはすでに、言葉を「喉」から「紙」へ移し替えている。

 机の端に置いていた筆談用の紙束を、月子が指先で押さえた。
 “これをどうするか”――その問いが、声より先に部屋へ広がる。

 月子は私を見る。私は頷く。
 母も頷く。
 父はコハクを抱え直し、片腕で背中を軽く叩いて落ち着かせながら、目だけで「やってみろ」と言った。

 月子は紙束を持ち上げ、掌の上で一度だけ重さを確かめるように揺らした。吸い込まれるように静かな動き。彼女の右手が、空中の見えない取っ手を摘まむような仕草をする。

 次の瞬間。
 紙束が、消えた。

 机の上に、あったはずの白がない。視界が一拍遅れて認識する。まるで最初から存在しなかったかのように、空白だけが残った。

「……」

 父が声を出しかけて、喉元で止めた。代わりに、目が丸くなる。彼はこういう仕掛けに慣れていない。だから、驚きが真っすぐだ。怖がるより先に、好奇心が顔を出してしまう。

 月子が小さく肩をすくめ、もう一度、今度は“取り出す”側の動きをする。指先で何かを摘まみ上げるように。

 白い紙束が、空中から現れた。
 落ちるのではなく、“置かれる”ように、月子の掌に収まる。

 父の目が、紙束から月子の手へ、月子の手から空へと往復する。
 彼は、コハクの背を撫でる手を止めないまま、唇だけを動かした。

「……どうなってるんだ」

 声になりかけたものを、父はすぐに引っ込める。視線で私に聞いてくる。私は肩を竦めるしかない。理屈はあとだ。いまは、使えるかどうかの確認が先。

 月子は紙束を机上に置かず、再び“入れる”動きをして見せた。
 紙が消える。
 同じように“取り出す”動きで、紙が現れる。

 出し入れのテンポが安定してくると、恐怖より先に「運用」の匂いが立ち上がる。隠せる。守れる。手元から消せる。――ただし、月子の機嫌と、月子の存在が前提だ。

 母が視線だけで「続ける」と言い、机の上へ手を伸ばす。メイドが並べた椀へ、母の指が触れた。触れた瞬間に何かが起こるわけではない。母は、それでも集中して目を細める。設計図面を読むときと同じ顔だ。線の一つ、歪みの一つを見逃さない。

 母の瞳が、茶の表面で止まる。
 香りを吸い込み、顔をしかめるでもなく、ただ静かに頷いた。

 母は万年筆を取らない。声も出さない。代わりに、机上の小さなメモ紙へ短く書いた。

『異常なし。毒性なし。眠り系なし。刺激は弱。』

 その文字を見た瞬間、肩の力が抜けた。緊張は消えない。それでも、胸の中で固まっていた氷が少しだけ溶ける。命に直結する罠ではない。少なくとも、いまこの場で殺す気はない――その程度の安心が、どれほど貴重か。

 月子が小さく舌を出しそうな顔で、私のほうを見る。
 私は苦笑する代わりに、紙に書いた。

『食べられる。』

 父が、同じ紙の端に書く。

『コハクは?』

 そこだ。問題はそこに凝縮している。

 メイドが持ってきたのは、人間用の食事だ。香りのいいスープ、肉と野菜の煮込み、甘い果実のジャム。パン。――犬用ではない。犬用の器もない。父の腕の中のコハクは、鼻をひくひくさせている。香りに興味はある。けれど、何でも口に入れていいわけじゃない。

 父がトレーの隅に置かれた牛乳のコップを見つけた。白い液体が、光を受けて柔らかく揺れている。たった一杯。添え物のように、ひっそりと。

 父の目が険しくなる。
 彼の頭の中で計算が始まっているのが分かる。コハクは小さい。小さいからこそ、体の中へ入るものの影響が大きい。

 母がまた目を細め、牛乳へ視線を固定する。
 ほんの数秒。だが、私の神経には長く感じた。

 母は頷いた。書く。

『乳は問題なし。温度適正。異物なし。』

 父が、ほっと息を吐く。すぐにコハクを膝の上で起こし、コップを両手で支えた。こぼさないように、コハクの口元へそっと寄せる。コハクは匂いを確かめ、舌を出した。小さな舌が、白い液体を掬い取る。喉が動く。嬉しそうに目が細くなる。

 その姿を見ただけで、私の胸の奥が緩む。
 コハクが飲めた。それだけで、今日の“失点”が一つ消える。

 月子が紙に書く。

『食事、もう一杯頼める? 犬用。』

 母が首を横に振り、紙に返す。

『要求は通るか不明。まずこちらが落ち着く。余計な接触を増やさない。』

 私は頷き、紙に追加する。

『今夜は牛乳で繋ぐ。明日、状況見て。』

 父が、さらに小さく書いた。

『水も欲しい。』

 そうだ。水だ。牛乳だけでは足りない。私たちもだが、コハクも。水差しは人間用のものが置かれている。母がそれを見て、また頷く。紙に書く。

『水は安全。』

 父は水を別の器に移す。器がないので、コップの縁を清潔な布で拭き、少量だけ入れる。コハクは今度は少しだけ舐めて、満足したように鼻を鳴らした。

 私たちはやっと、食べた。
 パンをちぎる手が震える。スープは香りがいいのに、味が遠い。喉が渇いていたことを、口に含んでから思い出す。水が落ちていく感覚が、体の奥の硬さをほどく。

 それでも、部屋のどこかが見られている気がして、背筋は緩まない。
 息を合わせて食べる。目線を合わせて食べる。
 言葉を使わずに“家族”を維持するのは、思ったより疲れる。

 食事が半分ほど進んだ頃、父がふいに私を見た。
 「お前、大丈夫か」と言いたい目だ。
 私は頷く。頷き方が薄いと、すぐに母に見抜かれる。だから、深く頷いた。

 しかし、指先の震えは止まらなかった。
 医師として、何度も緊急の現場に立ってきた。命が落ちる音も聞いた。泣き声にも慣れている――はずだった。
 けれど、これは違う。ここには“責任”だけがある。権限はない。守る相手は、患者ではなく家族だ。しかも相手は国家と魔法だ。自分の経験則が、どこにも刺さらない。

 ふと、胸ポケットの重みが気になった。
 無意識に手がそこへ向かう。

 指が触れたのは、紙の箱だった。角が潰れた、見慣れた形。いつもなら「やめろ」と自分で叱る類のもの。だが、今日は叱る余裕がない。心拍を鎮める何かが欲しかった。手の中で箱が鳴る。残っているのは、わずか。

 母が気づく。視線が私の手元へ落ちる。
 月子も気づく。眉が寄る。
 父はコハクを撫でる手を止めないが、目だけが心配そうに動く。

 私は苦笑し、紙に書いた。

『一本だけ。落ち着くため。』

 母はすぐに返す。

『換気。火。匂い。監視。』

 分かっている。全部分かっている。
 それでも、私は立ち上がり、窓のそばへ行った。レース越しに外の風景はぼやける。鍵の位置が分からない窓を、慎重に触る。少しだけ隙間ができた。冷たい空気が入ってくる。ありがたい。

 火をつける動作は、手が覚えていた。
 カチリという音が、やけに大きく響いた気がして、背中がぞわりとする。

 煙を吸い込む。
 肺が熱を受け止め、脳が遅れて「落ち着け」と命じる。
 吐き出した煙は、窓の隙間から細く逃げていく。逃げる煙を見て、私は思った。逃げられるのは煙だけだ。私たちは、ここに留められている。

 月子が紙に書く。

『それ、見られたら怒られない?』

 私は紙に返す。

『怒られるなら、それでいい。殴られるよりは。』

 母が、少しだけ苦く笑った顔をして、書く。

『あなたが倒れたら、全員困る。一本で終わり。』

 私は頷き、煙を短くして消した。
 灰皿がない。私はカップの受け皿を使う誘惑を飲み込み、布に包んで火を完全に消す。匂いが残るのは分かっている。それでも、今は“自分が崩れない”ことを優先した。

 席へ戻ると、父がコハクの耳の裏を撫でていた。コハクは満足したように目を細め、父の指に頬を押し付ける。月子はその光景を見て、さっきまで尖っていた目をほんの少しだけ緩めた。

 母が、紙を寄せる。
 紙の上には、短い見出しが書かれていた。

『次。』

 私たちは視線を合わせる。次に何を試すか、次に何を守るか、次に何を捨てるか。
 窓の隙間から入ってくる夜気が、背中を冷やした。

 扉の向こうの気配は変わらない。
 だが、こちらの中では、確かに一つ変わったものがあった。

 隠せる場所がある。
 確認できる目がある。
 そして――守りたいものが、いまも父の膝の上で生きている。

 私は、机の端の紙に、最後にひとことだけ書き足した。

『焦らない。生き延びる。』
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