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第15話 切り分けるための説明
しおりを挟む石の壁は、音を吸わない。人の声も、沈黙も、やけに輪郭だけをくっきり残す。
私は椅子に腰を下ろしたまま、背筋だけを伸ばしていた。目の奥が痛い。眠れていないのが、体の内側からじわじわと効いている。疲労は鈍くなるのではなく、余計なものまで鮮明にする――医師として何度も見てきた感覚だ。いま私は、まさにその状態にいる。
対面の男――役人だろう。服の質は上等だが、派手さはない。机の上には紙束とペン。質問する者と、書き取る者がいる。形式だけは整っている。だからこそ、こちらの言葉はひとつひとつ切り分けて渡さなければならない。
男は、首を傾げた。
「……あなた方は、彼らとどういうご関係ですか?」
また同じところに戻ってきた。先ほどから、角度を変えて何度も聞かれている。こちらが嘘をついていると断定しているのではない。むしろ、信じたい筋書きが先にあり、そこへ私たちを押し込みたいだけだ。だから、答えが合わないと、質問が繰り返される。
月子が隣で、口を一文字に結んでいる。父は膝の上のコハクを抱え、胸元を撫でるようにして落ち着かせていた。母は、視線を机上に置いたまま、表情を崩さない。こういう時の母は強い。設計図の線を引くように、必要な線だけを引き、余白に踏み込ませない。
私は息を吸い、淡々と答えた。
「赤の他人です。正確には、迷惑をかけられてきた側です」
男の眉がわずかに動く。
「迷惑……。ですが同時に召喚された。偶然にしては……」
「偶然です」
月子が短く切った。声に棘が乗るのは、向こうに境界線を見せるためだ。これ以上、踏み込むな、と。
男は咳払いをひとつし、言葉を慎重に選ぶように続けた。
「念のため、確認です。迷惑というのは、口論や隣人トラブルの類ではなく?」
私はそこで、視線を男の目に合わせた。嘘を混ぜる気はない。ただし、全てを差し出す気もない。医療でも同じだ。必要な情報だけを出し、余計な情報は守る。それが、相手のためにも自分のためにもなる。
「……口論では済んでいません」
男は、さらに首を傾げた。疑うというより、想像が追いついていない顔だ。
私は、例を“ひとつ”だけ話した。ひとつで十分だ。ひとつで相手の顔色が変わるなら、残りは言う必要がない。
「彼は、衝動的に犬を買いました。柴犬です。可愛い可愛いと言っていましたが、世話は続きませんでした。遊びに行く用事ができるたびに、うちに預けて出ていく。断ると――」
そこで言葉を切る。記憶の端に、玄関前の気配が蘇った。リードが引っかかる音。か細い声。気づかなければ、どうなっていたか。
「断ると、玄関の取っ手にリードを引っかけて置いていったこともあります。気づいたから良かった。気づかなければ、犬は外に取り残されます。雨でも、寒さでも。……私は医師なので、最悪の想像をしてしまう。事故が起きる前に止めたい。だから受け入れてきた。そういう“押し付け”が、何度もありました」
男の顔色が、目に見えて変わった。頬がさっと引き、唇が乾いたように開く。青ざめる、という言葉がそのまま当てはまる。
「……それは……」
呟きが漏れる。隣の書記役が、ペン先を止めた。紙の上に小さな染みが落ちる。誰もが、そこまでの話を想定していなかったのだろう。
私は続けない。続ければ、こちらが“語り”に引きずり込まれる。そうなれば、向こうのペースになる。私はそこで、きっぱりと線を引いた。
「ただ、いくらなんでも細部まで話すつもりはありません。こちらが話すほど、話がこじれます。昨日、あなた方の前で、あの……鑑定を担当した者がいましたね。あの者に確認してください。あの場で彼は、こちらの情報を勝手に覗き見し、口にしました。彼の方が、よく知っているはずです」
男の目が泳いだ。あの“やり方”を是とする空気が、この国の中にもあるのだろう。だが、今の反応は、少なくともこの男がそれに慣れていない証拠でもある。
私は、なおも余計なことは言わない。すでに切れている事情まで渡す必要はない。家庭の形の話は、こちらの弱点にも武器にもなる。どちらに転ぶか分からない以上、伏せる。医師としてではなく、家族の長男としての判断だ。
男は口の中で、ぶつぶつと何かを呟いた。計算だ。紙に書くべきことと、書かない方がいいことを、今この瞬間に分類している。
やがて男は、椅子から立ち上がった。
「……承知しました。確認いたします」
深い礼はしない。だが、形式的な会釈は残す。扉へ向かい、静かに退室していった。
扉が閉まった瞬間、部屋の空気がほんの少しだけ緩んだ。緩んだ分、疲労が押し寄せる。私は目を閉じたい衝動を噛み殺した。眠気に負けたら、守るべき線が崩れる。
父の腕の中で、コハクが小さく鼻を鳴らす。緊張がほどけた音のようにも聞こえた。父はコハクの頭を撫でながら、声を落として言う。
「……言い方、厳しくしすぎたか?」
「ちょうどいい」
月子が即答した。怒りを抑えている声だ。怒りは悪くない。怒りは、線を守るための燃料になる。ただし、燃え広がらせてはいけない。母はそれを分かっている。
母は、机の端を見つめたまま、静かに息を吐く。
「聞かれるのは、ここからが本番でしょうね」
その通りだ。関係を切り分けたいのは私たちだが、向こうの都合は別だ。向こうは“便利な分類”を欲しがる。勇者側、協力者側、敵側――そのどれかに押し込みたい。押し込めば、扱いが楽になるからだ。
そこへ、入れ替わるように入室したのはヴァレリアだった。
薄い色の長い金髪をきっちり束ね、背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま歩いてくる。昨夜よりも表情が硬い。忙しさの硬さではない。責任の硬さだ。寝ていない人の顔をしている。
「お待たせしました」
ヴァレリアは私たちを一度見回し、すぐに頭を下げた。
「本来、あなた方にこのような確認を重ねる必要はありませんでした。……不快な思いをさせたことを、まずお詫びします」
謝罪は形ではない。そう感じるのは、声に逃げがないからだ。だが、謝られたからといって、こちらの不安が消えるわけではない。
私は頷きだけ返した。謝罪を受け取るのは、信用するのとは違う。
ヴァレリアが椅子を勧めるより先に、母が口を開いた。
「ヴァレリアさん。先に確認したいことがあります」
母の声は落ち着いている。けれど、迷いがない。今の母は、“家族の代表”の声をしている。私が医師として会議室で見る上席の声に似ている。
「昨日の紅茶。夕食。今日の朝食。それから配膳してくださった方々の人件費。……この滞在に関わる費用は、私たちが負担する形になりますか」
私の意識が一段、引き締まった。
金額の問題ではない。負担が発生するなら、その瞬間に“借り”が生まれる。借りは、好意の形をして足枷になる。ここが異世界であっても、それは変わらない。むしろ、変わらないからこそ危険だ。
ヴァレリアは一拍だけ置き、はっきりと言った。
「請求はしません。あなた方は巻き込まれた側です。こちらの側の都合で、こちらの側の場所に連れて来られた。ですから、滞在に関わる費用は、国が負担します」
母は小さく頷いた。その頷きは安堵ではなく、線が一本引けたことへの確認だ。
私は胸の奥で息をついた。少なくとも、今この瞬間の形としては“客”に近い扱いでいられる。捕まえられているのと、守られているのは似ているが、似ているだけで違う。違いは、こちらの意思が通るかどうかにある。
母は続けた。
「分かりました。では――」
母は机の上に置かれた紙束に手を伸ばさない。触れないことで、こちらが主導権を持つ。設計士の交渉術だ。触れた瞬間、相手の書式に乗ってしまう。
「昨日、家族で話し合ったことを切り出します」
その言葉で、月子の背筋が伸びた。父の腕の中で、コハクが静かに目を細める。私の頭の痛みは消えないまま、意識だけが研ぎ澄まされる。
ヴァレリアの目が、わずかに鋭くなる。否定ではない。こちらの“条件”が出ると理解した目だ。
母は、静かに、しかしはっきりと続けようとした。
私たちがこの国で生き延びるために必要な線――その線を、これから言葉にするために。
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