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第16話 庭の条件
しおりを挟む母が「条件です」と口にした瞬間、部屋の空気が目に見えない重さを持った。
ヴァレリアは椅子の背から少しだけ身を離し、机上の紙束には触れずに、こちらをまっすぐ見た。謝罪の言葉を並べる顔ではない。受け取るか、拒むか、交渉するか。そういう実務の目だった。
父が、コハクの体を抱き締める腕に力を込めた。コハクは父の胸元に顔を埋め、鼻を鳴らす。小さな呼吸が、こっちの胸の内側まで震わせる。
「……先に、ひとつ」
父が言った。声は低いが、芯が折れていない。専業主夫という言葉の響きがどうあれ、家族を守る瞬間だけは、役職なんて関係ない。父は父の声で言う。
「犬がいます。コハクが。……できれば、走り回れる庭のある家がいい。狭い部屋に閉じ込めたくない」
ヴァレリアの視線が、父の腕の中の白い毛玉に落ちた。コハクは一瞬だけ顔を上げ、知らない匂いのする空気を警戒するように鼻先を震わせたが、すぐ父の胸へ戻った。
「庭、ですか」
ヴァレリアは驚いたように目を瞬かせた。けれど、それは否定の驚きではなく、「その発想が最初に出るのか」という意外性に近い。
月子が、間髪入れずに言葉を重ねた。
「それに、家族はできるだけ離れたくない。部屋を分けられるのは分かるけど、近い配置がいい。見張られてもいいから、せめて“こちらが分かる形”で」
月子の声は冷たい。怒っている時の冷たさだ。熱くなれば負けると分かっていて、敢えて氷の言葉を選んでいる。私はその横顔を見ながら、胃の奥の疲れが少しだけ軽くなるのを感じた。家族の中に、同じ温度の人間がいる。それだけで、踏みとどまれる。
母は頷き、机の上に視線を固定したまま続けた。
「それと、私たちは、この国に“連れて来られた側”です。滞在費用は国が負担すると言ってくださいました。そこは理解しました。ですが、生活の形をこちらが決める余地がないなら、実質は監禁と変わりません」
母の言葉は、線を引く。設計図の線だ。太く、まっすぐで、迷いがない。
ヴァレリアは、すぐには答えなかった。沈黙で相手を圧迫するタイプの人間ではない。ただ、返事をする前に、条件を“計算”している。何が可能で、何が不可能で、どこで折り合いをつけるか。
私はここで、昨日から胸の奥に引っかかっていたものを言うべきだと判断した。
「ヴァレリアさん」
自分の声が少しかすれているのが分かった。寝不足のせいだ。けれど、言葉はぶれない。ぶれさせない。
「俺たち、余計なものはいりません。……変な知識もいりません」
月子が横目で私を見る。母も、父も、ほんの少しだけ目の動きが止まった。言い方が乱暴だと分かっている。だが、乱暴でいい。ここは飾る場ではない。
「最低限の知識が欲しいです」
私は一つずつ、指で机の縁をなぞるように整理していく。自分が混乱すると、相手に隙を渡すからだ。
「ここがどんな国で、どんな法律があって、何がやったら駄目で、どこまでが許されるのか。通貨は何で、物の相場はどれくらいで、医療はどうなっていて、食材は何が危ないか。外に出られるのか、出られないのか。出られるなら範囲はどこまでか。誰に許可を取るのか。……そういう、生活の土台の情報です」
ヴァレリアの顔が、また驚きに変わった。だが今度は、先ほどよりもはっきりと。まるで、別の方向から殴られたみたいな表情だった。
「あなたは……」
彼女は言葉を探し、すぐに切り替えた。
「いえ。失礼。合理的です」
母が小さく頷く。父が、コハクの背を撫でる。月子は腕を組んだまま、まだほどけない。
ヴァレリアは息を整え、短く答えた。
「庭付きの家。家族が近くにいられる配置。監視の有無は明確化。生活に必要な基礎情報の提示。……承知しました」
早い。私は内心で警戒を強めた。早い同意は、後で条件を削るための前置きになることがある。
案の定、ヴァレリアは続けた。
「ただし、場所は選べません。安全の確保のため、国が用意した区画になります。庭付きと言っても、貴族の邸宅のような規模ではない。ですが、犬が走れる程度の敷地は用意できます」
父の肩の力が、ほんの少しだけ抜けた。コハクが走れる庭。異世界で、まずそこが叶うかどうかが、父の心臓を掴んでいたのだ。
月子が低い声で言う。
「監視は?」
「付きます」
ヴァレリアは逃げずに言った。
「ですが、隠しません。誰が責任者で、何人が、どの範囲で見守るのか。あなた方に説明します」
母の目が細くなる。良い、という合図ではない。条件の“条文”が一つ成立した目だ。
私は続けた。
「基礎情報は、口頭だけだと不安です。書面で欲しい」
ヴァレリアはまた一瞬だけ驚いた。けれど、今度はすぐに頷く。
「用意します。……あなた方は、こちらの言葉が通じることで、逆に混乱しているはずだ。聞けば分かる、という形は、あなた方にとって安心ではない。書面の方が、繰り返し確認できますね」
私は息を吐いた。初めて、この人がこちらの不安を“理解する形”で言語化した。信頼はまだしない。だが、交渉の相手として、最低限成立する。
母が静かに言った。
「それから、“関係性”の件。先ほどまで聴取されたようですが、私たちは彼らとは本当に無関係です。巻き込まれた以上、ここで一緒に扱われるのは困ります」
「分かっています」
ヴァレリアの返事は短い。
「こちらも、あなた方を同列に扱う気はありません」
月子が鼻で笑いそうになって、堪えた。笑えば負ける。月子の中でも、勝負になっている。
ここまで来て、私は最後の一点を口にするか迷った。けれど迷う理由は、綺麗事だ。現実は、資源がなければ家族は守れない。異世界で、味方がいない。情報もない。土地勘もない。こちらが“巻き込まれた被害者”なら、被害者として受け取るべきものがある。
母の視線が、わずかにこちらに寄った。言え、という目ではない。判断しろ、という目だ。家族会議の続きは、ここにある。
私は言った。
「……慰謝料の話は、できますか」
父の腕が少しだけ強くなり、コハクが小さく鼻を鳴らした。月子の眉が上がる。母の表情は変わらない。だが、母の呼吸が一拍だけ深くなった。こちらが“受け取る側”に立つ覚悟を決めた合図だ。
ヴァレリアは、さすがに返答が遅れた。遅れたのは、拒否ではなく、意味を測っているからだ。こちらが金をせびっているのか、生活の保障を求めているのか。判断を誤れば、関係が壊れる。
「……慰謝料、というのは」
ヴァレリアが言葉を選ぶ。私は“最低限の知識”を求めた。その延長にあるのは、最低限の資源だ。
「こちらは、望んで来たわけじゃない。戻る方法も分からない。働く場所もない。物の相場も分からない。……国が滞在費用を負担するのは当然として、それとは別に、こちらが自由に使える資金が必要です。逃げるためではありません。生活の基盤のためです」
父が、静かに頷いた。
「コハクのためにも、必要です。薬がいるかもしれない。食べ物が合わないかもしれない。……庭があっても、餌がなければ走れません」
月子も言う。
「俺たちが無関係って言うなら、余計に。あっちの家族の尻ぬぐいに巻き込まれるのは御免。こっちが守るべきものを守るための資源は、こっちに渡して」
月子の言い方は刺々しい。だが、刺々しくていい。ここで優しく言えば、優しさごと持っていかれる。
ヴァレリアは目を閉じ、短く息を吐いた。そして、目を開けた時には、実務の顔に戻っていた。
「……分かりました。あなた方が求めているのは、贅沢ではなく、自由のための最低限ですね」
私は頷く。贅沢ではない。贅沢を求めるなら、もっと別の言い方をしている。私たちは、ただ家族を守りたいだけだ。
「慰謝料として、一定額を支給します。現金に相当する形で。こちらの通貨に慣れていないでしょうから、当面は“引き出せる”方式にします。食料や日用品も別枠で用意します。……ただし、詳細は手続きが必要です」
母が、そこで初めて紙束に触れた。指先で、紙の端を押さえる。触れたのは、相手の書式に乗るためではない。こちらも“合意”の段階に入ったという意思表示だ。
「それで結構です」
母の声は淡々としている。だが、淡々としているからこそ、腹が決まっているのが分かる。
私は、父と目を合わせた。父はコハクを抱き締めたまま、静かに頷いた。月子も、ほんの少しだけ肩の力を抜いて頷く。
慰謝料なら、受け取る。
私たちは、互いに頷き合った。
ヴァレリアは、その頷きを見届けると、机上の紙束を整えるように指を揃えた。
「では、あなた方の条件を、正式に文書にします。庭付きの住まい。家族の同室または隣接。監視の明示。生活の基礎情報の書面提供。慰謝料の支給。……これらを、国として約束する形にします」
私は、その言葉を聞きながらも、油断しなかった。約束は紙に書かれて初めて意味を持つ。紙に書かれた約束は、破られる時に“破った”と言える証拠になる。いま私たちに必要なのは、感情的な安心ではない。守るための構造だ。
父の腕の中で、コハクが小さく欠伸をした。緊張の糸がわずかに緩んだ時にだけ出る、無防備な仕草。
異世界の空気はまだ冷たい。
それでも――家族の間に引く線だけは、少しずつ、こちらの手で引き直せる。
そう思えた。ほんの少しだけ。
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