死者からの検索履歴、削除しますか? ~デジタル遺品整理室の暗号解読~

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第二章:黒い履歴と白い嘘

第20話 消えたビットコインと太陽の女

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 神保町の地下深く、『デジタル・アーカイブス社』。
 12月の寒空とは無縁のこの熱帯びた空間に、今日は異国情緒あふれる濃厚な香りが充満していた。

「……焦がすなよ。極限まで煮詰めるが、炭化させてはならない」

 所長の阿部邦彦は、巨大な中華鍋の前で仁王立ちしていた。
 鍋の中でグツグツと煮えたぎっているのは、茶色い泥のような物体――ではない。
 牛肉の塊だ。それも、大量のココナッツミルクと、数え切れないほどのスパイスで煮込まれた、至高の肉塊である。

「石川、レモングラスとカフィアライムの葉を追加だ。香りのレイヤーを重ねろ」
「は、はい! ……でも所長、これ何時間煮込むんですか? もう4時間経ってますけど」
「甘いな。本場のルンダンは、水分が完全に飛び、ココナッツミルクから滲み出た油で肉が『揚げ煮』の状態になるまで続けるんだ」

 ルンダン。
 インドネシア・西スマトラ州の伝統料理であり、かつてCNNの「世界で一番美味しい料理」ランキングで1位に選ばれたこともある、牛肉のスパイス煮込みだ。
 阿部はその「世界一」を再現するために、朝からスパイスを石臼で挽き、牛肉をマリネし続けていたのだ。

「水分を飛ばすことで、旨味とスパイスが肉の繊維一本一本にまで凝縮される。これは料理じゃない。保存食であり、芸術だ」

 阿部は木べらで鍋底をこそげ取りながら、哲学者のような顔で語る。
 鍋の中の水分は飛び、褐色のペーストが肉に絡みついている。
 ココナッツの甘い香りと、唐辛子、ガランガル、ターメリックの刺激的な香りが混ざり合い、脳髄を直撃する。

「……そろそろ完成だ。飲み物の準備をしろ」
「はい! ビールですか? ワインですか?」
「水だ」
「えっ? 水?」
「本場では常温の水か、甘い紅茶を合わせるのが一般的だ。ルンダンの濃厚なコクとスパイスの刺激を受け止めるには、余計な味のしない『水』が最適解だ。……あえて言うなら、硬度高めのミネラルウォーターだな」

 阿部は冷蔵庫から、フランス産の高級ミネラルウォーターを取り出した。
 とことんこだわる男だ。

 その時。
 地下室のドアが、ノックもなしに勢いよく開かれた――いや、蹴破られたかのような音がした。

「Heeeeey!! いい匂いさせてるじゃない!」

 突風と共に現れたのは、太陽そのもののような女性だった。
 身長180センチはあろうかという長身。
 輝くようなブロンドのロングヘアをなびかせ、真冬だというのにタンクトップに革ジャンという薄着。
 引き締まった腹筋が見え隠れする、モデルのようなプロポーション。
 そして何より、その青緑色の瞳は、好奇心とエネルギーでギラギラと輝いていた。

「Are you Kuni? 伝説の整理屋、クニヒコ・アベはどこ!?」

 彼女は流暢だが独特なイントネーションの日本語で叫び、土足でズカズカと部屋に入ってきた。

「……誰だ、お前は」

 阿部が木べらを持ったまま睨みつける。
 しかし、金髪の美女は動じるどころか、阿部の目の前まで詰め寄り、いきなりガバッと抱きついた。

「Found you! 会いたかったわ、サムライ・ハッカー!」
「ぐっ……! 離せ、暑苦しい!」
「私はエミリー! エミリー・ローレンス! カナダから来たの!」

 エミリーと名乗った彼女は、窒息しそうなほどの力強いハグから阿部を解放すると、ニカッと白い歯を見せて笑った。

「あんたに依頼があるの。……これよ」

 彼女は革ジャンのポケットから、無造作に一枚のメモリーカードを取り出した。
 いや、よく見るとそれはただのSDカードではない。
 特殊な端子がついた、黒いスティック状のデバイスだ。

「……ハードウェアウォレットか」

 阿部の目が鋭くなる。
 ハードウェアウォレット。暗号資産の秘密鍵を、ネットから切り離して安全に保管するための物理デバイスだ。

「Exactly(その通り)! これ、私のクライアントの遺品なんだけど……パスワードが分からなくて、中にある1000BTC(ビットコイン)が取り出せないのよ」
「1000BTC……!?」

 私は思わず計算してしまった。
 今のレートで換算すると……す、数億円? いや、もっと?

「クライアントは急死した個人投資家。遺族はパスワードなんて聞いてない。メーカーのサポートも『秘密鍵がないなら復旧不可能』の一点張り。……そこで、あんたの噂を聞いて飛んできたってわけ」

 エミリーはウィンクをした。

「あんたなら開けられるでしょ? 元警察のサイバーエースさん?」
「……断る」

 阿部は即答し、鍋に戻った。

「俺は投機には興味がない。金のために数字を弄るのは、俺の美学に反する」
「Oh, come on!(おいおい!) 金のためだけじゃないわよ!」

 エミリーは阿部の背中に回り込み、大げさに肩をすくめた。

「これは『夢』の欠片なのよ。彼はこのビットコインで、故郷に学校を建てるつもりだったの。それがパスワード一つで電子の藻屑になるなんて、悲しすぎるじゃない?」
「……知らん」
「それに、成功報酬はこれの10%。……今のレートで数千万よ?」
「……」

 阿部の手が止まった。
 背中から「金欠」というオーラが立ち上っている。
 大家への家賃先払い、子猫の餌代、そしてこだわりの食材費。この事務所の財政事情は常に火の車だ。

「……話を聞こうか」
「Good boy!」

 エミリーは阿部の背中をバンバンと叩いた。

 解析作業が始まった。
 エミリーも自分のノートPCを取り出し、阿部の横に陣取った。
 彼女のPCは、見たこともないような形状をしていた。画面が3つに展開し、キーボードが七色に光っている。

「へえ……すっげ。何これ」

 いつの間にか起きてきた住み込みバイトの小川みずほが、エミリーの手元を覗き込んでいる。
 普段は無愛想なみずほだが、ガジェット好きの血が騒ぐらしい。

「これ? 特注のモバイルワークステーションよ。CPUはオーバークロック済み、GPUはデュアル構成。……触ってみる?」
「いいの? ……うわ、キーの打鍵感、最高じゃん」
「でしょ? アヤ、この子誰? 妹?」

 エミリーが私に尋ねる。

「あ、いえ、アルバイトのみずほちゃんです。音響解析のスペシャリストなんです」
「Wow! Cool! よろしくね、ミズホ!」
「……よろしく、派手な姉ちゃん」

 みずほは生意気な口調だが、まんざらでもなさそうだ。
 エミリーは誰とでも一瞬で距離を詰める才能があるらしい。

「さて……解析状況はどうだ、カナダ」

 阿部がモニターを見ながら尋ねる。

「タフね。このウォレット、物理的な改ざん検知機能がついてる。無理にこじ開けようとすると、中のチップが自壊する仕組みよ」
「だろうな。総当たり攻撃は3回でロックされる。……バックドアを探すしかない」
「メーカーのファームウェアに脆弱性があるって噂を聞いたことがあるわ。バージョンは……あった、v2.1.4。これなら行けるかも」

 エミリーの指がキーボードの上を舞う。
 その速度は、阿部に勝るとも劣らない。
 彼女はただの明るいお姉さんではない。超一流のハッカーだ。

「……おい、クニ。ここ、暗号化のアルゴリズムがおかしいわ。SHA-256じゃなくて、独自のハッシュ関数を使ってる」
「クニ? 俺をその名で呼ぶな」
「いいじゃない、可愛いわよ。……ねえ、これ見て。ハッシュ値の末尾に、規則的なパターンがある」

 阿部がエミリーの画面を覗き込む。
 二人の顔が近い。
 阿部は嫌そうな顔をしているが、技術的な興味には抗えないようだ。

「……なるほど。タイムスタンプを利用したソルトか。生成時刻を逆算すれば、シード値を特定できるかもしれん」
「Bingo! さすがクニ、話が早いわ!」

 エミリーと阿部。
 水と油のように見えて、技術者としての言語は共通している。
 二人の連携攻撃により、鉄壁に見えたウォレットのセキュリティが、一枚ずつ剥がされていく。

 数時間後。
 最後のロックが解除された。

「Open sesame!(開けゴマ!)」

 エミリーがエンターキーを叩く。
 画面に、ウォレットの残高が表示された。

 『1,000.00000000 BTC』。

「……やった」
「Easy peasy!(楽勝ね!)」

 エミリーはハイタッチを求めたが、阿部はスルーしてコーヒーを飲んだ。

「……仕事は終わりだ。帰れ」
「冷たいわねえ。お祝いしましょうよ!」
「そうだ、祝いだ!」

 その時、またしてもドアが開いた。
 今日は来客が多い。
 現れたのは、大家の後藤かほり、葬儀屋の岡田アキ、情報屋の中島鞠、そして弁護士の藤田涼子だった。
 示し合わせたかのようなタイミングだ。

「いい匂いが上まで漏れてるわよ、阿部くん」
「ルンダンでしょ? 私、これ大好物なのよね」
「ビットコインが見つかったんですって? 脱税の相談なら乗るわよ」
「阿部ちゃん、酒持ってきたよ!」

 全員集合だ。
 狭い地下室の人口密度が一気に上がる。

「……お前ら、どこから湧いてきた」
「あら、賑やかでいいじゃない! パーティーね!」

 エミリーは臆することなく、新入りのメンバーたちに挨拶回りを始めた。
 アキさんとは「イエーイ!」とノリが合い、涼子さんとは英語で何か話し込み、かほりさんとは本の話題で盛り上がり、鞠さんとは……何やら怪しい情報交換をしている。
 コミュ力お化けだ。

「……はあ。動物園かここは」

 阿部は諦めたようにため息をつくと、キッチンへ向かった。
 そして、完成したルンダンを大皿に盛り付けた。
 茶褐色の肉塊。余分な水分は飛び、油が照り輝いている。

「食え。世界一の味だ」

 阿部がテーブルに皿を置く。
 全員が歓声を上げた。

「いただきます!」

 ルンダンを口に運ぶ。
 噛み締めた瞬間、凝縮された旨味が爆発した。
 牛肉の繊維がほろりと崩れ、中からココナッツの甘みとスパイスの辛味が溢れ出す。
 濃厚だ。あまりにも濃厚で、暴力的ですらある旨味。

「……んんっ! 美味しい!」
「何これ、お肉じゃないみたい!」
「辛いけど、止まらないわね……」

 そして、すかさず水を飲む。
 冷たい水が、口の中の油分と辛味を洗い流し、リセットしてくれる。
 すると、また次の一口が欲しくなる。
 無限ループだ。

「Yummy! クニ、あんた天才よ! 私と結婚してカナダに来ない?」
「断る」
「じゃあ、私がここに住むわ!」
「は?」

 エミリーはルンダンを頬張りながら宣言した。

「私、日本の文化も、ここのメンバーも気に入ったわ。特に、このルンダンを作るシェフと、クールな妹がね」
「姉ちゃん、私は妹じゃねーよ」
「いいじゃない。……私、しばらく日本に滞在する予定なの。ここのソファー、借りていい?」
「ダメだ。定員オーバーだ」

 阿部が拒否するが、かほりさんが口を挟んだ。

「いいんじゃない? 家賃、多めに払ってくれるなら」
「大家!」
「それに、彼女のスキルは使えるわ。海外のサーバーへのハッキングや、暗号資産の追跡……『ファントム』を追うのに必要でしょう?」

 かほりさんの言葉に、場の空気が一瞬だけ変わった。
 鞠さんと涼子さんも、意味ありげな視線を交わす。
 ここにいる全員が、ただの飲み仲間ではない。それぞれの分野のスペシャリストであり、阿部が抱える「闇」と戦うためのチームなのだ。

「……勝手にしろ」

 阿部はルンダンを飲み込み、そっぽを向いた。
 それは、実質的な承諾だった。

「やった! よろしくね、みんな!」

 エミリーがグラスを掲げる。
 私たちもグラスを合わせた。

 阿部邦彦。石川彩。
 中島鞠、岡田アキ、後藤かほり、小川みずほ、藤田涼子。
 そして、太陽のようなエミリー・ローレンス。
 8人のスペシャリストが、この地下室に揃った。

 子猫が「ミャー」と鳴き、エミリーの膝の上に乗った。
 彼女は嬉しそうに子猫を撫でる。
 
 賑やかで、カオスで、でもどこか心地よい空間。
 ルンダンのスパイシーな香りが、私たちの新しい門出を祝っているようだった。
 最強のチームが、今ここに完成したのだ。
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