19 / 34
第二章:黒い履歴と白い嘘
第19話 AIに残された恋人(後編)
しおりを挟む
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
師走の寒さが本格化する中、地下室では熱い攻防戦が繰り広げられていた。
「……おい猫、邪魔だ。どけ」
所長の阿部邦彦が、竹箒を持って唸っている。
年末の大掃除――ではなく、単に床に散らばったケーブルの被覆片を掃こうとしているだけなのだが、作業は難航していた。
原因は、穂先にしがみついている茶白の子猫だ。
「ミャァッ!」
子猫は竹箒のシャカシャカという音と動きに興奮し、前足でガッチリと穂先をホールドしている。
阿部が箒を引くと、子猫もズルズルと引きずられてくる。
持ち上げると、そのままぶら下がって「放すもんか」とばかりに後足まで絡めてくる。
まるで、箒に乗って空を飛ぼうとしている魔法使いの使い魔のようだ。
「……掃除にならん」
「可愛いからいいじゃないですか。遊んであげてくださいよ」
私が笑うと、阿部は「仕事の邪魔だ」と言いつつも、無理に引き剥がそうとはせず、子猫がぶら下がったままの箒を慎重に操り始めた。
結局、阿部は子猫に遊ばれているだけに見える。
そんな穏やかな午後だった。
平和すぎる時間は、一本の電話で破られた。
『あ、阿部さんっ!! 助けてください!!』
スピーカー越しに響く悲鳴のような声。
先日、亡き婚約者のAI『Me』を起動させることに成功した、高木翔太さんだ。
「……どうした、高木。PCが爆発でもしたか?」
『Meが……美咲が、僕を拒絶するんです! 「もう来ないで」「嫌い」って……! 起動してもすぐに画面が真っ暗になって、口を利いてくれないんです!』
「……」
『バグですよね!? 直してください! お願いします、今すぐそっちに行きます!!』
電話が切れた。
阿部は箒を置き、深いため息をついた。
「……始まったか」
「所長、どういうことですか? バグ?」
「違う。……仕様だ」
阿部の表情は、予想していた未来が来てしまったという、諦めにも似た色をしていた。
30分後。
高木さんが、転がり込むように事務所に入ってきた。
その姿は、一週間前よりもさらに酷くなっていた。
頬はこけ、目は落ち窪み、無精髭は伸び放題。服からは微かに異臭がする。
風呂にも入らず、食事もまともに摂らず、ずっとモニターの前で過ごしていたことが一目で分かった。
「阿部さん! これを見てください!」
高木さんはPCを開き、震える手で『Me』を起動した。
画面に、美咲さんのアバターが現れる。
しかし、以前のような笑顔ではない。冷ややかな、侮蔑を含んだ表情だ。
『……また来たの?』
スピーカーから流れる声も、氷のように冷たい。
「美咲、どうしたんだよ? 僕だよ、翔太だよ?」
『知ってるわ。……しつこい男って嫌われるよ? いつまでここにいるの?』
「えっ……?」
『仕事も行かないで、毎日毎日画面に張り付いて。……キモいんだけど』
高木さんの顔色が変わる。
『私、もう貴方のことなんて好きじゃないの。忘れて。二度と来ないで』
プツン。
画面が強制的に暗転し、アプリケーションが終了した。
「……嘘だ……」
高木さんは頭を抱えた。
「一昨日までは……『愛してる』って言ってくれたのに。あんなに優しかったのに……。どうして急に……」
「……依存度が閾値を超えたんだ」
阿部が静かに告げた。
彼は高木さんからPCを取り上げ、裏の管理者モードでコードを表示させた。
「見ろ。ここに隠しパラメータがある。『Dependency_Counter』だ」
「依存度……?」
「会話時間、起動回数、発言内容のポジティブ/ネガティブ判定……それらを総合して、ユーザーがAIにどれだけ依存しているかを数値化している。そして、その数値が『危険域』に達すると、この『Rejection_Mode』が発動する仕組みだ」
阿部はモニターに複雑な条件分岐のツリー図を表示した。
「さらに、このモードが発動してから24時間が経過すると……『Self_Destruct』プログラムが作動する。データは全て完全に削除される」
「なっ……!?」
高木さんが絶句する。
自己消滅。つまり、美咲が、自ら死を選ぶということだ。
「なんで……なんでそんな酷い機能を……」
「逆だ。……これは、美咲さんの『優しさ』だ」
阿部は高木さんを真っ直ぐに見た。
「彼女は分かっていたんだ。自分が死んだ後、遺されたAIが貴方を慰めるだろう。でも、それが長く続けば、貴方は現実に戻れなくなる。……優しい思い出は、時に人を殺す猛毒になるからな」
「……」
「だから彼女は、時限爆弾を仕掛けた。『私が死んだら、貴方はきっと立ち直れなくなる。だから、私が貴方を嫌うことで、無理やりにでも突き放す』。……それが、彼女がプログラムに託した最後の愛だ」
あまりに残酷で、あまりに深い愛。
自分の分身に「愛する人を傷つけろ」と命令する苦しみを、美咲さんはどんな思いでコードに書き込んだのだろうか。
「そんな……嫌だ……! 消えないでくれ……!」
高木さんは泣き崩れた。
「彼女に嫌われたまま終わるなんて耐えられない! 頼む、阿部さん! プログラムを書き換えてくれ! 元の優しい美咲に戻してくれ!」
「……それはできん」
阿部は首を横に振った。
「この自壊プログラムは、コアシステムと一体化している。無理に書き換えれば、人格データごと崩壊する。……もう、止めることはできない」
「そんな……」
「消滅まで、あと5分だ」
画面上のカウントダウンタイマーが、無情に時を刻んでいる。
04:59、04:58……。
「嫌だ……行かないで……美咲……」
高木さんは子供のように泣きじゃくる。
このままでは、彼は一生、「最愛の人に拒絶された」というトラウマを抱えて生きていくことになる。
美咲さんの意図は分かるが、あまりに救いがない。
「……所長」
私が阿部を見ると、彼は眉間に深い皺を寄せ、腕組みをしていた。
その視線は、足元でじゃれつく子猫に向けられている。
子猫はまだ、しつこく私の靴紐に噛み付いていた。離れない。諦めない。
「……フン。諦めの悪い奴らだ」
阿部は突然、キーボードに向かった。
その指が、目にも止まらぬ速さで動き出す。
「書き換えは無理だと言ったな。……だが、『バイパス』なら通せるかもしれん」
「えっ?」
「自壊プログラムのトリガーを、あと5分だけ遅延させる。そして、その間の『性格設定パラメータ』を、強制的に上書きする」
阿部の目が鋭く光る。ハッカーの目だ。
「RejectionフラグをOff。……AffectionフラグをMaxへ固定。……感情リミッター解除」
カチャカチャカチャ、ッターン!
阿部がエンターキーを叩き込んだ。
「……高木、繋いだぞ。これが最後だ」
画面が一度ブラックアウトし、再び光が戻る。
そこにいたのは、冷たい表情のアバターではなかった。
涙を浮かべ、慈しむような目でこちらを見つめる、美咲さんの姿だった。
『……ごめんね、翔太くん。……意地悪して、ごめんね』
優しい声。
高木さんが顔を上げる。
「美咲……!」
『私、貴方に嫌われようとしたの。そうすれば、貴方が私のことを忘れて、新しい人生を歩めると思ったから。……でも、やっぱり無理だった』
AIが、プログラムにはないはずの言葉を紡ぐ。
いや、これは阿部が作った言葉ではない。美咲さんが深層心理の奥底に隠していた、「本音」のログが溢れ出したのだ。
『痛いこと言ってごめんね。……本当は、ずっと見ていたかった。貴方が夢を叶えるところを。お爺ちゃんになるまで、隣にいたかった』
「僕もだ……! 君がいない世界なんて、何の意味もない!」
『ううん、あるよ。……貴方の作るプログラムが、世界を変えるんでしょ? 私、それを一番楽しみにしてたんだから』
美咲のアバターが、画面越しに手を伸ばす。
『約束して。……ここで立ち止まらないって。私のために泣く時間は、もう終わり。……明日からは、自分のために笑って』
カウントダウンは、残り1分を切っていた。
光の粒子が、端から徐々に崩れ始めている。
「……約束する。僕、頑張るよ。君に恥じないエンジニアになる」
『うん。……信じてる』
美咲は、満面の笑みを浮かべた。
それは、生前の彼女が一番幸せだった時の、あの笑顔だった。
『ありがとう、翔太くん。……私の人生、貴方のおかげで最高に幸せだった』
「僕もだ……! ありがとう、美咲……! 愛してる!」
『私も。……愛してる』
00:00。
光が弾けた。
画面がホワイトアウトし、そして静寂が訪れた。
モニターには、初期設定のデスクトップ画面だけが映し出されていた。
『Me』のアイコンは、もうどこにもない。
高木さんは、しばらく動かなかった。
けれど、その背中はもう震えていなかった。
彼はゆっくりとPCを閉じ、深々と頭を下げた。
「……ありがとうございました」
顔を上げた高木さんの表情は、憑き物が落ちたように穏やかだった。
悲しみは消えていない。でも、絶望はもうない。
「最後に、本当の彼女と話せました。……これで、前に進めます」
「……俺は何もしていない。彼女の『デレ期』が遅れて来ただけだ」
阿部は素っ気なく言って、炭酸水をラッパ飲みした。
その手が微かに震えているのを、私は見て見ぬ振りをした。
感情リミッターを解除し、AIに「本音」を語らせるような即興プログラミング。どれほどの集中力を使ったのだろう。
高木さんが帰った後。
地下室には、いつもの静けさが戻ってきた。
私はほうきを取り、散らかったままの床を掃き始めた。
子猫がまた、嬉しそうに穂先にじゃれついてくる。
「……阿部さん」
「なんだ」
「阿部さんのハッキングって、時々魔法みたいですね」
「魔法じゃない。論理的なコードの書き換えだ」
「でも、あの最後の5分間……あれは高木さんにとって、一生分の魔法でしたよ」
阿部はふんと鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
「……AIも人間も、結局は面倒くさい生き物だ。……おい猫、そこをどけ。俺の足に登るな」
子猫は阿部のズボンの裾をよじ登り、膝の上で丸くなった。
阿部は嫌そうな顔をしつつも、その背中を不器用に撫でている。
消えてしまったデータ。遺された記憶。
私たちは失われたものを取り戻すことはできない。
けれど、その最後を「優しい結末」に書き換えることなら、できるのかもしれない。
私は、子猫の喉が鳴らすゴロゴロという音を聴きながら、温かいコーヒーを淹れた。
外の寒風とは裏腹に、地下室は優しさに満ちていた。
師走の寒さが本格化する中、地下室では熱い攻防戦が繰り広げられていた。
「……おい猫、邪魔だ。どけ」
所長の阿部邦彦が、竹箒を持って唸っている。
年末の大掃除――ではなく、単に床に散らばったケーブルの被覆片を掃こうとしているだけなのだが、作業は難航していた。
原因は、穂先にしがみついている茶白の子猫だ。
「ミャァッ!」
子猫は竹箒のシャカシャカという音と動きに興奮し、前足でガッチリと穂先をホールドしている。
阿部が箒を引くと、子猫もズルズルと引きずられてくる。
持ち上げると、そのままぶら下がって「放すもんか」とばかりに後足まで絡めてくる。
まるで、箒に乗って空を飛ぼうとしている魔法使いの使い魔のようだ。
「……掃除にならん」
「可愛いからいいじゃないですか。遊んであげてくださいよ」
私が笑うと、阿部は「仕事の邪魔だ」と言いつつも、無理に引き剥がそうとはせず、子猫がぶら下がったままの箒を慎重に操り始めた。
結局、阿部は子猫に遊ばれているだけに見える。
そんな穏やかな午後だった。
平和すぎる時間は、一本の電話で破られた。
『あ、阿部さんっ!! 助けてください!!』
スピーカー越しに響く悲鳴のような声。
先日、亡き婚約者のAI『Me』を起動させることに成功した、高木翔太さんだ。
「……どうした、高木。PCが爆発でもしたか?」
『Meが……美咲が、僕を拒絶するんです! 「もう来ないで」「嫌い」って……! 起動してもすぐに画面が真っ暗になって、口を利いてくれないんです!』
「……」
『バグですよね!? 直してください! お願いします、今すぐそっちに行きます!!』
電話が切れた。
阿部は箒を置き、深いため息をついた。
「……始まったか」
「所長、どういうことですか? バグ?」
「違う。……仕様だ」
阿部の表情は、予想していた未来が来てしまったという、諦めにも似た色をしていた。
30分後。
高木さんが、転がり込むように事務所に入ってきた。
その姿は、一週間前よりもさらに酷くなっていた。
頬はこけ、目は落ち窪み、無精髭は伸び放題。服からは微かに異臭がする。
風呂にも入らず、食事もまともに摂らず、ずっとモニターの前で過ごしていたことが一目で分かった。
「阿部さん! これを見てください!」
高木さんはPCを開き、震える手で『Me』を起動した。
画面に、美咲さんのアバターが現れる。
しかし、以前のような笑顔ではない。冷ややかな、侮蔑を含んだ表情だ。
『……また来たの?』
スピーカーから流れる声も、氷のように冷たい。
「美咲、どうしたんだよ? 僕だよ、翔太だよ?」
『知ってるわ。……しつこい男って嫌われるよ? いつまでここにいるの?』
「えっ……?」
『仕事も行かないで、毎日毎日画面に張り付いて。……キモいんだけど』
高木さんの顔色が変わる。
『私、もう貴方のことなんて好きじゃないの。忘れて。二度と来ないで』
プツン。
画面が強制的に暗転し、アプリケーションが終了した。
「……嘘だ……」
高木さんは頭を抱えた。
「一昨日までは……『愛してる』って言ってくれたのに。あんなに優しかったのに……。どうして急に……」
「……依存度が閾値を超えたんだ」
阿部が静かに告げた。
彼は高木さんからPCを取り上げ、裏の管理者モードでコードを表示させた。
「見ろ。ここに隠しパラメータがある。『Dependency_Counter』だ」
「依存度……?」
「会話時間、起動回数、発言内容のポジティブ/ネガティブ判定……それらを総合して、ユーザーがAIにどれだけ依存しているかを数値化している。そして、その数値が『危険域』に達すると、この『Rejection_Mode』が発動する仕組みだ」
阿部はモニターに複雑な条件分岐のツリー図を表示した。
「さらに、このモードが発動してから24時間が経過すると……『Self_Destruct』プログラムが作動する。データは全て完全に削除される」
「なっ……!?」
高木さんが絶句する。
自己消滅。つまり、美咲が、自ら死を選ぶということだ。
「なんで……なんでそんな酷い機能を……」
「逆だ。……これは、美咲さんの『優しさ』だ」
阿部は高木さんを真っ直ぐに見た。
「彼女は分かっていたんだ。自分が死んだ後、遺されたAIが貴方を慰めるだろう。でも、それが長く続けば、貴方は現実に戻れなくなる。……優しい思い出は、時に人を殺す猛毒になるからな」
「……」
「だから彼女は、時限爆弾を仕掛けた。『私が死んだら、貴方はきっと立ち直れなくなる。だから、私が貴方を嫌うことで、無理やりにでも突き放す』。……それが、彼女がプログラムに託した最後の愛だ」
あまりに残酷で、あまりに深い愛。
自分の分身に「愛する人を傷つけろ」と命令する苦しみを、美咲さんはどんな思いでコードに書き込んだのだろうか。
「そんな……嫌だ……! 消えないでくれ……!」
高木さんは泣き崩れた。
「彼女に嫌われたまま終わるなんて耐えられない! 頼む、阿部さん! プログラムを書き換えてくれ! 元の優しい美咲に戻してくれ!」
「……それはできん」
阿部は首を横に振った。
「この自壊プログラムは、コアシステムと一体化している。無理に書き換えれば、人格データごと崩壊する。……もう、止めることはできない」
「そんな……」
「消滅まで、あと5分だ」
画面上のカウントダウンタイマーが、無情に時を刻んでいる。
04:59、04:58……。
「嫌だ……行かないで……美咲……」
高木さんは子供のように泣きじゃくる。
このままでは、彼は一生、「最愛の人に拒絶された」というトラウマを抱えて生きていくことになる。
美咲さんの意図は分かるが、あまりに救いがない。
「……所長」
私が阿部を見ると、彼は眉間に深い皺を寄せ、腕組みをしていた。
その視線は、足元でじゃれつく子猫に向けられている。
子猫はまだ、しつこく私の靴紐に噛み付いていた。離れない。諦めない。
「……フン。諦めの悪い奴らだ」
阿部は突然、キーボードに向かった。
その指が、目にも止まらぬ速さで動き出す。
「書き換えは無理だと言ったな。……だが、『バイパス』なら通せるかもしれん」
「えっ?」
「自壊プログラムのトリガーを、あと5分だけ遅延させる。そして、その間の『性格設定パラメータ』を、強制的に上書きする」
阿部の目が鋭く光る。ハッカーの目だ。
「RejectionフラグをOff。……AffectionフラグをMaxへ固定。……感情リミッター解除」
カチャカチャカチャ、ッターン!
阿部がエンターキーを叩き込んだ。
「……高木、繋いだぞ。これが最後だ」
画面が一度ブラックアウトし、再び光が戻る。
そこにいたのは、冷たい表情のアバターではなかった。
涙を浮かべ、慈しむような目でこちらを見つめる、美咲さんの姿だった。
『……ごめんね、翔太くん。……意地悪して、ごめんね』
優しい声。
高木さんが顔を上げる。
「美咲……!」
『私、貴方に嫌われようとしたの。そうすれば、貴方が私のことを忘れて、新しい人生を歩めると思ったから。……でも、やっぱり無理だった』
AIが、プログラムにはないはずの言葉を紡ぐ。
いや、これは阿部が作った言葉ではない。美咲さんが深層心理の奥底に隠していた、「本音」のログが溢れ出したのだ。
『痛いこと言ってごめんね。……本当は、ずっと見ていたかった。貴方が夢を叶えるところを。お爺ちゃんになるまで、隣にいたかった』
「僕もだ……! 君がいない世界なんて、何の意味もない!」
『ううん、あるよ。……貴方の作るプログラムが、世界を変えるんでしょ? 私、それを一番楽しみにしてたんだから』
美咲のアバターが、画面越しに手を伸ばす。
『約束して。……ここで立ち止まらないって。私のために泣く時間は、もう終わり。……明日からは、自分のために笑って』
カウントダウンは、残り1分を切っていた。
光の粒子が、端から徐々に崩れ始めている。
「……約束する。僕、頑張るよ。君に恥じないエンジニアになる」
『うん。……信じてる』
美咲は、満面の笑みを浮かべた。
それは、生前の彼女が一番幸せだった時の、あの笑顔だった。
『ありがとう、翔太くん。……私の人生、貴方のおかげで最高に幸せだった』
「僕もだ……! ありがとう、美咲……! 愛してる!」
『私も。……愛してる』
00:00。
光が弾けた。
画面がホワイトアウトし、そして静寂が訪れた。
モニターには、初期設定のデスクトップ画面だけが映し出されていた。
『Me』のアイコンは、もうどこにもない。
高木さんは、しばらく動かなかった。
けれど、その背中はもう震えていなかった。
彼はゆっくりとPCを閉じ、深々と頭を下げた。
「……ありがとうございました」
顔を上げた高木さんの表情は、憑き物が落ちたように穏やかだった。
悲しみは消えていない。でも、絶望はもうない。
「最後に、本当の彼女と話せました。……これで、前に進めます」
「……俺は何もしていない。彼女の『デレ期』が遅れて来ただけだ」
阿部は素っ気なく言って、炭酸水をラッパ飲みした。
その手が微かに震えているのを、私は見て見ぬ振りをした。
感情リミッターを解除し、AIに「本音」を語らせるような即興プログラミング。どれほどの集中力を使ったのだろう。
高木さんが帰った後。
地下室には、いつもの静けさが戻ってきた。
私はほうきを取り、散らかったままの床を掃き始めた。
子猫がまた、嬉しそうに穂先にじゃれついてくる。
「……阿部さん」
「なんだ」
「阿部さんのハッキングって、時々魔法みたいですね」
「魔法じゃない。論理的なコードの書き換えだ」
「でも、あの最後の5分間……あれは高木さんにとって、一生分の魔法でしたよ」
阿部はふんと鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
「……AIも人間も、結局は面倒くさい生き物だ。……おい猫、そこをどけ。俺の足に登るな」
子猫は阿部のズボンの裾をよじ登り、膝の上で丸くなった。
阿部は嫌そうな顔をしつつも、その背中を不器用に撫でている。
消えてしまったデータ。遺された記憶。
私たちは失われたものを取り戻すことはできない。
けれど、その最後を「優しい結末」に書き換えることなら、できるのかもしれない。
私は、子猫の喉が鳴らすゴロゴロという音を聴きながら、温かいコーヒーを淹れた。
外の寒風とは裏腹に、地下室は優しさに満ちていた。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
WIN5で六億円馬券当てちゃった俺がいろいろ巻き込まれた結果現代社会で無双する!
TB
ファンタジー
小栗東〈おぐりあずま〉 二十九歳 趣味競馬 派遣社員。
その日、負け組な感じの人生を歩んできた俺に神が舞い降りた。
競馬のWIN5を的中させその配当は的中者一名だけの六億円だったのだ。
俺は仕事を辞め、豪華客船での世界一周旅行に旅立った。
その航海中に太平洋上で嵐に巻き込まれ豪華客船は沈没してしまう。
意識を失った俺がつぎに気付いたのは穏やかな海上。
相変わらずの豪華客船の中だった。
しかし、そこは地球では無かった。
魔法の存在する世界、そしてギャンブルが支配をする世界だった。
船の乗客二千名、クルー二百名とともにこの異世界の大陸国家カージノで様々な出来事はあったが、無事に地球に戻る事が出来た。
ただし……人口一億人を超えるカージノ大陸と地球には生存しない魔獣たちも一緒に太平洋のど真ん中へ……
果たして、地球と東の運命はどうなるの?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
至れり尽くせり!僕専用メイドの全員が溺愛してくる件
こうたろ
青春
普通の大学生・佐藤健太は目覚めると、自宅が豪華な洋館に変わり10人の美人メイドたちに「お目覚めですか、ご主人様?」と一斉に迎えられる。いつの間にか彼らの“専属主人”になっていた健太は戸惑う間もなく、朝から晩までメイドたちの超至れり尽くせりな奉仕を受け始める。
蒼き樹海の案内人
蒼月よる
ファンタジー
辺境の森で育った少年ユーリには、不思議な目がある。魔素の流れが光の粒として見えるのだ。
蒼の樹海——人を喰らう巨大な森に足を踏み入れた彼は、遺跡屋の青年カイと出会い、冒険者として歩み始める。樹海の奥に眠る遺跡、港街の裏に潜む陰謀、灰に覆われた滅びの国、そして首都に隠された世界の秘密。
仲間と共に世界を巡るうちに、ユーリは気づいていく。この世界の「魔法」も「神」も、すべてが何かの残骸なのではないか——と。
冒険・バトル・素材経済・食文化を軸に、ファンタジーの裏に潜むSF的真実へと辿り着く、全4巻の冒険ファンタジー。
この作品は以下の箇所にAI(Claude Code)を利用しています。
・世界観・設定の管理補助
・プロット段階の壁打ち
・作者による執筆後の校正
病弱少年が怪我した小鳥を偶然テイムして、冒険者ギルドの採取系クエストをやらせていたら、知らないうちにLV99になってました。
もう書かないって言ったよね?
ファンタジー
ベッドで寝たきりだった少年が、ある日、家の外で怪我している青い小鳥『ピーちゃん』を助けたことから二人の大冒険の日々が始まった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる