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第二章:黒い履歴と白い嘘
第24話 ハッカーからの挑戦状
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神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
その異変は、音もなく始まった。
午後2時。本来なら最も穏やかな時間帯であるはずの地下室に、突如として不協和音が鳴り響いた。
ビーッ! ビーッ! ビーッ!
真っ赤な回転灯が回り、けたたましいアラート音が鼓膜を突き刺す。
サーバーラックのステータスランプが、正常を示す緑から、異常を示す赤へと一斉に変わった。
「……来たか」
所長の阿部邦彦が、弾かれたように椅子を蹴って立ち上がった。
その表情は、いつもの不機嫌なものではなく、獲物を前にした猛獣のように獰猛だった。
「Enemy attack!(敵襲よ!)」
カナダ人ハッカーのエミリー・ローレンスが叫ぶ。彼女はすでに自分のモバイルワークステーションを展開し、凄まじい速度でキーを叩いていた。
「DDoS攻撃だわ! 毎秒50ギガビット……いえ、増えてる! 100ギガを超えた!」
「ボットネットだな。世界中の踏み台サーバーを経由している」
阿部はメインモニターにトラフィック解析画面を表示させた。
画面を埋め尽くす赤い波形。それは、この事務所のサーバーを物理的に焼き切ろうとするほどの、膨大なデータの津波だった。
「石川、ルーターの物理切断に手をかけておけ! 指示したら即座に引っこ抜け!」
「は、はいっ!」
私は震える手で、緊急停止用の赤いレバーを握った。
ただの遺品整理屋だと思っていたのに、まるでスパイ映画のような展開だ。
「……うっさいなー」
その喧騒の中、一人だけ気怠げな声を上げたのは、住み込みバイトの小川みずほだった。
彼女はソファで寝転がっていたが、ヘッドホンを耳に当てたまま、のそりと起き上がった。
「なんなのこれ。……音が汚い」
「寝言を言ってる場合か! サーバーが落ちれば、預かっている依頼人のデータも全部飛ぶぞ!」
「分かってるって。……おじさん、パケットログの音、ラインで流して」
阿部は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐにオーディオミキサーの設定を変更した。
スピーカーから流れるアラート音が止まり、代わりに「ザザッ、ピー、ガガガガ……」という、不快な電子ノイズが響き渡る。
通信データを音声信号に変換した音だ。素人には雑音にしか聞こえない。
「……よし、迎撃するぞ」
阿部とエミリーの指が走る。
ファイアウォールの設定を書き換え、不正なパケットをブラックホールへと誘導する。
しかし、敵もさるものだ。防御壁を張ったそばから、別のポートをこじ開けようとしてくる。
「Shit! 相手もAIを使ってるわね。攻撃パターンが毎秒変化してる!」
「自動化されたスクリプトだ。……だが、指揮している『人間』がいるはずだ」
地下室の室温が、急激に上昇し始めた。
フル稼働するサーバー群が発する熱だ。空調が追いつかず、むっとするような熱気が肌にまとわりつく。
阿部の額に汗が滲む。
エミリーがタンクトップ姿で扇風機を回す。
熱い。息苦しい。
このままでは、サーバーが熱暴走を起こしてダウンしてしまう。
その時。
ドンドンドンドン!!
天井から、激しい足音が響いた。
そして、入り口のドアが乱暴に開け放たれた。
「ちょっと! いい加減にしなさいよ!!」
仁王立ちしていたのは、大家の後藤かほりだった。
彼女は顔を真っ赤にして怒っていた。
「床が熱いのよ! 床暖房でも入れたのかと思ったわ! 私の大事な古書が傷むじゃないの!」
「大家! 今は緊急事態だ、帰れ!」
「帰らないわよ! あんたたちのせいで、店の商品が紙魚だらけになったらどうしてくれるの!?」
かほりはズカズカと部屋に入り込むと、壁にある業務用の空調パネルを操作し始めた。
「設定温度18度! 風量最大! サーキュレーター全開!」
ピッ、ピッ、ピッ!
彼女がボタンを連打すると、天井の排気口からゴウッという音と共に冷気が吹き出した。
さらに、彼女は持ってきたドライアイスの箱を、サーバーラックの前にぶちまけた。
「冷やせ! 物理的に!」
「……助かる!」
阿部が叫ぶ。
冷気とドライアイスの白煙が混ざり合い、サーバー室の温度計が下がり始めた。
かほりの剣幕と物理攻撃のおかげで、熱暴走の危機は回避された。
「……聞こえた」
その冷気の中で、みずほがボソリと呟いた。
彼女は目を閉じ、ヘッドホンに手を当てて集中している。
「……右、左、右、右。……このリズム、癖がある」
「何のことだ?」
「攻撃のタイミングだよ。……機械的にランダムに見えるけど、ベースにある『指揮者』のリズムが聞こえる。……これ、モールス信号じゃない?」
阿部とエミリーが顔を見合わせる。
「モールスだと?」
「うん。攻撃パケットの着弾間隔。……トン、トン、ツー、トン。……『F』?」
みずほが空中に指で文字を書く。
「『F』……『A』……『L』……『C』……『O』……『N』」
「FALCON(ファルコン)……?」
「それが、この攻撃者の署名ってこと?」
阿部が猛烈な勢いでデータベースを検索する。
「……いたぞ。『ファルコン』。3年前にインターポールに手配された、傭兵ハッカーだ。特徴は、攻撃の中に自分の名前を刻む自己顕示欲の強さ」
「ビンゴね! 正体が割れればこっちのものよ!」
エミリーがニヤリと笑う。
「奴の使用しているC&CサーバーのIP帯域を特定したわ。逆探知、行くわよ!」
「許可する。……焼き払え」
阿部がエンターキーを叩き込んだ。
デジタル・アーカイブス社からのカウンター攻撃。
特定されたファルコンの拠点のサーバーに対し、ピンポイントで過負荷をかける。
数秒後。
モニターの赤い波形が、ふっと消えた。
アラート音が止まる。
静寂が戻った。
「……沈黙したわ。敵のサーバー、ダウンを確認」
「勝った……のか?」
私が恐る恐る尋ねると、阿部は深く息を吐き、椅子の背もたれに倒れ込んだ。
「……撃退しただけだ。だが、当分は手出しできまい」
地下室に、安堵の空気が流れる。
かほりは腕組みをして、冷え切った室内を見回した。
「ふん。騒がしい連中ね。……電気代、請求するから覚悟なさいよ」
「分かってるよ。……礼を言う、大家」
「勘違いしないで。本を守るためよ」
かほりはツンと澄まして帰ろうとしたが、そのお腹がグゥ~と鳴った。
同時に、エミリーのお腹も、みずほのお腹も鳴った。
極限の集中力の後には、強烈な空腹がやってくる。
「……腹減ったな」
阿部は立ち上がり、キッチンへと向かった。
その背中は、ハッカーから料理人へと切り替わっていた。
「飯にするぞ。……今日は『鶏』だ」
阿部が取り出したのは、丸々とした鶏もも肉だった。
しかし、いつものように唐揚げや煮込みにするわけではないようだ。
「シンガポールチキンライスを作る」
「Chicken rice? ケチャップのやつ?」
エミリーが尋ねるが、阿部は首を振った。
「違う。あれは日本の洋食だ。俺が作るのは、アジアの屋台の魂だ」
阿部は寸胴鍋に湯を沸かし、ネギの青い部分と生姜のスライスを大量に入れた。
沸騰したら鶏肉を入れ、すぐに火を止めて蓋をする。
「余熱調理だ。沸騰した湯でグラグラ煮ると、肉がパサつく。火を止めてじっくり熱を通すことで、しっとりとした極上の食感になる」
その間に、阿部は米の準備を始めた。
使うのは日本米ではない。細長いジャスミンライスだ。
フライパンに鶏皮を熱し、黄金色の鶏油を抽出する。
その油で生姜とニンニクのみじん切りを炒め、香りが立ったところに生米を投入する。
「米の一粒一粒に鶏の脂をコーティングするんだ。これを鶏の茹で汁で炊き上げる」
炊飯器から蒸気が上がる頃には、地下室は芳醇な香りに包まれていた。
鶏の旨味と、ジャスミンライスの甘く香ばしい香り。
そして生姜の爽やかな刺激。
「タレは3種類だ。……ダークソイソース、ジンジャーソース、そして激辛のチリソース」
茹で上がった鶏肉を取り出し、包丁を入れる。
その断面は、ほんのりピンク色を残した絶妙な火入れ加減。肉汁が溢れ出し、見るからにプルプルしている。
「……完成だ」
皿の上に盛られたジャスミンライスと、艶やかな蒸し鶏。その横に添えられたキュウリとパクチー。
シンプルだが、完成された美しさがある。
「飲み物は?」
かほりが尋ねる。
阿部は無言で、エミリーが持ち込んだ派手なパッケージの粉末を取り出した。
『Kool-Aid(クールエイド)』。アメリカの子供たちが愛飲する、粉末ジュースだ。
「えっ……それ?」
「エミリーの土産だ。グレープ味とチェリー味がある」
「Serious?(マジで?) これ、砂糖の塊よ?」
エミリー自身が驚いている。
阿部はピッチャーに水を入れ、毒々しいほど鮮やかな紫色の粉末を溶かした。
「シンガポールのホーカーでは、チキンライスには甘いドリンクを合わせるのが定番だ。ライムジュースやバンドンとかな。……この人工的な甘さと酸味が、淡白な鶏肉とスパイシーなタレの味を引き立てる」
「……阿部くんの味覚、たまに壊れてるわよね」
かほりは呆れながらも、席に着いた。
全員でテーブルを囲む。
ハッカー、元ヤン、古書店主、弁護士、そして音響マニアの女子大生。
多国籍でカオスな食卓だ。
「いただきます!」
まずは鶏肉をそのまま。
柔らかい。驚くほどしっとりとしていて、噛む必要がないほどだ。
次に、3種のタレをつけてご飯と一緒に書き込む。
甘い醤油のコク、生姜のキレ、唐辛子のパンチ。
それらが鶏の脂を吸ったジャスミンライスと混ざり合い、口の中でアジアの風が吹く。
「んん~! Yummy!」
「……悔しいけど美味しいわ。このお米、パラパラしてて軽くて、いくらでも入るわね」
「このチリソース、結構くるね! あー、水!」
みずほが慌ててクールエイドを飲む。
紫色の液体が、喉を潤す。
甘い。駄菓子のような、チープで懐かしいブドウ味。
でも不思議と、この本格的なチキンライスに合っている。
辛さで麻痺した舌を、強烈な甘さがリセットしてくれるのだ。
「……悪くない組み合わせだろ」
阿部もクールエイドを飲み、ニヤリと笑った。
戦いの後の食事は、どんな高級料理よりも美味い。
「……ねえ、おじさん」
みずほが鶏肉を頬張りながら言った。
「さっきのハッカー……ファルコンだっけ? なんでウチを狙ったのかな」
「さあな。有名税かもしれんし、あるいは……」
阿部の目が、一瞬だけ鋭くなった。
「俺たちが追っている『何か』に、近づきすぎた警告かもしれん」
「……ファントム?」
私が小声で呟くと、阿部は無言で頷いた。
サーバー攻撃。それは単なる愉快犯ではなく、明確な意思を持った敵対行動だった可能性がある。
私たちは、見えない敵のテリトリーに、足を踏み入れつつあるのだ。
「……まあ、いいわ」
かほりがクールエイドのグラスを置いた。唇が少し紫色に染まっている。
「どんな敵が来ても、私のビルは守ってみせるわよ。……家賃を払ってくれる店子が死んだら困るもの」
「頼もしいねえ、大家さん」
エミリーが笑い、かほりの肩を抱いた。
かほりは「暑苦しいわよ」と言いつつも、振り払わなかった。
地下室に響く笑い声と、皿が触れ合う音。
外の寒さを忘れさせるような熱気が、ここにはあった。
鶏の茹で汁の優しい香りと、人工的なブドウの香り。
それは、アンバランスで、だからこそ愛おしい、私たちのチームの匂いだった。
戦いは終わった。
でも、本当の戦いは、これから始まるのかもしれない。
私は、おかわりをしたジャスミンライスを噛み締めながら、そう予感していた。
その異変は、音もなく始まった。
午後2時。本来なら最も穏やかな時間帯であるはずの地下室に、突如として不協和音が鳴り響いた。
ビーッ! ビーッ! ビーッ!
真っ赤な回転灯が回り、けたたましいアラート音が鼓膜を突き刺す。
サーバーラックのステータスランプが、正常を示す緑から、異常を示す赤へと一斉に変わった。
「……来たか」
所長の阿部邦彦が、弾かれたように椅子を蹴って立ち上がった。
その表情は、いつもの不機嫌なものではなく、獲物を前にした猛獣のように獰猛だった。
「Enemy attack!(敵襲よ!)」
カナダ人ハッカーのエミリー・ローレンスが叫ぶ。彼女はすでに自分のモバイルワークステーションを展開し、凄まじい速度でキーを叩いていた。
「DDoS攻撃だわ! 毎秒50ギガビット……いえ、増えてる! 100ギガを超えた!」
「ボットネットだな。世界中の踏み台サーバーを経由している」
阿部はメインモニターにトラフィック解析画面を表示させた。
画面を埋め尽くす赤い波形。それは、この事務所のサーバーを物理的に焼き切ろうとするほどの、膨大なデータの津波だった。
「石川、ルーターの物理切断に手をかけておけ! 指示したら即座に引っこ抜け!」
「は、はいっ!」
私は震える手で、緊急停止用の赤いレバーを握った。
ただの遺品整理屋だと思っていたのに、まるでスパイ映画のような展開だ。
「……うっさいなー」
その喧騒の中、一人だけ気怠げな声を上げたのは、住み込みバイトの小川みずほだった。
彼女はソファで寝転がっていたが、ヘッドホンを耳に当てたまま、のそりと起き上がった。
「なんなのこれ。……音が汚い」
「寝言を言ってる場合か! サーバーが落ちれば、預かっている依頼人のデータも全部飛ぶぞ!」
「分かってるって。……おじさん、パケットログの音、ラインで流して」
阿部は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐにオーディオミキサーの設定を変更した。
スピーカーから流れるアラート音が止まり、代わりに「ザザッ、ピー、ガガガガ……」という、不快な電子ノイズが響き渡る。
通信データを音声信号に変換した音だ。素人には雑音にしか聞こえない。
「……よし、迎撃するぞ」
阿部とエミリーの指が走る。
ファイアウォールの設定を書き換え、不正なパケットをブラックホールへと誘導する。
しかし、敵もさるものだ。防御壁を張ったそばから、別のポートをこじ開けようとしてくる。
「Shit! 相手もAIを使ってるわね。攻撃パターンが毎秒変化してる!」
「自動化されたスクリプトだ。……だが、指揮している『人間』がいるはずだ」
地下室の室温が、急激に上昇し始めた。
フル稼働するサーバー群が発する熱だ。空調が追いつかず、むっとするような熱気が肌にまとわりつく。
阿部の額に汗が滲む。
エミリーがタンクトップ姿で扇風機を回す。
熱い。息苦しい。
このままでは、サーバーが熱暴走を起こしてダウンしてしまう。
その時。
ドンドンドンドン!!
天井から、激しい足音が響いた。
そして、入り口のドアが乱暴に開け放たれた。
「ちょっと! いい加減にしなさいよ!!」
仁王立ちしていたのは、大家の後藤かほりだった。
彼女は顔を真っ赤にして怒っていた。
「床が熱いのよ! 床暖房でも入れたのかと思ったわ! 私の大事な古書が傷むじゃないの!」
「大家! 今は緊急事態だ、帰れ!」
「帰らないわよ! あんたたちのせいで、店の商品が紙魚だらけになったらどうしてくれるの!?」
かほりはズカズカと部屋に入り込むと、壁にある業務用の空調パネルを操作し始めた。
「設定温度18度! 風量最大! サーキュレーター全開!」
ピッ、ピッ、ピッ!
彼女がボタンを連打すると、天井の排気口からゴウッという音と共に冷気が吹き出した。
さらに、彼女は持ってきたドライアイスの箱を、サーバーラックの前にぶちまけた。
「冷やせ! 物理的に!」
「……助かる!」
阿部が叫ぶ。
冷気とドライアイスの白煙が混ざり合い、サーバー室の温度計が下がり始めた。
かほりの剣幕と物理攻撃のおかげで、熱暴走の危機は回避された。
「……聞こえた」
その冷気の中で、みずほがボソリと呟いた。
彼女は目を閉じ、ヘッドホンに手を当てて集中している。
「……右、左、右、右。……このリズム、癖がある」
「何のことだ?」
「攻撃のタイミングだよ。……機械的にランダムに見えるけど、ベースにある『指揮者』のリズムが聞こえる。……これ、モールス信号じゃない?」
阿部とエミリーが顔を見合わせる。
「モールスだと?」
「うん。攻撃パケットの着弾間隔。……トン、トン、ツー、トン。……『F』?」
みずほが空中に指で文字を書く。
「『F』……『A』……『L』……『C』……『O』……『N』」
「FALCON(ファルコン)……?」
「それが、この攻撃者の署名ってこと?」
阿部が猛烈な勢いでデータベースを検索する。
「……いたぞ。『ファルコン』。3年前にインターポールに手配された、傭兵ハッカーだ。特徴は、攻撃の中に自分の名前を刻む自己顕示欲の強さ」
「ビンゴね! 正体が割れればこっちのものよ!」
エミリーがニヤリと笑う。
「奴の使用しているC&CサーバーのIP帯域を特定したわ。逆探知、行くわよ!」
「許可する。……焼き払え」
阿部がエンターキーを叩き込んだ。
デジタル・アーカイブス社からのカウンター攻撃。
特定されたファルコンの拠点のサーバーに対し、ピンポイントで過負荷をかける。
数秒後。
モニターの赤い波形が、ふっと消えた。
アラート音が止まる。
静寂が戻った。
「……沈黙したわ。敵のサーバー、ダウンを確認」
「勝った……のか?」
私が恐る恐る尋ねると、阿部は深く息を吐き、椅子の背もたれに倒れ込んだ。
「……撃退しただけだ。だが、当分は手出しできまい」
地下室に、安堵の空気が流れる。
かほりは腕組みをして、冷え切った室内を見回した。
「ふん。騒がしい連中ね。……電気代、請求するから覚悟なさいよ」
「分かってるよ。……礼を言う、大家」
「勘違いしないで。本を守るためよ」
かほりはツンと澄まして帰ろうとしたが、そのお腹がグゥ~と鳴った。
同時に、エミリーのお腹も、みずほのお腹も鳴った。
極限の集中力の後には、強烈な空腹がやってくる。
「……腹減ったな」
阿部は立ち上がり、キッチンへと向かった。
その背中は、ハッカーから料理人へと切り替わっていた。
「飯にするぞ。……今日は『鶏』だ」
阿部が取り出したのは、丸々とした鶏もも肉だった。
しかし、いつものように唐揚げや煮込みにするわけではないようだ。
「シンガポールチキンライスを作る」
「Chicken rice? ケチャップのやつ?」
エミリーが尋ねるが、阿部は首を振った。
「違う。あれは日本の洋食だ。俺が作るのは、アジアの屋台の魂だ」
阿部は寸胴鍋に湯を沸かし、ネギの青い部分と生姜のスライスを大量に入れた。
沸騰したら鶏肉を入れ、すぐに火を止めて蓋をする。
「余熱調理だ。沸騰した湯でグラグラ煮ると、肉がパサつく。火を止めてじっくり熱を通すことで、しっとりとした極上の食感になる」
その間に、阿部は米の準備を始めた。
使うのは日本米ではない。細長いジャスミンライスだ。
フライパンに鶏皮を熱し、黄金色の鶏油を抽出する。
その油で生姜とニンニクのみじん切りを炒め、香りが立ったところに生米を投入する。
「米の一粒一粒に鶏の脂をコーティングするんだ。これを鶏の茹で汁で炊き上げる」
炊飯器から蒸気が上がる頃には、地下室は芳醇な香りに包まれていた。
鶏の旨味と、ジャスミンライスの甘く香ばしい香り。
そして生姜の爽やかな刺激。
「タレは3種類だ。……ダークソイソース、ジンジャーソース、そして激辛のチリソース」
茹で上がった鶏肉を取り出し、包丁を入れる。
その断面は、ほんのりピンク色を残した絶妙な火入れ加減。肉汁が溢れ出し、見るからにプルプルしている。
「……完成だ」
皿の上に盛られたジャスミンライスと、艶やかな蒸し鶏。その横に添えられたキュウリとパクチー。
シンプルだが、完成された美しさがある。
「飲み物は?」
かほりが尋ねる。
阿部は無言で、エミリーが持ち込んだ派手なパッケージの粉末を取り出した。
『Kool-Aid(クールエイド)』。アメリカの子供たちが愛飲する、粉末ジュースだ。
「えっ……それ?」
「エミリーの土産だ。グレープ味とチェリー味がある」
「Serious?(マジで?) これ、砂糖の塊よ?」
エミリー自身が驚いている。
阿部はピッチャーに水を入れ、毒々しいほど鮮やかな紫色の粉末を溶かした。
「シンガポールのホーカーでは、チキンライスには甘いドリンクを合わせるのが定番だ。ライムジュースやバンドンとかな。……この人工的な甘さと酸味が、淡白な鶏肉とスパイシーなタレの味を引き立てる」
「……阿部くんの味覚、たまに壊れてるわよね」
かほりは呆れながらも、席に着いた。
全員でテーブルを囲む。
ハッカー、元ヤン、古書店主、弁護士、そして音響マニアの女子大生。
多国籍でカオスな食卓だ。
「いただきます!」
まずは鶏肉をそのまま。
柔らかい。驚くほどしっとりとしていて、噛む必要がないほどだ。
次に、3種のタレをつけてご飯と一緒に書き込む。
甘い醤油のコク、生姜のキレ、唐辛子のパンチ。
それらが鶏の脂を吸ったジャスミンライスと混ざり合い、口の中でアジアの風が吹く。
「んん~! Yummy!」
「……悔しいけど美味しいわ。このお米、パラパラしてて軽くて、いくらでも入るわね」
「このチリソース、結構くるね! あー、水!」
みずほが慌ててクールエイドを飲む。
紫色の液体が、喉を潤す。
甘い。駄菓子のような、チープで懐かしいブドウ味。
でも不思議と、この本格的なチキンライスに合っている。
辛さで麻痺した舌を、強烈な甘さがリセットしてくれるのだ。
「……悪くない組み合わせだろ」
阿部もクールエイドを飲み、ニヤリと笑った。
戦いの後の食事は、どんな高級料理よりも美味い。
「……ねえ、おじさん」
みずほが鶏肉を頬張りながら言った。
「さっきのハッカー……ファルコンだっけ? なんでウチを狙ったのかな」
「さあな。有名税かもしれんし、あるいは……」
阿部の目が、一瞬だけ鋭くなった。
「俺たちが追っている『何か』に、近づきすぎた警告かもしれん」
「……ファントム?」
私が小声で呟くと、阿部は無言で頷いた。
サーバー攻撃。それは単なる愉快犯ではなく、明確な意思を持った敵対行動だった可能性がある。
私たちは、見えない敵のテリトリーに、足を踏み入れつつあるのだ。
「……まあ、いいわ」
かほりがクールエイドのグラスを置いた。唇が少し紫色に染まっている。
「どんな敵が来ても、私のビルは守ってみせるわよ。……家賃を払ってくれる店子が死んだら困るもの」
「頼もしいねえ、大家さん」
エミリーが笑い、かほりの肩を抱いた。
かほりは「暑苦しいわよ」と言いつつも、振り払わなかった。
地下室に響く笑い声と、皿が触れ合う音。
外の寒さを忘れさせるような熱気が、ここにはあった。
鶏の茹で汁の優しい香りと、人工的なブドウの香り。
それは、アンバランスで、だからこそ愛おしい、私たちのチームの匂いだった。
戦いは終わった。
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