死者からの検索履歴、削除しますか? ~デジタル遺品整理室の暗号解読~

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第二章:黒い履歴と白い嘘

第25話 政治家の裏帳簿(前編)

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 神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
 外は冷たい雨が降っていたが、地下室には灼熱の砂漠のような香りが充満していた。

「……クミン、コリアンダー、パプリカパウダー、そして大量のオレガノ。この配合が肉の臭みを消し、野生の香りを引き出す」

 所長の阿部邦彦は、ボウルの中で肉を揉み込んでいた。
 彼が扱っているのは、スーパーのパック肉ではない。ブロックで購入し、自ら包丁で叩いてミンチにした、新鮮なラム肉だ。
 そこに、すりおろした玉ねぎ、ニンニク、刻んだパセリ、そして数種類のスパイスを混ぜ合わせる。

「繋ぎは使わない。肉のタンパク質が結着するまで、徹底的に練り上げるんだ」

 阿部の手つきは力強く、リズミカルだ。
 粘りが出た肉を、平たい金属製の串に巻き付けるように成形していく。
 これは「アダナ・ケバブ」。トルコを代表する、スパイシーな挽肉の串焼き料理だ。

「石川、炭火だ。火力が弱まっているぞ」
「はいっ! ……でも所長、室内で炭火焼きって、火災報知器鳴りませんか?」
「排煙ダクト直結の特製ロースターだ。問題ない」

 阿部は自作した無骨なステンレス製の焼き台に、肉串を並べた。
 ジュワッ、という音と共に、脂が炭に落ちて白い煙が上がる。
 香ばしい肉の匂いと、スパイスの焦げる刺激的な香りが鼻腔を直撃する。

「……いい匂いね。ここはイスタンブール?」

 ソファでくつろいでいた弁護士の藤田涼子が、雑誌から顔を上げて鼻をひくつかせた。
 彼女は今日もハイブランドのスーツを着こなし、手持ち無沙汰にしている。

「今日はケバブだ。パンも焼いた」
「気が利くじゃない。で、合わせるお酒は? トルコのラク?」
「いいや。今日はこれだ」

 阿部が指差したのは、部屋の隅に設置された小さな冷蔵庫だった。
 ガラス扉の中には、見慣れない小さなボトルが整然と並んでいる。
 50mlほどの、ミニチュアボトルのウイスキー、ジン、ウォッカ。そして、缶の炭酸水やトニックウォーター。

「……何これ? ホテルのミニバー?」
「その通りだ。昨日、訳あって大量に入手した」
「訳って何よ。……まあいいわ。じゃあ、ジンとトニックをもらうわ」

 涼子はミニボトルの『ボンベイ・サファイア』とトニックウォーターを取り出し、自分でグラスに注いだ。
 カラン、と氷が鳴る。
 ホテルの部屋で一人、高い酒を飲む時の、あの独特の寂しさと高揚感が混じった音がした。

「……焼けたぞ」

 阿部が串から肉を外し、皿に盛り付けた。
 こんがりと焼き色のついたケバブ。その横には、スライスオニオン、トマト、焼き青唐辛子、そしてヨーグルトソースが添えられている。

「いただきます」

 私たちは熱々のケバブをピタパンに挟み、野菜と一緒に頬張った。
 ガツンと来る羊肉の旨味。
 噛むほどに溢れ出す肉汁と、唐辛子の辛味。それをヨーグルトの酸味がまろやかに包み込む。

「……んんっ! スパイシー!」
「羊の癖が全然ないわね。スパイスの使い方が絶妙だわ」

 涼子はジン・トニックを流し込み、満足げに息を吐いた。
 冷たくて苦味のある炭酸が、脂っぽくなった口の中をリセットする。
 無機質なミニバーの酒と、野性味あふれるケバブ。
 奇妙な取り合わせだが、それがまた「非日常」を感じさせて美味しかった。

 その時。
 インターホンが鳴った。
 予約の時間だ。

「……客だ。片付けろ」

 阿部は素早く皿を下げ、換気扇を最強にした。
 私は口を拭い、ドアへと走る。

「いらっしゃいませ。デジタル・アーカイブス社へようこそ」

 ドアを開けると、強烈な香水の香りが漂ってきた。
 立っていたのは、派手な毛皮のコートを纏った女性だった。
 年齢は30代後半だろうか。整った顔立ちをしているが、化粧が濃く、目元には疲労の色が濃く滲んでいる。
 全身から漂う、「夜」の雰囲気。

「……予約していた、サユリです」
「お待ちしておりました。どうぞ」

 サユリさんは、濡れた傘を無造作に傘立てに放り込むと、カツカツとヒールを鳴らして中に入った。
 そして、ドサリとソファに座り込み、大きなため息をついた。

「……ここ、本当に信用できるの?」
「守秘義務は厳守します。ご依頼の品は?」

 阿部が事務的に尋ねる。
 サユリさんは、エルメスのバーキンから一台のタブレット端末を取り出した。
 最新型のiPad Pro。カバーには金色のイニシャル『G』が刻印されている。

「これのロックを解除してほしいの。……持ち主は、もう死んでるわ」
「お名前は?」
「……権田原。権田原大造よ」

 その名前を聞いた瞬間、隣にいた涼子の顔色が変わった。
 私も息を呑んだ。
 権田原大造。
 与党の大物代議士であり、つい先日、愛人宅で急死したとニュースになっていた人物だ。死因は腹上死だとも噂されている。

「……まさか、貴女がその『愛人』?」
「悪かったわね。……そうよ、私が第一発見者」

 サユリさんは自嘲気味に笑い、タバコを取り出そうとして、阿部の視線に気づいてやめた。

「あの人、死ぬ直前に私にこれを預けたの。『もしもの時は頼む』って」
「頼む、とは?」
「決まってるじゃない。遺言書よ」

 サユリさんはタブレットを指先で叩いた。

「あの人は私に『お前には苦労をかけたから、老後の面倒は見てやる』って言ってたの。この中に、私への財産分与のデータや、隠し口座の情報が入っているはずよ」
「……なるほど。遺産相続の証拠探しですね」
「本妻や子供たちには渡さないわよ。あの人たちが私のことを『泥棒猫』って罵るなら、意地でも貰うものは貰うわ」

 サユリさんの目はギラギラしていた。
 愛する男を亡くした悲しみよりも、これから始まる泥沼の争いに向けて、牙を研いでいる獣の目だ。

「……分かりました。お引き受けします」

 阿部はタブレットを受け取り、ケーブルに繋いだ。
 権田原代議士ほどの人物なら、セキュリティは堅牢なはずだ。
 しかし、阿部の指は迷いなくキーボードを叩く。

「……指紋認証とパスコードの二重ロックか。だが、死後数日経過しているなら、生体認証は無効化されているはずだ。総当たりでいく」

 解析ツールが走り出す。
 地下室に、静かな緊張感が漂う。
 涼子は黙ってグラスを揺らしていたが、その視線は鋭くタブレットに注がれていた。

「……開いたぞ」

 数分後。
 意外なほどあっさりと、ロックは解除された。
 阿部は画面を操作し、ファイルの中身を確認していく。

「フォルダを確認する。……『マイピクチャ』『ドキュメント』……」
「遺言書は!? 『遺言』とか『サユリへ』とか、そういうファイルはないの!?」

 サユリさんが身を乗り出す。
 しかし、阿部の表情は次第に険しくなっていった。

「……ないな」
「えっ?」
「遺言書らしいファイルは見当たらない。ここにあるのは……」

 阿部は一つのファイルを開いた。
 それは、エクセルのスプレッドシートだった。
 画面に、数字の羅列が表示される。

「……帳簿だ」
「帳簿? 家計簿か何か?」
「違う。……『裏帳簿』だ」

 阿部の声が低くなった。
 彼は画面をスクロールし、特定の列を指差した。

「見ろ。日付、金額、そして『相手先』の名前。……『K建設』『M興業』……そして、ここだ」

 阿部が指差したセルには、誰もが知る名前が書かれていた。
 現職の大臣の名前だ。
 その横には、『政策活動費』という名目で、数千万円単位の金額が記載されている。

「……これは、架空名義の口座を使ったマネーロンダリングと、賄賂の授受の記録だ。過去10年分、すべて詳細に記録されている」
「なっ……!?」

 サユリさんが絶句する。

「う、嘘でしょ……? 私への遺産は? マンションの権利書とか、そういうのはないの!?」
「ない。ここにあるのは、汚い金の流れと、政界を揺るがすスキャンダルの爆弾だけだ」

 阿部は冷徹に告げた。
 サユリさんは、へなへなとソファに崩れ落ちた。

「そんな……。じゃあ、あの人は私に、こんな……こんな危ないものを押し付けただけなの? 『頼む』って、これを隠せってことだったの……?」
「おそらく、保険だったんだろう」

 涼子が静かに口を開いた。
 彼女は立ち上がり、モニターを覗き込んだ。

「自分が逮捕されそうになった時、あるいは組織に切られそうになった時のための切り札。それを、一番信頼できる……あるいは、一番利用しやすい相手に預けておいたのよ」
「利用しやすい……」
「愛人宅なら、警察のガサ入れも及びにくいからね。……貴女、愛されてたんじゃなくて、金庫代わりにされてたのよ」

 涼子の言葉は残酷だったが、真実味があった。
 サユリさんは顔を覆い、肩を震わせた。

「……ひどい。あんまりよ……」

 その時。
 阿部の手が止まった。
 彼はモニターから視線を外し、別の画面――事務所の入り口を映す防犯カメラの映像に目を向けた。

「……おい。客だぞ」
「え?」

 私がモニターを見ると、そこには異様な光景が映っていた。
 ビルの前に、黒塗りの高級セダンが2台、横付けされている。
 車から降りてきたのは、黒いスーツを着た男たちだった。
 4人。全員が大柄で、耳にインカムを付けている。
 その雰囲気は、普通のサラリーマンではない。明らかに「カタギ」ではない鋭い眼光。

「……誰ですか、あれ」
「権田原の秘書たちだ。……いや、実態は『掃除屋』だな」

 阿部は即座に判断した。

「GPSだ。このタブレットには発信機が仕込まれていたか、あるいは遠隔追跡アプリが動いていたんだ。俺たちが電源を入れた瞬間、奴らに居場所がバレた」
「な、なんですって!?」

 サユリさんが悲鳴を上げる。

「あいつら、私がタブレットを持ってることを知ってて、ずっと追いかけてきてたのよ! 電話もしつこくかかってきて……! 殺される! 私、殺されるわ!」
「落ち着け!」

 阿部が一喝する。
 涼子が素早くドアの鍵を確認し、阿部に指示を飛ばした。

「阿部、データをバックアップして! オリジナルは隠して!」
「分かってる。石川、裏口のルートを確保しろ。……いや、間に合わんか」

 モニターの中で、男たちがビルの中に入ってくるのが見えた。
 迷いなく、地下への階段を降りてくる。
 カツ、カツ、カツ。
 重厚な靴音が、地下室の天井に響く。

「……これは爆弾よ」

 涼子が顔色を変えて言った。

「このデータは、持っているだけで罪になる。……いいえ、持っているだけで『消される』わ。国家権力と裏社会、その両方が血眼になって探している代物よ」
「どうしますか、所長!」
「……迎撃する」

 阿部はケバブの皿をシンクに放り込み、仁王立ちになった。
 その手には、調理に使った中華包丁――ではなく、護身用の警棒が握られていた。

「ここは俺の城だ。土足で踏み込む奴には、高い授業料を払ってもらう」

 ドンドン!!
 ドアが激しく叩かれた。

「開けろ! そこにいるのは分かっている!」

 男の野太い声。
 サユリさんは恐怖で震え上がり、私の背中に隠れた。
 私は震える手で、ホテルのミニバーにあった小さなウイスキーの瓶を握りしめた。武器になるかは分からないけれど、何もしないよりはマシだ。

 スパイシーなケバブの香りが残る地下室に、暴力と陰謀の匂いが混ざり始める。
 最強のチーム対、国家の闇。
 逃げ場のない籠城戦が、今始まろうとしていた。
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