2 / 35
第1章:深夜の密会と餌付け
第2話 氷の女帝は機嫌が悪い
しおりを挟む
翌朝、俺――橋本一郎は、鏡の前で入念に「武装解除」を行っていた。
まず、寝癖のついていない髪をあえて少し乱し、前髪を目にかかるくらいまで下ろす。これで鋭い眼光を隠すのだ。
次に、度の入っていない黒縁メガネを装着する。フレームが太い、野暮ったいデザインのものだ。
最後に、オーダーメイドのスーツ……ではなく、量販店で買った吊るしのスーツに袖を通す。サイズはあえてワンサイズ上。188センチ、95キロの筋肉の鎧を隠すには、これくらいダボッとしていないと体のラインが出てしまうからだ。
「よし」
鏡に映るのは、どこにでもいる冴えないサラリーマン。
これが、中堅商社・営業二課の主任補佐、橋本一郎の仮の姿だ。
俺は深く息を吐き、少し猫背になってから家を出た。
通勤電車に揺られ、オフィス街へ向かう。
今日もまた、「氷の女帝」が支配する戦場への出勤だ。
「おはようございます」
「……ああ、橋本さん。おはよう」
営業二課のフロアに入ると、同僚たちは皆、死んだ魚のような目でPCに向かっていた。
空気は重い。湿度が高いとかそういう物理的な話ではなく、精神的な重圧がフロア全体を覆っているのだ。
その発生源は、フロアの最奥。課長席にある。
「高田。この契約書の条項、第3項と第8項で矛盾が生じているわ。リーガルチェックを通したの?」
「あ、いえ、前回の契約書の雛形をそのまま……」
「前回の取引先とは資本金もリスクヘッジの範囲も違うでしょう。思考停止しないで。やり直し」
「は、はいっ! 申し訳ありません!」
朝一番から、氷の女帝――李雪課長の雷が落ちていた。
怒鳴っているわけではない。彼女の声は常に冷静で、そして絶対零度のように冷たい。
美しい黒髪を後ろで完璧にまとめ、切れ長の瞳で射抜かれると、大抵の男は縮み上がる。
30歳にして課長職に就いた彼女は、優秀すぎるがゆえに、凡人のミスが許せないのだ。
(今日も絶好調だな……)
俺は自分のデスクにつき、パソコンを起動しながら横目で彼女を見た。
昨夜、コンビニで会ったジャージ姿の女性と同一人物だとは、とても思えない。
昨日の彼女は、まるで雨に濡れた捨て猫のように弱々しかった。
だが今の彼女は、獲物を狙う女豹そのものだ。
(やっぱり、ただの他人の空似か)
顔立ちは似ていた気がするが、纏っているオーラが違いすぎる。
そもそも、あの完璧主義の李課長が、あんなヨレヨレのTシャツとジャージで外を出歩くはずがない。
俺は「昨日の女性=李課長」説を、脳内で完全に却下した。
「橋本」
不意に名前を呼ばれ、俺は「ひっ」と小さな悲鳴を上げる。
「は、はいっ!」
「昨日の翻訳チェック、助かったわ。上海支社から『今回は修正が少なくてスムーズだった』と連絡があった」
「そ、それは良かったです」
「ただ、これ」
彼女は一枚の書類を俺のデスクに置いた。
「来週のプレゼン資料。構成は悪くないけれど、デザインが古臭いわ。もっとモダンに、かつインパクトのある配色に修正して。今日の15時までに」
「……はい、承知しました」
無茶振りである。今は10時だ。
だが、俺は反論しない。彼女の言う「古臭い」が的確であることを知っているし、それを修正できるスキルが自分にあることも知っているからだ。
「……あと」
李課長は、去り際に小さな声で付け加えた。
「……姿勢、悪いわよ。背筋を伸ばしなさい。大きな体が台無しだわ」
それだけ言うと、彼女はカツカツとヒールを鳴らして自席へと戻っていった。
俺は苦笑いしながら、少しだけ背筋を伸ばした。
彼女は厳しい。けれど、理不尽なことは言わない。
だからこそ、部下たちは彼女を恐れながらも、心の底からは嫌っていない……と思う。多分。
その日の業務は、予想通り過酷だった。
昼食を取る暇もなく、プレゼン資料の修正に追われ、夕方からはトラブル対応。
気づけば、窓の外は完全に夜の帳が下りていた。
「よし、終わった……」
時計を見ると、23時50分。
日付が変わる直前だ。
フロアには、また俺と李課長だけが残っていた。
「橋本、まだいたの? 残業代の上限を超えるわよ」
「あ、すみません。キリが良かったので。……課長もお疲れ様です」
「私は管理職だから関係ないの。……先に帰りなさい」
彼女はPC画面から目を離さずに言った。
その横顔には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
完璧なメイクの下にある肌荒れや、整えられた髪の僅かなほつれ。
昨夜の「限界OL」の姿が、ふと脳裏をよぎる。
(……今日も、コンビニ飯かな)
余計なお世話だと思いながらも、俺は一礼してオフィスを出た。
夜の冷たい空気が、火照った頭を冷やしてくれる。
俺は駅とは反対方向へ、いつものコンビニへと足を向けた。
ネクタイを緩め、メガネを外してポケットに入れる。
前髪をかき上げると、視界が広がる。
ようやく、橋本一郎の「オフモード」だ。
自動ドアを抜けると、深夜特有の静寂と、揚げ物の匂いが俺を迎えた。
さて、今夜の「獲物」は何にするか。
昨日は自分の分を買う余裕がなかったから、今日はガッツリいきたい。
弁当コーナーで『大盛りペペロンチーノ』を確保し、ホットスナックのケースを覗き込む。
時間が時間だけに、残っているのは『Lチキ』が2つと、『アメリカンドッグ』が1つだけ。
「……また、会いましたね」
背後から、低い声がした。
少しハスキーで、けれど独特の艶のある声。
振り返ると、そこには昨日の「幽霊」が立っていた。
えんじ色の芋ジャージに、ボサボサのお団子ヘア。そして顔の半分を覆う瓶底メガネ。
……やっぱり、似ている。
骨格や顔のパーツは、昼間の李課長にそっくりだ。
だが、俺はすぐにその思考を打ち消した。
(あり得ない)
あの完璧で冷徹な「氷の女帝」が、こんな高校指定ジャージを着て、今にも死にそうな顔でコンビニに立っているはずがない。
きっと、よく似た別人だ。あるいは、生き別れの双子の妹とか、そういう類の話だろう。
世の中に自分と似ている人間は三人いると言うし。
「……こんばんは」
俺は努めて平静を装って返した。
彼女は俺の顔をじっと見つめ、それから視線を少し逸らした。
「昨日は、どうも」
言葉のイントネーションが、少し独特だった。
会社で話す流暢な日本語とは違う、母国語のアクセントが混じったような響き。
「……あのおにぎりと豚汁。……食べました」
「そうですか。体調は?」
「……悪くないわ。不思議なくらい、よく眠れた」
彼女はぶっきらぼうに言いながら、手元のカゴをぎゅっと握りしめた。
そのカゴの中には、今日もまた栄養ドリンクが入っているが、その隣には『鮭おにぎり』が入っていた。
学習している。
「あのね、お兄さん」
彼女は一歩、俺に近づいた。
188センチの俺と、ヒールを脱いだ彼女では、大人と子供ほどの身長差がある。
彼女は首が痛くなるほど見上げながら、瓶底メガネの奥の瞳を細めた。
「美味しかったわ。……すごく。久々に、食事をしたって気がした」
「それは良かったです」
「だから、責任を取ってほしいの」
「……は?」
責任? 何の?
俺が困惑していると、彼女はホットスナックのケースを指差した。
「昨日のあれで、私の舌が贅沢になってしまったみたい。……今日も、あなたが選んで」
「……俺が、ですか?」
「そうよ。私には選べないもの。日本のコンビニは選択肢が多すぎて、目が回るわ」
彼女はため息をついた。
「私の国のコンビニはもっとシンプルだった。……選択肢が多いのは自由だけど、疲れている時には拷問よ」
なるほど。
決定疲れ、というやつだ。
会社であれだけ決断の連続を強いられている現代人にとって、プライベートでの些細な選択は、脳のリソースを削る苦行でしかないのだろう。
そこもまた、うちの課長と同じだ。きっとこの女性も、どこかで激務に耐えているに違いない。
俺は勝手な親近感を覚え、苦笑いしながらホットスナックのケースを見た。
そして、ある一つの組み合わせを思いついた。
「……今日は少し、冒険してみますか?」
「冒険?」
「ええ。昨日は体を労るメニューでしたが、今日は少しだけ、心を満たすメニューです」
俺は店員を呼び、『Lチキ』を注文した。
そしてパンコーナーに行き、『食パン』を一袋と、『スライスチーズ』を手に取った。
「チキンと……食パン?」
「はい。このチキンを、食パンに挟みます。チーズも一緒に」
「……それだけ?」
「いいえ。これを、家のトースターで焼くんです。パンの表面がカリッとするまで」
俺は彼女の顔を覗き込んだ。
「深夜0時に食べる、脂と糖質と塩分の塊。……名付けて『悪魔のホットサンド』です」
彼女が息を呑むのが分かった。
ゴクリ、と喉が鳴る音さえ聞こえた気がした。
この女性の理性が、カロリーへの恐怖と戦っているのがわかる。
だが、目の前にいるのは、食に飢えた一人の「疲れた人」だ。
「……悪魔」
彼女はその言葉を口の中で転がし、そして、ふわりと笑った。
会社で見る李課長の冷たい笑みとは似ても似つかない、無防備で、少女のような笑みだった。
(やっぱり、別人だな)
俺はそう確信した。あの鬼上司が、こんな顔をするはずがない。
「いいわね、それ。……私、悪魔と契約するわ」
その夜、俺たちはそれぞれの家で、同じメニューを食べることになった。
俺は自宅のキッチンで、彼女はきっと近くのマンションの一室で。
トースターから漂う、チーズとパンの焦げる香ばしい匂い。
熱々のサンドにかぶりつくと、ジューシーなチキンの脂と、溶けたチーズが口の中で暴れまわる。
「……美味い」
深夜の背徳感というスパイスが、味を何倍にも引き立てていた。
翌日、出社した李課長は、昨日よりもさらに機嫌が悪そうに見えた。
だが、すれ違いざまに俺の横を通った時、彼女が小さな声で独り言を呟くのを、俺は聞き逃さなかった。
「……好吃」
それは中国語で「美味しい」という意味だ。
(……あの鉄仮面の李課長でも、美味しいものを食べて感動することがあるんだな)
俺は意外な一面を見た気がして、PCのモニターに隠れて少しだけ口元を緩めた。
それと同時に、ふと昨夜の「ジャージの女性」のことを思い出す。
彼女も今頃、あんな風に幸せそうに「美味しい」と言ってくれているだろうか。
もしそうなら、俺の「餌付け」は成功なのだが。
俺の中で、李課長とジャージの女性は、似ているけれど完全に「別人」としてカテゴリされていた。
偶然にも同じタイミングで「美味しいもの」に出会ったらしい二人の女性。
その奇妙なシンクロニシティに、俺と彼女の不思議な縁の始まりを感じていた。
まず、寝癖のついていない髪をあえて少し乱し、前髪を目にかかるくらいまで下ろす。これで鋭い眼光を隠すのだ。
次に、度の入っていない黒縁メガネを装着する。フレームが太い、野暮ったいデザインのものだ。
最後に、オーダーメイドのスーツ……ではなく、量販店で買った吊るしのスーツに袖を通す。サイズはあえてワンサイズ上。188センチ、95キロの筋肉の鎧を隠すには、これくらいダボッとしていないと体のラインが出てしまうからだ。
「よし」
鏡に映るのは、どこにでもいる冴えないサラリーマン。
これが、中堅商社・営業二課の主任補佐、橋本一郎の仮の姿だ。
俺は深く息を吐き、少し猫背になってから家を出た。
通勤電車に揺られ、オフィス街へ向かう。
今日もまた、「氷の女帝」が支配する戦場への出勤だ。
「おはようございます」
「……ああ、橋本さん。おはよう」
営業二課のフロアに入ると、同僚たちは皆、死んだ魚のような目でPCに向かっていた。
空気は重い。湿度が高いとかそういう物理的な話ではなく、精神的な重圧がフロア全体を覆っているのだ。
その発生源は、フロアの最奥。課長席にある。
「高田。この契約書の条項、第3項と第8項で矛盾が生じているわ。リーガルチェックを通したの?」
「あ、いえ、前回の契約書の雛形をそのまま……」
「前回の取引先とは資本金もリスクヘッジの範囲も違うでしょう。思考停止しないで。やり直し」
「は、はいっ! 申し訳ありません!」
朝一番から、氷の女帝――李雪課長の雷が落ちていた。
怒鳴っているわけではない。彼女の声は常に冷静で、そして絶対零度のように冷たい。
美しい黒髪を後ろで完璧にまとめ、切れ長の瞳で射抜かれると、大抵の男は縮み上がる。
30歳にして課長職に就いた彼女は、優秀すぎるがゆえに、凡人のミスが許せないのだ。
(今日も絶好調だな……)
俺は自分のデスクにつき、パソコンを起動しながら横目で彼女を見た。
昨夜、コンビニで会ったジャージ姿の女性と同一人物だとは、とても思えない。
昨日の彼女は、まるで雨に濡れた捨て猫のように弱々しかった。
だが今の彼女は、獲物を狙う女豹そのものだ。
(やっぱり、ただの他人の空似か)
顔立ちは似ていた気がするが、纏っているオーラが違いすぎる。
そもそも、あの完璧主義の李課長が、あんなヨレヨレのTシャツとジャージで外を出歩くはずがない。
俺は「昨日の女性=李課長」説を、脳内で完全に却下した。
「橋本」
不意に名前を呼ばれ、俺は「ひっ」と小さな悲鳴を上げる。
「は、はいっ!」
「昨日の翻訳チェック、助かったわ。上海支社から『今回は修正が少なくてスムーズだった』と連絡があった」
「そ、それは良かったです」
「ただ、これ」
彼女は一枚の書類を俺のデスクに置いた。
「来週のプレゼン資料。構成は悪くないけれど、デザインが古臭いわ。もっとモダンに、かつインパクトのある配色に修正して。今日の15時までに」
「……はい、承知しました」
無茶振りである。今は10時だ。
だが、俺は反論しない。彼女の言う「古臭い」が的確であることを知っているし、それを修正できるスキルが自分にあることも知っているからだ。
「……あと」
李課長は、去り際に小さな声で付け加えた。
「……姿勢、悪いわよ。背筋を伸ばしなさい。大きな体が台無しだわ」
それだけ言うと、彼女はカツカツとヒールを鳴らして自席へと戻っていった。
俺は苦笑いしながら、少しだけ背筋を伸ばした。
彼女は厳しい。けれど、理不尽なことは言わない。
だからこそ、部下たちは彼女を恐れながらも、心の底からは嫌っていない……と思う。多分。
その日の業務は、予想通り過酷だった。
昼食を取る暇もなく、プレゼン資料の修正に追われ、夕方からはトラブル対応。
気づけば、窓の外は完全に夜の帳が下りていた。
「よし、終わった……」
時計を見ると、23時50分。
日付が変わる直前だ。
フロアには、また俺と李課長だけが残っていた。
「橋本、まだいたの? 残業代の上限を超えるわよ」
「あ、すみません。キリが良かったので。……課長もお疲れ様です」
「私は管理職だから関係ないの。……先に帰りなさい」
彼女はPC画面から目を離さずに言った。
その横顔には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
完璧なメイクの下にある肌荒れや、整えられた髪の僅かなほつれ。
昨夜の「限界OL」の姿が、ふと脳裏をよぎる。
(……今日も、コンビニ飯かな)
余計なお世話だと思いながらも、俺は一礼してオフィスを出た。
夜の冷たい空気が、火照った頭を冷やしてくれる。
俺は駅とは反対方向へ、いつものコンビニへと足を向けた。
ネクタイを緩め、メガネを外してポケットに入れる。
前髪をかき上げると、視界が広がる。
ようやく、橋本一郎の「オフモード」だ。
自動ドアを抜けると、深夜特有の静寂と、揚げ物の匂いが俺を迎えた。
さて、今夜の「獲物」は何にするか。
昨日は自分の分を買う余裕がなかったから、今日はガッツリいきたい。
弁当コーナーで『大盛りペペロンチーノ』を確保し、ホットスナックのケースを覗き込む。
時間が時間だけに、残っているのは『Lチキ』が2つと、『アメリカンドッグ』が1つだけ。
「……また、会いましたね」
背後から、低い声がした。
少しハスキーで、けれど独特の艶のある声。
振り返ると、そこには昨日の「幽霊」が立っていた。
えんじ色の芋ジャージに、ボサボサのお団子ヘア。そして顔の半分を覆う瓶底メガネ。
……やっぱり、似ている。
骨格や顔のパーツは、昼間の李課長にそっくりだ。
だが、俺はすぐにその思考を打ち消した。
(あり得ない)
あの完璧で冷徹な「氷の女帝」が、こんな高校指定ジャージを着て、今にも死にそうな顔でコンビニに立っているはずがない。
きっと、よく似た別人だ。あるいは、生き別れの双子の妹とか、そういう類の話だろう。
世の中に自分と似ている人間は三人いると言うし。
「……こんばんは」
俺は努めて平静を装って返した。
彼女は俺の顔をじっと見つめ、それから視線を少し逸らした。
「昨日は、どうも」
言葉のイントネーションが、少し独特だった。
会社で話す流暢な日本語とは違う、母国語のアクセントが混じったような響き。
「……あのおにぎりと豚汁。……食べました」
「そうですか。体調は?」
「……悪くないわ。不思議なくらい、よく眠れた」
彼女はぶっきらぼうに言いながら、手元のカゴをぎゅっと握りしめた。
そのカゴの中には、今日もまた栄養ドリンクが入っているが、その隣には『鮭おにぎり』が入っていた。
学習している。
「あのね、お兄さん」
彼女は一歩、俺に近づいた。
188センチの俺と、ヒールを脱いだ彼女では、大人と子供ほどの身長差がある。
彼女は首が痛くなるほど見上げながら、瓶底メガネの奥の瞳を細めた。
「美味しかったわ。……すごく。久々に、食事をしたって気がした」
「それは良かったです」
「だから、責任を取ってほしいの」
「……は?」
責任? 何の?
俺が困惑していると、彼女はホットスナックのケースを指差した。
「昨日のあれで、私の舌が贅沢になってしまったみたい。……今日も、あなたが選んで」
「……俺が、ですか?」
「そうよ。私には選べないもの。日本のコンビニは選択肢が多すぎて、目が回るわ」
彼女はため息をついた。
「私の国のコンビニはもっとシンプルだった。……選択肢が多いのは自由だけど、疲れている時には拷問よ」
なるほど。
決定疲れ、というやつだ。
会社であれだけ決断の連続を強いられている現代人にとって、プライベートでの些細な選択は、脳のリソースを削る苦行でしかないのだろう。
そこもまた、うちの課長と同じだ。きっとこの女性も、どこかで激務に耐えているに違いない。
俺は勝手な親近感を覚え、苦笑いしながらホットスナックのケースを見た。
そして、ある一つの組み合わせを思いついた。
「……今日は少し、冒険してみますか?」
「冒険?」
「ええ。昨日は体を労るメニューでしたが、今日は少しだけ、心を満たすメニューです」
俺は店員を呼び、『Lチキ』を注文した。
そしてパンコーナーに行き、『食パン』を一袋と、『スライスチーズ』を手に取った。
「チキンと……食パン?」
「はい。このチキンを、食パンに挟みます。チーズも一緒に」
「……それだけ?」
「いいえ。これを、家のトースターで焼くんです。パンの表面がカリッとするまで」
俺は彼女の顔を覗き込んだ。
「深夜0時に食べる、脂と糖質と塩分の塊。……名付けて『悪魔のホットサンド』です」
彼女が息を呑むのが分かった。
ゴクリ、と喉が鳴る音さえ聞こえた気がした。
この女性の理性が、カロリーへの恐怖と戦っているのがわかる。
だが、目の前にいるのは、食に飢えた一人の「疲れた人」だ。
「……悪魔」
彼女はその言葉を口の中で転がし、そして、ふわりと笑った。
会社で見る李課長の冷たい笑みとは似ても似つかない、無防備で、少女のような笑みだった。
(やっぱり、別人だな)
俺はそう確信した。あの鬼上司が、こんな顔をするはずがない。
「いいわね、それ。……私、悪魔と契約するわ」
その夜、俺たちはそれぞれの家で、同じメニューを食べることになった。
俺は自宅のキッチンで、彼女はきっと近くのマンションの一室で。
トースターから漂う、チーズとパンの焦げる香ばしい匂い。
熱々のサンドにかぶりつくと、ジューシーなチキンの脂と、溶けたチーズが口の中で暴れまわる。
「……美味い」
深夜の背徳感というスパイスが、味を何倍にも引き立てていた。
翌日、出社した李課長は、昨日よりもさらに機嫌が悪そうに見えた。
だが、すれ違いざまに俺の横を通った時、彼女が小さな声で独り言を呟くのを、俺は聞き逃さなかった。
「……好吃」
それは中国語で「美味しい」という意味だ。
(……あの鉄仮面の李課長でも、美味しいものを食べて感動することがあるんだな)
俺は意外な一面を見た気がして、PCのモニターに隠れて少しだけ口元を緩めた。
それと同時に、ふと昨夜の「ジャージの女性」のことを思い出す。
彼女も今頃、あんな風に幸せそうに「美味しい」と言ってくれているだろうか。
もしそうなら、俺の「餌付け」は成功なのだが。
俺の中で、李課長とジャージの女性は、似ているけれど完全に「別人」としてカテゴリされていた。
偶然にも同じタイミングで「美味しいもの」に出会ったらしい二人の女性。
その奇妙なシンクロニシティに、俺と彼女の不思議な縁の始まりを感じていた。
2
あなたにおすすめの小説
会社のイケメン先輩がなぜか夜な夜な私のアパートにやって来る件について(※付き合っていません)
久留茶
恋愛
地味で陰キャでぽっちゃり体型の小森菜乃(24)は、会社の飲み会で女子一番人気のイケメン社員・五十嵐大和(26)を、ひょんなことから自分のアパートに泊めることに。
しかし五十嵐は表の顔とは別に、腹黒でひと癖もふた癖もある男だった。
「お前は俺の恋愛対象外。ヤル気も全く起きない安全地帯」
――酷い言葉に、菜乃は呆然。二度と関わるまいと決める。
なのに、それを境に彼は夜な夜な菜乃のもとへ現れるようになり……?
溺愛×性格に難ありの執着男子 × 冴えない自分から変身する健気ヒロイン。
王道と刺激が詰まったオフィスラブコメディ!
*全28話完結
*辛口で過激な発言あり。苦手な方はご注意ください。
*他誌にも掲載中です。
疎遠だった叔父の遺産が500億円分のビットコインだった件。使い道がないので、隣の部屋の塩対応な美少女に赤スパ投げまくってる件
月下花音
恋愛
貧乏大学生の成瀬翔は、疎遠だった叔父から500億円相当のビットコインが入ったUSBメモリを相続する。使い道に困った彼が目をつけたのは、ボロアパートの薄い壁の向こうから聞こえる「声」だった。隣人は、大学で「氷の令嬢」と呼ばれる塩対応な美少女・如月玲奈。しかしその正体は、同接15人の極貧底辺VTuber「ルナ・ナイトメア」だったのだ!
『今月ももやし生活だよぉ……ひもじい……』
壁越しに聞こえる悲痛な叫び。翔は決意する。この500億で、彼女を最強の配信者に育て上げようと。謎の大富豪アカウント『Apollo(アポロ)』として、5万円の赤スパを投げ、高級機材を即配し、彼女の生活を神の視点で「最適化」していく。しかし彼はまだ知らなかった。「金で買えるのは生活水準だけで、孤独は埋められない」ということに。500億を持った「見えない神様」が、神の座を捨てて、地上の女の子の手を握るまでの救済ラブコメディ。
【実話】高1の夏休み、海の家のアルバイトはイケメンパラダイスでした☆
Rua*°
恋愛
高校1年の夏休みに、友達の彼氏の紹介で、海の家でアルバイトをすることになった筆者の実話体験談を、当時の日記を見返しながら事細かに綴っています。
高校生活では、『特別進学コースの選抜クラス』で、毎日勉強の日々で、クラスにイケメンもひとりもいない状態。ハイスペックイケメン好きの私は、これではモチベーションを保てなかった。
つまらなすぎる毎日から脱却を図り、部活動ではバスケ部マネージャーになってみたが、意地悪な先輩と反りが合わず、夏休み前に退部することに。
夏休みこそは、楽しく、イケメンに囲まれた、充実した高校生ライフを送ろう!そう誓った筆者は、海の家でバイトをする事に。
そこには女子は私1人。逆ハーレム状態。高校のミスターコンテスト優勝者のイケメンくんや、サーフ雑誌に載ってるイケメンくん、中学時代の憧れの男子と過ごしたひと夏の思い出を綴ります…。
バスケ部時代のお話はコチラ⬇
◇【実話】高1バスケ部マネ時代、個性的イケメンキャプテンにストーキングされたり集団で囲まれたり色々あったけどやっぱり退部を選択しました◇
俺をフッた女子に拉致されて、逃げ場のない同棲生活が始まりました
ちくわ食べます
恋愛
大学のサークル飲み会。
意を決して想いを告げた相手は、学内でも有名な人気女子・一ノ瀬さくら。
しかし返ってきたのは――
「今はちょっと……」という、曖昧な言葉だった。
完全にフラれたと思い込んで落ち込む俺。
その3日後――なぜか自分のアパートに入れなくなっていた。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
この男子校の生徒が自分以外全員男装女子だということを俺だけが知っている
夏見ナイ
恋愛
平凡な俺、相葉祐樹が手にしたのは、ありえないはずの超名門男子校『獅子王院学園』からの合格通知。期待を胸に入学した先は、王子様みたいなイケメンだらけの夢の空間だった!
……はずが、ある夜、同室のクールな完璧王子・橘玲が女の子であるという、学園最大の秘密を知ってしまう。
なんとこの学園、俺以外、全員が“訳アリ”の男装女子だったのだ!
秘密の「共犯者」となった俺は、慣れない男装に悩む彼女たちの唯一の相談相手に。
「祐樹の前でだけは、女の子でいられる……」
クールなイケメンたちの、俺だけに見せる甘々な素顔と猛アプローチにドキドキが止まらない!
秘密だらけで糖度120%の学園ラブコメ、開幕!
俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。
true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。
それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。
これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。
日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。
彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。
※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。
※内部進行完結済みです。毎日連載です。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる