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第2章:再会と潜入
第11話 地下の狂犬
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山奥の崖から戻った井上健太郎を出迎えたのは、アマン東京の窓の外に広がる、煌びやかな東京の夜景だった。
決戦前夜。
明日はついに、帝都グループのパーティーだ。
「……ミャウ」
足元で甘えたような鳴き声がした。
仔猫のハイだ。
数日前に拾った時は死にかけていたが、山崎桃子の処置と栄養たっぷりのミルクのおかげで、今ではすっかり元気を取り戻している。
ロシアンブルーのような灰色の毛並みは、照明を受けて銀色に輝いている。炎症を起こしていた片目もぱっちりと開き、井上と同じ深いブルーの瞳で見上げている。
「……ただいま。いい子にしてたか?」
井上はソファに腰を下ろし、ハイを抱き上げた。
ハイはゴロゴロと喉を鳴らし、井上の指にじゃれつき、甘噛みをしてくる。
無垢な温もり。
さっきまで崖の上で感じていた、凍てつくような殺意とは対極にあるものだ。
「明日は忙しくなる。……お前もしばらく留守番だぞ」
井上はハイの腹を優しく撫でながら、独りごちた。
準備は整った。
衣装も、手土産も、心構えも。
だが、一つだけ懸念があった。
昼間、崖で見た義兄・猛の姿だ。連れていたのはただの社員ではなく、目つきの鋭いボディーガードたちだった。
裏社会との繋がりが深い猛のことだ。もし井上の正体に感づけば、あるいはビジネス上の敵と見なせば、躊躇なく「物理的な排除」に動くだろう。
ブブッ、ブブッ。
サイドテーブルのスマートフォンが震え、静寂を破った。
画面には『毒島』の文字。
井上はハイをソファに下ろし、通話ボタンを押した。
「……どうした」
『よう、大将。崖へのピクニックは楽しかったか?』
「ああ。おかげで腹が決まったよ」
『そりゃ結構。……だがな、一つ忠告だ。西園寺のババアと猛、最近きな臭い動きをしてるぜ』
毒島の声が、少し低くなった。
『あそこは表向きは綺麗な財閥だが、裏じゃ昔から「掃除屋」を使ってる。特に最近、労働組合の幹部が謎の事故死を遂げたり、競合他社の役員が行方不明になったりしてる』
「……暴力か」
『そうだ。あんたがどれだけ頭が良かろうが、金を持っていようが、夜道で刺されちゃおしまいだ。……明日のパーティー、丸腰で行く気か?』
井上は窓ガラスに映る自分の顔を見た。
完璧なマスク。だが、その下にある肉体は、ただの人間だ。ナイフ一本で死ぬ。
復讐を完遂するには、絶対的な「盾」が必要だ。
「……心当たりはあるのか?」
『へへ、そう来ると思ったよ。……とびきり凶暴で、とびきり腕の立つのが一人いる。ただ、こいつは「狂犬」だ。飼い主を選ぶぜ?』
「構わない。場所は?」
『大田区の湾岸倉庫だ。今夜、地下で「試合」がある。……急げよ、メインイベントが始まる』
通話を切ると、井上は立ち上がった。
ハイが「行くな」と言うように足にまとわりつく。
「すぐ戻る。……番犬を拾ってくるだけだ」
井上はクローゼットを開け、夜の闇に溶け込むダークスーツを選んだ。
今夜は、知性ではなく、野生の匂いを纏う必要がある。
井上を乗せたハイヤーは、臨海部の工業地帯へと入っていった。
錆びついたクレーン、積み上げられたコンテナ、そして潮とオイルの混じった匂い。
煌びやかな都心とは対極にある、鉄とコンクリートの墓場だ。
指定された倉庫の前には、屈強な男たちが立っていた。
井上が毒島から教えられた合言葉を告げると、重いシャッターの一部が開かれた。
中に入ると、湿った熱気と、男たちの怒号が渦巻いていた。
地下へと続く階段を降りる。
そこには、金網で囲まれたリングと、それに群がる数百人の観客がいた。
ヤクザ、半グレ、あるいはスリルを求める富裕層。
目が血走った男たちが、手に万札を握りしめ、獣のように叫んでいる。
「殺せ! 殺せぇぇ!」
「もっと血を見せろ!」
ルール無用の地下格闘技。
井上はVIP席のバルコニーに案内された。そこには毒島が待っていた。
「よう、来たな。……いい匂いだろ? 血と金の匂いだ」
「……悪臭だな」
井上はハンカチで鼻を覆った。
だが、その目は冷静にリングを見下ろしていた。
「で、どれだ? あんたの言う『狂犬』は」
「次の試合だ。……賭けるか?」
「俺は勝つ方にしか賭けない」
ゴングが鳴る。
MCが大袈裟な声で選手を紹介し始めた。
「赤コーナー! 身長2メートル、体重130キロ! ロシアの処刑人、ボリス・イワノフ!!」
リングに上がったのは、巨大な岩のような筋肉の塊だった。全身に刺青を入れ、殺気立った目で吼えている。
会場が湧く。どう見ても殺人マシーンだ。
「そして青コーナー! ……詳細不明! 流れ着いた元傭兵! マナ・モリ!!」
ブーイングと口笛が入り混じる中、反対側の花道から現れたのは、場違いなほど美しい女だった。
森 舞永。28歳。
スポットライトを浴びて輝くブロンドヘア。
身長は170センチほどか。モデルのようなスラリとした体躯だが、タンクトップとショートパンツから覗く手足の筋肉は、豹のようにしなやかで引き締まっている。
その顔立ちは、華やかで挑発的な美貌だ。
「……女?」
井上は眉をひそめた。
対格差は倍以上ある。普通の格闘技なら試合成立すらしない。
「見かけで判断すると火傷するぜ。……あいつはPMCで中東の最前線を渡り歩いてきた本物だ」
リング中央で、ボリスと舞永が対峙する。
ボリスが卑猥な言葉を投げかけ、威嚇する。
だが、舞永は退屈そうにガムを噛みながら、髪をかき上げただけだった。
「……Ready? Fight!!」
開始の合図と同時に、ボリスが突進した。
戦車のようなタックル。まともに食らえば内臓破裂は免れない。
観客が息を呑む。
だが、次の瞬間、舞永の姿が消えた。
いや、消えたように見えるほどの速度で、ボリスの懐に潜り込んだのだ。
ドゴッ!
鈍い音が響く。
舞永の肘が、ボリスの鳩尾に突き刺さっていた。
巨体がくの字に折れ曲がる。
舞永は流れるような動きでボリスの腕を取り、背後に回り込むと、そのまま関節を極めながら地面に叩きつけた。
ズドンッ!
リングが揺れる。
ボリスの悲鳴が上がる間もなく、舞永は倒れた巨体の首に脚を絡め、締め上げた。
三角絞め。
完璧なフォームだ。
ボリスが必死に暴れるが、舞永は涼しい顔で、ガムをプーッと膨らませた。
「……落ちたな」
数秒後、ボリスの白目が剥き出しになり、腕がだらりと垂れ下がった。
失神KO。
会場が一瞬静まり返り、次の瞬間、爆発的な歓声に包まれた。
「勝者、マナ・モリィィ!!」
舞永は勝ち名乗りを受けることもなく、倒れたボリスを跨いでリングを降りていった。
その背中は、「退屈すぎてあくびが出る」と語っていた。
「……どうだ?」
毒島がニヤリと笑う。
井上は立ち上がった。
「最高だ。……紹介しろ」
試合後の控え室。
そこは倉庫の一角をベニヤ板で仕切っただけの粗末な部屋だった。
舞永はパイプ椅子に座り、血のついたバンテージを解いていた。
傍らには安酒の瓶が置かれている。
「……何の用? 追っかけならサインはしないわよ」
入ってきた井上を一瞥もせず、舞永は言った。
近くで見ると、その美貌はいっそう際立っていた。汗に濡れた肌が、照明の下で妖しく光っている。
「サインはいらない。……契約書にサインが欲しい」
井上は単刀直入に切り出した。
「誰? 芸能事務所のスカウト?」
「似たようなものだ。……俺のボディーガードをしてほしい」
舞永は手を止め、初めて井上の方を見た。
その瞳は、獲物を値踏みする肉食獣の色をしていた。
彼女は井上の顔――整形された完璧なマスク――をじっと見つめ、鼻で笑った。
「アンタ、いい顔してるけど……中身は空っぽね。作り物みたい」
「……よく言われる」
「お断りよ。私は退屈が一番嫌いなの。金持ちのお人形さんの遊び相手なんて、あくびが出るわ」
舞永は酒瓶を煽った。
「金なら弾む。今のギャラの10倍だ」
「金の問題じゃないって言ってるでしょ。……帰ってママのおっぱいでも吸ってなさい」
交渉決裂か。
普通の人間ならここで引き下がるだろう。
だが、井上は一歩踏み出した。
「……お前、今の生活に満足しているのか?」
井上の声色が、スッと低くなった。
フィリップに叩き込まれた、相手の深層心理に侵入する声だ。
「こんな地下の澱みで、三流のゴロツキ相手に鬱憤を晴らす毎日。……本当は、もっとヒリつくような『戦場』を求めているんじゃないのか?」
舞永の手が止まった。
「俺が提供するのは、ただの警護じゃない。……戦争だ」
井上は続けた。
「相手は日本最大級の財閥、帝都グループ。警察もマスコミも抱き込んだ巨大な権力だ。そいつらを相手に、俺は喧嘩を売る。……殺し屋も来るだろう。ヤクザも来るだろう。手段を選ばない連中だ」
「……へえ」
舞永の瞳に、興味の光が灯った。
「つまり、アンタと一緒にいれば、合法的に暴れられるってこと?」
「合法的かどうかは保証しない。だが、退屈はさせない」
井上は懐から、一枚の写真を取り出した。
西園寺猛が、裏社会の人間と密会している盗撮写真だ。
「明日のパーティー会場にも、この男の息がかかった連中がいるはずだ。……そいつらを処理するのが、最初の仕事になる」
舞永は写真を受け取り、口角を吊り上げた。
それは、獲物を見つけた獣の、獰猛で美しい笑みだった。
「……悪くないわね」
彼女は立ち上がり、井上の目の前に立った。
身長差はあるが、その圧迫感は井上をも凌駕していた。
甘い香水の匂いと、鉄錆のような血の匂いが混ざり合う。
「気に入ったわ、ハンサムボーイ。……アンタからは、私と同じ『壊れた人間』の匂いがする」
舞永は井上のネクタイを指で弾いた。
「いいわ、飼われてあげる。……でも、鎖は緩めにしておいてね? 噛み付くのが私の愛情表現だから」
「善処しよう。……ようこそ、地獄へ」
井上は右手を差し出した。
舞永はその手を強く、骨が軋むほどの力で握り返した。
「森 舞永よ。よろしく、ボス」
契約成立。
井上は、最強の「盾」を手に入れた。
「……さて、と」
舞永はバンテージを放り投げ、パイプ椅子から立ち上がった。
そして、挑発的な瞳で井上を見上げた。
「ねえ、ボス。契約成立の祝いに、デートに連れてってよ」
「デート?」
「そう。喉がカラカラなの。……とびきり強い酒が飲めるところ、知ってるでしょ?」
いきなりの要求。
だが、ここで断れば「甲斐性のない飼い主」と見なされるだろう。
井上は短く息を吐き、口角を上げた。
「いいだろう。……ついて来い」
倉庫街を出ると、井上が手配していたハイヤーが待機していた。
だが、舞永は運転手を助手席に追いやると、当然のように運転席に乗り込んだ。
「私が運転するわ。ボスの車の趣味、チェックさせて」
「……事故るなよ」
井上が後部座席に乗り込むや否や、車はタイヤを軋ませて急発進した。
猛スピードで夜の湾岸線を駆け抜ける。
スリルを楽しむように鼻歌を歌う舞永と、後部座席で眉一つ動かさず夜景を眺める井上。
奇妙なドライブデートだった。
車が停まったのは、六本木の会員制バーの前だった。
看板もない重厚な扉の奥。
ジャズが静かに流れる薄暗い店内は、先ほどの地下格闘技場とは対極の、洗練された大人の空間だ。
カウンター席に並んで座る。
舞永はメニューも見ずにオーダーした。
「スピリタス。ロックで」
「……正気か?」
井上が呆れると、舞永はケラケラと笑った。
「冗談よ。……マティーニを頂戴。ステアじゃなくてシェイクで。それと、オリーブは3つ」
「かしこまりました」
バーテンダーが慣れた手つきでシェイカーを振る。
井上はバーボンを頼んだ。
「で、ボス。明日のパーティー、私は何を着ていけばいい? 迷彩服? それともビキニ?」
「……ドレスだ。とびきり派手なやつを用意させる」
井上はグラスを傾けた。
「お前には俺の『恋人』役を演じてもらう。……同時に、俺の背後を狙う羽虫どもを威圧する『番犬』だ」
「了解。……恋人役なら、キスくらいはサービスに含まれる?」
舞永は顔を近づけ、妖艶に微笑んだ。
その瞳は、井上の反応を楽しんでいる。
井上は動じることなく、彼女の瞳を見つめ返した。
「仕事ならな。……だが、俺の唇は高いぞ」
「あら、自信過剰。……嫌いじゃないわ」
舞永はマティーニのグラスを掲げた。
「乾杯しましょ。私たちの『戦争』に」
「ああ。……乾杯」
カチン、とグラスが触れ合う音が響いた。
強いアルコールが喉を焼く。
隣で飲み干す舞永の横顔は、戦場の狂気を隠し、ただ美しい一人の女性に見えた。
店を出ると、夜風が火照った肌に心地よかった。
「さて、まずは何をする? ホテルにシケこむ?」
「いや。……猫にミルクをやる時間だ」
舞永は目を丸くし、それから腹を抱えて笑い出した。
「ハハハ! 最高! アンタ、見た目よりずっと面白いわ!」
高らかな笑い声が、夜の街に響き渡った。
資金、知略、美貌、そして武力。
全てのピースが揃った。
日付が変われば、運命の日だ。
西園寺家は知る由もない。
彼らの華やかな宴に、飢えた狼たちが解き放たれようとしていることを。
決戦前夜。
明日はついに、帝都グループのパーティーだ。
「……ミャウ」
足元で甘えたような鳴き声がした。
仔猫のハイだ。
数日前に拾った時は死にかけていたが、山崎桃子の処置と栄養たっぷりのミルクのおかげで、今ではすっかり元気を取り戻している。
ロシアンブルーのような灰色の毛並みは、照明を受けて銀色に輝いている。炎症を起こしていた片目もぱっちりと開き、井上と同じ深いブルーの瞳で見上げている。
「……ただいま。いい子にしてたか?」
井上はソファに腰を下ろし、ハイを抱き上げた。
ハイはゴロゴロと喉を鳴らし、井上の指にじゃれつき、甘噛みをしてくる。
無垢な温もり。
さっきまで崖の上で感じていた、凍てつくような殺意とは対極にあるものだ。
「明日は忙しくなる。……お前もしばらく留守番だぞ」
井上はハイの腹を優しく撫でながら、独りごちた。
準備は整った。
衣装も、手土産も、心構えも。
だが、一つだけ懸念があった。
昼間、崖で見た義兄・猛の姿だ。連れていたのはただの社員ではなく、目つきの鋭いボディーガードたちだった。
裏社会との繋がりが深い猛のことだ。もし井上の正体に感づけば、あるいはビジネス上の敵と見なせば、躊躇なく「物理的な排除」に動くだろう。
ブブッ、ブブッ。
サイドテーブルのスマートフォンが震え、静寂を破った。
画面には『毒島』の文字。
井上はハイをソファに下ろし、通話ボタンを押した。
「……どうした」
『よう、大将。崖へのピクニックは楽しかったか?』
「ああ。おかげで腹が決まったよ」
『そりゃ結構。……だがな、一つ忠告だ。西園寺のババアと猛、最近きな臭い動きをしてるぜ』
毒島の声が、少し低くなった。
『あそこは表向きは綺麗な財閥だが、裏じゃ昔から「掃除屋」を使ってる。特に最近、労働組合の幹部が謎の事故死を遂げたり、競合他社の役員が行方不明になったりしてる』
「……暴力か」
『そうだ。あんたがどれだけ頭が良かろうが、金を持っていようが、夜道で刺されちゃおしまいだ。……明日のパーティー、丸腰で行く気か?』
井上は窓ガラスに映る自分の顔を見た。
完璧なマスク。だが、その下にある肉体は、ただの人間だ。ナイフ一本で死ぬ。
復讐を完遂するには、絶対的な「盾」が必要だ。
「……心当たりはあるのか?」
『へへ、そう来ると思ったよ。……とびきり凶暴で、とびきり腕の立つのが一人いる。ただ、こいつは「狂犬」だ。飼い主を選ぶぜ?』
「構わない。場所は?」
『大田区の湾岸倉庫だ。今夜、地下で「試合」がある。……急げよ、メインイベントが始まる』
通話を切ると、井上は立ち上がった。
ハイが「行くな」と言うように足にまとわりつく。
「すぐ戻る。……番犬を拾ってくるだけだ」
井上はクローゼットを開け、夜の闇に溶け込むダークスーツを選んだ。
今夜は、知性ではなく、野生の匂いを纏う必要がある。
井上を乗せたハイヤーは、臨海部の工業地帯へと入っていった。
錆びついたクレーン、積み上げられたコンテナ、そして潮とオイルの混じった匂い。
煌びやかな都心とは対極にある、鉄とコンクリートの墓場だ。
指定された倉庫の前には、屈強な男たちが立っていた。
井上が毒島から教えられた合言葉を告げると、重いシャッターの一部が開かれた。
中に入ると、湿った熱気と、男たちの怒号が渦巻いていた。
地下へと続く階段を降りる。
そこには、金網で囲まれたリングと、それに群がる数百人の観客がいた。
ヤクザ、半グレ、あるいはスリルを求める富裕層。
目が血走った男たちが、手に万札を握りしめ、獣のように叫んでいる。
「殺せ! 殺せぇぇ!」
「もっと血を見せろ!」
ルール無用の地下格闘技。
井上はVIP席のバルコニーに案内された。そこには毒島が待っていた。
「よう、来たな。……いい匂いだろ? 血と金の匂いだ」
「……悪臭だな」
井上はハンカチで鼻を覆った。
だが、その目は冷静にリングを見下ろしていた。
「で、どれだ? あんたの言う『狂犬』は」
「次の試合だ。……賭けるか?」
「俺は勝つ方にしか賭けない」
ゴングが鳴る。
MCが大袈裟な声で選手を紹介し始めた。
「赤コーナー! 身長2メートル、体重130キロ! ロシアの処刑人、ボリス・イワノフ!!」
リングに上がったのは、巨大な岩のような筋肉の塊だった。全身に刺青を入れ、殺気立った目で吼えている。
会場が湧く。どう見ても殺人マシーンだ。
「そして青コーナー! ……詳細不明! 流れ着いた元傭兵! マナ・モリ!!」
ブーイングと口笛が入り混じる中、反対側の花道から現れたのは、場違いなほど美しい女だった。
森 舞永。28歳。
スポットライトを浴びて輝くブロンドヘア。
身長は170センチほどか。モデルのようなスラリとした体躯だが、タンクトップとショートパンツから覗く手足の筋肉は、豹のようにしなやかで引き締まっている。
その顔立ちは、華やかで挑発的な美貌だ。
「……女?」
井上は眉をひそめた。
対格差は倍以上ある。普通の格闘技なら試合成立すらしない。
「見かけで判断すると火傷するぜ。……あいつはPMCで中東の最前線を渡り歩いてきた本物だ」
リング中央で、ボリスと舞永が対峙する。
ボリスが卑猥な言葉を投げかけ、威嚇する。
だが、舞永は退屈そうにガムを噛みながら、髪をかき上げただけだった。
「……Ready? Fight!!」
開始の合図と同時に、ボリスが突進した。
戦車のようなタックル。まともに食らえば内臓破裂は免れない。
観客が息を呑む。
だが、次の瞬間、舞永の姿が消えた。
いや、消えたように見えるほどの速度で、ボリスの懐に潜り込んだのだ。
ドゴッ!
鈍い音が響く。
舞永の肘が、ボリスの鳩尾に突き刺さっていた。
巨体がくの字に折れ曲がる。
舞永は流れるような動きでボリスの腕を取り、背後に回り込むと、そのまま関節を極めながら地面に叩きつけた。
ズドンッ!
リングが揺れる。
ボリスの悲鳴が上がる間もなく、舞永は倒れた巨体の首に脚を絡め、締め上げた。
三角絞め。
完璧なフォームだ。
ボリスが必死に暴れるが、舞永は涼しい顔で、ガムをプーッと膨らませた。
「……落ちたな」
数秒後、ボリスの白目が剥き出しになり、腕がだらりと垂れ下がった。
失神KO。
会場が一瞬静まり返り、次の瞬間、爆発的な歓声に包まれた。
「勝者、マナ・モリィィ!!」
舞永は勝ち名乗りを受けることもなく、倒れたボリスを跨いでリングを降りていった。
その背中は、「退屈すぎてあくびが出る」と語っていた。
「……どうだ?」
毒島がニヤリと笑う。
井上は立ち上がった。
「最高だ。……紹介しろ」
試合後の控え室。
そこは倉庫の一角をベニヤ板で仕切っただけの粗末な部屋だった。
舞永はパイプ椅子に座り、血のついたバンテージを解いていた。
傍らには安酒の瓶が置かれている。
「……何の用? 追っかけならサインはしないわよ」
入ってきた井上を一瞥もせず、舞永は言った。
近くで見ると、その美貌はいっそう際立っていた。汗に濡れた肌が、照明の下で妖しく光っている。
「サインはいらない。……契約書にサインが欲しい」
井上は単刀直入に切り出した。
「誰? 芸能事務所のスカウト?」
「似たようなものだ。……俺のボディーガードをしてほしい」
舞永は手を止め、初めて井上の方を見た。
その瞳は、獲物を値踏みする肉食獣の色をしていた。
彼女は井上の顔――整形された完璧なマスク――をじっと見つめ、鼻で笑った。
「アンタ、いい顔してるけど……中身は空っぽね。作り物みたい」
「……よく言われる」
「お断りよ。私は退屈が一番嫌いなの。金持ちのお人形さんの遊び相手なんて、あくびが出るわ」
舞永は酒瓶を煽った。
「金なら弾む。今のギャラの10倍だ」
「金の問題じゃないって言ってるでしょ。……帰ってママのおっぱいでも吸ってなさい」
交渉決裂か。
普通の人間ならここで引き下がるだろう。
だが、井上は一歩踏み出した。
「……お前、今の生活に満足しているのか?」
井上の声色が、スッと低くなった。
フィリップに叩き込まれた、相手の深層心理に侵入する声だ。
「こんな地下の澱みで、三流のゴロツキ相手に鬱憤を晴らす毎日。……本当は、もっとヒリつくような『戦場』を求めているんじゃないのか?」
舞永の手が止まった。
「俺が提供するのは、ただの警護じゃない。……戦争だ」
井上は続けた。
「相手は日本最大級の財閥、帝都グループ。警察もマスコミも抱き込んだ巨大な権力だ。そいつらを相手に、俺は喧嘩を売る。……殺し屋も来るだろう。ヤクザも来るだろう。手段を選ばない連中だ」
「……へえ」
舞永の瞳に、興味の光が灯った。
「つまり、アンタと一緒にいれば、合法的に暴れられるってこと?」
「合法的かどうかは保証しない。だが、退屈はさせない」
井上は懐から、一枚の写真を取り出した。
西園寺猛が、裏社会の人間と密会している盗撮写真だ。
「明日のパーティー会場にも、この男の息がかかった連中がいるはずだ。……そいつらを処理するのが、最初の仕事になる」
舞永は写真を受け取り、口角を吊り上げた。
それは、獲物を見つけた獣の、獰猛で美しい笑みだった。
「……悪くないわね」
彼女は立ち上がり、井上の目の前に立った。
身長差はあるが、その圧迫感は井上をも凌駕していた。
甘い香水の匂いと、鉄錆のような血の匂いが混ざり合う。
「気に入ったわ、ハンサムボーイ。……アンタからは、私と同じ『壊れた人間』の匂いがする」
舞永は井上のネクタイを指で弾いた。
「いいわ、飼われてあげる。……でも、鎖は緩めにしておいてね? 噛み付くのが私の愛情表現だから」
「善処しよう。……ようこそ、地獄へ」
井上は右手を差し出した。
舞永はその手を強く、骨が軋むほどの力で握り返した。
「森 舞永よ。よろしく、ボス」
契約成立。
井上は、最強の「盾」を手に入れた。
「……さて、と」
舞永はバンテージを放り投げ、パイプ椅子から立ち上がった。
そして、挑発的な瞳で井上を見上げた。
「ねえ、ボス。契約成立の祝いに、デートに連れてってよ」
「デート?」
「そう。喉がカラカラなの。……とびきり強い酒が飲めるところ、知ってるでしょ?」
いきなりの要求。
だが、ここで断れば「甲斐性のない飼い主」と見なされるだろう。
井上は短く息を吐き、口角を上げた。
「いいだろう。……ついて来い」
倉庫街を出ると、井上が手配していたハイヤーが待機していた。
だが、舞永は運転手を助手席に追いやると、当然のように運転席に乗り込んだ。
「私が運転するわ。ボスの車の趣味、チェックさせて」
「……事故るなよ」
井上が後部座席に乗り込むや否や、車はタイヤを軋ませて急発進した。
猛スピードで夜の湾岸線を駆け抜ける。
スリルを楽しむように鼻歌を歌う舞永と、後部座席で眉一つ動かさず夜景を眺める井上。
奇妙なドライブデートだった。
車が停まったのは、六本木の会員制バーの前だった。
看板もない重厚な扉の奥。
ジャズが静かに流れる薄暗い店内は、先ほどの地下格闘技場とは対極の、洗練された大人の空間だ。
カウンター席に並んで座る。
舞永はメニューも見ずにオーダーした。
「スピリタス。ロックで」
「……正気か?」
井上が呆れると、舞永はケラケラと笑った。
「冗談よ。……マティーニを頂戴。ステアじゃなくてシェイクで。それと、オリーブは3つ」
「かしこまりました」
バーテンダーが慣れた手つきでシェイカーを振る。
井上はバーボンを頼んだ。
「で、ボス。明日のパーティー、私は何を着ていけばいい? 迷彩服? それともビキニ?」
「……ドレスだ。とびきり派手なやつを用意させる」
井上はグラスを傾けた。
「お前には俺の『恋人』役を演じてもらう。……同時に、俺の背後を狙う羽虫どもを威圧する『番犬』だ」
「了解。……恋人役なら、キスくらいはサービスに含まれる?」
舞永は顔を近づけ、妖艶に微笑んだ。
その瞳は、井上の反応を楽しんでいる。
井上は動じることなく、彼女の瞳を見つめ返した。
「仕事ならな。……だが、俺の唇は高いぞ」
「あら、自信過剰。……嫌いじゃないわ」
舞永はマティーニのグラスを掲げた。
「乾杯しましょ。私たちの『戦争』に」
「ああ。……乾杯」
カチン、とグラスが触れ合う音が響いた。
強いアルコールが喉を焼く。
隣で飲み干す舞永の横顔は、戦場の狂気を隠し、ただ美しい一人の女性に見えた。
店を出ると、夜風が火照った肌に心地よかった。
「さて、まずは何をする? ホテルにシケこむ?」
「いや。……猫にミルクをやる時間だ」
舞永は目を丸くし、それから腹を抱えて笑い出した。
「ハハハ! 最高! アンタ、見た目よりずっと面白いわ!」
高らかな笑い声が、夜の街に響き渡った。
資金、知略、美貌、そして武力。
全てのピースが揃った。
日付が変われば、運命の日だ。
西園寺家は知る由もない。
彼らの華やかな宴に、飢えた狼たちが解き放たれようとしていることを。
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薬師だからってポイ捨てされました!2 ~俺って実は付与も出来るんだよね~
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薬師のロベルト=グリモワール=シルベスタは偉大な師匠(神様)とその脇侍の教えを胸に自領を治める為の経済学を学ぶ為に隣国に留学。逸れを終えて国(自領)に戻ろうとした所、異世界の『勇者召喚』に巻き込まれ、周りにいた数人の男女と共に、何処とも知れない世界に落とされた。
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