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第2章:再会と潜入
第13話 運命の再会
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帝都ホテルのメインバンケット「孔雀の間」。
天井から吊り下げられたクリスタルのシャンデリアが、欲望と虚栄に満ちた会場を冷ややかに照らし出している。
井上健太郎が掲げたグラス。
音のない乾杯。
そのメッセージを受け取った西園寺麗華の時間が、一瞬止まったように見えた。
彼女は手に持っていたグラスをサイドテーブルに乱雑に置くと、取り巻きの男たちを押しのけ、井上の方へと歩き出した。
獲物の方から、罠にかかりに来た。
「……来たわよ、ボス」
井上の腕に絡みついていた森舞永が、甘い吐息と共に耳元で囁いた。
周囲から見れば、恋人同士の睦じい会話にしか見えないだろう。
だが、その腕にはボディガードとしての力が込められ、いつでも動けるよう筋肉が緊張している。
「あっちから来るなんて、よっぽどアンタの顔が気に入ったのね。……どうする? 逃げる?」
「まさか。……ここが特等席だ」
井上は動かなかった。
モーゼの十戒のように割れた人波の中、真紅のドレスを纏った麗華が、カツ、カツとヒールを鳴らして近づいてくる。
その瞳は、井上だけを捉えて離さない。
まるで、新しい宝石を見つけたカラスのような、強欲な光。
距離が縮まる。
5メートル、3メートル、1メートル。
強烈な香水の匂いが漂ってくる。
かつて灰谷守だった頃、吐き気を催すほど嗅がされた、あの匂いだ。
「……お初にお目にかかります」
声をかけてきたのは、麗華の方だった。
その声は、猫撫で声のように甘ったるく、しかし強烈な自意識を感じさせるものだった。
「会場に入られた時から、目が離せませんでしたの。……まるで映画のワンシーンのようで」
「光栄です、西園寺麗華様」
井上は静かに、深く響くバリトンボイスで答えた。
そして、滑らかな動作で彼女の手を取り、その甲に口づけを落とす寸前で止めた。
直接触れそうで、触れない。
焦らしのテクニック。
「私の名前をご存知ですの?」
「知らぬ者などいないでしょう。帝都の華、そして……噂に聞く以上の美貌の持ち主だ」
井上は顔を上げ、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
そして、この世で最も美しい嘘を吐いた。
「美しい人だ」
その瞬間、麗華の頬が紅潮した。
今まで何千回と言われてきたであろう、ありふれた賛辞。
だが、井上の声、表情、そして完璧な間の取り方は、その言葉に「魔法」をかけた。
魂を奪われた男の、切実な告白のように響いたのだ。
「ま、まあ……。お上手ですこと」
「言葉では足りないくらいです。……申し遅れました。井上健太郎と申します」
井上は名刺入れを取り出し、一枚のカードを差し出した。
黒地に金の文字。
『K.I.ホールディングス 代表取締役 井上健太郎』
「イノウエ……? 聞いたことがないお名前ね」
「海外での活動が長かったもので。最近、日本に戻ったばかりなのです」
「まあ、帰国子女でいらしたの? だからそんなに洗練されて……」
麗華は名刺を宝物のように受け取り、熱っぽい視線を井上に絡みつかせた。
完全に落ちている。
10年前、灰谷守に対して「臭い」「汚い」と言い放った同じ口が、今は井上に対して「素敵」「知りたい」と囁いている。
(滑稽だな)
井上の心の中で、冷たい嘲笑が響いた。
中身は同じ男だぞ?
お前が殺した男の魂が、この皮一枚の下に詰まっているんだぞ?
それに気づきもしないで、よくもまあ、そんなふしだらな顔ができるものだ。
「実は、貴女にお近づきになりたくて、無理を言ってこのパーティーに潜り込んだのです」
「私のために?」
「ええ。……ビジネスの話も少しありますが、それはただの口実です。本当は、ただ貴女とお話ししたかった」
ストレートなアプローチ。
彼女の自尊心を極限までくすぐる。
「うふふ、悪い方。……でも、嫌いじゃないわ」
麗華は一歩、距離を詰めてきた。
その手が、井上の腕に触れようとする。
「ねえ、井上様。……あちらのラウンジで、もう少しゆっくりお話ししませんこと? ビジネスのお話も、詳しく伺いたいですわ」
お持ち帰りの誘いだ。
思ったより早い。
「喜んで。……ですが」
井上は視線を逸らし、わざとらしくため息をついた。
そして、自分の腕に絡みついている舞永に視線を落とした。
「残念ながら、今日は連れがいまして」
舞永はここぞとばかりに、井上の腕を強く抱きしめ、麗華に向かってニッコリと微笑んだ。
それは、「私の男に手を出さないで」という、わかりやすい牽制の笑みだ。
「あら……素敵な方ね。モデルさんかしら? でも、少し品がないような……」
麗華の目が据わった。瞬時に敵対心が火花を散らす。
「私のビジネスパートナーです。少々、束縛が激しいもので」
井上は困ったように肩をすくめた。
「美しい恋人がいる男」という付加価値。
そして「手の届きそうで届かない距離感」。
これが、麗華のようなプライドの高い女を一番燃え上がらせる燃料だ。
「……そう。パートナー、ね」
麗華は扇子を持つ手に力を込めた。
獲物を横取りされまいとする、強欲な捕食者の目だ。
「でも、ビジネスのお話なら、私とした方が有益だと思いますわよ? なんて言ったって、ここは私の庭なのですから」
「光栄です。……では、名刺の番号にいつでもご連絡ください。貴女からの電話なら、たとえ地球の裏側にいても取ります」
「約束よ? ……健太郎さん」
下の名前で呼ばれた。
勝負ありだ。
その時、会場がざわめき立った。
メインステージに、車椅子に乗った老婆――西園寺貴子が現れたのだ。
「あら、お母様のご挨拶だわ。行かなくちゃ」
麗華は名残惜しそうに井上から離れた。
舞永を一瞥し、勝ち誇ったように鼻で笑うと、井上に向かってウインクを投げた。
「後で、必ず連絡するわ。……待っていてね」
麗華はドレスの裾を翻し、ステージの方へと向かっていった。
その後ろ姿を見送りながら、井上は大きく息を吐き出した。
演じ切った。背中を冷たい汗が伝う。
「……お熱いこと」
舞永が、井上の腕を小突いた。
「見てたわよ、ボス。『美しい人だ』なんて、よくあんな歯の浮くような台詞が言えるわね。私なら吐いてるわ」
「……俺もだ」
井上は近くのウェイターから新しいシャンパンを受け取り、一気に喉に流し込んだ。
アルコールで、口の中に残る甘い言葉の残滓を洗い流す。
「今すぐ胃の中身をぶちまけたい気分だ」
「ふーん。でも、あっちはメロメロだったじゃない。……アンタ、やっぱり詐欺師の才能あるわよ」
舞永はケラケラと笑った。
「で? これで終わり? 次はどうするの」
「……一旦、引き上げる」
井上はグラスを置いた。
「これ以上、あの女の近くにいるとボロが出る。……それに、腹が減った」
「あら、奇遇。私もよ。……じゃあ、ボスのお手並み拝見といこうかしら?」
深夜のアマン東京。
パーティー会場の喧騒から逃れるように戻ってきた二人は、タキシードとドレス姿のままキッチンに立っていた。
仔猫のハイが、井上の足元で興味深そうに上を見上げている。
「さて、何を作る気?」
舞永がカウンターに肘をつき、楽しそうに尋ねる。
井上はジャケットを脱ぎ、シャツの袖を捲り上げた。
「南米のソウルフードだ。……『アレパ』を知ってるか?」
「アレパ? コロンビアとかベネズエラの?」
「そうだ。トウモロコシの粉で作るパンだ」
井上はボウルにホワイトコーンミールを開け、水と塩、少量のバターを加えて手際よく捏ね始めた。
独特の香ばしい穀物の香りが漂う。
生地がまとまったら、手のひらで丸め、平たい円盤状に成形する。
それを熱したフライパンに乗せると、ジュウウ……という音と共に、食欲をそそる香りが爆発した。
「中身は『レイナ・ペピアダ』にする」
井上はアボカドを割り、鮮やかな緑色の果肉を取り出した。
そこに、茹でて細かく裂いた鶏肉、マヨネーズ、ライムの絞り汁、刻んだパクチーと玉ねぎを加え、ざっくりと混ぜ合わせる。
アボカドの濃厚なコクと、ライムの酸味。最強の組み合わせだ。
こんがりと両面が焼けたアレパにナイフを入れ、ポケットを作る。
そこへ、たっぷりの具材を詰め込む。
溢れんばかりのアボカドチキンサラダ。
「完成だ」
皿に盛られたアレパは、素朴ながらも圧倒的な存在感を放っている。
だが、井上の手はまだ止まらない。
「飲み物は?」
「……これだ」
井上はシェイカーを取り出した。
ウォッカ、メロンリキュール、ラズベリーリキュール、そしてパイナップルジュース。
氷を入れ、リズミカルにシェイクする。
シャカシャカシャカ……。
その手つきは、一流のバーテンダーのように洗練されていた。
グラスに注がれる液体は、トロピカルで妖艶なオレンジ色。
井上はスライスしたオレンジとチェリーを飾り、舞永の前に滑らせた。
「『セックス・オン・ザ・ビーチ』だ」
「……ははっ!」
舞永が吹き出した。
「あんた、最高ね。……さっき『美しい人だ』なんて純愛みたいな台詞を吐いておきながら、裏でこんな名前のカクテルを作るなんて」
「皮肉だ。……あの女に相応しいカクテルだろ?」
井上は自分のグラスにも注ぎ、アレパを手に取った。
「いただきます」
舞永も倣ってアレパにかぶりつく。
カリッとした外側の生地と、中のモチモチした食感。
そして、クリーミーなアボカドとジューシーなチキンが口いっぱいに広がる。
トウモロコシの素朴な甘みが、具材の塩気を優しく包み込む。
「……んんっ、美味しい! 何これ、中毒性あるわね」
「だろうな。……これに、甘いカクテルを流し込む」
井上はグラスを煽った。
フルーティーで飲みやすい口当たり。だが、ベースは度数の高いウォッカだ。
油断していると、足元をすくわれる。
まるで、これから始まる復讐劇そのものの味だ。
「ねえ、ボス」
舞永がグラス越しに井上を見つめた。
少し酔いが回ったのか、その瞳はとろんと潤んでいる。
「アンタ、本当はどっちが本性なの? 冷徹な投資家? それとも、こんな美味い飯を作る家庭的な男?」
「……どちらも偽物だ」
井上は自嘲気味に笑った。
「本物は、10年前にあの崖の下で死んだ。……今ここにいるのは、復讐のために継ぎ接ぎされた亡霊だ」
「ふーん。……でも、私は今のアンタの方が好きよ」
舞永は指についたソースを舐め取り、妖艶に微笑んだ。
「亡霊だろうが怪物だろうが、美味い飯とスリルをくれるなら、私は地獄の底までついて行くわ」
「……奇遇だな。俺も、飼い犬にするなら狂犬の方が好みだ」
二人はグラスを合わせた。
カチン、と涼やかな音が響く。
窓の外には、東京の夜景。
その彼方にある西園寺家の屋敷では、今頃、麗華が井上からの連絡を待ち焦がれていることだろう。
「さて、腹ごしらえも済んだ」
井上は最後の一口を飲み込み、立ち上がった。
その瞳から、料理人の温かさが消え、復讐者の冷たい光が戻る。
「次は裏の仕事だ。……舞永、着替えろ。今からもう一度ホテルへ戻る」
「は? なんで?」
「ダンスのパートナーを変えるためだ。……次は猛の番だ」
井上は不敵に笑った。
表の誘惑は終わった。次は裏からの破壊工作だ。
甘いカクテルの酔いを残したまま、二人は再び夜の闇へと滑り出していった。
天井から吊り下げられたクリスタルのシャンデリアが、欲望と虚栄に満ちた会場を冷ややかに照らし出している。
井上健太郎が掲げたグラス。
音のない乾杯。
そのメッセージを受け取った西園寺麗華の時間が、一瞬止まったように見えた。
彼女は手に持っていたグラスをサイドテーブルに乱雑に置くと、取り巻きの男たちを押しのけ、井上の方へと歩き出した。
獲物の方から、罠にかかりに来た。
「……来たわよ、ボス」
井上の腕に絡みついていた森舞永が、甘い吐息と共に耳元で囁いた。
周囲から見れば、恋人同士の睦じい会話にしか見えないだろう。
だが、その腕にはボディガードとしての力が込められ、いつでも動けるよう筋肉が緊張している。
「あっちから来るなんて、よっぽどアンタの顔が気に入ったのね。……どうする? 逃げる?」
「まさか。……ここが特等席だ」
井上は動かなかった。
モーゼの十戒のように割れた人波の中、真紅のドレスを纏った麗華が、カツ、カツとヒールを鳴らして近づいてくる。
その瞳は、井上だけを捉えて離さない。
まるで、新しい宝石を見つけたカラスのような、強欲な光。
距離が縮まる。
5メートル、3メートル、1メートル。
強烈な香水の匂いが漂ってくる。
かつて灰谷守だった頃、吐き気を催すほど嗅がされた、あの匂いだ。
「……お初にお目にかかります」
声をかけてきたのは、麗華の方だった。
その声は、猫撫で声のように甘ったるく、しかし強烈な自意識を感じさせるものだった。
「会場に入られた時から、目が離せませんでしたの。……まるで映画のワンシーンのようで」
「光栄です、西園寺麗華様」
井上は静かに、深く響くバリトンボイスで答えた。
そして、滑らかな動作で彼女の手を取り、その甲に口づけを落とす寸前で止めた。
直接触れそうで、触れない。
焦らしのテクニック。
「私の名前をご存知ですの?」
「知らぬ者などいないでしょう。帝都の華、そして……噂に聞く以上の美貌の持ち主だ」
井上は顔を上げ、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
そして、この世で最も美しい嘘を吐いた。
「美しい人だ」
その瞬間、麗華の頬が紅潮した。
今まで何千回と言われてきたであろう、ありふれた賛辞。
だが、井上の声、表情、そして完璧な間の取り方は、その言葉に「魔法」をかけた。
魂を奪われた男の、切実な告白のように響いたのだ。
「ま、まあ……。お上手ですこと」
「言葉では足りないくらいです。……申し遅れました。井上健太郎と申します」
井上は名刺入れを取り出し、一枚のカードを差し出した。
黒地に金の文字。
『K.I.ホールディングス 代表取締役 井上健太郎』
「イノウエ……? 聞いたことがないお名前ね」
「海外での活動が長かったもので。最近、日本に戻ったばかりなのです」
「まあ、帰国子女でいらしたの? だからそんなに洗練されて……」
麗華は名刺を宝物のように受け取り、熱っぽい視線を井上に絡みつかせた。
完全に落ちている。
10年前、灰谷守に対して「臭い」「汚い」と言い放った同じ口が、今は井上に対して「素敵」「知りたい」と囁いている。
(滑稽だな)
井上の心の中で、冷たい嘲笑が響いた。
中身は同じ男だぞ?
お前が殺した男の魂が、この皮一枚の下に詰まっているんだぞ?
それに気づきもしないで、よくもまあ、そんなふしだらな顔ができるものだ。
「実は、貴女にお近づきになりたくて、無理を言ってこのパーティーに潜り込んだのです」
「私のために?」
「ええ。……ビジネスの話も少しありますが、それはただの口実です。本当は、ただ貴女とお話ししたかった」
ストレートなアプローチ。
彼女の自尊心を極限までくすぐる。
「うふふ、悪い方。……でも、嫌いじゃないわ」
麗華は一歩、距離を詰めてきた。
その手が、井上の腕に触れようとする。
「ねえ、井上様。……あちらのラウンジで、もう少しゆっくりお話ししませんこと? ビジネスのお話も、詳しく伺いたいですわ」
お持ち帰りの誘いだ。
思ったより早い。
「喜んで。……ですが」
井上は視線を逸らし、わざとらしくため息をついた。
そして、自分の腕に絡みついている舞永に視線を落とした。
「残念ながら、今日は連れがいまして」
舞永はここぞとばかりに、井上の腕を強く抱きしめ、麗華に向かってニッコリと微笑んだ。
それは、「私の男に手を出さないで」という、わかりやすい牽制の笑みだ。
「あら……素敵な方ね。モデルさんかしら? でも、少し品がないような……」
麗華の目が据わった。瞬時に敵対心が火花を散らす。
「私のビジネスパートナーです。少々、束縛が激しいもので」
井上は困ったように肩をすくめた。
「美しい恋人がいる男」という付加価値。
そして「手の届きそうで届かない距離感」。
これが、麗華のようなプライドの高い女を一番燃え上がらせる燃料だ。
「……そう。パートナー、ね」
麗華は扇子を持つ手に力を込めた。
獲物を横取りされまいとする、強欲な捕食者の目だ。
「でも、ビジネスのお話なら、私とした方が有益だと思いますわよ? なんて言ったって、ここは私の庭なのですから」
「光栄です。……では、名刺の番号にいつでもご連絡ください。貴女からの電話なら、たとえ地球の裏側にいても取ります」
「約束よ? ……健太郎さん」
下の名前で呼ばれた。
勝負ありだ。
その時、会場がざわめき立った。
メインステージに、車椅子に乗った老婆――西園寺貴子が現れたのだ。
「あら、お母様のご挨拶だわ。行かなくちゃ」
麗華は名残惜しそうに井上から離れた。
舞永を一瞥し、勝ち誇ったように鼻で笑うと、井上に向かってウインクを投げた。
「後で、必ず連絡するわ。……待っていてね」
麗華はドレスの裾を翻し、ステージの方へと向かっていった。
その後ろ姿を見送りながら、井上は大きく息を吐き出した。
演じ切った。背中を冷たい汗が伝う。
「……お熱いこと」
舞永が、井上の腕を小突いた。
「見てたわよ、ボス。『美しい人だ』なんて、よくあんな歯の浮くような台詞が言えるわね。私なら吐いてるわ」
「……俺もだ」
井上は近くのウェイターから新しいシャンパンを受け取り、一気に喉に流し込んだ。
アルコールで、口の中に残る甘い言葉の残滓を洗い流す。
「今すぐ胃の中身をぶちまけたい気分だ」
「ふーん。でも、あっちはメロメロだったじゃない。……アンタ、やっぱり詐欺師の才能あるわよ」
舞永はケラケラと笑った。
「で? これで終わり? 次はどうするの」
「……一旦、引き上げる」
井上はグラスを置いた。
「これ以上、あの女の近くにいるとボロが出る。……それに、腹が減った」
「あら、奇遇。私もよ。……じゃあ、ボスのお手並み拝見といこうかしら?」
深夜のアマン東京。
パーティー会場の喧騒から逃れるように戻ってきた二人は、タキシードとドレス姿のままキッチンに立っていた。
仔猫のハイが、井上の足元で興味深そうに上を見上げている。
「さて、何を作る気?」
舞永がカウンターに肘をつき、楽しそうに尋ねる。
井上はジャケットを脱ぎ、シャツの袖を捲り上げた。
「南米のソウルフードだ。……『アレパ』を知ってるか?」
「アレパ? コロンビアとかベネズエラの?」
「そうだ。トウモロコシの粉で作るパンだ」
井上はボウルにホワイトコーンミールを開け、水と塩、少量のバターを加えて手際よく捏ね始めた。
独特の香ばしい穀物の香りが漂う。
生地がまとまったら、手のひらで丸め、平たい円盤状に成形する。
それを熱したフライパンに乗せると、ジュウウ……という音と共に、食欲をそそる香りが爆発した。
「中身は『レイナ・ペピアダ』にする」
井上はアボカドを割り、鮮やかな緑色の果肉を取り出した。
そこに、茹でて細かく裂いた鶏肉、マヨネーズ、ライムの絞り汁、刻んだパクチーと玉ねぎを加え、ざっくりと混ぜ合わせる。
アボカドの濃厚なコクと、ライムの酸味。最強の組み合わせだ。
こんがりと両面が焼けたアレパにナイフを入れ、ポケットを作る。
そこへ、たっぷりの具材を詰め込む。
溢れんばかりのアボカドチキンサラダ。
「完成だ」
皿に盛られたアレパは、素朴ながらも圧倒的な存在感を放っている。
だが、井上の手はまだ止まらない。
「飲み物は?」
「……これだ」
井上はシェイカーを取り出した。
ウォッカ、メロンリキュール、ラズベリーリキュール、そしてパイナップルジュース。
氷を入れ、リズミカルにシェイクする。
シャカシャカシャカ……。
その手つきは、一流のバーテンダーのように洗練されていた。
グラスに注がれる液体は、トロピカルで妖艶なオレンジ色。
井上はスライスしたオレンジとチェリーを飾り、舞永の前に滑らせた。
「『セックス・オン・ザ・ビーチ』だ」
「……ははっ!」
舞永が吹き出した。
「あんた、最高ね。……さっき『美しい人だ』なんて純愛みたいな台詞を吐いておきながら、裏でこんな名前のカクテルを作るなんて」
「皮肉だ。……あの女に相応しいカクテルだろ?」
井上は自分のグラスにも注ぎ、アレパを手に取った。
「いただきます」
舞永も倣ってアレパにかぶりつく。
カリッとした外側の生地と、中のモチモチした食感。
そして、クリーミーなアボカドとジューシーなチキンが口いっぱいに広がる。
トウモロコシの素朴な甘みが、具材の塩気を優しく包み込む。
「……んんっ、美味しい! 何これ、中毒性あるわね」
「だろうな。……これに、甘いカクテルを流し込む」
井上はグラスを煽った。
フルーティーで飲みやすい口当たり。だが、ベースは度数の高いウォッカだ。
油断していると、足元をすくわれる。
まるで、これから始まる復讐劇そのものの味だ。
「ねえ、ボス」
舞永がグラス越しに井上を見つめた。
少し酔いが回ったのか、その瞳はとろんと潤んでいる。
「アンタ、本当はどっちが本性なの? 冷徹な投資家? それとも、こんな美味い飯を作る家庭的な男?」
「……どちらも偽物だ」
井上は自嘲気味に笑った。
「本物は、10年前にあの崖の下で死んだ。……今ここにいるのは、復讐のために継ぎ接ぎされた亡霊だ」
「ふーん。……でも、私は今のアンタの方が好きよ」
舞永は指についたソースを舐め取り、妖艶に微笑んだ。
「亡霊だろうが怪物だろうが、美味い飯とスリルをくれるなら、私は地獄の底までついて行くわ」
「……奇遇だな。俺も、飼い犬にするなら狂犬の方が好みだ」
二人はグラスを合わせた。
カチン、と涼やかな音が響く。
窓の外には、東京の夜景。
その彼方にある西園寺家の屋敷では、今頃、麗華が井上からの連絡を待ち焦がれていることだろう。
「さて、腹ごしらえも済んだ」
井上は最後の一口を飲み込み、立ち上がった。
その瞳から、料理人の温かさが消え、復讐者の冷たい光が戻る。
「次は裏の仕事だ。……舞永、着替えろ。今からもう一度ホテルへ戻る」
「は? なんで?」
「ダンスのパートナーを変えるためだ。……次は猛の番だ」
井上は不敵に笑った。
表の誘惑は終わった。次は裏からの破壊工作だ。
甘いカクテルの酔いを残したまま、二人は再び夜の闇へと滑り出していった。
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今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、
わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。
彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。
それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。
今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。
「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」
「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」
「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」
「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」
命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場――
ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
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