27 / 38
第3章:侵食と誘惑
第27話 空いた後釜
しおりを挟む
アマン東京のスイートルームに、柔らかな午後の日差しが差し込んでいた。
戦いの合間の、束の間の休息。
井上健太郎は、リビングのソファに浅く腰掛け、膝の上で無防備に爆睡している小さな生き物を凝視していた。
仔猫のハイだ。
拾われた当初の警戒心はどこへやら、今では完全に野生を忘れ、仰向けになって「ヘソ天」ポーズで熟睡している。
その四肢はだらりと力が抜け、肉球が天井を向いている。
まだ色素の薄い、桜貝のようなピンク色の肉球。
柔らかく、温かく、そして弾力に満ちた、生命の神秘。
「……触るか」
井上はゴクリと喉を鳴らした。
数百億の金を動かし、巨大財閥を敵に回しても眉一つ動かさない男が、今はたかが猫の足の裏に指を伸ばすだけで緊張している。
起こしてはいけない。
だが、触れたい。
井上は人差し指をゆっくりと近づけ、前足の肉球に触れた。
ぷにっ。
想像以上の柔らかさだ。マシュマロよりも弾力があり、赤ちゃんの肌よりも吸い付くような感触。
指先が沈み込む。
「……んぅ……」
ハイが寝言を漏らし、前足を動かした。
井上はビクリと手を止めたが、ハイは起きる気配がない。
それどころか、無意識に井上の指を両前足でぎゅっと抱き込み、自分の顔に押し付けた。
「ミャ……ムニャ……」
小さな爪を出したり引っ込めたりしながら、井上の指を「おしゃぶり」代わりにして再び寝息を立て始める。
温かい体温。トクトクと伝わる心臓の音。
そして、指を包み込む肉球の感触。
「……反則だろう、これは」
井上は口元を緩め、動けなくなってしまった。
復讐のために冷徹に徹してきた心が、この小さな温もりによって強制的に溶かされていく。
「あら、ボス。デレデレね」
背後から、呆れたような声が聞こえた。
森舞永だ。ジム帰りなのか、スポーティーなウェアに身を包み、プロテインシェイカーを振っている。
「邪魔をするな。……今、世界で一番重要な任務中だ」
「はいはい。肉球の感触チェックでしょ? ……で、どうなの?」
「……極上だ。どんな高級なシルクよりも心地いい」
井上は真顔で答えた。
舞永は肩をすくめ、デスクに向かっていた木村心に声をかけた。
「聞いた? 心ちゃん。あの冷血漢のボスが骨抜きにされてるわよ」
「静かにしてよ。今、いいところなんだから」
心はヘッドフォンをずらし、モニターを指差した。
画面には、ニュースサイトの速報と、帝都グループの株価チャートが表示されている。
『帝都グループ、西園寺猛専務を解任。薬物疑惑と暴行容疑で送検』
『株価は年初来安値を更新。ストップ安気配』
「猛の失脚は確定したよ。……ネットじゃ『帝都の終わりの始まり』なんて言われてる」
「順調だな」
井上はハイを起こさないように、慎重に指を引き抜いた。
名残惜しい感触が指先に残っている。
「だが、これで終わりじゃない。……『王』が消えれば、次は『女王』が玉座を狙う」
井上は立ち上がり、窓の外を見据えた。
皇居の向こう、大手町のビル群の中に、帝都グループの本社ビルがある。
その最上階では今頃、血で血を洗うような権力闘争の第二幕が開いているはずだ。
★★★★★★★★★★★
帝都グループ本社、最上階の会長室。
重厚なマホガニーのデスクの向こうに、西園寺貴子が座っていた。
その表情は険しい。
目の前には、数人の重役たちが青ざめた顔で立っている。
「……銀行団が、融資の引き上げを匂わせています」
「主要株主からも、経営責任を問う声が……」
「ネットでの不買運動が飛び火して、グループ全体の売り上げが激減しております」
悲鳴のような報告が次々と上がる。
猛のスキャンダルは、単なる個人の不祥事では済まされなかった。
企業のコンプライアンス、ガバナンスの欠如として、グループ全体の信用を根底から揺るがしていたのだ。
「うるさい! 黙りなさい!」
貴子がデスクを叩きつけた。
重役たちが縮み上がる。
「たかがスキャンダル一つで大騒ぎして……。猛はもう切ったわ。トカゲの尻尾切りよ。これで幕引きにしなさい」
「し、しかし会長。……空席となった専務のポスト、および次期社長の椅子をどうするか、早急に決めなければ株主が納得しません」
筆頭常務が恐る恐る進言した。
貴子は深いため息をつき、部屋の隅に控えていた人物に視線を向けた。
「……麗華」
呼ばれて進み出たのは、西園寺麗華だった。
今日の彼女は、いつもの派手なドレスではなく、濃紺の地味なスーツに身を包んでいた。
化粧も控えめにし、「謹慎中の身内」を装っている。
だが、その瞳の奥には、隠しきれない野心と、不安が入り混じっていた。
「はい、お母様」
「お前がやりなさい」
貴子は短く告げた。
「次期社長候補として、お前を推すわ。……猛がいなくなった今、西園寺家の血を引く人間はお前しかいないの」
「わ、私が……社長?」
麗華の声が上ずった。
喜びと同時に、戸惑いがある。
彼女はこれまで、ショッピングとエステとパーティーに明け暮れるだけの「お飾り」だった。経営のことなど何も分からない。
「で、ですが……私に務まるでしょうか?」
「務まるわけがないでしょう」
貴子は冷酷に言い放った。
「お前はただ座っていればいいの。実務は私がやる。……お前は『女性社長』という看板で、世間の同情と注目を集めるピエロになりなさい」
傀儡。
それが母親からのオーダーだった。
麗華は唇を噛んだ。悔しいが、言い返す言葉も能力もない。
「ですが会長! 麗華様には経営の実績がありません。今のこの危機的状況で、神輿を据えるだけでは株主は納得しませんぞ!」
重役の一人が反論した。
他の者たちも頷く。
泥舟に、素人の船長を乗せるようなものだ。
「……なら、どうすればいいのよ」
貴子が苛立ちを隠さずに問う。
「強力な『後ろ盾』が必要です。……資金力があり、市場から信頼されている外部のパートナー。それを連れてこない限り、今回の人事は承認されません」
後ろ盾。
金。
貴子は舌打ちをした。
今の帝都グループに火中の栗を拾いに来るような投資家など、いるはずがない。
その時。
麗華の脳裏に、ある男の顔が浮かんだ。
数日前のパーティーで出会った、映画スターのような美貌の投資家。
『K.I.ホールディングス』代表、井上健太郎。
『貴女からの電話なら、たとえ地球の裏側にいても取ります』
あの言葉は、嘘だったのか、真実だったのか。
もし、彼が本当に自分に惚れているなら。
そして、彼が噂通りの莫大な資産を持っているなら。
「……心当たりが、ありますわ」
麗華は顔を上げた。
「私を……いえ、帝都グループを救ってくれるかもしれない『ナイト』に、心当たりがあります」
★★★★★★★★★★★
その夜。
西麻布にある会員制フレンチ『エピキュア』の個室。
薄暗い照明の下、井上健太郎と西園寺麗華は対峙していた。
麗華は必死に「落ち着いた大人の女性」を演じようとしていたが、グラスを持つ指先が微かに震えているのを、井上は見逃さなかった。
彼女は追い詰められている。
兄の失脚。母親からの圧力。そして自身の無力さ。
今、彼女が求めているのは、愛ではなく「救済」だ。
「……急なお誘いで申し訳ありません、麗華さん」
井上は優しく微笑み、ワインを注いだ。
ロマネ・コンティ。一本数百万は下らない最高級ワインだ。
その香りが、麗華の虚栄心をくすぐり、警戒心を解いていく。
「い、いえ。……私も、健太郎さんにお会いしたかったの」
麗華は上目遣いで井上を見た。
「あの……ニュース、ご覧になりました?」
「ええ。お兄様の件……心中お察しします」
井上は痛ましげな表情を作った。
実際には、そのニュースの仕掛け人は自分なのだが。
「実は……私、次期社長の候補に挙がっているの」
「それは素晴らしい。……貴女なら、きっと素晴らしいリーダーになれる」
「でも……自信がないの」
麗華は弱々しく首を振った。
「誰も私を認めてくれない。母も、役員たちも、私をただのお飾りだとしか思っていない。……私には、味方がいないの」
涙ぐむ演技。
いや、半分は本音だろう。
彼女はずっと、孤独だった。金と権力はあるが、誰からも愛されず、必要とされていないという欠落感。
10年前、灰谷守をペットにしたのも、その空虚さを埋めるためだったのかもしれない。
「……僕がいる」
井上はテーブル越しに手を伸ばし、麗華の手を包み込んだ。
その手は温かく、力強い。
「貴女が一人で戦う必要はない。……僕が、貴女の剣となり、盾となります」
「健太郎さん……」
「単刀直入に言いましょう。K.I.ホールディングスは、帝都グループへの資本参加を希望します。……貴女を社長にするための、強力な『後ろ盾』として」
井上の言葉に、麗華の瞳が輝いた。
求めていた言葉。
白馬の王子様が、黄金の馬車に乗って助けに来てくれたような錯覚。
「で、でも……今の帝都は火の車よ? 株価も暴落しているし……貴方に損をさせてしまうかも」
「金など、どうでもいい」
井上は断言した。
その瞳が、青い炎のように揺らめき、麗華を射抜く。
「僕が投資するのは、帝都グループではない。……『西園寺麗華』という一人の女性だ」
殺し文句。
麗華の理性が、音を立てて崩れ落ちた。
彼女は席を立ち、井上の隣に座り直すと、その胸に飛び込んだ。
「……嬉しい。私、こんなに愛されたの、初めて……」
麗華は井上の胸に顔を埋めた。
甘い香水の匂い。
井上は彼女の背中に手を回し、優しく抱きしめた。
その顔は、慈愛に満ちた聖母のような表情を作っていたが、麗華に見えない角度で、口元だけが冷酷に歪んでいた。
(……チョロいな)
堕ちた。
これで、麗華は井上の傀儡となった。
彼女を通じて、帝都グループの中枢に入り込むことができる。
「後ろ盾」とは、すなわち「背後から首を絞める者」のことだとも知らずに。
「ありがとう、健太郎さん。……貴方だけが、私の味方よ」
「ああ。……僕に全てを任せてくれ」
井上は麗華の耳元で囁いた。
悪魔の契約。
麗華は今、自らの意思で、その魂を井上に差し出したのだ。
ホテルに戻った井上は、すぐにシャワーを浴びた。
麗華の香水の匂いを、一刻も早く洗い流したかったからだ。
バスルームから出ると、リビングでは舞永と心が、ピザを囲んで盛り上がっていた。
「お帰り、ボス。……魔女狩りは順調?」
「ああ。……魔女は今、王子様の夢を見て眠っている頃だ」
井上はバスローブを羽織り、ソファに座った。
すると、すぐにハイが寄ってきて、膝の上に飛び乗った。
「ミャウ」と鳴き、井上の濡れた髪にじゃれついてくる。
「……ただいま、ハイ」
井上はハイの小さな肉球を、再び指先でつんつんと突いた。
プニプニとした感触。
麗華の手を握った時の不快感が、嘘のように浄化されていく。
「……ボス、顔が緩んでるわよ」
舞永が冷やかしたが、井上は気にしなかった。
この温もりがあるからこそ、また明日、冷酷な仮面を被ることができる。
空いた後釜には、操り人形が座る。
そしてその糸を引くのは、かつてその家でゴミのように扱われていた男。
復讐のシナリオは、いよいよ最終章へと向かっていた。
戦いの合間の、束の間の休息。
井上健太郎は、リビングのソファに浅く腰掛け、膝の上で無防備に爆睡している小さな生き物を凝視していた。
仔猫のハイだ。
拾われた当初の警戒心はどこへやら、今では完全に野生を忘れ、仰向けになって「ヘソ天」ポーズで熟睡している。
その四肢はだらりと力が抜け、肉球が天井を向いている。
まだ色素の薄い、桜貝のようなピンク色の肉球。
柔らかく、温かく、そして弾力に満ちた、生命の神秘。
「……触るか」
井上はゴクリと喉を鳴らした。
数百億の金を動かし、巨大財閥を敵に回しても眉一つ動かさない男が、今はたかが猫の足の裏に指を伸ばすだけで緊張している。
起こしてはいけない。
だが、触れたい。
井上は人差し指をゆっくりと近づけ、前足の肉球に触れた。
ぷにっ。
想像以上の柔らかさだ。マシュマロよりも弾力があり、赤ちゃんの肌よりも吸い付くような感触。
指先が沈み込む。
「……んぅ……」
ハイが寝言を漏らし、前足を動かした。
井上はビクリと手を止めたが、ハイは起きる気配がない。
それどころか、無意識に井上の指を両前足でぎゅっと抱き込み、自分の顔に押し付けた。
「ミャ……ムニャ……」
小さな爪を出したり引っ込めたりしながら、井上の指を「おしゃぶり」代わりにして再び寝息を立て始める。
温かい体温。トクトクと伝わる心臓の音。
そして、指を包み込む肉球の感触。
「……反則だろう、これは」
井上は口元を緩め、動けなくなってしまった。
復讐のために冷徹に徹してきた心が、この小さな温もりによって強制的に溶かされていく。
「あら、ボス。デレデレね」
背後から、呆れたような声が聞こえた。
森舞永だ。ジム帰りなのか、スポーティーなウェアに身を包み、プロテインシェイカーを振っている。
「邪魔をするな。……今、世界で一番重要な任務中だ」
「はいはい。肉球の感触チェックでしょ? ……で、どうなの?」
「……極上だ。どんな高級なシルクよりも心地いい」
井上は真顔で答えた。
舞永は肩をすくめ、デスクに向かっていた木村心に声をかけた。
「聞いた? 心ちゃん。あの冷血漢のボスが骨抜きにされてるわよ」
「静かにしてよ。今、いいところなんだから」
心はヘッドフォンをずらし、モニターを指差した。
画面には、ニュースサイトの速報と、帝都グループの株価チャートが表示されている。
『帝都グループ、西園寺猛専務を解任。薬物疑惑と暴行容疑で送検』
『株価は年初来安値を更新。ストップ安気配』
「猛の失脚は確定したよ。……ネットじゃ『帝都の終わりの始まり』なんて言われてる」
「順調だな」
井上はハイを起こさないように、慎重に指を引き抜いた。
名残惜しい感触が指先に残っている。
「だが、これで終わりじゃない。……『王』が消えれば、次は『女王』が玉座を狙う」
井上は立ち上がり、窓の外を見据えた。
皇居の向こう、大手町のビル群の中に、帝都グループの本社ビルがある。
その最上階では今頃、血で血を洗うような権力闘争の第二幕が開いているはずだ。
★★★★★★★★★★★
帝都グループ本社、最上階の会長室。
重厚なマホガニーのデスクの向こうに、西園寺貴子が座っていた。
その表情は険しい。
目の前には、数人の重役たちが青ざめた顔で立っている。
「……銀行団が、融資の引き上げを匂わせています」
「主要株主からも、経営責任を問う声が……」
「ネットでの不買運動が飛び火して、グループ全体の売り上げが激減しております」
悲鳴のような報告が次々と上がる。
猛のスキャンダルは、単なる個人の不祥事では済まされなかった。
企業のコンプライアンス、ガバナンスの欠如として、グループ全体の信用を根底から揺るがしていたのだ。
「うるさい! 黙りなさい!」
貴子がデスクを叩きつけた。
重役たちが縮み上がる。
「たかがスキャンダル一つで大騒ぎして……。猛はもう切ったわ。トカゲの尻尾切りよ。これで幕引きにしなさい」
「し、しかし会長。……空席となった専務のポスト、および次期社長の椅子をどうするか、早急に決めなければ株主が納得しません」
筆頭常務が恐る恐る進言した。
貴子は深いため息をつき、部屋の隅に控えていた人物に視線を向けた。
「……麗華」
呼ばれて進み出たのは、西園寺麗華だった。
今日の彼女は、いつもの派手なドレスではなく、濃紺の地味なスーツに身を包んでいた。
化粧も控えめにし、「謹慎中の身内」を装っている。
だが、その瞳の奥には、隠しきれない野心と、不安が入り混じっていた。
「はい、お母様」
「お前がやりなさい」
貴子は短く告げた。
「次期社長候補として、お前を推すわ。……猛がいなくなった今、西園寺家の血を引く人間はお前しかいないの」
「わ、私が……社長?」
麗華の声が上ずった。
喜びと同時に、戸惑いがある。
彼女はこれまで、ショッピングとエステとパーティーに明け暮れるだけの「お飾り」だった。経営のことなど何も分からない。
「で、ですが……私に務まるでしょうか?」
「務まるわけがないでしょう」
貴子は冷酷に言い放った。
「お前はただ座っていればいいの。実務は私がやる。……お前は『女性社長』という看板で、世間の同情と注目を集めるピエロになりなさい」
傀儡。
それが母親からのオーダーだった。
麗華は唇を噛んだ。悔しいが、言い返す言葉も能力もない。
「ですが会長! 麗華様には経営の実績がありません。今のこの危機的状況で、神輿を据えるだけでは株主は納得しませんぞ!」
重役の一人が反論した。
他の者たちも頷く。
泥舟に、素人の船長を乗せるようなものだ。
「……なら、どうすればいいのよ」
貴子が苛立ちを隠さずに問う。
「強力な『後ろ盾』が必要です。……資金力があり、市場から信頼されている外部のパートナー。それを連れてこない限り、今回の人事は承認されません」
後ろ盾。
金。
貴子は舌打ちをした。
今の帝都グループに火中の栗を拾いに来るような投資家など、いるはずがない。
その時。
麗華の脳裏に、ある男の顔が浮かんだ。
数日前のパーティーで出会った、映画スターのような美貌の投資家。
『K.I.ホールディングス』代表、井上健太郎。
『貴女からの電話なら、たとえ地球の裏側にいても取ります』
あの言葉は、嘘だったのか、真実だったのか。
もし、彼が本当に自分に惚れているなら。
そして、彼が噂通りの莫大な資産を持っているなら。
「……心当たりが、ありますわ」
麗華は顔を上げた。
「私を……いえ、帝都グループを救ってくれるかもしれない『ナイト』に、心当たりがあります」
★★★★★★★★★★★
その夜。
西麻布にある会員制フレンチ『エピキュア』の個室。
薄暗い照明の下、井上健太郎と西園寺麗華は対峙していた。
麗華は必死に「落ち着いた大人の女性」を演じようとしていたが、グラスを持つ指先が微かに震えているのを、井上は見逃さなかった。
彼女は追い詰められている。
兄の失脚。母親からの圧力。そして自身の無力さ。
今、彼女が求めているのは、愛ではなく「救済」だ。
「……急なお誘いで申し訳ありません、麗華さん」
井上は優しく微笑み、ワインを注いだ。
ロマネ・コンティ。一本数百万は下らない最高級ワインだ。
その香りが、麗華の虚栄心をくすぐり、警戒心を解いていく。
「い、いえ。……私も、健太郎さんにお会いしたかったの」
麗華は上目遣いで井上を見た。
「あの……ニュース、ご覧になりました?」
「ええ。お兄様の件……心中お察しします」
井上は痛ましげな表情を作った。
実際には、そのニュースの仕掛け人は自分なのだが。
「実は……私、次期社長の候補に挙がっているの」
「それは素晴らしい。……貴女なら、きっと素晴らしいリーダーになれる」
「でも……自信がないの」
麗華は弱々しく首を振った。
「誰も私を認めてくれない。母も、役員たちも、私をただのお飾りだとしか思っていない。……私には、味方がいないの」
涙ぐむ演技。
いや、半分は本音だろう。
彼女はずっと、孤独だった。金と権力はあるが、誰からも愛されず、必要とされていないという欠落感。
10年前、灰谷守をペットにしたのも、その空虚さを埋めるためだったのかもしれない。
「……僕がいる」
井上はテーブル越しに手を伸ばし、麗華の手を包み込んだ。
その手は温かく、力強い。
「貴女が一人で戦う必要はない。……僕が、貴女の剣となり、盾となります」
「健太郎さん……」
「単刀直入に言いましょう。K.I.ホールディングスは、帝都グループへの資本参加を希望します。……貴女を社長にするための、強力な『後ろ盾』として」
井上の言葉に、麗華の瞳が輝いた。
求めていた言葉。
白馬の王子様が、黄金の馬車に乗って助けに来てくれたような錯覚。
「で、でも……今の帝都は火の車よ? 株価も暴落しているし……貴方に損をさせてしまうかも」
「金など、どうでもいい」
井上は断言した。
その瞳が、青い炎のように揺らめき、麗華を射抜く。
「僕が投資するのは、帝都グループではない。……『西園寺麗華』という一人の女性だ」
殺し文句。
麗華の理性が、音を立てて崩れ落ちた。
彼女は席を立ち、井上の隣に座り直すと、その胸に飛び込んだ。
「……嬉しい。私、こんなに愛されたの、初めて……」
麗華は井上の胸に顔を埋めた。
甘い香水の匂い。
井上は彼女の背中に手を回し、優しく抱きしめた。
その顔は、慈愛に満ちた聖母のような表情を作っていたが、麗華に見えない角度で、口元だけが冷酷に歪んでいた。
(……チョロいな)
堕ちた。
これで、麗華は井上の傀儡となった。
彼女を通じて、帝都グループの中枢に入り込むことができる。
「後ろ盾」とは、すなわち「背後から首を絞める者」のことだとも知らずに。
「ありがとう、健太郎さん。……貴方だけが、私の味方よ」
「ああ。……僕に全てを任せてくれ」
井上は麗華の耳元で囁いた。
悪魔の契約。
麗華は今、自らの意思で、その魂を井上に差し出したのだ。
ホテルに戻った井上は、すぐにシャワーを浴びた。
麗華の香水の匂いを、一刻も早く洗い流したかったからだ。
バスルームから出ると、リビングでは舞永と心が、ピザを囲んで盛り上がっていた。
「お帰り、ボス。……魔女狩りは順調?」
「ああ。……魔女は今、王子様の夢を見て眠っている頃だ」
井上はバスローブを羽織り、ソファに座った。
すると、すぐにハイが寄ってきて、膝の上に飛び乗った。
「ミャウ」と鳴き、井上の濡れた髪にじゃれついてくる。
「……ただいま、ハイ」
井上はハイの小さな肉球を、再び指先でつんつんと突いた。
プニプニとした感触。
麗華の手を握った時の不快感が、嘘のように浄化されていく。
「……ボス、顔が緩んでるわよ」
舞永が冷やかしたが、井上は気にしなかった。
この温もりがあるからこそ、また明日、冷酷な仮面を被ることができる。
空いた後釜には、操り人形が座る。
そしてその糸を引くのは、かつてその家でゴミのように扱われていた男。
復讐のシナリオは、いよいよ最終章へと向かっていた。
10
あなたにおすすめの小説
ダンジョンでオーブを拾って『』を手に入れた。代償は体で払います
とみっしぇる
ファンタジー
スキルなし、魔力なし、1000人に1人の劣等人。
食っていくのがギリギリの冒険者ユリナは同じ境遇の友達3人と、先輩冒険者ジュリアから率のいい仕事に誘われる。それが罠と気づいたときには、絶対絶命のピンチに陥っていた。
もうあとがない。そのとき起死回生のスキルオーブを手に入れたはずなのにオーブは無反応。『』の中には何が入るのだ。
ギリギリの状況でユリアは瀕死の仲間のために叫ぶ。
ユリナはスキルを手に入れ、ささやかな幸せを手に入れられるのだろうか。
クラス転移したからクラスの奴に復讐します
wrath
ファンタジー
俺こと灞熾蘑 煌羈はクラスでいじめられていた。
ある日、突然クラスが光輝き俺のいる3年1組は異世界へと召喚されることになった。
だが、俺はそこへ転移する前に神様にお呼ばれし……。
クラスの奴らよりも強くなった俺はクラスの奴らに復讐します。
まだまだ未熟者なので誤字脱字が多いと思いますが長〜い目で見守ってください。
閑話の時系列がおかしいんじゃない?やこの漢字間違ってるよね?など、ところどころにおかしい点がありましたら気軽にコメントで教えてください。
追伸、
雫ストーリーを別で作りました。雫が亡くなる瞬間の心情や死んだ後の天国でのお話を書いてます。
気になった方は是非読んでみてください。
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
魚夢ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。
最上級のパーティで最底辺の扱いを受けていたDランク錬金術師は新パーティで成り上がるようです(完)
みかん畑
ファンタジー
最上級のパーティで『荷物持ち』と嘲笑されていた僕は、パーティからクビを宣告されて抜けることにした。
在籍中は僕が色々肩代わりしてたけど、僕を荷物持ち扱いするくらい優秀な仲間たちなので、抜けても問題はないと思ってます。
処刑された勇者は二度目の人生で復讐を選ぶ
シロタカズキ
ファンタジー
──勇者は、すべてを裏切られ、処刑された。
だが、彼の魂は復讐の炎と共に蘇る──。
かつて魔王を討ち、人類を救った勇者 レオン・アルヴァレス。
だが、彼を待っていたのは称賛ではなく、 王族・貴族・元仲間たちによる裏切りと処刑だった。
「力が強すぎる」という理由で異端者として断罪され、広場で公開処刑されるレオン。
国民は歓喜し、王は満足げに笑い、かつての仲間たちは目を背ける。
そして、勇者は 死んだ。
──はずだった。
十年後。
王国は繁栄の影で腐敗し、裏切り者たちは安穏とした日々を送っていた。
しかし、そんな彼らの前に死んだはずの勇者が現れる。
「よくもまあ、のうのうと生きていられたものだな」
これは、英雄ではなくなった男の復讐譚。
彼を裏切った王族、貴族、そしてかつての仲間たちを絶望の淵に叩き落とすための第二の人生が、いま始まる──。
薬師だからってポイ捨てされました!2 ~俺って実は付与も出来るんだよね~
黄色いひよこ
ファンタジー
薬師のロベルト=グリモワール=シルベスタは偉大な師匠(神様)とその脇侍の教えを胸に自領を治める為の経済学を学ぶ為に隣国に留学。逸れを終えて国(自領)に戻ろうとした所、異世界の『勇者召喚』に巻き込まれ、周りにいた数人の男女と共に、何処とも知れない世界に落とされた。
『異世界勇者巻き込まれ召喚』から数年、帰る事違わず、ロベルトはこの異世界で逞しく生きていた。
勇者?そんな物ロベルトには関係無い。
魔王が居るようだが、倒されているのかいないのか、解らずとも世界はあいも変わらず巡っている。
とんでもなく普通じゃないお師匠様とその脇侍に薬師の業と、魔術とその他諸々とを仕込まれた弟子ロベルトの、危難、災難、巻き込まれ痛快世直し異世界道中。
はてさて一体どうなるの?
と、言う話のパート2、ここに開幕!
【ご注意】
・このお話はロベルトの一人称で進行していきますので、セリフよりト書きと言う名のロベルトの呟きと、突っ込みだけで進行します。文字がびっしりなので、スカスカな文字列を期待している方は、回れ右を推奨します。
なるべく読みやすいようには致しますが。
・この物語には短編の1が存在します。出来れば其方を読んで頂き、作風が大丈夫でしたら此方へ来ていただければ幸いです。
勿論、此方だけでも読むに当たっての不都合は御座いません。
・所々挿し絵画像が入ります。
大丈夫でしたらそのままお進みください。
友人(勇者)に恋人も幼馴染も取られたけど悔しくない。 だって俺は転生者だから。
石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていた魔法戦士のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもない状態だった。
だが、此の状態は彼にとっては『本当の幸せ』を掴む事に必要だった
何故なら、彼は『転生者』だから…
今度は違う切り口からのアプローチ。
追放の話しの一話は、前作とかなり似ていますが2話からは、かなり変わります。
こうご期待。
戦場帰りの俺が隠居しようとしたら、最強の美少女たちに囲まれて逃げ場がなくなった件
さん
ファンタジー
戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。
数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、
今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、
わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。
彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。
それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。
今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。
「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」
「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」
「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」
「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」
命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場――
ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる