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第3章:侵食と誘惑
第26話 切り捨てられる長男
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東京湾から昇る朝日が、アマン東京のスイートルームを黄金色に染め上げていた。
世間は今、帝都グループの御曹司・西園寺猛の醜聞で持ちきりだ。
連日のワイドショー、SNSでの炎上、そして株価の大暴落。
台風の目となった「悲劇のヒロイン」林優香は、現在、井上健太郎の保護下にあるこの部屋で、静かな朝を迎えていた。
「……いい匂い」
優香はベッドから起き出し、鼻をひくつかせた。
リビングの方から、食欲をそそるニンニクとオリーブオイル、そして潮の香りが漂ってくる。
キッチンでは、井上がフライパンを揺すっていた。
中にあるのは、一匹丸ごとの魚だ。
『イサキ』。
皮目がパリッと香ばしく焼かれ、周りにはアサリ、ミニトマト、ブラックオリーブ、ケッパーが散りばめられている。
『アクアパッツァ』。
イタリア・ナポリの漁師料理。「狂った水」という意味を持つこの料理は、魚介の旨味を水とオリーブオイルだけで乳化させ、極上のスープを作り出す。
「おはよう、優香。……眠れたか?」
井上は白ワインを回し入れ、アルコールを飛ばしながら振り返った。
優香は大きめのワイシャツを一枚羽織っただけの姿で、少し恥ずかしそうに頷いた。
「はい。……あんなにぐっすり眠れたの、何年ぶりだろう」
「それはよかった。……朝食だ。座ってくれ」
井上は仕上げにイタリアンパセリを散らし、フライパンごとテーブルに運んだ。
豪快で、鮮やか。
赤、緑、黒、そして魚の黄金色。
立ち昇る湯気だけで、幸せな気分になれる。
合わせる飲み物は、イタリア・ヴェネト州の白ワイン『ソアーヴェ・クラシコ』。
フレッシュで爽やかな酸味と、微かな苦味が、魚介のスープを引き立てる。
「……朝からワインですか?」
「イタリアでは水代わりだ。……それに、君の『女優デビュー』を祝う祝杯でもある」
井上はグラスにワインを注ぎ、優香に渡した。
仔猫のハイが足元で「僕のは?」と鳴いている。井上は茹でたイサキの身を少しほぐし、小皿に入れてやった。
「乾杯」
「……乾杯」
グラスが触れ合う。
優香はアクアパッツァを取り分け、スープと共に口に運んだ。
美味い。
魚の身はふっくらとしていて、噛むと凝縮された旨味が溢れ出す。
アサリの出汁とトマトの酸味、オリーブの塩気が溶け合ったスープは、パンに浸して最後の一滴まで舐めとりたくなるほど濃厚だ。
そこに、冷えたソアーヴェを流し込む。
キリッとした酸味が、口の中の油をさっぱりと洗い流し、次の一口を誘う。
「……私、ちゃんと演じられていましたか?」
優香がふと、不安そうに尋ねた。
あの記者会見。涙ながらの告発。
世間を味方につけたあの大芝居。
「完璧だった」
井上は即答した。
「君の涙は、数億の広告費に匹敵する価値があった。……自信を持て。君はもう、誰かの着せ替え人形じゃない。自分の足で立つ『女優』だ」
「……井上さんのおかげです」
優香は涙ぐみ、ワインを一気に飲み干した。
その頬が薔薇色に染まる。
恐怖と安堵、そして達成感。
彼女の中で、何かが変わり始めていた。守られるだけの存在から、戦う女へと。
「さて、と」
井上はタブレット端末を取り出し、テーブルに置いた。
画面には、西園寺邸の門前を映す監視カメラの映像が表示されている。
無数のマスコミが詰めかけ、怒号が飛び交っている。
「メインディッシュの時間だ。……向こうでも、そろそろ『朝食会』が始まる頃だ」
★★★★★★★★★★★
西園寺家の屋敷は、重苦しい空気に包まれていた。
ダイニングルーム。
長いテーブルの端に、西園寺貴子が座っている。
いつものように完璧な化粧とドレスで武装しているが、その眉間には深い皺が刻まれていた。
ガチャリ。
ドアが開き、一人の男が入ってきた。
西園寺猛だ。
昨日逮捕された彼は、優秀な弁護士の手腕と、莫大な保釈金によって、一時的に釈放され帰宅したところだった。
だが、その姿は無惨だった。
無精髭を生やし、目は充血し、着ているスーツはヨレヨレだ。
薬切れの禁断症状か、手足が小刻みに震えている。
「……母さん」
猛は縋るような声を出した。
「母さん、聞いてくれ! あれは罠だ! 俺はハメられたんだ!」
「座りなさい」
貴子の声は、氷点下のように冷たかった。
猛はビクリと肩を震わせ、大人しく席に着いた。
そこへ、メイドの池田茉莉が音もなく近づき、紅茶を置いた。
「……何の用だ? 俺は疲れてるんだ。寝させてくれ」
「眠る? 随分と暢気なものね」
貴子は手元の新聞を猛に投げつけた。
一面トップには、猛の顔写真と『鬼畜の御曹司、妊婦に暴行』という見出しが踊っている。
「帝都グループの株価は、今朝だけで15%下落したわ。不買運動も始まっている。……お前のせいで、数百億が消えたのよ」
「だ、だから! 嘘なんだよ! あの女が勝手に!」
「真実かどうかなんて、どうでもいいの!」
貴子がテーブルを叩いた。
食器が音を立てて跳ねる。
「問題なのは、お前が『帝都の恥』になったことよ。……危機管理広報の観点から、これ以上のダメージは許されない」
貴子は一枚の書類を突き出した。
『辞任届』。
そして、『株式譲渡契約書』。
「……え?」
「専務取締役を解任するわ。それと、お前が持っている自社株、全て私に譲渡なさい。……これ以上、経営に関わらせるわけにはいかない」
「ま、待ってくれ! 俺を見捨てるのか!?」
猛は立ち上がり、叫んだ。
「俺はあんたの息子だろ!? 後継者だろ!? なのに、こんな紙切れ一枚で……!」
「後継者? 笑わせないで」
貴子は冷酷に言い放った。
「お前のような無能で、スキャンダルまみれのゴミを後継者にすれば、会社ごと沈むわ。……これでも温情よ。大人しくサインして、海外にでも行ってほとぼりを冷ましなさい。金くらいは恵んであげるから」
金。
結局、この母親にとって息子とは、投資対象でしかなかったのだ。
価値がなくなれば損切りする。ただの不良債権。
「……母さん……」
猛は崩れ落ちた。
唯一の拠り所だった母親からの拒絶。
それは、彼にとって死刑宣告に等しかった。
「サインしなさい。……茉莉、ペンを」
貴子は茉莉に顎でしゃくった。
茉莉は恭しく万年筆をトレイに乗せ、猛の元へ歩み寄った。
「……どうぞ、猛様」
茉莉は猛の横に膝をつき、ペンを差し出した。
猛は震える手でそれを受け取ろうとした。
その時。
茉莉が、誰にも聞こえないほどの小声で、猛の耳元に囁いた。
『……残念ですね』
猛の手が止まる。
茉莉は、慈愛に満ちた、しかし底知れない悪意を秘めた瞳で猛を見つめていた。
『お母様は、最初から貴方様のことなど愛していらっしゃいませんでしたよ』
「……な、なに?」
『貴方様はただの道具。……お母様の権力を維持するための、使い捨ての駒だったのです。見てください、あの目を』
茉莉の視線誘導に従い、猛は貴子を見た。
貴子は紅茶を啜りながら、スマートフォンをいじっていた。
目の前で絶望している息子になど、一瞥もくれていない。
その顔は、厄介払いができて清々したという、冷酷な安堵に満ちていた。
『……見捨てられましたね。完全に』
茉莉の最後の言葉が、猛の理性の糸をプツリと切った。
「……う、うあぁぁぁぁぁ!!」
猛は絶叫し、テーブルの上の食器を薙ぎ払った。
ガシャーン!
高価なティーセットが砕け散る。
「何をするの! 狂ったか!」
「うるせえ! 殺してやる! 全員殺してやる!」
猛は錯乱し、ステーキナイフを掴んで貴子に向かって突進しようとした。
だが、すぐに屈強なSPたちに取り押さえられる。
「離せ! 俺は悪くない! 母さんが悪いんだ! このクソババア!」
「……連れて行きなさい。精神病院へ」
貴子は眉一つ動かさず、冷たく命じた。
「二度と、敷居を跨がせるな」
猛は獣のように吠えながら、引きずり出されていった。
屋敷に、静寂が戻る。
残されたのは、割れた食器と、冷めた紅茶だけ。
「……やれやれ。床が汚れてしまったわ」
貴子は溜息をつき、茉莉を見た。
「片付けておいて」
「畏まりました、奥様」
茉莉は深々と一礼した。
その顔は、完璧なメイドの仮面を被っていたが、床に散らばる破片を見つめる瞳は、愉悦に歪んでいた。
親子の絆など、最初から無かったのだ。
それを決定的に断ち切ったのは、たった一言の「真実」という名の毒だった。
アマン東京。
タブレットのスピーカーから、猛の絶叫と、貴子の冷酷な命令が聞こえていた。
盗聴器が拾った、西園寺家崩壊の音。
「……終わったな」
井上は再生を停止した。
優香は青ざめた顔で口元を押さえている。
あれほど憎かった猛の、あまりにも惨めな末路。
「これが、彼らが築き上げてきた『家族』の正体だ」
井上は静かに言った。
「愛も信頼もない。あるのは利益と損得だけ。……だから、少し揺さぶれば簡単に崩れる」
猛は精神病院へ送られた。
これで、彼は二度と表舞台には戻れないだろう。
物理的にも、社会的にも、精神的にも、彼は「処理」された。
「……怖いです。井上さん」
優香が呟いた。
「貴方は、魔法使いみたい。……指先一つで、人の人生を壊してしまう」
「魔法じゃない。ただの因果応報だ」
井上はアクアパッツァの最後の一切れを口に運んだ。
冷めても、旨味は損なわれていない。
むしろ、味が馴染んで深みを増している。
「さて、次は本丸だ」
井上は窓の外、皇居の向こうに聳える帝都グループ本社を見据えた。
猛を切り捨て、保身を図った貴子。
そして、まだのうのうと悲劇のヒロインを演じているであろう、麗華。
「お前たちの『平穏』も、ここまでだ」
井上はハイを抱き上げ、その柔らかな毛並みに顔を埋めた。
復讐の刃は、まだ鞘には戻らない。
次は、より深く、より鋭く、彼女たちの心臓をえぐる番だ。
「優香。……君の演技はまだ終わらないぞ」
「はい。……最後まで、演じきります」
優香は涙を拭い、強く頷いた。
その表情は、もう怯える被害者ではない。
一人の女優の顔だった。
世間は今、帝都グループの御曹司・西園寺猛の醜聞で持ちきりだ。
連日のワイドショー、SNSでの炎上、そして株価の大暴落。
台風の目となった「悲劇のヒロイン」林優香は、現在、井上健太郎の保護下にあるこの部屋で、静かな朝を迎えていた。
「……いい匂い」
優香はベッドから起き出し、鼻をひくつかせた。
リビングの方から、食欲をそそるニンニクとオリーブオイル、そして潮の香りが漂ってくる。
キッチンでは、井上がフライパンを揺すっていた。
中にあるのは、一匹丸ごとの魚だ。
『イサキ』。
皮目がパリッと香ばしく焼かれ、周りにはアサリ、ミニトマト、ブラックオリーブ、ケッパーが散りばめられている。
『アクアパッツァ』。
イタリア・ナポリの漁師料理。「狂った水」という意味を持つこの料理は、魚介の旨味を水とオリーブオイルだけで乳化させ、極上のスープを作り出す。
「おはよう、優香。……眠れたか?」
井上は白ワインを回し入れ、アルコールを飛ばしながら振り返った。
優香は大きめのワイシャツを一枚羽織っただけの姿で、少し恥ずかしそうに頷いた。
「はい。……あんなにぐっすり眠れたの、何年ぶりだろう」
「それはよかった。……朝食だ。座ってくれ」
井上は仕上げにイタリアンパセリを散らし、フライパンごとテーブルに運んだ。
豪快で、鮮やか。
赤、緑、黒、そして魚の黄金色。
立ち昇る湯気だけで、幸せな気分になれる。
合わせる飲み物は、イタリア・ヴェネト州の白ワイン『ソアーヴェ・クラシコ』。
フレッシュで爽やかな酸味と、微かな苦味が、魚介のスープを引き立てる。
「……朝からワインですか?」
「イタリアでは水代わりだ。……それに、君の『女優デビュー』を祝う祝杯でもある」
井上はグラスにワインを注ぎ、優香に渡した。
仔猫のハイが足元で「僕のは?」と鳴いている。井上は茹でたイサキの身を少しほぐし、小皿に入れてやった。
「乾杯」
「……乾杯」
グラスが触れ合う。
優香はアクアパッツァを取り分け、スープと共に口に運んだ。
美味い。
魚の身はふっくらとしていて、噛むと凝縮された旨味が溢れ出す。
アサリの出汁とトマトの酸味、オリーブの塩気が溶け合ったスープは、パンに浸して最後の一滴まで舐めとりたくなるほど濃厚だ。
そこに、冷えたソアーヴェを流し込む。
キリッとした酸味が、口の中の油をさっぱりと洗い流し、次の一口を誘う。
「……私、ちゃんと演じられていましたか?」
優香がふと、不安そうに尋ねた。
あの記者会見。涙ながらの告発。
世間を味方につけたあの大芝居。
「完璧だった」
井上は即答した。
「君の涙は、数億の広告費に匹敵する価値があった。……自信を持て。君はもう、誰かの着せ替え人形じゃない。自分の足で立つ『女優』だ」
「……井上さんのおかげです」
優香は涙ぐみ、ワインを一気に飲み干した。
その頬が薔薇色に染まる。
恐怖と安堵、そして達成感。
彼女の中で、何かが変わり始めていた。守られるだけの存在から、戦う女へと。
「さて、と」
井上はタブレット端末を取り出し、テーブルに置いた。
画面には、西園寺邸の門前を映す監視カメラの映像が表示されている。
無数のマスコミが詰めかけ、怒号が飛び交っている。
「メインディッシュの時間だ。……向こうでも、そろそろ『朝食会』が始まる頃だ」
★★★★★★★★★★★
西園寺家の屋敷は、重苦しい空気に包まれていた。
ダイニングルーム。
長いテーブルの端に、西園寺貴子が座っている。
いつものように完璧な化粧とドレスで武装しているが、その眉間には深い皺が刻まれていた。
ガチャリ。
ドアが開き、一人の男が入ってきた。
西園寺猛だ。
昨日逮捕された彼は、優秀な弁護士の手腕と、莫大な保釈金によって、一時的に釈放され帰宅したところだった。
だが、その姿は無惨だった。
無精髭を生やし、目は充血し、着ているスーツはヨレヨレだ。
薬切れの禁断症状か、手足が小刻みに震えている。
「……母さん」
猛は縋るような声を出した。
「母さん、聞いてくれ! あれは罠だ! 俺はハメられたんだ!」
「座りなさい」
貴子の声は、氷点下のように冷たかった。
猛はビクリと肩を震わせ、大人しく席に着いた。
そこへ、メイドの池田茉莉が音もなく近づき、紅茶を置いた。
「……何の用だ? 俺は疲れてるんだ。寝させてくれ」
「眠る? 随分と暢気なものね」
貴子は手元の新聞を猛に投げつけた。
一面トップには、猛の顔写真と『鬼畜の御曹司、妊婦に暴行』という見出しが踊っている。
「帝都グループの株価は、今朝だけで15%下落したわ。不買運動も始まっている。……お前のせいで、数百億が消えたのよ」
「だ、だから! 嘘なんだよ! あの女が勝手に!」
「真実かどうかなんて、どうでもいいの!」
貴子がテーブルを叩いた。
食器が音を立てて跳ねる。
「問題なのは、お前が『帝都の恥』になったことよ。……危機管理広報の観点から、これ以上のダメージは許されない」
貴子は一枚の書類を突き出した。
『辞任届』。
そして、『株式譲渡契約書』。
「……え?」
「専務取締役を解任するわ。それと、お前が持っている自社株、全て私に譲渡なさい。……これ以上、経営に関わらせるわけにはいかない」
「ま、待ってくれ! 俺を見捨てるのか!?」
猛は立ち上がり、叫んだ。
「俺はあんたの息子だろ!? 後継者だろ!? なのに、こんな紙切れ一枚で……!」
「後継者? 笑わせないで」
貴子は冷酷に言い放った。
「お前のような無能で、スキャンダルまみれのゴミを後継者にすれば、会社ごと沈むわ。……これでも温情よ。大人しくサインして、海外にでも行ってほとぼりを冷ましなさい。金くらいは恵んであげるから」
金。
結局、この母親にとって息子とは、投資対象でしかなかったのだ。
価値がなくなれば損切りする。ただの不良債権。
「……母さん……」
猛は崩れ落ちた。
唯一の拠り所だった母親からの拒絶。
それは、彼にとって死刑宣告に等しかった。
「サインしなさい。……茉莉、ペンを」
貴子は茉莉に顎でしゃくった。
茉莉は恭しく万年筆をトレイに乗せ、猛の元へ歩み寄った。
「……どうぞ、猛様」
茉莉は猛の横に膝をつき、ペンを差し出した。
猛は震える手でそれを受け取ろうとした。
その時。
茉莉が、誰にも聞こえないほどの小声で、猛の耳元に囁いた。
『……残念ですね』
猛の手が止まる。
茉莉は、慈愛に満ちた、しかし底知れない悪意を秘めた瞳で猛を見つめていた。
『お母様は、最初から貴方様のことなど愛していらっしゃいませんでしたよ』
「……な、なに?」
『貴方様はただの道具。……お母様の権力を維持するための、使い捨ての駒だったのです。見てください、あの目を』
茉莉の視線誘導に従い、猛は貴子を見た。
貴子は紅茶を啜りながら、スマートフォンをいじっていた。
目の前で絶望している息子になど、一瞥もくれていない。
その顔は、厄介払いができて清々したという、冷酷な安堵に満ちていた。
『……見捨てられましたね。完全に』
茉莉の最後の言葉が、猛の理性の糸をプツリと切った。
「……う、うあぁぁぁぁぁ!!」
猛は絶叫し、テーブルの上の食器を薙ぎ払った。
ガシャーン!
高価なティーセットが砕け散る。
「何をするの! 狂ったか!」
「うるせえ! 殺してやる! 全員殺してやる!」
猛は錯乱し、ステーキナイフを掴んで貴子に向かって突進しようとした。
だが、すぐに屈強なSPたちに取り押さえられる。
「離せ! 俺は悪くない! 母さんが悪いんだ! このクソババア!」
「……連れて行きなさい。精神病院へ」
貴子は眉一つ動かさず、冷たく命じた。
「二度と、敷居を跨がせるな」
猛は獣のように吠えながら、引きずり出されていった。
屋敷に、静寂が戻る。
残されたのは、割れた食器と、冷めた紅茶だけ。
「……やれやれ。床が汚れてしまったわ」
貴子は溜息をつき、茉莉を見た。
「片付けておいて」
「畏まりました、奥様」
茉莉は深々と一礼した。
その顔は、完璧なメイドの仮面を被っていたが、床に散らばる破片を見つめる瞳は、愉悦に歪んでいた。
親子の絆など、最初から無かったのだ。
それを決定的に断ち切ったのは、たった一言の「真実」という名の毒だった。
アマン東京。
タブレットのスピーカーから、猛の絶叫と、貴子の冷酷な命令が聞こえていた。
盗聴器が拾った、西園寺家崩壊の音。
「……終わったな」
井上は再生を停止した。
優香は青ざめた顔で口元を押さえている。
あれほど憎かった猛の、あまりにも惨めな末路。
「これが、彼らが築き上げてきた『家族』の正体だ」
井上は静かに言った。
「愛も信頼もない。あるのは利益と損得だけ。……だから、少し揺さぶれば簡単に崩れる」
猛は精神病院へ送られた。
これで、彼は二度と表舞台には戻れないだろう。
物理的にも、社会的にも、精神的にも、彼は「処理」された。
「……怖いです。井上さん」
優香が呟いた。
「貴方は、魔法使いみたい。……指先一つで、人の人生を壊してしまう」
「魔法じゃない。ただの因果応報だ」
井上はアクアパッツァの最後の一切れを口に運んだ。
冷めても、旨味は損なわれていない。
むしろ、味が馴染んで深みを増している。
「さて、次は本丸だ」
井上は窓の外、皇居の向こうに聳える帝都グループ本社を見据えた。
猛を切り捨て、保身を図った貴子。
そして、まだのうのうと悲劇のヒロインを演じているであろう、麗華。
「お前たちの『平穏』も、ここまでだ」
井上はハイを抱き上げ、その柔らかな毛並みに顔を埋めた。
復讐の刃は、まだ鞘には戻らない。
次は、より深く、より鋭く、彼女たちの心臓をえぐる番だ。
「優香。……君の演技はまだ終わらないぞ」
「はい。……最後まで、演じきります」
優香は涙を拭い、強く頷いた。
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一人の女優の顔だった。
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