整形灰かぶり王子の二度目の遺言 〜義実家に殺されたので、10年前に戻って顔を変え、別人として御社を買収することにしました〜

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第3章:侵食と誘惑

第29話 心の問い詰め

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 第29話:心の問い詰め

 アマン東京のスイートルームに、平和な朝の光が満ちていた。
 西園寺麗華を籠絡した昨夜の緊張感は消え、部屋には穏やかな空気が流れている。

 井上健太郎は、リビングのソファに深く沈み込んでいた。
 その左手は、小さな猛獣によって占領されている。

「……ミャウ! フムッ、フムッ!」

 仔猫のハイだ。
 井上の左手を前足でガッチリとホールドし、親指の付け根あたりに噛み付いている。
 乳歯とはいえ、猫の牙は針のように鋭い。
 甘噛み。
 それは愛情表現であり、狩りの練習であり、そして飼い主にとっては至福の拷問だ。

「……ッ」

 井上が小さく呻いた。
 痛い。地味に痛い。
 特に、柔らかい皮の部分を前歯でカジカジと齧られる感触は、神経を直接ヤスリで削られるような刺激がある。

「こら、ハイ。……そこは肉じゃないぞ」

 井上が手を引こうとすると、ハイは「逃がさないニャ!」とばかりに爪を立て、さらに強く抱きついてきた。
 そして、上目遣いで井上を見つめる。
 大きな青い瞳。
 無垢で、全幅の信頼を寄せている瞳。
 その目で見つめられたまま、一生懸命に指をハムハムされていると、痛みなどどうでもよくなってくる。

(……くっ、可愛い)

 井上の理性が白旗を上げた。
 復讐のために心を凍らせた男も、この小さな毛玉の破壊力には敵わない。
 痛いけれど、振りほどけない。
 むしろ、もっと噛ませてやりたいとさえ思ってしまう。

「……ボス、何ニヤニヤしてるの? 気持ち悪い」

 デスクの方から、冷ややかな声が飛んできた。
 木村心だ。
 彼女はいつものように複数のモニターに囲まれ、スナック菓子を摘みながらキーボードを叩いている。
 だが、その視線はモニターではなく、ソファの上の「親バカ」に向けられていた。

「……ニヤニヤなどしていない。教育的指導中だ」
「へえ。指を献上するのが教育なんだ。……ハイちゃん、もっと強く噛んでいいよ。そのおじさんの皮、厚いから」

 心は意地悪く笑い、再び画面に向き直った。
 カチャカチャカチャ……ッターン!
 軽快な打鍵音。
 彼女は今、西園寺家のサーバーからさらなる機密情報を吸い上げている最中だ。猛の次は、母親である貴子の弱点を探るために。

 井上はハイが噛み疲れて眠るのを待ち、そっと手を引き抜いた。
 指には小さな歯型がついている。
 名誉の負傷だ。

「……で、成果はどうだ?」

 井上はコーヒーを淹れ、心のデスクに近づいた。
 心は手を止めず、画面を見つめたまま答えた。

「んー、貴子のババア、相当用心深いね。裏帳簿のデータは隔離されたスタンドアローンのPCに入ってるみたい。……茉莉さんに物理的に接触してもらうしかなさそう」
「そうか。……まあ、焦る必要はない。麗華という『鍵』は手に入れた」

 井上はコーヒーを置き、窓の外を見た。
 昨夜のプロポーズ。
 麗華は完全に井上を信じ切っている。彼女を使えば、貴子の懐に潜り込むのは容易い。

「ねえ、おっさん」

 不意に、心の手が止まった。
 キーボードを打つ音が消え、部屋に静寂が戻る。

「……なんだ?」
「アンタさ。……本当は、何者?」

 心は回転椅子を回し、井上の方を向いた。
 その表情から、いつもの生意気な笑みが消えている。
 アイスブルーの瞳が、探るように、そして射抜くように井上を見据えていた。

「投資家だと言ったはずだが」
「それは『今の』アンタでしょ。……私が聞いてるのは、その顔になる前の話」

 心はモニターの一つに、ある画像を表示させた。
 それは、帝都グループの人事データから復元された、退職者のリストだった。
 その中に、一人の男の写真があった。

 灰谷 守。
 黒縁メガネをかけ、猫背で、自信なさげに微笑む地味な男。
 今の井上健太郎とは似ても似つかない、冴えない30歳の平社員。

「……このデータ、何だと思う?」
「……さあな。帝都の元社員か?」
「そう。今年の4月――ほんの5ヶ月前に自主退職して、そのまま行方不明になった男。……名前は灰谷守」

 心は画像を拡大した。

「私、こいつのこと覚えてるんだよね。……2、3年前かな。私が施設を抜け出して路地裏でたむろしてた時、一度だけ会ったことがあるの」

 心の記憶。
 雨の日、空腹でうずくまっていた少女に、通りがかりのサラリーマンがコンビニのパンを差し出した。

 『……ごめんな、これくらいしかなくて』

 そう言って笑った男の顔は、ひどく疲れ切っていて、今にも消えてしまいそうだった。

「いい人だったよ、このおじさん。……自分も人生に絶望して死にそうな顔をしてたくせに、私みたいなガキに優しくしてくれた。その時の目がね、今のアンタの目とそっくりなの」

 心は立ち上がり、井上の前に立った。
 身長差はあるが、その眼光は鋭い。

「それだけじゃない。……アンタ、西園寺家の内部事情に詳しすぎる。猛の性格、貴子の癖、屋敷の間取り。……まるで、ずっとそこで見てきたみたいに」

 井上は表情を崩さなかった。
 だが、脇を冷たい汗が伝う。
 この少女の直感は、わずかな違和感を繋ぎ合わせて核心に迫っている。

「それに、このタイミング。……今年の春にこの灰谷守が消えて、その数ヶ月後にアンタが現れた。まるで入れ替わるみたいに」

 心は一歩踏み出した。

「整形したんでしょ? ……アンタ、灰谷守でしょ?」

 核心を突く問い。
 部屋の空気が凍りついた。
 ソファで眠っていたハイが、不穏な気配を感じて耳をピクリと動かした。

 井上は沈黙した。
 否定することは簡単だ。

 「他人の空似だ」と笑い飛ばせばいい。灰谷守の指紋も顔も変えた今、俺と灰谷守を結びつける物証は何もない。

 だが、この世界で、灰谷守という存在を覚えている人間がいたこと。
 そして、それが目の前の相棒であることに、奇妙な運命を感じずにはいられなかった。

「……そうだとしたら、どうする?」

 井上は静かに問い返した。
 それは、事実上の肯定だった。

 心の目が大きく見開かれた。
 驚き、納得、そして安堵のような感情が交差する。

「……やっぱり」

 心はふっと息を吐き、肩の力を抜いた。

「似てると思ったんだよね。……雰囲気とか、ふとした仕草とか。整形しても、魂までは変えられないってことか」
「……灰谷守は死んだ」

 井上は窓の外に視線を移した。

「数ヶ月前、あいつは自ら姿を消したんだ。……弱かった自分を殺すために。そして、この新しい顔を手に入れて、地獄から這い戻ってきた」
「帝都を潰すために?」
「ああ。……俺の人生を奪おうとした奴らから、全てを奪い返すために」

 井上の声には、深い決意と、それ以上の哀しみが滲んでいた。
 心はしばらく黙って井上を見ていたが、やがてニカっと笑った。

「そっか。……詳しいことは聞かないよ。ただの恨みじゃないってことくらい、分かるから」
「……軽蔑するか? 顔を変えてまで他人を陥れようとする男を」
「まさか」

 心は首を横に振った。

「むしろ、カッコいいじゃん。……やられたらやり返す。しかも、倍返しで。最高のエンタメだよ」

 彼女はデスクに戻り、キーボードを叩き始めた。
 その背中には、以前よりも強い信頼と、熱量が感じられた。

「安心しなよ、井上さん。……私の口は堅いよ。この秘密は、墓場まで持ってってやる」

 心は振り返り、ウインクした。

「だって、私たちは共犯者でしょ? ……アンタが地獄に行くなら、私も最後まで付き合うって言ったじゃん」

 その言葉に、井上の胸の奥が熱くなった。
 孤独な復讐の道。
 だが、今は隣に、背中を預けられる仲間がいる。

「……ありがとう、心」

 井上は短く礼を言った。
 心は「キモいって」と照れ隠しに悪態をつき、画面に向き直った。

「さあ、仕事仕事! ……こうなったら徹底的にやってやる。灰谷守の分まで、倍返しだ!」

 カタカタカタッ!
 打鍵音が、再び部屋に響き渡る。
 それは、井上への応援歌のようにも聞こえた。

 井上はソファに戻り、ハイの背中を撫でた。
 ハイは「ミャ~」と寝言を言い、井上の手に頭を擦り付けてくる。
 
 秘密を共有したことで、チームの結束はより強固になった。
 もう、迷いはない。
 井上健太郎として、そして灰谷守の無念を晴らす復讐者として。
 この道を、最後まで突き進むだけだ。

 その時、心のモニターに赤い警告灯が点滅した。

「……ビンゴ」

 心の声が弾んだ。

「見つけたよ、井上さん。……貴子の『アキレス腱』」

 画面に映し出されたのは、一枚の古びた写真と、海外の口座記録。
 それは、女帝・西園寺貴子が長年隠し通してきた、致命的なスキャンダルの種だった。

「……見せてみろ」

 井上は立ち上がり、画面を覗き込んだ。
 そこには、復讐劇のクライマックスを飾るに相応しい、決定的な爆弾が眠っていた。
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