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第3章:侵食と誘惑
第37話 株式の買い集め
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アマン東京のスイートルーム。
静謐な空間に、硬質な殻がまな板に打ち付けられる鈍い音が響いた。
井上健太郎は、広大なアイランドキッチンの前に立っていた。
彼と対峙しているのは、フランス・ブルターニュ地方から空輸させた最高級の海産物。
『オマール・ブルー』だ。
深い群青色の甲羅を持つこの甲殻類は、1万匹に1匹とも言われる希少価値を持ち、その身は引き締まり、圧倒的な甘みと旨味を誇る。
氷水から取り出されたロブスターは、まだ活発に身をよじらせ、強靭なハサミを振り上げて井上を威嚇していた。
生きるための本能。
だが、その抵抗は一瞬で終わる。
「……悪く思うな」
井上は左手でロブスターの頭部をしっかりと押さえ込み、右手に握った鋭いペティナイフの切っ先を、頭と胴体の境目にある急所に寸分の狂いもなく突き立てた。
ザクッ。
神経を一瞬で切断する、残酷なまでに的確で慈悲深い一撃。
ロブスターの全身がビクンと一度だけ跳ね、そして完全に力を失い、脱力した。
息をするように命を奪う。
かつての灰谷守にはできなかった所業だが、今の井上にとっては、これすらも復讐のための儀式めいたルーティンだった。
すぐさま解体が始まる。
頭部と胴体を切り離し、殻を真っ二つに割る。
中から現れたのは、宝石のように輝く緑色のコライユと、赤いサンゴのような卵。
井上はそれらを丁寧にスプーンで掬い出し、ボウルに取り分けた。
純白の身は殻から外し、軽く塩と白胡椒を振って、澄ましバターで表面だけをサッとポワレする。火を通しすぎれば、せっかくの弾力が失われてしまう。
だが、この料理の真髄は「身」ではない。
井上は、残った頭やハサミの硬い殻を、中華包丁の背で粉々に叩き割った。
バキバキッという破砕音が響く。
熱した寸胴鍋にオリーブオイルと大量のニンニク、エシャロットを引き、砕いた殻を放り込んで強火で炒める。
甲殻類特有の香ばしい匂いが立ち昇り、青かった殻が鮮やかな赤色へと変わっていく。
「……フランベだ」
井上は最高級のコニャック『レミーマルタン』のボトルを傾け、鍋肌に注ぎ込んだ。
ボワァァァッ!
オレンジ色の炎が天井近くまで燃え上がる。
アルコールが飛び、コニャックの芳醇な樽の香りと甘みが殻にまとわりつく。
そこにトマトペースト、白ワイン、フュメ・ド・ポワソン、そしてブーケガルニを放り込み、一気に煮詰めていく。
アクを丁寧に取り除きながら、旨味の髄を抽出する。
最後にシノワで濾し、取り出しておいたコライユを加えてとろみをつけ、生クリームで仕上げる。
完成だ。
『オマール海老のアメリケーヌ・ソース仕立て』。
深紅のベルベットのように滑らかなソースの海に、バターでポワレされた純白の身が浮かんでいる。
一口食べれば、痛風になりそうなほど濃厚な甲殻類の旨味が爆発する、フランス料理の到達点の一つ。
井上は皿をダイニングテーブルへと運んだ。
そこには、ノートPCを広げた清水南と、いつものようにヘッドフォンを首にかけた木村心が座っていた。
足元では、仔猫のハイが強烈なエビの匂いに刺激され、「ミャー! ミャー!」と立ち上がって抗議している。
「待て。これはお前の胃腸には重すぎる」
井上はハイに専用の高級ウェットフードを与え、気を逸らせた。
「……相変わらず、異常なほどの手間をかけますね」
南が、湯気を立てる真紅のソースを見つめて言った。
彼女はピンストライプのタイトスカートに身を包み、氷のような美貌を崩していない。
「相手を骨の髄までしゃぶり尽くす。……今の俺たちの状況に、一番相応しい料理だろう?」
井上は微笑み、グラスを用意した。
ロックグラスに、大きくて透明な丸氷をゴロリと入れる。
そして、その上から注いだのは、白ワインでもシャンパンでもなかった。
とろりとした、琥珀色とクリーム色が混ざり合った液体。
『ベイリーズ・オリジナル・アイリッシュ・クリーム』。
「……ちょっと、おっさん。またそれ?」
心が呆れたような顔をした。
「ついこないだ、あん肝を食べた時にも出した激甘のお酒じゃん。海老にも合わせるの?」
「南先生は、この味が気に入っているようだからな」
井上がグラスを差し出すと、南は無言で受け取り、軽く氷を揺らした。
カラン、という涼やかな音が鳴る。
「……否定はしません」
南はフォークを取り、オマール海老の身にたっぷりとアメリケーヌ・ソースを絡めて口に運んだ。
濃厚なバターの風味と、凝縮された海老の旨味、ミソの深いコクが舌を支配する。
そこへ、すかさずベイリーズを流し込む。
冷たいアイリッシュ・クリームの強烈な甘さと、ウイスキーの芳醇な香りが、海老の生臭さを完全に打ち消し、旨味だけを暴力的なまでに増幅させる。
脂と糖分とアルコール。
脳が直接快楽を感じる、計算し尽くされた背徳的なマリアージュ。
「……美味しいですね。脳の神経が麻痺しそうなほど、罪深い味がします」
南は微かに目を細め、小さく息を吐いた。
その氷の女王のような顔に一瞬だけ浮かぶ陶酔の色を、井上は見逃さなかった。
「で、どうなんだ? 肝心の仕事の進捗は」
井上も自分のグラスを煽りながら、南に本題を切り出した。
南はすぐにフォークを置き、弁護士の冷徹な顔に戻った。
彼女はアタッシュケースから、分厚いファイルの束を取り出してテーブルの中央に置いた。
「完了しました。……市場に出回る帝都グループの株式、その『極秘取得』の全工程が」
南の言葉に、心もPCから顔を上げた。
「帝都グループの株価は、西園寺猛の薬物暴行スキャンダル、そして優香さんの悲劇的な告発会見によって、連日ストップ安を記録しました」
南はタブレットを操作し、急滑降する赤いチャートのグラフを表示した。
「パニック売りに陥った個人投資家、そしてリスクを嫌った機関投資家たちが、こぞって帝都株を手放した。……その底値のタイミングで、買いを入れました」
「TOBはかけなかったのか?」
心が尋ねる。
「ええ。日本の金融商品取引法では、上場企業の株を5%以上取得すると『大量保有報告書』を提出する義務が生じます。それでは、井上さんの正体や目的が、貴子側にバレてしまう」
南は眼鏡を中指で押し上げた。
「ですから、私がケイマン諸島やバージン諸島に設立した、数十のペーパーカンパニーを使用しました。K.I.ホールディングスの資金を細かく分散し、各ファンドの持ち株比率が4.9%を超えないように調整しながら、市場の売りを全て吸収したのです」
ステルス取得。
法的な網の目を潜り抜け、水面下で静かに、しかし確実に敵の首を真綿で絞め上げる戦術。
それを指揮し、実務を完遂したのは、他でもない目の前の「氷の弁護士」だ。
「現在の、我々の実質的な持ち株比率は?」
「ダミーファンド群の議決権を合計すると……51.2%です」
南は平然と言い放った。
「過半数、突破か」
井上はグラスの中で氷を揺らした。
50%を超えたということは、株主総会における普通決議――すなわち、取締役の選任や解任を、井上の意志一つで決定できるという絶対的な力を意味する。
「お見事だ、南先生。……これで、法的にも経済的にも、帝都グループは俺のものになった」
「名義書換の手続きも、すでに信託銀行を通じて完了させています。……いつでも、牙を剥く準備はできていますよ」
南は残っていたベイリーズを飲み干し、氷をカチリと鳴らした。
その目は、獲物を前にした狩人のように鋭く光っている。
「……マジでえぐいね、あんたたち」
心は呆れたようにポテトチップスを齧った。
「表では猛を罠にかけて株価を暴落させ、裏ではその暴落した株を底値で買い占めて、会社ごと乗っ取る。……自作自演の焼け太りじゃん」
「ビジネスの基本だ。……安く買い、高く売る。あるいは、安く買い叩き、支配する」
井上は残ったアメリケーヌ・ソースをバゲットで拭い取り、口に放り込んだ。
オマール海老の強固な殻も、叩き割って火に炙れば、極上のスープの出汁になる。
西園寺家も同じだ。
粉々に打ち砕き、自分たちの糧にする。
「ところで、心。……あっちの様子はどうだ?」
井上は視線をPCのモニターに向けた。
心はキーボードを叩き、茉莉が屋敷内に仕掛けた盗聴器と、監視カメラの映像を呼び出した。
「相変わらずカオスだよ。……麗華は完全に有頂天。今、有名デザイナーを呼んで、アンタとの婚約披露宴に着るウェディングドレスの採寸中」
画面の端に、真っ白なドレスを纏い、幸福そうに鏡の前でポーズをとる麗華の姿が映っていた。
自分が愛されていると微塵も疑っていない、哀れな操り人形の顔。
彼女は知らないのだ。
自分が寄りかかっている「井上健太郎」という後ろ盾が、すでに自分の会社を背後から完全に飲み込んでいるという事実を。
「で、問題の貴子ババアだけど」
心は映像を切り替えた。
書斎で、西園寺貴子が一人、苛立たしげに書類を投げ散らしている。
目の前には、メイドの茉莉が恭しく紅茶を差し出している様子が映っていた。
「桃子先生の『お薬』が相当効いてるみたい。……最近、怒りっぽくて物忘れが酷いらしくて、使用人たちに当たり散らしてる。しかも、自分の隠し資産の口座パスワードまで忘れかけて、メモを探し回ってたよ。その隙に、私が裏から全部の口座をハックして凍結準備完了させたけどね」
「ご苦労。……茉莉の働きも完璧だな」
井上は満足げに頷いた。
貴子は、茉莉が毎日微量ずつ盛っている薬の影響で、判断力が極端に低下している。
そのせいで、市場で自社の株が何者かに買い集められているという異常事態にも、まだ気づいていないのだ。
孤立し、疑心暗鬼に陥り、身内である猛すら切り捨てた女帝は、今や檻の中に閉じ込められた老いた虎に過ぎない。
「……役者は揃ったな」
井上は立ち上がり、窓際に歩み寄った。
眼下に広がる、東京の秋の夜景。
涼しい夜風が、高層ビルの間を吹き抜けていく。
「株の買い集めは完了した。……猛は廃人となり、貴子は正気を失いつつあり、麗華は俺の掌の上で踊っている」
井上はガラスに映る自分の顔を見つめた。
冷徹で美しい仮面。
その奥底に潜む「灰谷守」の魂が、今、歓喜の雄叫びを上げようとしていた。
「いよいよですね。……婚約披露宴」
南が静かに言った。
「来週のその日、政財界の重鎮や、帝都グループの主要株主たちが一堂に会します。……そこで全てを暴き、彼らを断罪するのですね」
「ああ。……最高のステージだ。冴子がメディアを統制し、優香が証言台に立ち、心が証拠をスクリーンに映し出す。そして南先生、貴女が法の剣で彼らの息の根を止める」
井上は振り返り、ソファの下で毛づくろいをしているハイを優しく見つめた。
復讐が終われば、この小さな命と共に、また新しい日々が始まるのだろうか。
それとも、復讐を果たした虚無感に押しつぶされるのだろうか。
今はまだ、分からない。
「……チェックメイトだ、西園寺家」
井上はグラスに残った最後の一滴――甘く残酷なベイリーズを飲み干した。
嵐の前の静けさ。
全てを破壊する二度目の遺言状は、すでに井上の懐で、その封を切られる時を静かに待っていた。
静謐な空間に、硬質な殻がまな板に打ち付けられる鈍い音が響いた。
井上健太郎は、広大なアイランドキッチンの前に立っていた。
彼と対峙しているのは、フランス・ブルターニュ地方から空輸させた最高級の海産物。
『オマール・ブルー』だ。
深い群青色の甲羅を持つこの甲殻類は、1万匹に1匹とも言われる希少価値を持ち、その身は引き締まり、圧倒的な甘みと旨味を誇る。
氷水から取り出されたロブスターは、まだ活発に身をよじらせ、強靭なハサミを振り上げて井上を威嚇していた。
生きるための本能。
だが、その抵抗は一瞬で終わる。
「……悪く思うな」
井上は左手でロブスターの頭部をしっかりと押さえ込み、右手に握った鋭いペティナイフの切っ先を、頭と胴体の境目にある急所に寸分の狂いもなく突き立てた。
ザクッ。
神経を一瞬で切断する、残酷なまでに的確で慈悲深い一撃。
ロブスターの全身がビクンと一度だけ跳ね、そして完全に力を失い、脱力した。
息をするように命を奪う。
かつての灰谷守にはできなかった所業だが、今の井上にとっては、これすらも復讐のための儀式めいたルーティンだった。
すぐさま解体が始まる。
頭部と胴体を切り離し、殻を真っ二つに割る。
中から現れたのは、宝石のように輝く緑色のコライユと、赤いサンゴのような卵。
井上はそれらを丁寧にスプーンで掬い出し、ボウルに取り分けた。
純白の身は殻から外し、軽く塩と白胡椒を振って、澄ましバターで表面だけをサッとポワレする。火を通しすぎれば、せっかくの弾力が失われてしまう。
だが、この料理の真髄は「身」ではない。
井上は、残った頭やハサミの硬い殻を、中華包丁の背で粉々に叩き割った。
バキバキッという破砕音が響く。
熱した寸胴鍋にオリーブオイルと大量のニンニク、エシャロットを引き、砕いた殻を放り込んで強火で炒める。
甲殻類特有の香ばしい匂いが立ち昇り、青かった殻が鮮やかな赤色へと変わっていく。
「……フランベだ」
井上は最高級のコニャック『レミーマルタン』のボトルを傾け、鍋肌に注ぎ込んだ。
ボワァァァッ!
オレンジ色の炎が天井近くまで燃え上がる。
アルコールが飛び、コニャックの芳醇な樽の香りと甘みが殻にまとわりつく。
そこにトマトペースト、白ワイン、フュメ・ド・ポワソン、そしてブーケガルニを放り込み、一気に煮詰めていく。
アクを丁寧に取り除きながら、旨味の髄を抽出する。
最後にシノワで濾し、取り出しておいたコライユを加えてとろみをつけ、生クリームで仕上げる。
完成だ。
『オマール海老のアメリケーヌ・ソース仕立て』。
深紅のベルベットのように滑らかなソースの海に、バターでポワレされた純白の身が浮かんでいる。
一口食べれば、痛風になりそうなほど濃厚な甲殻類の旨味が爆発する、フランス料理の到達点の一つ。
井上は皿をダイニングテーブルへと運んだ。
そこには、ノートPCを広げた清水南と、いつものようにヘッドフォンを首にかけた木村心が座っていた。
足元では、仔猫のハイが強烈なエビの匂いに刺激され、「ミャー! ミャー!」と立ち上がって抗議している。
「待て。これはお前の胃腸には重すぎる」
井上はハイに専用の高級ウェットフードを与え、気を逸らせた。
「……相変わらず、異常なほどの手間をかけますね」
南が、湯気を立てる真紅のソースを見つめて言った。
彼女はピンストライプのタイトスカートに身を包み、氷のような美貌を崩していない。
「相手を骨の髄までしゃぶり尽くす。……今の俺たちの状況に、一番相応しい料理だろう?」
井上は微笑み、グラスを用意した。
ロックグラスに、大きくて透明な丸氷をゴロリと入れる。
そして、その上から注いだのは、白ワインでもシャンパンでもなかった。
とろりとした、琥珀色とクリーム色が混ざり合った液体。
『ベイリーズ・オリジナル・アイリッシュ・クリーム』。
「……ちょっと、おっさん。またそれ?」
心が呆れたような顔をした。
「ついこないだ、あん肝を食べた時にも出した激甘のお酒じゃん。海老にも合わせるの?」
「南先生は、この味が気に入っているようだからな」
井上がグラスを差し出すと、南は無言で受け取り、軽く氷を揺らした。
カラン、という涼やかな音が鳴る。
「……否定はしません」
南はフォークを取り、オマール海老の身にたっぷりとアメリケーヌ・ソースを絡めて口に運んだ。
濃厚なバターの風味と、凝縮された海老の旨味、ミソの深いコクが舌を支配する。
そこへ、すかさずベイリーズを流し込む。
冷たいアイリッシュ・クリームの強烈な甘さと、ウイスキーの芳醇な香りが、海老の生臭さを完全に打ち消し、旨味だけを暴力的なまでに増幅させる。
脂と糖分とアルコール。
脳が直接快楽を感じる、計算し尽くされた背徳的なマリアージュ。
「……美味しいですね。脳の神経が麻痺しそうなほど、罪深い味がします」
南は微かに目を細め、小さく息を吐いた。
その氷の女王のような顔に一瞬だけ浮かぶ陶酔の色を、井上は見逃さなかった。
「で、どうなんだ? 肝心の仕事の進捗は」
井上も自分のグラスを煽りながら、南に本題を切り出した。
南はすぐにフォークを置き、弁護士の冷徹な顔に戻った。
彼女はアタッシュケースから、分厚いファイルの束を取り出してテーブルの中央に置いた。
「完了しました。……市場に出回る帝都グループの株式、その『極秘取得』の全工程が」
南の言葉に、心もPCから顔を上げた。
「帝都グループの株価は、西園寺猛の薬物暴行スキャンダル、そして優香さんの悲劇的な告発会見によって、連日ストップ安を記録しました」
南はタブレットを操作し、急滑降する赤いチャートのグラフを表示した。
「パニック売りに陥った個人投資家、そしてリスクを嫌った機関投資家たちが、こぞって帝都株を手放した。……その底値のタイミングで、買いを入れました」
「TOBはかけなかったのか?」
心が尋ねる。
「ええ。日本の金融商品取引法では、上場企業の株を5%以上取得すると『大量保有報告書』を提出する義務が生じます。それでは、井上さんの正体や目的が、貴子側にバレてしまう」
南は眼鏡を中指で押し上げた。
「ですから、私がケイマン諸島やバージン諸島に設立した、数十のペーパーカンパニーを使用しました。K.I.ホールディングスの資金を細かく分散し、各ファンドの持ち株比率が4.9%を超えないように調整しながら、市場の売りを全て吸収したのです」
ステルス取得。
法的な網の目を潜り抜け、水面下で静かに、しかし確実に敵の首を真綿で絞め上げる戦術。
それを指揮し、実務を完遂したのは、他でもない目の前の「氷の弁護士」だ。
「現在の、我々の実質的な持ち株比率は?」
「ダミーファンド群の議決権を合計すると……51.2%です」
南は平然と言い放った。
「過半数、突破か」
井上はグラスの中で氷を揺らした。
50%を超えたということは、株主総会における普通決議――すなわち、取締役の選任や解任を、井上の意志一つで決定できるという絶対的な力を意味する。
「お見事だ、南先生。……これで、法的にも経済的にも、帝都グループは俺のものになった」
「名義書換の手続きも、すでに信託銀行を通じて完了させています。……いつでも、牙を剥く準備はできていますよ」
南は残っていたベイリーズを飲み干し、氷をカチリと鳴らした。
その目は、獲物を前にした狩人のように鋭く光っている。
「……マジでえぐいね、あんたたち」
心は呆れたようにポテトチップスを齧った。
「表では猛を罠にかけて株価を暴落させ、裏ではその暴落した株を底値で買い占めて、会社ごと乗っ取る。……自作自演の焼け太りじゃん」
「ビジネスの基本だ。……安く買い、高く売る。あるいは、安く買い叩き、支配する」
井上は残ったアメリケーヌ・ソースをバゲットで拭い取り、口に放り込んだ。
オマール海老の強固な殻も、叩き割って火に炙れば、極上のスープの出汁になる。
西園寺家も同じだ。
粉々に打ち砕き、自分たちの糧にする。
「ところで、心。……あっちの様子はどうだ?」
井上は視線をPCのモニターに向けた。
心はキーボードを叩き、茉莉が屋敷内に仕掛けた盗聴器と、監視カメラの映像を呼び出した。
「相変わらずカオスだよ。……麗華は完全に有頂天。今、有名デザイナーを呼んで、アンタとの婚約披露宴に着るウェディングドレスの採寸中」
画面の端に、真っ白なドレスを纏い、幸福そうに鏡の前でポーズをとる麗華の姿が映っていた。
自分が愛されていると微塵も疑っていない、哀れな操り人形の顔。
彼女は知らないのだ。
自分が寄りかかっている「井上健太郎」という後ろ盾が、すでに自分の会社を背後から完全に飲み込んでいるという事実を。
「で、問題の貴子ババアだけど」
心は映像を切り替えた。
書斎で、西園寺貴子が一人、苛立たしげに書類を投げ散らしている。
目の前には、メイドの茉莉が恭しく紅茶を差し出している様子が映っていた。
「桃子先生の『お薬』が相当効いてるみたい。……最近、怒りっぽくて物忘れが酷いらしくて、使用人たちに当たり散らしてる。しかも、自分の隠し資産の口座パスワードまで忘れかけて、メモを探し回ってたよ。その隙に、私が裏から全部の口座をハックして凍結準備完了させたけどね」
「ご苦労。……茉莉の働きも完璧だな」
井上は満足げに頷いた。
貴子は、茉莉が毎日微量ずつ盛っている薬の影響で、判断力が極端に低下している。
そのせいで、市場で自社の株が何者かに買い集められているという異常事態にも、まだ気づいていないのだ。
孤立し、疑心暗鬼に陥り、身内である猛すら切り捨てた女帝は、今や檻の中に閉じ込められた老いた虎に過ぎない。
「……役者は揃ったな」
井上は立ち上がり、窓際に歩み寄った。
眼下に広がる、東京の秋の夜景。
涼しい夜風が、高層ビルの間を吹き抜けていく。
「株の買い集めは完了した。……猛は廃人となり、貴子は正気を失いつつあり、麗華は俺の掌の上で踊っている」
井上はガラスに映る自分の顔を見つめた。
冷徹で美しい仮面。
その奥底に潜む「灰谷守」の魂が、今、歓喜の雄叫びを上げようとしていた。
「いよいよですね。……婚約披露宴」
南が静かに言った。
「来週のその日、政財界の重鎮や、帝都グループの主要株主たちが一堂に会します。……そこで全てを暴き、彼らを断罪するのですね」
「ああ。……最高のステージだ。冴子がメディアを統制し、優香が証言台に立ち、心が証拠をスクリーンに映し出す。そして南先生、貴女が法の剣で彼らの息の根を止める」
井上は振り返り、ソファの下で毛づくろいをしているハイを優しく見つめた。
復讐が終われば、この小さな命と共に、また新しい日々が始まるのだろうか。
それとも、復讐を果たした虚無感に押しつぶされるのだろうか。
今はまだ、分からない。
「……チェックメイトだ、西園寺家」
井上はグラスに残った最後の一滴――甘く残酷なベイリーズを飲み干した。
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彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。
それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。
今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。
「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」
「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」
「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」
「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」
命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場――
ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
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