36 / 38
第3章:侵食と誘惑
第36話 婚約披露宴の準備
しおりを挟む
アマン東京のスイートルーム。
秋の柔らかな日差しが、リビングのラグマットの上に小さなスポットライトを作っていた。
その光の中で、銀色の毛玉が蠢いている。
仔猫のハイだ。
今日は朝から、念入りなグルーミングに余念がない。
短い右足をピーンと垂直に上げ、体をくの字に曲げて、お尻周りをザリザリと舐める。
一心不乱だ。
ピンク色の舌が忙しなく動き、柔らかい毛並みを整えていく。
「……飽きないな、お前は」
ソファでタブレットを見ていた井上健太郎は、その姿に目を細めた。
ハイは体勢を変え、今度は前足を舐めて湿らせ、それで顔を洗う仕草をする。
クシュ、クシュ。
耳の後ろまで丁寧に撫でつけ、また足を舐める。
さらに、お腹の毛を整えようとして、勢い余ってコロンと転がる。それでも止まらず、仰向けのままお腹をペロペロと舐め続ける。
「綺麗好きは良いことだ」
井上はコーヒーを置き、ハイに手を伸ばした。
ハイは舐めるのを中断し、井上の指を甘噛みしてから、再び自分の左足のケアに戻った。
その徹底したセルフメンテナンスの姿勢は、ある種、プロフェッショナルな職人のようでもあった。
「……俺も見習わないとな」
井上は自嘲気味に呟き、立ち上がろうとした。
その時だった。
ズキンッ。
顔面の奥底、右の頬骨のあたりを、熱した鉄串で貫かれるような激痛が襲った。
「……ぐっ!」
井上は膝をつき、顔を抑えた。
視界が明滅する。
ただの頭痛ではない。骨がきしむ音。筋肉が痙攣し、作り変えられた神経が悲鳴を上げている。
拒絶反応だ。
先日、探偵の目を欺くために無理をしたツケか、あるいは決戦を前にした極度の緊張が引き金になったのか。
「ミャウ!?」
異変を察知したハイが、毛づくろいをやめて駆け寄ってきた。
心配そうに井上の顔を覗き込み、鼻先を押し付けてくる。
だが、その温もりすら、今の井上には焼けるような刺激に感じられた。
「……大丈夫だ、ハイ。……薬を……」
井上は這うようにしてサイドテーブルへ向かい、スマートフォンを掴んだ。
発信履歴の一番上をタップする。
コール音は一回で途切れ、気怠げな声が響いた。
『……もしもし? 朝から何よ』
山崎桃子だ。
「……桃子。……すぐに来てくれ」
『あら、声色が違うわね。……顔?』
「ああ。……今度は、酷い。……右目が、開かない……」
井上は鏡を見た。
そこには、右瞼が痙攣し、顔の半分が別人のように歪んだ男が映っていた。
美しい仮面が、剥がれ落ちそうになっている。
『動かないで。……15分で行くわ』
通話が切れた。
井上はソファに崩れ落ちた。
ハイが寄り添い、必死に井上の手を舐めている。
ザラザラとした舌の感触。
それは、「壊れないで」という祈りのようだった。
「……酷い顔ね。フランケンシュタインも真っ青よ」
到着した桃子は、開口一番そう言い放ったが、その手つきは迅速だった。
井上をソファに寝かせ、慣れた手つきで静脈に点滴のラインを確保する。
強力な鎮痛剤と、筋肉の弛緩剤、そして抗炎症薬のカクテル。
「ストレスね。……アンタの精神が限界に近づいてるから、体が悲鳴を上げてるのよ」
桃子はタバコをくわえようとして、ハイに見つめられていることに気づき、舌打ちをして箱に戻した。
「……結婚式の準備なんて柄じゃないことしてるからよ」
「……これは仕事だ」
薬が効いてきたのか、痛みの波が遠のいていく。
井上は荒い息を整えながら答えた。
「あと数日だ。……婚約披露宴という名の、処刑台への花道。それまでは、この顔を持たせなきゃならない」
「分かってるわよ。……だから、とびきり強いのを打っといたわ」
桃子は井上の頬に冷たい手を当てた。
「でも、次は保証しない。……この顔はガラス細工みたいなものよ。無理に笑えば、パリンと割れる」
「構わない。……全てが終われば、こんな顔、どうなってもいい」
井上は自分の顔に触れた。
感覚が戻りつつある。
だが、それは自分の肉体であって自分のものではないような、奇妙な浮遊感を伴っていた。
「……馬鹿な男」
桃子は呆れたように言ったが、その瞳には歪んだ愛おしさが宿っていた。
「でも、そういう破滅的なところ、嫌いじゃないわ。……最後まで見届けてあげる」
午後。
痛みを薬でねじ伏せた井上は、完璧な「井上健太郎」の仮面を被り直し、西園寺家を訪れていた。
今日は、来週に迫った「婚約披露宴」の最終打ち合わせだ。
応接間には、有名ホテルのウェディングプランナーや衣装デザイナーが集まり、華やかな空気に包まれていた。
その中心にいるのは、純白のウェディングドレスを試着した西園寺麗華だ。
「どう? 健太郎さん。……似合う?」
麗華がくるりと回ってみせた。
パリのオートクチュールで作らせた、数千万円のドレス。
ふんだんにあしらわれたレースとパールが、彼女の美貌を引き立てている。
その顔は、幸福の絶頂にある花嫁そのものだ。
「……美しいよ。言葉を失うほどに」
井上は微笑み、麗華の手を取った。
その笑顔の下で、奥歯を噛み締めているとも知らずに。
「ありがとう! ……私、世界一幸せだわ」
「ああ。……僕もだよ」
井上はプランナーに向き直った。
「当日の進行について確認したい。……招待客のリストは?」
「はい、こちらになります」
プランナーが分厚いリストを差し出した。
政財界の大物、芸能人、海外の賓客。
総勢500名を超える、豪華絢爛なゲストたち。
これだけの人間が証人となる場所で、西園寺家の悪事を暴く。
それが井上の描いたシナリオだ。
「……素晴らしい。追加の招待客がいるんだが、構わないかな?」
「もちろんです。どちら様でしょうか?」
「私の個人的な友人たちだ。……席は、メインテーブルの近くにお願いしたい」
井上はメモを渡した。
そこには、森舞永、斎藤冴子、清水南の名前があった。
もちろん、肩書きは「K.I.ホールディングス役員」や「顧問弁護士」として偽装してある。
「承知いたしました」
「それと……母上の体調はいかがかな? 当日、ご出席いただけるか心配なんだが」
井上は視線を天井――2階の貴子の部屋の方角へと向けた。
「母様なら大丈夫よ」
麗華が割り込んできた。
少し顔を曇らせる。
「相変わらず部屋に引きこもって、ブツブツ独り言を言ってるけど……。でも、私の晴れ舞台だもの。意地でも引っ張り出すわ」
麗華にとって、この披露宴は「自分が次期社長として認められるための戴冠式」でもある。
母親の欠席など許されない。
「茉莉が上手くやってくれているわ。……あの子、本当に気が利くのよ」
「そうか。それは心強いな」
井上は微笑んだ。
茉莉の「上手くやっている」の意味を、正確に理解しながら。
その頃。
屋敷の厨房では、メイドの池田茉莉が一人、作業をしていた。
彼女の手元にあるのは、披露宴の招待客リストのコピーだ。
本来、部外秘の極秘資料。
だが、今のこの屋敷で、茉莉を止める者など誰もいない。
彼女はスマートフォンを取り出し、リストを撮影した。
全ページ、漏らさず、鮮明に。
「……送信、と」
画像データは、暗号化されて清水南の元へと送られた。
このリストがあれば、南は招待客一人一人の「弱み」や「利害関係」を事前に洗い出すことができる。
西園寺家に恩義がある者、弱みを握られている者、逆に西園寺家を恨んでいる者。
それらを分類し、当日の「断罪ショー」において、誰を味方につけ、誰を黙らせるかの戦略を立てるのだ。
「あら、茉莉さん。ここにいたの?」
背後から声をかけられ、茉莉は素早くスマホをエプロンに隠した。
振り返ると、古参の家政婦が立っていた。
「はい。奥様のハーブティーの準備をしておりました」
「そう。……それにしても、奥様、最近おかしいわよね」
家政婦は声を潜めた。
「昨日も、誰もいないのに『猛がいる』って叫んだり、壁に向かって謝ったり……。やっぱり、猛様があんなことになったショックかしら」
「ええ、きっとそうですわ。……お可哀想に」
茉莉は悲しげに眉を下げて見せた。
内心では、桃子の薬の効果に感心しながら。
幻覚、記憶障害、情緒不安定。
貴子の精神は、着実に崩壊へと向かっている。
「私がついておりますから、ご安心ください。……奥様の最期まで、お世話させていただきますわ」
「頼もしいわねぇ。あなたが来てくれて本当によかった」
家政婦は安心して去っていった。
茉莉はその後ろ姿を見送り、ポットに湯を注いだ。
熱い湯気の中に、妖艶な笑みが浮かぶ。
「ええ。……最期まで、しっかりと『介錯』させていただきます」
夕方。
西園寺家を出た井上は、ハイヤーの中で南からのメッセージを受け取った。
『リスト、確認しました。……面白いメンバーですね。政治家の汚職に関与している建設会社の社長、粉飾決算の噂がある銀行の頭取……。西園寺家の闇人脈が勢揃いです』
『全員、私の「顧客リスト」に入っています。当日は、彼らにも証人になってもらいましょう』
南の返信に、井上は満足げに頷いた。
披露宴会場は、西園寺家の権威を示す場ではなく、彼らを裁く法廷となる。
出席者全員が、検察官であり、陪審員となるのだ。
車窓から、夕暮れの東京タワーが見えた。
赤く輝くその姿は、まるで巨大な墓標のようだ。
「……ボス、顔色は?」
運転席の舞永が尋ねた。
彼女だけは、井上が痛みを隠して演技していたことに気づいていたのだろう。
「問題ない。……麻痺は消えた」
「無理しないでよね。……アンタが倒れたら、誰がハイの缶詰代を稼ぐのよ」
「違いない」
井上は軽く笑った。
アマン東京に戻れば、あの小さな毛玉が待っている。
朝のように、全身を舐め回して身支度を整えているかもしれない。
その平和な光景を守るためなら、顔の一つや二つ、砕け散っても構わない。
井上は窓ガラスに映る自分の顔を見た。
整った、冷徹な仮面。
その下で、復讐の炎が静かに、しかし激しく燃え盛っていた。
準備は整った。
あとは、幕が上がるのを待つだけだ。
秋の柔らかな日差しが、リビングのラグマットの上に小さなスポットライトを作っていた。
その光の中で、銀色の毛玉が蠢いている。
仔猫のハイだ。
今日は朝から、念入りなグルーミングに余念がない。
短い右足をピーンと垂直に上げ、体をくの字に曲げて、お尻周りをザリザリと舐める。
一心不乱だ。
ピンク色の舌が忙しなく動き、柔らかい毛並みを整えていく。
「……飽きないな、お前は」
ソファでタブレットを見ていた井上健太郎は、その姿に目を細めた。
ハイは体勢を変え、今度は前足を舐めて湿らせ、それで顔を洗う仕草をする。
クシュ、クシュ。
耳の後ろまで丁寧に撫でつけ、また足を舐める。
さらに、お腹の毛を整えようとして、勢い余ってコロンと転がる。それでも止まらず、仰向けのままお腹をペロペロと舐め続ける。
「綺麗好きは良いことだ」
井上はコーヒーを置き、ハイに手を伸ばした。
ハイは舐めるのを中断し、井上の指を甘噛みしてから、再び自分の左足のケアに戻った。
その徹底したセルフメンテナンスの姿勢は、ある種、プロフェッショナルな職人のようでもあった。
「……俺も見習わないとな」
井上は自嘲気味に呟き、立ち上がろうとした。
その時だった。
ズキンッ。
顔面の奥底、右の頬骨のあたりを、熱した鉄串で貫かれるような激痛が襲った。
「……ぐっ!」
井上は膝をつき、顔を抑えた。
視界が明滅する。
ただの頭痛ではない。骨がきしむ音。筋肉が痙攣し、作り変えられた神経が悲鳴を上げている。
拒絶反応だ。
先日、探偵の目を欺くために無理をしたツケか、あるいは決戦を前にした極度の緊張が引き金になったのか。
「ミャウ!?」
異変を察知したハイが、毛づくろいをやめて駆け寄ってきた。
心配そうに井上の顔を覗き込み、鼻先を押し付けてくる。
だが、その温もりすら、今の井上には焼けるような刺激に感じられた。
「……大丈夫だ、ハイ。……薬を……」
井上は這うようにしてサイドテーブルへ向かい、スマートフォンを掴んだ。
発信履歴の一番上をタップする。
コール音は一回で途切れ、気怠げな声が響いた。
『……もしもし? 朝から何よ』
山崎桃子だ。
「……桃子。……すぐに来てくれ」
『あら、声色が違うわね。……顔?』
「ああ。……今度は、酷い。……右目が、開かない……」
井上は鏡を見た。
そこには、右瞼が痙攣し、顔の半分が別人のように歪んだ男が映っていた。
美しい仮面が、剥がれ落ちそうになっている。
『動かないで。……15分で行くわ』
通話が切れた。
井上はソファに崩れ落ちた。
ハイが寄り添い、必死に井上の手を舐めている。
ザラザラとした舌の感触。
それは、「壊れないで」という祈りのようだった。
「……酷い顔ね。フランケンシュタインも真っ青よ」
到着した桃子は、開口一番そう言い放ったが、その手つきは迅速だった。
井上をソファに寝かせ、慣れた手つきで静脈に点滴のラインを確保する。
強力な鎮痛剤と、筋肉の弛緩剤、そして抗炎症薬のカクテル。
「ストレスね。……アンタの精神が限界に近づいてるから、体が悲鳴を上げてるのよ」
桃子はタバコをくわえようとして、ハイに見つめられていることに気づき、舌打ちをして箱に戻した。
「……結婚式の準備なんて柄じゃないことしてるからよ」
「……これは仕事だ」
薬が効いてきたのか、痛みの波が遠のいていく。
井上は荒い息を整えながら答えた。
「あと数日だ。……婚約披露宴という名の、処刑台への花道。それまでは、この顔を持たせなきゃならない」
「分かってるわよ。……だから、とびきり強いのを打っといたわ」
桃子は井上の頬に冷たい手を当てた。
「でも、次は保証しない。……この顔はガラス細工みたいなものよ。無理に笑えば、パリンと割れる」
「構わない。……全てが終われば、こんな顔、どうなってもいい」
井上は自分の顔に触れた。
感覚が戻りつつある。
だが、それは自分の肉体であって自分のものではないような、奇妙な浮遊感を伴っていた。
「……馬鹿な男」
桃子は呆れたように言ったが、その瞳には歪んだ愛おしさが宿っていた。
「でも、そういう破滅的なところ、嫌いじゃないわ。……最後まで見届けてあげる」
午後。
痛みを薬でねじ伏せた井上は、完璧な「井上健太郎」の仮面を被り直し、西園寺家を訪れていた。
今日は、来週に迫った「婚約披露宴」の最終打ち合わせだ。
応接間には、有名ホテルのウェディングプランナーや衣装デザイナーが集まり、華やかな空気に包まれていた。
その中心にいるのは、純白のウェディングドレスを試着した西園寺麗華だ。
「どう? 健太郎さん。……似合う?」
麗華がくるりと回ってみせた。
パリのオートクチュールで作らせた、数千万円のドレス。
ふんだんにあしらわれたレースとパールが、彼女の美貌を引き立てている。
その顔は、幸福の絶頂にある花嫁そのものだ。
「……美しいよ。言葉を失うほどに」
井上は微笑み、麗華の手を取った。
その笑顔の下で、奥歯を噛み締めているとも知らずに。
「ありがとう! ……私、世界一幸せだわ」
「ああ。……僕もだよ」
井上はプランナーに向き直った。
「当日の進行について確認したい。……招待客のリストは?」
「はい、こちらになります」
プランナーが分厚いリストを差し出した。
政財界の大物、芸能人、海外の賓客。
総勢500名を超える、豪華絢爛なゲストたち。
これだけの人間が証人となる場所で、西園寺家の悪事を暴く。
それが井上の描いたシナリオだ。
「……素晴らしい。追加の招待客がいるんだが、構わないかな?」
「もちろんです。どちら様でしょうか?」
「私の個人的な友人たちだ。……席は、メインテーブルの近くにお願いしたい」
井上はメモを渡した。
そこには、森舞永、斎藤冴子、清水南の名前があった。
もちろん、肩書きは「K.I.ホールディングス役員」や「顧問弁護士」として偽装してある。
「承知いたしました」
「それと……母上の体調はいかがかな? 当日、ご出席いただけるか心配なんだが」
井上は視線を天井――2階の貴子の部屋の方角へと向けた。
「母様なら大丈夫よ」
麗華が割り込んできた。
少し顔を曇らせる。
「相変わらず部屋に引きこもって、ブツブツ独り言を言ってるけど……。でも、私の晴れ舞台だもの。意地でも引っ張り出すわ」
麗華にとって、この披露宴は「自分が次期社長として認められるための戴冠式」でもある。
母親の欠席など許されない。
「茉莉が上手くやってくれているわ。……あの子、本当に気が利くのよ」
「そうか。それは心強いな」
井上は微笑んだ。
茉莉の「上手くやっている」の意味を、正確に理解しながら。
その頃。
屋敷の厨房では、メイドの池田茉莉が一人、作業をしていた。
彼女の手元にあるのは、披露宴の招待客リストのコピーだ。
本来、部外秘の極秘資料。
だが、今のこの屋敷で、茉莉を止める者など誰もいない。
彼女はスマートフォンを取り出し、リストを撮影した。
全ページ、漏らさず、鮮明に。
「……送信、と」
画像データは、暗号化されて清水南の元へと送られた。
このリストがあれば、南は招待客一人一人の「弱み」や「利害関係」を事前に洗い出すことができる。
西園寺家に恩義がある者、弱みを握られている者、逆に西園寺家を恨んでいる者。
それらを分類し、当日の「断罪ショー」において、誰を味方につけ、誰を黙らせるかの戦略を立てるのだ。
「あら、茉莉さん。ここにいたの?」
背後から声をかけられ、茉莉は素早くスマホをエプロンに隠した。
振り返ると、古参の家政婦が立っていた。
「はい。奥様のハーブティーの準備をしておりました」
「そう。……それにしても、奥様、最近おかしいわよね」
家政婦は声を潜めた。
「昨日も、誰もいないのに『猛がいる』って叫んだり、壁に向かって謝ったり……。やっぱり、猛様があんなことになったショックかしら」
「ええ、きっとそうですわ。……お可哀想に」
茉莉は悲しげに眉を下げて見せた。
内心では、桃子の薬の効果に感心しながら。
幻覚、記憶障害、情緒不安定。
貴子の精神は、着実に崩壊へと向かっている。
「私がついておりますから、ご安心ください。……奥様の最期まで、お世話させていただきますわ」
「頼もしいわねぇ。あなたが来てくれて本当によかった」
家政婦は安心して去っていった。
茉莉はその後ろ姿を見送り、ポットに湯を注いだ。
熱い湯気の中に、妖艶な笑みが浮かぶ。
「ええ。……最期まで、しっかりと『介錯』させていただきます」
夕方。
西園寺家を出た井上は、ハイヤーの中で南からのメッセージを受け取った。
『リスト、確認しました。……面白いメンバーですね。政治家の汚職に関与している建設会社の社長、粉飾決算の噂がある銀行の頭取……。西園寺家の闇人脈が勢揃いです』
『全員、私の「顧客リスト」に入っています。当日は、彼らにも証人になってもらいましょう』
南の返信に、井上は満足げに頷いた。
披露宴会場は、西園寺家の権威を示す場ではなく、彼らを裁く法廷となる。
出席者全員が、検察官であり、陪審員となるのだ。
車窓から、夕暮れの東京タワーが見えた。
赤く輝くその姿は、まるで巨大な墓標のようだ。
「……ボス、顔色は?」
運転席の舞永が尋ねた。
彼女だけは、井上が痛みを隠して演技していたことに気づいていたのだろう。
「問題ない。……麻痺は消えた」
「無理しないでよね。……アンタが倒れたら、誰がハイの缶詰代を稼ぐのよ」
「違いない」
井上は軽く笑った。
アマン東京に戻れば、あの小さな毛玉が待っている。
朝のように、全身を舐め回して身支度を整えているかもしれない。
その平和な光景を守るためなら、顔の一つや二つ、砕け散っても構わない。
井上は窓ガラスに映る自分の顔を見た。
整った、冷徹な仮面。
その下で、復讐の炎が静かに、しかし激しく燃え盛っていた。
準備は整った。
あとは、幕が上がるのを待つだけだ。
0
あなたにおすすめの小説
ダンジョンでオーブを拾って『』を手に入れた。代償は体で払います
とみっしぇる
ファンタジー
スキルなし、魔力なし、1000人に1人の劣等人。
食っていくのがギリギリの冒険者ユリナは同じ境遇の友達3人と、先輩冒険者ジュリアから率のいい仕事に誘われる。それが罠と気づいたときには、絶対絶命のピンチに陥っていた。
もうあとがない。そのとき起死回生のスキルオーブを手に入れたはずなのにオーブは無反応。『』の中には何が入るのだ。
ギリギリの状況でユリアは瀕死の仲間のために叫ぶ。
ユリナはスキルを手に入れ、ささやかな幸せを手に入れられるのだろうか。
クラス転移したからクラスの奴に復讐します
wrath
ファンタジー
俺こと灞熾蘑 煌羈はクラスでいじめられていた。
ある日、突然クラスが光輝き俺のいる3年1組は異世界へと召喚されることになった。
だが、俺はそこへ転移する前に神様にお呼ばれし……。
クラスの奴らよりも強くなった俺はクラスの奴らに復讐します。
まだまだ未熟者なので誤字脱字が多いと思いますが長〜い目で見守ってください。
閑話の時系列がおかしいんじゃない?やこの漢字間違ってるよね?など、ところどころにおかしい点がありましたら気軽にコメントで教えてください。
追伸、
雫ストーリーを別で作りました。雫が亡くなる瞬間の心情や死んだ後の天国でのお話を書いてます。
気になった方は是非読んでみてください。
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
魚夢ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。
最上級のパーティで最底辺の扱いを受けていたDランク錬金術師は新パーティで成り上がるようです(完)
みかん畑
ファンタジー
最上級のパーティで『荷物持ち』と嘲笑されていた僕は、パーティからクビを宣告されて抜けることにした。
在籍中は僕が色々肩代わりしてたけど、僕を荷物持ち扱いするくらい優秀な仲間たちなので、抜けても問題はないと思ってます。
処刑された勇者は二度目の人生で復讐を選ぶ
シロタカズキ
ファンタジー
──勇者は、すべてを裏切られ、処刑された。
だが、彼の魂は復讐の炎と共に蘇る──。
かつて魔王を討ち、人類を救った勇者 レオン・アルヴァレス。
だが、彼を待っていたのは称賛ではなく、 王族・貴族・元仲間たちによる裏切りと処刑だった。
「力が強すぎる」という理由で異端者として断罪され、広場で公開処刑されるレオン。
国民は歓喜し、王は満足げに笑い、かつての仲間たちは目を背ける。
そして、勇者は 死んだ。
──はずだった。
十年後。
王国は繁栄の影で腐敗し、裏切り者たちは安穏とした日々を送っていた。
しかし、そんな彼らの前に死んだはずの勇者が現れる。
「よくもまあ、のうのうと生きていられたものだな」
これは、英雄ではなくなった男の復讐譚。
彼を裏切った王族、貴族、そしてかつての仲間たちを絶望の淵に叩き落とすための第二の人生が、いま始まる──。
薬師だからってポイ捨てされました!2 ~俺って実は付与も出来るんだよね~
黄色いひよこ
ファンタジー
薬師のロベルト=グリモワール=シルベスタは偉大な師匠(神様)とその脇侍の教えを胸に自領を治める為の経済学を学ぶ為に隣国に留学。逸れを終えて国(自領)に戻ろうとした所、異世界の『勇者召喚』に巻き込まれ、周りにいた数人の男女と共に、何処とも知れない世界に落とされた。
『異世界勇者巻き込まれ召喚』から数年、帰る事違わず、ロベルトはこの異世界で逞しく生きていた。
勇者?そんな物ロベルトには関係無い。
魔王が居るようだが、倒されているのかいないのか、解らずとも世界はあいも変わらず巡っている。
とんでもなく普通じゃないお師匠様とその脇侍に薬師の業と、魔術とその他諸々とを仕込まれた弟子ロベルトの、危難、災難、巻き込まれ痛快世直し異世界道中。
はてさて一体どうなるの?
と、言う話のパート2、ここに開幕!
【ご注意】
・このお話はロベルトの一人称で進行していきますので、セリフよりト書きと言う名のロベルトの呟きと、突っ込みだけで進行します。文字がびっしりなので、スカスカな文字列を期待している方は、回れ右を推奨します。
なるべく読みやすいようには致しますが。
・この物語には短編の1が存在します。出来れば其方を読んで頂き、作風が大丈夫でしたら此方へ来ていただければ幸いです。
勿論、此方だけでも読むに当たっての不都合は御座いません。
・所々挿し絵画像が入ります。
大丈夫でしたらそのままお進みください。
友人(勇者)に恋人も幼馴染も取られたけど悔しくない。 だって俺は転生者だから。
石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていた魔法戦士のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもない状態だった。
だが、此の状態は彼にとっては『本当の幸せ』を掴む事に必要だった
何故なら、彼は『転生者』だから…
今度は違う切り口からのアプローチ。
追放の話しの一話は、前作とかなり似ていますが2話からは、かなり変わります。
こうご期待。
戦場帰りの俺が隠居しようとしたら、最強の美少女たちに囲まれて逃げ場がなくなった件
さん
ファンタジー
戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。
数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、
今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、
わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。
彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。
それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。
今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。
「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」
「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」
「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」
「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」
命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場――
ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる