整形灰かぶり王子の二度目の遺言 〜義実家に殺されたので、10年前に戻って顔を変え、別人として御社を買収することにしました〜

ken

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第3章:侵食と誘惑

第36話 婚約披露宴の準備

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 アマン東京のスイートルーム。
 秋の柔らかな日差しが、リビングのラグマットの上に小さなスポットライトを作っていた。
 その光の中で、銀色の毛玉が蠢いている。

 仔猫のハイだ。
 今日は朝から、念入りなグルーミングに余念がない。
 短い右足をピーンと垂直に上げ、体をくの字に曲げて、お尻周りをザリザリと舐める。
 一心不乱だ。
 ピンク色の舌が忙しなく動き、柔らかい毛並みを整えていく。

「……飽きないな、お前は」

 ソファでタブレットを見ていた井上健太郎は、その姿に目を細めた。
 ハイは体勢を変え、今度は前足を舐めて湿らせ、それで顔を洗う仕草をする。
 クシュ、クシュ。
 耳の後ろまで丁寧に撫でつけ、また足を舐める。
 さらに、お腹の毛を整えようとして、勢い余ってコロンと転がる。それでも止まらず、仰向けのままお腹をペロペロと舐め続ける。

「綺麗好きは良いことだ」

 井上はコーヒーを置き、ハイに手を伸ばした。
 ハイは舐めるのを中断し、井上の指を甘噛みしてから、再び自分の左足のケアに戻った。
 その徹底したセルフメンテナンスの姿勢は、ある種、プロフェッショナルな職人のようでもあった。

「……俺も見習わないとな」

 井上は自嘲気味に呟き、立ち上がろうとした。
 その時だった。

 ズキンッ。

 顔面の奥底、右の頬骨のあたりを、熱した鉄串で貫かれるような激痛が襲った。

「……ぐっ!」

 井上は膝をつき、顔を抑えた。
 視界が明滅する。
 ただの頭痛ではない。骨がきしむ音。筋肉が痙攣し、作り変えられた神経が悲鳴を上げている。
 拒絶反応だ。
 先日、探偵の目を欺くために無理をしたツケか、あるいは決戦を前にした極度の緊張が引き金になったのか。

「ミャウ!?」

 異変を察知したハイが、毛づくろいをやめて駆け寄ってきた。
 心配そうに井上の顔を覗き込み、鼻先を押し付けてくる。
 だが、その温もりすら、今の井上には焼けるような刺激に感じられた。

「……大丈夫だ、ハイ。……薬を……」

 井上は這うようにしてサイドテーブルへ向かい、スマートフォンを掴んだ。
 発信履歴の一番上をタップする。
 コール音は一回で途切れ、気怠げな声が響いた。

『……もしもし? 朝から何よ』

 山崎桃子だ。

「……桃子。……すぐに来てくれ」
『あら、声色が違うわね。……顔?』
「ああ。……今度は、酷い。……右目が、開かない……」

 井上は鏡を見た。
 そこには、右瞼が痙攣し、顔の半分が別人のように歪んだ男が映っていた。
 美しい仮面が、剥がれ落ちそうになっている。

『動かないで。……15分で行くわ』

 通話が切れた。
 井上はソファに崩れ落ちた。
 ハイが寄り添い、必死に井上の手を舐めている。
 ザラザラとした舌の感触。
 それは、「壊れないで」という祈りのようだった。

「……酷い顔ね。フランケンシュタインも真っ青よ」

 到着した桃子は、開口一番そう言い放ったが、その手つきは迅速だった。
 井上をソファに寝かせ、慣れた手つきで静脈に点滴のラインを確保する。
 強力な鎮痛剤と、筋肉の弛緩剤、そして抗炎症薬のカクテル。

「ストレスね。……アンタの精神が限界に近づいてるから、体が悲鳴を上げてるのよ」

 桃子はタバコをくわえようとして、ハイに見つめられていることに気づき、舌打ちをして箱に戻した。

「……結婚式の準備なんて柄じゃないことしてるからよ」
「……これは仕事だ」

 薬が効いてきたのか、痛みの波が遠のいていく。
 井上は荒い息を整えながら答えた。

「あと数日だ。……婚約披露宴という名の、処刑台への花道。それまでは、この顔を持たせなきゃならない」
「分かってるわよ。……だから、とびきり強いのを打っといたわ」

 桃子は井上の頬に冷たい手を当てた。

「でも、次は保証しない。……この顔はガラス細工みたいなものよ。無理に笑えば、パリンと割れる」
「構わない。……全てが終われば、こんな顔、どうなってもいい」

 井上は自分の顔に触れた。
 感覚が戻りつつある。
 だが、それは自分の肉体であって自分のものではないような、奇妙な浮遊感を伴っていた。

「……馬鹿な男」

 桃子は呆れたように言ったが、その瞳には歪んだ愛おしさが宿っていた。

「でも、そういう破滅的なところ、嫌いじゃないわ。……最後まで見届けてあげる」

 午後。
 痛みを薬でねじ伏せた井上は、完璧な「井上健太郎」の仮面を被り直し、西園寺家を訪れていた。
 今日は、来週に迫った「婚約披露宴」の最終打ち合わせだ。

 応接間には、有名ホテルのウェディングプランナーや衣装デザイナーが集まり、華やかな空気に包まれていた。
 その中心にいるのは、純白のウェディングドレスを試着した西園寺麗華だ。

「どう? 健太郎さん。……似合う?」

 麗華がくるりと回ってみせた。
 パリのオートクチュールで作らせた、数千万円のドレス。
 ふんだんにあしらわれたレースとパールが、彼女の美貌を引き立てている。
 その顔は、幸福の絶頂にある花嫁そのものだ。

「……美しいよ。言葉を失うほどに」

 井上は微笑み、麗華の手を取った。
 その笑顔の下で、奥歯を噛み締めているとも知らずに。

「ありがとう! ……私、世界一幸せだわ」
「ああ。……僕もだよ」

 井上はプランナーに向き直った。

「当日の進行について確認したい。……招待客のリストは?」
「はい、こちらになります」

 プランナーが分厚いリストを差し出した。
 政財界の大物、芸能人、海外の賓客。
 総勢500名を超える、豪華絢爛なゲストたち。
 これだけの人間が証人となる場所で、西園寺家の悪事を暴く。
 それが井上の描いたシナリオだ。

「……素晴らしい。追加の招待客がいるんだが、構わないかな?」
「もちろんです。どちら様でしょうか?」
「私の個人的な友人たちだ。……席は、メインテーブルの近くにお願いしたい」

 井上はメモを渡した。
 そこには、森舞永、斎藤冴子、清水南の名前があった。
 もちろん、肩書きは「K.I.ホールディングス役員」や「顧問弁護士」として偽装してある。

「承知いたしました」
「それと……母上の体調はいかがかな? 当日、ご出席いただけるか心配なんだが」

 井上は視線を天井――2階の貴子の部屋の方角へと向けた。

「母様なら大丈夫よ」

 麗華が割り込んできた。
 少し顔を曇らせる。

「相変わらず部屋に引きこもって、ブツブツ独り言を言ってるけど……。でも、私の晴れ舞台だもの。意地でも引っ張り出すわ」

 麗華にとって、この披露宴は「自分が次期社長として認められるための戴冠式」でもある。
 母親の欠席など許されない。

「茉莉が上手くやってくれているわ。……あの子、本当に気が利くのよ」
「そうか。それは心強いな」

 井上は微笑んだ。
 茉莉の「上手くやっている」の意味を、正確に理解しながら。

 その頃。
 屋敷の厨房では、メイドの池田茉莉が一人、作業をしていた。
 彼女の手元にあるのは、披露宴の招待客リストのコピーだ。
 本来、部外秘の極秘資料。
 だが、今のこの屋敷で、茉莉を止める者など誰もいない。

 彼女はスマートフォンを取り出し、リストを撮影した。
 全ページ、漏らさず、鮮明に。

「……送信、と」

 画像データは、暗号化されて清水南の元へと送られた。
 このリストがあれば、南は招待客一人一人の「弱み」や「利害関係」を事前に洗い出すことができる。
 西園寺家に恩義がある者、弱みを握られている者、逆に西園寺家を恨んでいる者。
 それらを分類し、当日の「断罪ショー」において、誰を味方につけ、誰を黙らせるかの戦略を立てるのだ。

「あら、茉莉さん。ここにいたの?」

 背後から声をかけられ、茉莉は素早くスマホをエプロンに隠した。
 振り返ると、古参の家政婦が立っていた。

「はい。奥様のハーブティーの準備をしておりました」
「そう。……それにしても、奥様、最近おかしいわよね」

 家政婦は声を潜めた。

「昨日も、誰もいないのに『猛がいる』って叫んだり、壁に向かって謝ったり……。やっぱり、猛様があんなことになったショックかしら」
「ええ、きっとそうですわ。……お可哀想に」

 茉莉は悲しげに眉を下げて見せた。
 内心では、桃子の薬の効果に感心しながら。
 幻覚、記憶障害、情緒不安定。
 貴子の精神は、着実に崩壊へと向かっている。

「私がついておりますから、ご安心ください。……奥様の最期まで、お世話させていただきますわ」
「頼もしいわねぇ。あなたが来てくれて本当によかった」

 家政婦は安心して去っていった。
 茉莉はその後ろ姿を見送り、ポットに湯を注いだ。
 熱い湯気の中に、妖艶な笑みが浮かぶ。

「ええ。……最期まで、しっかりと『介錯』させていただきます」

 夕方。
 西園寺家を出た井上は、ハイヤーの中で南からのメッセージを受け取った。

『リスト、確認しました。……面白いメンバーですね。政治家の汚職に関与している建設会社の社長、粉飾決算の噂がある銀行の頭取……。西園寺家の闇人脈が勢揃いです』
『全員、私の「顧客リスト」に入っています。当日は、彼らにも証人になってもらいましょう』

 南の返信に、井上は満足げに頷いた。
 披露宴会場は、西園寺家の権威を示す場ではなく、彼らを裁く法廷となる。
 出席者全員が、検察官であり、陪審員となるのだ。

 車窓から、夕暮れの東京タワーが見えた。
 赤く輝くその姿は、まるで巨大な墓標のようだ。

「……ボス、顔色は?」

 運転席の舞永が尋ねた。
 彼女だけは、井上が痛みを隠して演技していたことに気づいていたのだろう。

「問題ない。……麻痺は消えた」
「無理しないでよね。……アンタが倒れたら、誰がハイの缶詰代を稼ぐのよ」
「違いない」

 井上は軽く笑った。
 アマン東京に戻れば、あの小さな毛玉が待っている。
 朝のように、全身を舐め回して身支度を整えているかもしれない。
 その平和な光景を守るためなら、顔の一つや二つ、砕け散っても構わない。

 井上は窓ガラスに映る自分の顔を見た。
 整った、冷徹な仮面。
 その下で、復讐の炎が静かに、しかし激しく燃え盛っていた。

 準備は整った。
 あとは、幕が上がるのを待つだけだ。
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