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第一章(母:明美)
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朝の静けさは嫌いじゃない。だけど、時々とても物悲しくなる時がある。
朝の四時半に鳴り出したアラームを止めて、明美は一階へと降りる。
カーテンを閉め切ったリビングは薄暗く、静まり返っている。
しかし、数か月前と比べればずいぶん日が出るのが早くなった。おかげでカーテンを開ければ日の出前の光が部屋に入ってくる。
もう五月といえど、早朝の誰もいないリビングは温度がなく、スリッパに包まれたつま先が冷える。
明美はいつものように水を一杯飲み、トースターで食パンを焼き始めた。
まだ眠っている家族を起こさないために最小限の動きを心掛け、水切りかごから家族の弁当箱を引っ張り出す。
ちょうどパンが焼きあがったので、適当にバターを塗って頬張った。
どうせ弁当を作る時に余った食材を口に放り込むので、食パン一枚で十分だ。
ちょっとした野菜炒めを作り、おなじみの玉子焼きやプチトマトなどを隙間に詰め込んだ明美は、リビングの時計を見上げた。
「あら、もうこんな時間」
六時から朝のパートがあるのに、家を出るまであと二十分もない。
湯気を放つ三つの弁当箱を、蓋をずらした状態でかぶせ、熱を逃がすため放置する。
いつも家族が起きてきた時に、各自で蓋を閉めてランチバッグに入れるようにしてもらっている。
最低限の身なりを整えて化粧をすると、もう良い時間になっていた。
「行ってきます」
誰に言うでもなく呟いた明美は、家を出ると自転車にまたがる。
明美は二年前から、自宅近所の大型スーパーで早朝の品出しバイトをしていた。
昨今の不景気や子どもの将来のための貯蓄を考えてのことだ。
「おはようございます」
すっかり顔なじみとなったパート仲間に挨拶をし、事務室で制服のエプロンをつける。
「おはよう中谷さん」
後から出勤してきた女性に、明美は顔が引きつりそうになるのを堪えた。
「おはようございます。斉藤さん」
同年代の主婦である彼女は、明美より一年ほど歴の長い先輩だ。
その人の個性だと思ってはいても、明美は物言いが強いこの女性が少し苦手だった。
「じゃあ今日も一日よろしくお願いします」
簡易的な朝礼を終えて、品出しのためにそれぞれが持ち場へ向かう。
菓子パンのコーナーを任されている明美は黙々と作業をしていると、「こんなところにコンテナを置いたらお客さんが棚を見れないでしょ」と、突然誰かに話しかけられた。
「すみません」
謝りながら振り返ると、そこには案の定、明美の苦手な斉藤が立っている。
「少し考えればわかりそうなものだけど」
彼女はブツブツと文句を言いながら、菓子パンコーナーの隣にある商品棚の品出しを始める。
担当しているスペースが隣り合っているせいでいつもこうして目をつけられてしまう。
明美は仕方なく作業している場所から少し離れたところにコンテナを移すが、彼女は他の人が同じ場所に置いても文句を言わない。
(単純に嫌われてるのかしらね)
今日も今日とて憂鬱な気持ちになりながら明美は作業を再開した。
「大丈夫?中谷さん、また何か言われてたでしょ」
終業後、一部始終を見ていたパート仲間が気をつかって声をかけてくれた。
「……あぁ、コンテナの置き場所を指摘されちゃって」
「また?母子家庭で大変な思いをしてるからか知らないけれど……斉藤さんは本当に困ったものよね」
早朝に来るお客さんなんてたかが知れてるのに、とため息をつく同僚に、明美は苦笑いを返す。
刺々しい態度の斉藤には他の人たちも手を焼いており、彼女はこの職場で少し浮いた存在だった。
彼女以外のパートの人たちとは気が合うので、明美はなんとか辞めずにこの仕事を続けられている。
パートから帰宅後、明美は社割で買った食材を冷蔵庫に詰め、掃除や洗濯などの家事を一通り行った。
朝ごはんの食器は夫の弘昌が家を出る前にちゃんと洗ってくれていたようで、水切りかごに昨夜の夕食と、今朝の朝食分の食器が並んでいる。
夜ご飯の支度を終えた後、みのりと和樹が帰ってくる18時頃まで束の間の休息をとる。
みのりはもう少しで高校受験の時期に入るので、部活の引退も近い。
そうすれば一人でゆっくりする今の時間もなくなるだろう。
(この家に私以外の誰かがいる時間が増えるなら、それは良いことね)
弘昌は朝ゆっくり過ごして、夜遅くに帰ってくる仕事のスタイルなので、朝型の明美と鉢合わせることが少ない。
和樹は家に帰ってきたら自分の部屋にこもり、食事も二階へ持って行って済ませてしまう。
平日の間、明美が家族と顔を合わせるのは娘のみのりと夜ご飯を食べる時くらいだ。
そのため、明美は必然的に家で一人でいることが多かった。
みのりも和樹も中学生になり、家族全員がそれぞれ忙しくなったことは理解しているが、数年前にあったこの家の暖かさというものが、今はどこかに消えてしまった気がする。
「ただいまー」
お茶を飲んで一息ついていると、部活を終えたみのりが帰って来た。
「おかえり。ご飯できてるから、着替えて手洗ってきなさい」
「はーい」
みのりが部屋着に着替えて洗面台へ向かうのを見送った後、息子の和樹も帰って来る。
朝の四時半に鳴り出したアラームを止めて、明美は一階へと降りる。
カーテンを閉め切ったリビングは薄暗く、静まり返っている。
しかし、数か月前と比べればずいぶん日が出るのが早くなった。おかげでカーテンを開ければ日の出前の光が部屋に入ってくる。
もう五月といえど、早朝の誰もいないリビングは温度がなく、スリッパに包まれたつま先が冷える。
明美はいつものように水を一杯飲み、トースターで食パンを焼き始めた。
まだ眠っている家族を起こさないために最小限の動きを心掛け、水切りかごから家族の弁当箱を引っ張り出す。
ちょうどパンが焼きあがったので、適当にバターを塗って頬張った。
どうせ弁当を作る時に余った食材を口に放り込むので、食パン一枚で十分だ。
ちょっとした野菜炒めを作り、おなじみの玉子焼きやプチトマトなどを隙間に詰め込んだ明美は、リビングの時計を見上げた。
「あら、もうこんな時間」
六時から朝のパートがあるのに、家を出るまであと二十分もない。
湯気を放つ三つの弁当箱を、蓋をずらした状態でかぶせ、熱を逃がすため放置する。
いつも家族が起きてきた時に、各自で蓋を閉めてランチバッグに入れるようにしてもらっている。
最低限の身なりを整えて化粧をすると、もう良い時間になっていた。
「行ってきます」
誰に言うでもなく呟いた明美は、家を出ると自転車にまたがる。
明美は二年前から、自宅近所の大型スーパーで早朝の品出しバイトをしていた。
昨今の不景気や子どもの将来のための貯蓄を考えてのことだ。
「おはようございます」
すっかり顔なじみとなったパート仲間に挨拶をし、事務室で制服のエプロンをつける。
「おはよう中谷さん」
後から出勤してきた女性に、明美は顔が引きつりそうになるのを堪えた。
「おはようございます。斉藤さん」
同年代の主婦である彼女は、明美より一年ほど歴の長い先輩だ。
その人の個性だと思ってはいても、明美は物言いが強いこの女性が少し苦手だった。
「じゃあ今日も一日よろしくお願いします」
簡易的な朝礼を終えて、品出しのためにそれぞれが持ち場へ向かう。
菓子パンのコーナーを任されている明美は黙々と作業をしていると、「こんなところにコンテナを置いたらお客さんが棚を見れないでしょ」と、突然誰かに話しかけられた。
「すみません」
謝りながら振り返ると、そこには案の定、明美の苦手な斉藤が立っている。
「少し考えればわかりそうなものだけど」
彼女はブツブツと文句を言いながら、菓子パンコーナーの隣にある商品棚の品出しを始める。
担当しているスペースが隣り合っているせいでいつもこうして目をつけられてしまう。
明美は仕方なく作業している場所から少し離れたところにコンテナを移すが、彼女は他の人が同じ場所に置いても文句を言わない。
(単純に嫌われてるのかしらね)
今日も今日とて憂鬱な気持ちになりながら明美は作業を再開した。
「大丈夫?中谷さん、また何か言われてたでしょ」
終業後、一部始終を見ていたパート仲間が気をつかって声をかけてくれた。
「……あぁ、コンテナの置き場所を指摘されちゃって」
「また?母子家庭で大変な思いをしてるからか知らないけれど……斉藤さんは本当に困ったものよね」
早朝に来るお客さんなんてたかが知れてるのに、とため息をつく同僚に、明美は苦笑いを返す。
刺々しい態度の斉藤には他の人たちも手を焼いており、彼女はこの職場で少し浮いた存在だった。
彼女以外のパートの人たちとは気が合うので、明美はなんとか辞めずにこの仕事を続けられている。
パートから帰宅後、明美は社割で買った食材を冷蔵庫に詰め、掃除や洗濯などの家事を一通り行った。
朝ごはんの食器は夫の弘昌が家を出る前にちゃんと洗ってくれていたようで、水切りかごに昨夜の夕食と、今朝の朝食分の食器が並んでいる。
夜ご飯の支度を終えた後、みのりと和樹が帰ってくる18時頃まで束の間の休息をとる。
みのりはもう少しで高校受験の時期に入るので、部活の引退も近い。
そうすれば一人でゆっくりする今の時間もなくなるだろう。
(この家に私以外の誰かがいる時間が増えるなら、それは良いことね)
弘昌は朝ゆっくり過ごして、夜遅くに帰ってくる仕事のスタイルなので、朝型の明美と鉢合わせることが少ない。
和樹は家に帰ってきたら自分の部屋にこもり、食事も二階へ持って行って済ませてしまう。
平日の間、明美が家族と顔を合わせるのは娘のみのりと夜ご飯を食べる時くらいだ。
そのため、明美は必然的に家で一人でいることが多かった。
みのりも和樹も中学生になり、家族全員がそれぞれ忙しくなったことは理解しているが、数年前にあったこの家の暖かさというものが、今はどこかに消えてしまった気がする。
「ただいまー」
お茶を飲んで一息ついていると、部活を終えたみのりが帰って来た。
「おかえり。ご飯できてるから、着替えて手洗ってきなさい」
「はーい」
みのりが部屋着に着替えて洗面台へ向かうのを見送った後、息子の和樹も帰って来る。
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