猫が繋いだ私たちの日々

はるかわ 美穂

文字の大きさ
2 / 30
第一章(母:明美)

1

しおりを挟む
朝の静けさは嫌いじゃない。だけど、時々とても物悲しくなる時がある。


朝の四時半に鳴り出したアラームを止めて、明美は一階へと降りる。

カーテンを閉め切ったリビングは薄暗く、静まり返っている。

しかし、数か月前と比べればずいぶん日が出るのが早くなった。おかげでカーテンを開ければ日の出前の光が部屋に入ってくる。

もう五月といえど、早朝の誰もいないリビングは温度がなく、スリッパに包まれたつま先が冷える。

明美はいつものように水を一杯飲み、トースターで食パンを焼き始めた。

まだ眠っている家族を起こさないために最小限の動きを心掛け、水切りかごから家族の弁当箱を引っ張り出す。

ちょうどパンが焼きあがったので、適当にバターを塗って頬張った。

どうせ弁当を作る時に余った食材を口に放り込むので、食パン一枚で十分だ。

ちょっとした野菜炒めを作り、おなじみの玉子焼きやプチトマトなどを隙間に詰め込んだ明美は、リビングの時計を見上げた。

「あら、もうこんな時間」

六時から朝のパートがあるのに、家を出るまであと二十分もない。

湯気を放つ三つの弁当箱を、蓋をずらした状態でかぶせ、熱を逃がすため放置する。

いつも家族が起きてきた時に、各自で蓋を閉めてランチバッグに入れるようにしてもらっている。

最低限の身なりを整えて化粧をすると、もう良い時間になっていた。

「行ってきます」

誰に言うでもなく呟いた明美は、家を出ると自転車にまたがる。

明美は二年前から、自宅近所の大型スーパーで早朝の品出しバイトをしていた。

昨今の不景気や子どもの将来のための貯蓄を考えてのことだ。

「おはようございます」

すっかり顔なじみとなったパート仲間に挨拶をし、事務室で制服のエプロンをつける。

「おはよう中谷さん」

後から出勤してきた女性に、明美は顔が引きつりそうになるのを堪えた。

「おはようございます。斉藤さん」

同年代の主婦である彼女は、明美より一年ほど歴の長い先輩だ。

その人の個性だと思ってはいても、明美は物言いが強いこの女性が少し苦手だった。

「じゃあ今日も一日よろしくお願いします」

簡易的な朝礼を終えて、品出しのためにそれぞれが持ち場へ向かう。

菓子パンのコーナーを任されている明美は黙々と作業をしていると、「こんなところにコンテナを置いたらお客さんが棚を見れないでしょ」と、突然誰かに話しかけられた。

「すみません」

謝りながら振り返ると、そこには案の定、明美の苦手な斉藤が立っている。

「少し考えればわかりそうなものだけど」

彼女はブツブツと文句を言いながら、菓子パンコーナーの隣にある商品棚の品出しを始める。

担当しているスペースが隣り合っているせいでいつもこうして目をつけられてしまう。

明美は仕方なく作業している場所から少し離れたところにコンテナを移すが、彼女は他の人が同じ場所に置いても文句を言わない。

(単純に嫌われてるのかしらね)

今日も今日とて憂鬱な気持ちになりながら明美は作業を再開した。


「大丈夫?中谷さん、また何か言われてたでしょ」

終業後、一部始終を見ていたパート仲間が気をつかって声をかけてくれた。

「……あぁ、コンテナの置き場所を指摘されちゃって」

「また?母子家庭で大変な思いをしてるからか知らないけれど……斉藤さんは本当に困ったものよね」

早朝に来るお客さんなんてたかが知れてるのに、とため息をつく同僚に、明美は苦笑いを返す。

刺々しい態度の斉藤には他の人たちも手を焼いており、彼女はこの職場で少し浮いた存在だった。

彼女以外のパートの人たちとは気が合うので、明美はなんとか辞めずにこの仕事を続けられている。

パートから帰宅後、明美は社割で買った食材を冷蔵庫に詰め、掃除や洗濯などの家事を一通り行った。

朝ごはんの食器は夫の弘昌が家を出る前にちゃんと洗ってくれていたようで、水切りかごに昨夜の夕食と、今朝の朝食分の食器が並んでいる。

夜ご飯の支度を終えた後、みのりと和樹が帰ってくる18時頃まで束の間の休息をとる。

みのりはもう少しで高校受験の時期に入るので、部活の引退も近い。

そうすれば一人でゆっくりする今の時間もなくなるだろう。

(この家に私以外の誰かがいる時間が増えるなら、それは良いことね)

弘昌は朝ゆっくり過ごして、夜遅くに帰ってくる仕事のスタイルなので、朝型の明美と鉢合わせることが少ない。

和樹は家に帰ってきたら自分の部屋にこもり、食事も二階へ持って行って済ませてしまう。

平日の間、明美が家族と顔を合わせるのは娘のみのりと夜ご飯を食べる時くらいだ。

そのため、明美は必然的に家で一人でいることが多かった。

みのりも和樹も中学生になり、家族全員がそれぞれ忙しくなったことは理解しているが、数年前にあったこの家の暖かさというものが、今はどこかに消えてしまった気がする。

「ただいまー」

お茶を飲んで一息ついていると、部活を終えたみのりが帰って来た。

「おかえり。ご飯できてるから、着替えて手洗ってきなさい」

「はーい」

みのりが部屋着に着替えて洗面台へ向かうのを見送った後、息子の和樹も帰って来る。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

幼馴染を溺愛する旦那様の前からは、もう消えてあげることにします

睡蓮
恋愛
「旦那様、もう幼馴染だけを愛されればいいじゃありませんか。私はいらない存在らしいので、静かにいなくなってあげます」

とっていただく責任などありません

まめきち
恋愛
騎士団で働くヘイゼルは魔物の討伐の際に、 団長のセルフイスを庇い、魔法陣を踏んでしまう。 この魔法陣は男性が踏むと女性に転換するもので、女性のヘイゼルにはほとんど影響のない物だった。だか国からは保証金が出たので、騎士を辞め、念願の田舎暮らしをしようとしたが!? ヘイゼルの事をずっと男性だと思っていたセルフイスは自分のせいでヘイゼルが職を失っただと思って来まい。 責任を取らなければとセルフイスから、 追いかけられる羽目に。

生きるために逃げだした。幸せになりたい。

白水緑
ファンタジー
屋敷内に軟禁状態だったリリアは、宝物を取り戻したことをきっかけに屋敷から逃げ出した。幸せになるために。体力も力もない。成り行きに身を任せる結果になっても、自分の道は自分で選びたい。 2020/9/19 第一章終了 続きが書け次第また連載再開します。 2021/2/14 第二章開幕 2021/2/28 完結

王様の恥かきっ娘

青の雀
恋愛
恥かきっ子とは、親が年老いてから子供ができること。 本当は、元気でおめでたいことだけど、照れ隠しで、その年齢まで夫婦の営みがあったことを物語り世間様に向けての恥をいう。 孫と同い年の王女殿下が生まれたことで巻き起こる騒動を書きます 物語は、卒業記念パーティで婚約者から婚約破棄されたところから始まります これもショートショートで書く予定です。

金の羊亭へようこそ! 〝元〟聖女様の宿屋経営物語

紗々置 遼嘉
ファンタジー
アルシャインは真面目な聖女だった。 しかし、神聖力が枯渇して〝偽聖女〟と罵られて国を追い出された。 郊外に館を貰ったアルシャインは、護衛騎士を付けられた。  そして、そこが酒場兼宿屋だと分かると、復活させようと決意した。 そこには戦争孤児もいて、アルシャインはその子達を養うと決める。 アルシャインの食事処兼、宿屋経営の夢がどんどん形になっていく。 そして、孤児達の成長と日常、たまに恋愛がある物語である。

【大賞・完結】地味スキル《お片付け》は最強です!社畜OL、異世界でうっかり国を改革しちゃったら、騎士団長と皇帝陛下に溺愛されてるんですが!?

旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞で大賞をいただきました】→【規約変更で書籍化&コミカライズ「確約」は取り消しになりました。】 佐藤美佳子(サトウ・ミカコ)、享年28歳。死因は、過労。連日の徹夜と休日出勤の果てに、ブラック企業のオフィスで静かに息を引き取った彼女が次に目覚めたのは、剣と魔法のファンタジー世界だった。 新たな生を受けたのは、田舎のしがない貧乏貴族の娘、ミカ・アシュフィールド、16歳。神様がくれた転生特典は、なんと《完璧なる整理整頓》という、とんでもなく地味なスキルだった。 「せめて回復魔法とかが良かった……」 戦闘にも生産にも役立たないスキルに落胆し、今度こそは静かに、穏やかに生きたいと願うミカ。しかし、そんな彼女のささやかな望みは、王家からの突然の徴収命令によって打ち砕かれる。 「特殊技能持ちは、王宮へ出仕せよ」 家族を守るため、どうせ役立たずと追い返されるだろうと高をくくって王都へ向かったミカに与えられた任務は、あまりにも無謀なものだった。 「この『開かずの倉庫』を、整理せよ」 そこは、数百年分の備品や資材が山と積まれ、あまりの混沌ぶりに探検隊が遭難したとまで噂される、王家最大の禁足地。 絶望的な光景を前に、ミカが覚悟を決めてスキルを発動した瞬間――世界は、彼女の「お片付け」が持つ真の力に震撼することになる。 これは、地味スキルでうっかり国のすべてを最適化してしまった元社畜令嬢が、カタブツな騎士団長や有能すぎる皇帝陛下にその価値を見出され、なぜか過保護に甘やかされてしまう、お仕事改革ファンタジー。

処理中です...