猫が繋いだ私たちの日々

はるかわ 美穂

文字の大きさ
19 / 30
第三章(父:弘昌)

4

しおりを挟む
「えっ。ツナ俺のとこに来た!」

仕事に集中していると、和樹が突然声を上げた。

膨らんだ風船が弾けるように、集中力が切れる。

身を乗り出して見てみると、あぐらをかく和樹の上に確かにツナが乗っている。

おそらく弘昌が相手にしてくれないことを理解して、別の人のところへ行ったのだろう。

「うわーすげー。嬉しー」

和樹はニヤニヤした表情でツナを見ている。

「ツナはほんっと可愛いなぁー」

小さな体を抱きしめて、和樹は頬を寄せる。

もしかしたら、ツナが膝の上に乗るのは和樹にとって珍しいことなのかもしれない。

ツナに構えないことを残念に思いながら、弘昌は再び仕事に戻ろうとした。

が、ふとリビングの時計が目に入る。

時刻は深夜12時前。いつの間にかずいぶん時間が経っている。

「和樹、もう寝ろ。いつまでゲームやってるんだ」

「うーん。もうゲームはしないけど、ツナが来たから動けねぇよ」

和樹は締まりのない表情で言う。

息子の良心に任せても何の意味もなかったことに呆れると同時に、仕事をしているすぐ傍でダラダラとゲームを続けられていた事実に苛立ちが募る。

「いい加減にしろ」

思った以上に低い声が出て、弘昌自身もたじろいだ。

和樹は不服そうな顔をして、「わかったよ」とツナを下ろして立ち上がる。

ゲームのソフトを抜いて、和樹はリビングを出る。

「おやすみ」

それだけ言って、息子は自身の部屋へ行ってしまった。

思わず、本日二度目の大きなため息が漏れる。

(子どもに当たるなんて、父親失格だな)

結局、その後は仕事が捗らず、翌朝に持ち越すこととなった。


***


「とりあえずこの案件を片付けたら、月次の忙しさからは解放されるな」

「そうですね」

隣席の川村と言葉を交わしながら、いつも通り手早く業務を片付けていく。

「あ」

部下の作った売上資料の最終チェックを行っていると、弘昌はひとつのミスを発見した。

この資料を作ったのは誰だったか。

作成者の欄を見ると、『岡田』と表記がある。

「岡田くん。ちょっと良い?」

少し離れた席に座る部下を呼ぶと、彼は「はいっ」と返事をして立ち上がった。

慌ててこちらに駆けてきた岡田に、「ここの数字が間違ってるから、修正してもらえる?」と、ディスプレイを指さす。

「すみませんっ」

指された場所を確認した岡田は、わずかに表情をこわばらせた。

この一箇所を直した場合、続けて他の部分も訂正が必要になってくるので、少し厄介な類のミスだ。

「すみません……」

なぜこんな大事なところを見落としていたのか、とでも言うように岡田は肩を落とす。

少し作業が増えてしまっただろうが、岡田の許容範囲内だろうと考え、弘昌は静観することにした。

しかしその数十分後のこと。

「次の開発との会議資料ね。はい確かに。……あ、そうだ岡田くん」

弘昌のチェックを通過した資料を岡田が部長に渡すと、彼はそのまま呼び止められた。

「度々申し訳ないんだけど、また営業の方から資料の修正依頼が来てね。これ作ったの君だったよね」

「……はい」

「じゃあ悪いんだけど、今日中に修正してもらえないかな」

岡田の表情には一瞬苦渋が浮かんだが、「はい」とぎこちなく頷いた。

一部始終を見ていた弘昌は、部下のキャパシティーが心配になる。

ちょうど休憩時間に入る頃合いだったので、席を立つついでに岡田に話しかけた。

「タスク抱えすぎてないか?もし大変そうだったら俺が受け持つぞ」

弘昌を見上げた岡田は少しだけ口角を上げ、「ありがとうございます」と言う。

「でも、大丈夫です」

眉根を寄せる岡田に、本当に大丈夫かと聞きそうになったが、部下が「大丈夫」と言うなら、これ以上追及するのも野暮だろう。

「わかった。俺は休憩出るから、岡田くんもキリがいいところで休憩入るんだぞ」

「はい」

わずかな心配を抱きながら、弁当を持って弘昌はフロアを出る。

下の階へ行くボタンを押して、エレベーターが来るのを待っていると、スマホを持っていないことに気づいた。

「しまった」

弘昌はすぐに踵を返し、企画部の方へ駆ける。

カードをかざして室内に入ると、パーテーションの向こうで話し声が聞こえて来た。

「本当に大丈夫なの?岡田くん」

「……大丈夫じゃないかもしれないです」

死にそうな岡田の声色に、川村が声を上げて笑った。

「だったら何でさっき中谷さんに頼らないの。せっかく気にかけてくれてたのに」

「中谷さんに頼るなんて、そんなことできませんよ」

慌てた口調で岡田は言う。

ここで登場するのはさすがにまずいと思い、弘昌はその場で踏みとどまる。

「何で?」

川村の問いに、「それは……」と岡田が言い淀む。

「中谷さんに頼ると、これくらいの仕事もできないのかって思われてしまいそうで……その、怖いんです」

「……なるほど、それはちょっとわかるかも」

二人のその言葉は、弘昌の頭にガツンと衝撃を与えた。

その後も二人は何かを話していたが、率直な部下の言葉のショックが大きすぎて聞こえない。

弘昌はよろよろと方向転換し、そのまま部屋を出た。

味のしない弁当を休憩室でひとり黙々と食べていると、「おす」と声を掛けられる。

見上げると、そこには小山が立っていた。

「……小山か」

「どうした。なんか元気ないな」

言いつつ、小山は弘昌の隣に腰かける。

「ああ……まぁ」

先ほどの二人の会話がずっと頭の中で巡っている弘昌は、曖昧な返事しかできなかった。

そんな弘昌を気遣ってか、小山もむやみに話しかけてこず、静かに昼食を摂っている。

(仕事ができる人間でいようと思ってはいたが、まさかそれが他人を委縮させていたとは)

確かに、弘昌は自分が仕事の速さと正確さにこだわっている手前、他人の仕事ぶりにも敏感なところがあった。

少しでも他人の業務が滞ったり、期限に間に合わないような案件があれば、自分が助力してタスクを終わらせようと意気込んでいた。

もしかすると、そういう仕事に対する姿勢が、部下から距離を置かれていた原因なのかもしれない。

しかし仕事である以上、期限を守ることは絶対。

できないならできないと素直に言ってくれればそれで済むのだ。

なのに何故、部下たちは――

「なぁ、小山って、部下から頼りにされてるか?」

隣で親子丼をかきこんでいる小山に問うと、「どうした突然」と目を瞬いた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

幼馴染を溺愛する旦那様の前からは、もう消えてあげることにします

睡蓮
恋愛
「旦那様、もう幼馴染だけを愛されればいいじゃありませんか。私はいらない存在らしいので、静かにいなくなってあげます」

とっていただく責任などありません

まめきち
恋愛
騎士団で働くヘイゼルは魔物の討伐の際に、 団長のセルフイスを庇い、魔法陣を踏んでしまう。 この魔法陣は男性が踏むと女性に転換するもので、女性のヘイゼルにはほとんど影響のない物だった。だか国からは保証金が出たので、騎士を辞め、念願の田舎暮らしをしようとしたが!? ヘイゼルの事をずっと男性だと思っていたセルフイスは自分のせいでヘイゼルが職を失っただと思って来まい。 責任を取らなければとセルフイスから、 追いかけられる羽目に。

生きるために逃げだした。幸せになりたい。

白水緑
ファンタジー
屋敷内に軟禁状態だったリリアは、宝物を取り戻したことをきっかけに屋敷から逃げ出した。幸せになるために。体力も力もない。成り行きに身を任せる結果になっても、自分の道は自分で選びたい。 2020/9/19 第一章終了 続きが書け次第また連載再開します。 2021/2/14 第二章開幕 2021/2/28 完結

金の羊亭へようこそ! 〝元〟聖女様の宿屋経営物語

紗々置 遼嘉
ファンタジー
アルシャインは真面目な聖女だった。 しかし、神聖力が枯渇して〝偽聖女〟と罵られて国を追い出された。 郊外に館を貰ったアルシャインは、護衛騎士を付けられた。  そして、そこが酒場兼宿屋だと分かると、復活させようと決意した。 そこには戦争孤児もいて、アルシャインはその子達を養うと決める。 アルシャインの食事処兼、宿屋経営の夢がどんどん形になっていく。 そして、孤児達の成長と日常、たまに恋愛がある物語である。

王様の恥かきっ娘

青の雀
恋愛
恥かきっ子とは、親が年老いてから子供ができること。 本当は、元気でおめでたいことだけど、照れ隠しで、その年齢まで夫婦の営みがあったことを物語り世間様に向けての恥をいう。 孫と同い年の王女殿下が生まれたことで巻き起こる騒動を書きます 物語は、卒業記念パーティで婚約者から婚約破棄されたところから始まります これもショートショートで書く予定です。

【大賞・完結】地味スキル《お片付け》は最強です!社畜OL、異世界でうっかり国を改革しちゃったら、騎士団長と皇帝陛下に溺愛されてるんですが!?

旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞で大賞をいただきました】→【規約変更で書籍化&コミカライズ「確約」は取り消しになりました。】 佐藤美佳子(サトウ・ミカコ)、享年28歳。死因は、過労。連日の徹夜と休日出勤の果てに、ブラック企業のオフィスで静かに息を引き取った彼女が次に目覚めたのは、剣と魔法のファンタジー世界だった。 新たな生を受けたのは、田舎のしがない貧乏貴族の娘、ミカ・アシュフィールド、16歳。神様がくれた転生特典は、なんと《完璧なる整理整頓》という、とんでもなく地味なスキルだった。 「せめて回復魔法とかが良かった……」 戦闘にも生産にも役立たないスキルに落胆し、今度こそは静かに、穏やかに生きたいと願うミカ。しかし、そんな彼女のささやかな望みは、王家からの突然の徴収命令によって打ち砕かれる。 「特殊技能持ちは、王宮へ出仕せよ」 家族を守るため、どうせ役立たずと追い返されるだろうと高をくくって王都へ向かったミカに与えられた任務は、あまりにも無謀なものだった。 「この『開かずの倉庫』を、整理せよ」 そこは、数百年分の備品や資材が山と積まれ、あまりの混沌ぶりに探検隊が遭難したとまで噂される、王家最大の禁足地。 絶望的な光景を前に、ミカが覚悟を決めてスキルを発動した瞬間――世界は、彼女の「お片付け」が持つ真の力に震撼することになる。 これは、地味スキルでうっかり国のすべてを最適化してしまった元社畜令嬢が、カタブツな騎士団長や有能すぎる皇帝陛下にその価値を見出され、なぜか過保護に甘やかされてしまう、お仕事改革ファンタジー。

処理中です...