猫が繋いだ私たちの日々

はるかわ 美穂

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第三章(父:弘昌)

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「締め切りを過ぎた営業からの修正依頼は、請け負わないようにしませんか?正直ウチは今、それ以外の仕事ですでに手一杯だと思うんです」

弘昌の言葉に、部署内がざわついた。

元々、営業用に作った資料の修正依頼は提出後二日以内と社内で決まっていた。

しかし、情報の流れが速いコンテンツを扱っていると、クライアントの意向が移り変わり、それに営業と企画が振り回されることが度々ある。

そういった影響もあって、今や修正依頼の期限がうやむやになってしまっているが、本来は許容されないものだったはず。

弘昌はかつて、“できない”という言葉は信用を失うものだと思っていた。

営業も好きで何度も修正依頼を出してきているわけじゃない。

だから、どうしようもないという彼らの事情を汲み取り、その要望に応えるため仕事を請け負っていた。

だがその結果、緊急を要するものとそうでない仕事の境目すら曖昧になり、今や期限を過ぎた修正依頼が当然になっている。

この部署が忙しくなっているのは、少なくとも自分のせいでもある。

「これまで文句を言わずこなしていましたが、やはりどこかで一線を引くべきです。今はギリギリ耐えてますが、月次に新たな企画が重なったりすれば、恐らくこの部署は回らなくなります」

きっぱりと言い切った弘昌に、部長は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

「……あ、あぁ。そうか、弘昌くんの言う通りかもしれない。そのためのルールだしね。僕の方から営業部に相談してみよう」

普段から何でも請け負っていた部下がハッキリと意見を言ったことが聞いたのか、部長は思いのほかすんなり受け入れてくれた。

「ありがとうございます。とりあえず今回の分は私が対応しますので」

弘昌が席に戻ると、少し離れた場所に座る岡田と目が合う。

「どうかしたか?」

「……いえ。俺、中谷さんの辞書には不可能って文字はないんだと思ってました」

「どこのフランス皇帝だ。仕事中は完璧でいようとしてそんな風に見せてただけで、俺だってできるなら早く仕事切り上げて帰りたいと思ってたよ」

その言葉に、岡田のみならず隣に座っていた川村まで目を丸くする。

「私、中谷さんは仕事大好き人間だと思ってたんですけど、違うんですね」

「嫌いではないけど、進んで残業したいわけでもない。俺だってなるべく家族と一緒に過ごしたいんだ。……息子にゲームも誘われてるしな」

余計な一言かと思ったが、これまで仕事中は一切触れなかった家庭のことについて打ち明けてみても良いかと考えた。

岡田は「中谷さんがゲームですか?」とさらに目を見張る。

「そうだ。息子にコテンパンにやられたけど、あれがなかなか楽しくてな」

「なんてゲームやったんですか?」

身を乗り出して聞いてくる岡田。

「ワイルドクラッシュヒーローズってやつだな」

「えっ!?それ俺も友達とめちゃくちゃやりますよ。何のキャラ使ったんですか?」

思わぬところで部下と共通点が見つかり、弘昌は嘆息を漏らした。

しかし、さすがに雑談をしすぎかと思い、「それはまた休憩時間にでも話そう」と告げると、岡田は慌てた様子で業務に戻った。

たった数言だけの雑談だったが、これまでの業務的なやり取りとは違い、部下たちとぐっと距離が縮まったような気がした。


「お前の言ってたことが、ちょっとわかった」

昼休憩で運よく会えた小山に、昼食前にあった出来事を話すと、彼は感心したように何度も頷く。

「親しまれやすい人間にはなれそうか?」

「まぁ、今はそうなるために頑張ってる途中ってところだな」

仕事ができる完璧な人間は確かに評価されるだろう。

しかし、それはあくまで社内における数値的な評価であって、人が人を想う魅力とは全く別物だ。

親しみやすい人というのはきっと、共感したり親近感を持ったりすることができる人のこと。

自分の本音や弱さを見せて、初めて人は人から親しまれるのかもしれない。

良い面だけを見せようとしていたかつての弘昌は、確かに堅苦しくて相談しづらかっただろう。

「親しみやすい上司になれたとしても、仕事が減ったらそもそも相談されなくなるかもしれないな」

小山が悪戯っぽく笑う。

「それならそれでいいよ」

できないことを前向きに受け止め、肩ひじ張らずに仕事をするということが学べた。それだけで弘昌にとっては大きな収穫だ。


「いつも中谷さんには仕事請け負ってもらってるんで、たまには俺らに任せてください!息子さんとゲームがあるんですもんね?」

休憩から帰ってくれば、岡田はいつになく意気込んだ様子でそう言った。

「いや、別にそこまでしてもらわなくても……」

「これくらいさせてください。中谷さんにはいつもお世話になってるので」

岡田だけでなく川村まで参戦してきて、弘昌は恐縮する。

「中谷さんって大変そうにしてても、いつも大丈夫って言うので、俺が助けを名乗り出るのもおこがましいよなって思ってたんですけど、早く帰りたいって言うなら話は別です!じゃんじゃん仕事振ってください!」

岡田の勢いは留まることを知らない。

弘昌としては頼るよりも頼って欲しいのが本音だが、こんな風に言ってくれるのも“親しまれやすい人間”になれてきている証拠なのかもしれない。

「……じゃあ、ありがたくお願いしようかな」

弘昌が引き下がると、岡田も川村も嬉しそうに笑った。

その二人の笑顔を見ると、たまにはこういうのもいいか、と素直に思えた。

その日、いつもより早く帰った家には、外から見ても明るい光が灯っていた。

ダイニングだけじゃない。おそらくリビングの明かりがついている。

時刻は夜の九時前。

(この時間なら、ギリギリ明美もみのりもいそうだな)

和樹も最近はツナにつきっきりだから、きっとリビングに居るだろう。

そうしたら、何か月かぶりに平日に家族四人が揃う。

そしてその中心にはきっと、ツナがいる。

弘昌は自然と笑みが零れ、足が早まった。

その空間はきっととても暖かくて、何にも代えがたい幸福感を皆に与えてくれるだろう。
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