その鹿を人間にする方法

はるかわ 美穂

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鹿男との邂逅

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おじさんは「いたた……」なんて言いながらも、どこか満足気な表情で立ち去っていく。

周りを一切気にしないその様子にちょっとだけ勇気をもらった。

そうだ。せっかく奈良に戻って来たんだから、今やれることをやろう。この機会を逃せば、次はいつ東大寺に来るかわからないのだから。

「よし」

私は静かに深呼吸をして、柱の傍に荷物を置く。

さっきのおじさんはどんな願い事をしたんだろう。昔ここを通った時はどんな願い事をしたっけ。すいぶん昔のことで覚えていない。

今の私の願い事は――……

その時、脳裏を過ったのは茜の姿。反射的にズキリと痛む胸に顔をしかめる。

柱の穴に頭を通して、肩を縮こまらせる。ほふく前進のように体を動かすと、向こう側の景色はすぐに見えた。

頭の中がごちゃごちゃしていて、思考がまとまらない。しっかり願い事を決めてから潜るべきだった。

本当は気づかないフリをしていただけで、茜に対する負の感情はとっくに気づいている。

悲しい。ムカつく。大嫌い。

こんなこと思いたくないから、見て見ぬふりをしていた。

私の今の願い事って何なんだろう。茜と仲直りしたいのかな。でももうそれは話し合って終わってる。……じゃあ何?

そんなことを考えても結論は出なくて、すべてが面倒くさくなった。

リフレッシュするためにここまで来たのに、どうしてこんなところで悩んでいるのか。

柱の穴を通っている最中に嫌な気持ちになると良くないものを引き寄せてしまいそうで、無理矢理思考を切り替えた。

無意識に記憶から呼び起こしたのは、茶屋の前でせんべいをあげた可愛らしい鹿たちの姿。

うん。鹿は良いな。欲望に忠実な動物だから、彼ら相手に複雑なこと考えなくて良いし、わかりやすい。

人間も鹿みたいに単純でわかりやすかったら、こんなに悩まずに済んだのにな。

「……あ」

ぐるぐると考えているうちに、柱の穴を通り抜けてしまった。

完全に穴を通り過ぎた足を見て、私は啞然とする。

――ちゃんと願い事を考えてから通るべきだった!

再び後悔。

結局願い事すらも唱えられないまま、茜への嫌な気持ちを自覚しただけで、私のテンションはだだ下がりする。

荷物を持って東大寺を後にした私は、その後適当に公園内をうろついたが、体力も底をついて結局浮かない気持ちのまま散策を終えた。

日も傾いて来たためまっすぐ家に帰ろうと思ったけど、公園から駅まで結構距離がある。

数日間怠惰な生活を送った代償か、思った以上にへとへとなので帰り道の英気を養うために適当なカフェに入って休むことにした。

公園のすぐ傍にあるならまちの商店街に入ると、ライトブルーの扉が目を引く可愛らしい喫茶店を見つけたため、そこで一服することにする。

店内に入ると涼しい風が汗ばんだ肌を撫でて気持ち良かった。やっぱり外と室内では気温がずいぶん違う。

案内された窓際の席に座るとスイーツセットのメニューが目に入り、その中でもプリンという文字に胸が躍った。

家に帰ればお母さんが夜ご飯を作ってくれているだろうけど、軽く甘いものを食べるくらいなら影響ないだろう。

「すみません。スイーツセットのプリンで、飲み物はアイスティーにしてください」

快く注文を受けてくれた店員さんは、五分もしないうちにその品を持ってきてくれた。

中皿にはプリンのほかにホイップやアイス、薄切りのリンゴまで乗っていて、見ているだけでよだれが出てくる。

行きがけにもソフトクリームを食べたけど、あの暑さの中歩き回ったのだから、少しくらい冷菓を取っても大丈夫だろう。

早速プリンを口に運んで、その滑らかさを堪能する。カラメルソースの苦味がプリンの甘さを引き立てていて、とても美味しい。

今日はずっとゆっくり時間が流れているように感じる。東京にいる時では感じられなかった穏やかさに身を委ねていると、新しい客が店内に入って来た。

その人の顔を二度見する。穏やかさは一瞬にして弾けてしまった。

「いらっしゃいませ。何名様ですか」

「一人です」

指を一本立てたその人は、女性の店員に案内されて私の隣の席に腰かける。思わず体が硬直した。

えっ……と、ちょっと待って?何で店員さん普通に案内したの?

どうみても隣に座ったこの人はおかしい。

だって、顔が鹿なのだ。

何度目をこすっても、瞬きをしても、私の隣に腰かけているのは鹿の顔をしている人。

落ち着け私。日本人のスルースキルは高いって聞くし、皆気づいてるけど知らん振りしているだけだ。きっとそうだ。

カタカタと震える手でなんとか落ち着きを取り戻そうとプリンを食べ進める。すると、「あの」と声をかけられた。

隣を見ると、鹿のつぶらな瞳がバッチリ私を映している。

鹿に声をかけられた。鹿に。

体格は成人男性だが、顔は鹿。そんな珍妙な人物は、「プリン、美味しいですか?」と唐突に聞いてきた。

情報の処理が追いつかないまま返事をする。あんなに甘かったプリンが、今は砂の味のように感じた。

あれ、今質問された内容ってなんだっけ。鹿の顔のインパクトが強すぎて適当に返事をしてしまった。

その後鹿は何か色々話しかけてきた気がするが、ずっと頭がロード中でなんて返事をしたか覚えてない。

声の感じや背格好を見るに青年っぽく見えるが、顔だけは立派なバンビ。あまりにも非現実的すぎる光景に、私はいつの間にかVRの世界を見ていたのだろうか、と考えた。
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