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鹿男との邂逅
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しかしここまでくると、私にこの鹿男の記憶がないことの方がイレギュラーに思えてくる。
たとえ関わりは少なくても、9年間同じ学び舎に居た人だ。かつての同級生の名前を聞けばピンとくるものがあるはずなのに。
「えーと、か……かな……なんでしたっけ」
「金森啓太な」
そうだ。金森啓太。この名前に聞き覚えがないことが不思議で仕方ない。
顔が鹿に見えているというのもおかしな話だし、この不可思議な現象に何かしらの法則でもあるのだろうか。
もしくはこの鹿そのものが私の幻覚だったり……。
そっと手を伸ばして、パーカーを着ている彼の胸をつついてみた。触れる。幻覚ではないらしい。
「ちょっと急に何なん!?」
彼は胸の前で両手をクロスして、わざとらしく恥ずかしがった。
「すみません。あなたの存在自体が私が見てる幻なのかと思って……」
純粋に思ったことを零すと、さっきまで騒がしかった鹿男は何も言わない。てっきりまた何かツッコんでくるかと思ったのに。
視線を上げると、表情をなくした鹿が私をまっすぐに見ていた。
「……ほんまに覚えてないんやな」
覇気を失ったその声に、胸がズキリと痛む。
途端に、なんとかしなければ、という思いが湧いて、反射的に口を開いていた。
「あの、あなたの顔が、鹿に見えるんです。おかしなこと言ってるって思うかもしれないですけど、カフェで会った時からずっとそうで。だから、顔を見ればちゃんと思い出せる……かも」
話しているうちにどんどん冷静になって、最後は蚊の鳴くような声になった。
私は一体何を言っているのだろう。これでは完全に変質者だ。
この鹿男も、旧友だと思って話しかけた人物が精神異常者だったなんてドン引きだろう。
「……どういうことや?」
怪訝な声が降ってきて、びくりと肩が跳ねる。
思わず逃げ出したい衝動に駆られて一歩後ずさると、彼はその分距離を詰めてきた。さらに、腰を曲げて私の瞳を覗き込んでくる。
至近距離で交わる鹿との視線に体が凍り付いたように動けなくなった。
曇りないつやつやの黒い瞳に私の顔が反射している。
鹿の瞳孔って丸じゃなくて横長なんだ、なんて関係ないことを頭の片隅で考えた。
「今もか?」
「はい?」
「だから、今も俺の顔が鹿に見えてるんか?」
「……そうですね」
鹿男は体勢を戻すと、難しい顔をして黙り込んだ。私の言葉を疑っているんだろう。
私だって他人から急に「あなたの顔が動物に見えます」なんて言われたらとてもじゃないけど信じられない。
もし仮にその人が嘘を言っていないんだとしたら、その人の精神状態を疑うし、真っ先に精神科を勧める。
嗚呼。私はたった今、この人に頭がおかしい女認定をされたに違いない。
「俺のこと覚えてないのも、それと関係あるんちゃう?」
しばらく黙していた鹿男が、唐突にそう言った。
「え?」
「お前が俺のこと忘れてるのと、顔が鹿に見えるっていうの、何か因果関係あるんちゃう」
彼は真剣な様子で頷いている。
「……信じるんだ」
呆気に取られてそう呟くと、鹿男は「え、噓やったんか?」と目を白黒させる。
「いや、残念ながら噓じゃなくて、ちゃんと本当のことです。信じてもらえると思ってなかったから……」
「まぁ結構非現実的な話やけど、真緒はここで噓つけるほど器用な人間ちゃうからな」
初対面の人間――というか鹿だけど――に知ったような口を利かれるのは本来ならいい気分じゃない。
だけど、この鹿男に言われると不思議と悪い気はせず、むしろどこか安堵感があった。
もしかしたら本当に私が何らかの理由で彼のことを忘れているだけで、私と金森啓太は旧知の仲だったのかもしれない。
そう考えると、自分が今、旧友を忘却しているかもしれない事実に急に居心地が悪くなってきた。
なぜ私は彼を忘れてしまったのか。なぜ彼の顔が鹿に見えるのか。
この不可思議な現象を放置する気にもなれない。
「あの、金森……さん。もしよかったら、私が記憶を取り戻す手伝いをしてくれませんか」
鹿男は少しだけ驚いた表情をした。
私のせいで傷ついているこの人をそのままにはしたくない。もし本当に私が忘れている記憶があるなら、思い出したい。
思い出して、この人に安心してもらいたい。
私の問いかけに彼は戸惑っているように見えて、「あ、無理にとは言わないので……」と慌てて付け足した。
「……いや、大丈夫。お前に敬語使われるんが変な感じしただけや。ええよ。付き合ったる」
鹿の顔が縦に振れたのを見て私は胸を撫で下ろした。
でも記憶を取り戻すといっても、何から手をつければ良いのかわからない。精神科とか?
そんな私の表情を読み解いたらしい金森さんは、「適当に思い出の場所でも巡ってみるか?」と聞いてきた。
「思い出の場所……って、地元の方ですか?」
「……それもええけど、せっかく奈良市まで来てんねんから、ここらへん周る方がええやろ」
その言葉の意図をすぐには理解できなかった。しかし、「もしかして」という一つの予想が立つ。
「私と金森さんは一緒にこの辺りまで遊びに来たことがあるってことですか?」
「まぁそうやな……っていうか、敬語と苗字にさん付けやめへん?めっちゃ鳥肌立つんやけど」
そう言って両腕をさする彼に、「う……」と言葉を詰まらせる。
私にとっては初対面なんだからそこは堪忍してほしいところだ。だって地元の友人ということは——
たとえ関わりは少なくても、9年間同じ学び舎に居た人だ。かつての同級生の名前を聞けばピンとくるものがあるはずなのに。
「えーと、か……かな……なんでしたっけ」
「金森啓太な」
そうだ。金森啓太。この名前に聞き覚えがないことが不思議で仕方ない。
顔が鹿に見えているというのもおかしな話だし、この不可思議な現象に何かしらの法則でもあるのだろうか。
もしくはこの鹿そのものが私の幻覚だったり……。
そっと手を伸ばして、パーカーを着ている彼の胸をつついてみた。触れる。幻覚ではないらしい。
「ちょっと急に何なん!?」
彼は胸の前で両手をクロスして、わざとらしく恥ずかしがった。
「すみません。あなたの存在自体が私が見てる幻なのかと思って……」
純粋に思ったことを零すと、さっきまで騒がしかった鹿男は何も言わない。てっきりまた何かツッコんでくるかと思ったのに。
視線を上げると、表情をなくした鹿が私をまっすぐに見ていた。
「……ほんまに覚えてないんやな」
覇気を失ったその声に、胸がズキリと痛む。
途端に、なんとかしなければ、という思いが湧いて、反射的に口を開いていた。
「あの、あなたの顔が、鹿に見えるんです。おかしなこと言ってるって思うかもしれないですけど、カフェで会った時からずっとそうで。だから、顔を見ればちゃんと思い出せる……かも」
話しているうちにどんどん冷静になって、最後は蚊の鳴くような声になった。
私は一体何を言っているのだろう。これでは完全に変質者だ。
この鹿男も、旧友だと思って話しかけた人物が精神異常者だったなんてドン引きだろう。
「……どういうことや?」
怪訝な声が降ってきて、びくりと肩が跳ねる。
思わず逃げ出したい衝動に駆られて一歩後ずさると、彼はその分距離を詰めてきた。さらに、腰を曲げて私の瞳を覗き込んでくる。
至近距離で交わる鹿との視線に体が凍り付いたように動けなくなった。
曇りないつやつやの黒い瞳に私の顔が反射している。
鹿の瞳孔って丸じゃなくて横長なんだ、なんて関係ないことを頭の片隅で考えた。
「今もか?」
「はい?」
「だから、今も俺の顔が鹿に見えてるんか?」
「……そうですね」
鹿男は体勢を戻すと、難しい顔をして黙り込んだ。私の言葉を疑っているんだろう。
私だって他人から急に「あなたの顔が動物に見えます」なんて言われたらとてもじゃないけど信じられない。
もし仮にその人が嘘を言っていないんだとしたら、その人の精神状態を疑うし、真っ先に精神科を勧める。
嗚呼。私はたった今、この人に頭がおかしい女認定をされたに違いない。
「俺のこと覚えてないのも、それと関係あるんちゃう?」
しばらく黙していた鹿男が、唐突にそう言った。
「え?」
「お前が俺のこと忘れてるのと、顔が鹿に見えるっていうの、何か因果関係あるんちゃう」
彼は真剣な様子で頷いている。
「……信じるんだ」
呆気に取られてそう呟くと、鹿男は「え、噓やったんか?」と目を白黒させる。
「いや、残念ながら噓じゃなくて、ちゃんと本当のことです。信じてもらえると思ってなかったから……」
「まぁ結構非現実的な話やけど、真緒はここで噓つけるほど器用な人間ちゃうからな」
初対面の人間――というか鹿だけど――に知ったような口を利かれるのは本来ならいい気分じゃない。
だけど、この鹿男に言われると不思議と悪い気はせず、むしろどこか安堵感があった。
もしかしたら本当に私が何らかの理由で彼のことを忘れているだけで、私と金森啓太は旧知の仲だったのかもしれない。
そう考えると、自分が今、旧友を忘却しているかもしれない事実に急に居心地が悪くなってきた。
なぜ私は彼を忘れてしまったのか。なぜ彼の顔が鹿に見えるのか。
この不可思議な現象を放置する気にもなれない。
「あの、金森……さん。もしよかったら、私が記憶を取り戻す手伝いをしてくれませんか」
鹿男は少しだけ驚いた表情をした。
私のせいで傷ついているこの人をそのままにはしたくない。もし本当に私が忘れている記憶があるなら、思い出したい。
思い出して、この人に安心してもらいたい。
私の問いかけに彼は戸惑っているように見えて、「あ、無理にとは言わないので……」と慌てて付け足した。
「……いや、大丈夫。お前に敬語使われるんが変な感じしただけや。ええよ。付き合ったる」
鹿の顔が縦に振れたのを見て私は胸を撫で下ろした。
でも記憶を取り戻すといっても、何から手をつければ良いのかわからない。精神科とか?
そんな私の表情を読み解いたらしい金森さんは、「適当に思い出の場所でも巡ってみるか?」と聞いてきた。
「思い出の場所……って、地元の方ですか?」
「……それもええけど、せっかく奈良市まで来てんねんから、ここらへん周る方がええやろ」
その言葉の意図をすぐには理解できなかった。しかし、「もしかして」という一つの予想が立つ。
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