その鹿を人間にする方法

はるかわ 美穂

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1日目

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「真緒!」

奈良駅の改札を出た先、私の名前を呼んだ人物に目が留まった。いや、正確には鹿だ。

群像の中にいてもやっぱり鹿の顔は目立つ。こちらに手を振る彼の下へ駆け寄った。

少し日にちを置けばこの奇怪な現象も治まるのでは、という淡い期待を抱いていたが、改札前に鹿が立っているのを見て、その希望は見事に打ち砕かれた。

「先に着いてたんだ」

「暇やったからな」

時刻はまだ12時50分。てっきり同じ電車に乗って、奈良駅に着く前に合流になるかと思っていたけど、啓太は余裕を持って行動する人らしい。

「じゃあ行こか。案内するわ」

駅の出口を指さした啓太に頷いて、私と彼は歩き出す。

東大寺までの道中、くだらない話をしながら進んでいると、

「こないだ会った時も思っとったけど、二年間東京におったとはいえそこまで定着するもんか?」

啓太が唐突にそう言った。そんな彼の言葉に私は目を瞬く。

「何が?」

「それやそれ。なんとかダヨネ、とか、なんとかナンダネとか」

あからさまに標準語を揶揄している啓太に顔が引きつる。

転勤してすぐの頃、方言をそのままにしていると上司のおじさんから「方言可愛いよね」と言われた。

上司は本当に他意なく言った一言だろうけど、上京してきたばかりで右も左もわからなかった私には、周囲の人と違う何かを自分がしていることに底知れない不安を感じた。

なるべく目立ちたくなくて、皆と一緒になろうと必死に矯正した結果、習得した標準語。

家族や親しい地元の友人と話す時は気が緩んで方言に戻るけど、啓太はやっぱり初対面の人間という印象が抜けないので、まだ僅かに緊張感があって標準語になってしまう。

でも、その旨を素直に伝えればまた啓太は傷つくかもしれない。だから私は「まぁね」と適当にはぐらかした。

「いや、そこは怒るとこやろ」

啓太による突然のツッコミ。

「……はい?」

彼の言動の意図が掴めず怪訝な顔をすると、「俺めっちゃ感じ悪い奴みたいになってもうたやん」としょんぼりする。

知らんがな、と言いたいところだったが、これも関西人特有のツッコミ待ちだったのか、と思い急に馬鹿らしくなった。

私がぐるぐる考えている間、この人はただ突っ込まれるのを待っていたらしい。

そこに悪意はなく、単純に私との会話のテンポを楽しみたかったのだろう。

「ふ……っ」

こういうノリも東京じゃ久しく感じていなかったから新鮮だ。

そういえば地元に居る頃は友達との会話の中でボケもツッコミも当たり前のように行われていた。

「え、今のおもろかった?」

肩を小刻みに震わせて笑う私に、啓太は目を丸くしながら聞いて来る。

「俺おもろかった?」と問う顔に嬉しさが滲んでいることは隠せていなくて、少し可愛いなと思ってしまった。

「……ごめん。関係が浅い人とか、緊張する人の前だと標準語になっちゃうんだよね。でも昔から仲いいはずの啓太にそれ話したら傷つけるかなと思って、適当にはぐらかしちゃった」

ごめん、ともう一度謝ると、啓太は心から納得したように「そうなんや」と言った。

「今、真緒は俺の記憶失くしてるんやから、ほぼ初めましてみたいな状態やもんな。それやったらしゃあないわ」

うんうん、と一人で頷いている啓太に少しだけ安堵する。

私の言葉で誰かを傷つけることにならなくて良かった。

「ていうか、思ってることあるんやったら隠さんと今みたいに言ってや」

「え」

突然の高い要求に私は尻込みする。

「大丈夫や。俺ちょっとやそっとのことじゃ傷つかんし。それに、今真緒がホンマのこと話してくれて嬉しかったから」

鹿の表情が笑顔でくしゃっと崩れた。

柔らかな小麦色の毛皮で包まれている啓太の顔に釘付けになる。

「……そっ、か」

と曖昧に返事はしたけれど、自分の本心をさらけ出すというのはなかなか難しい。

誰も傷つけない気持ちなら良いけれど、さっきのように誰かを傷つけてしまう思いに関してはやっぱり胸の奥に秘めるのが無難だろう。

でも、私の本当を話して「嬉しい」と言ってもらえたのは意外な体験で、ちょっと不思議な気持ちだった。


7月の気温と強い日差しは容赦なく体力を削り、東大寺に着いた頃にはすでに疲労困憊だった。

「もう、若くないのかな……」

止まらない汗をハンカチで拭いながら呟けば、「ただの運動不足やろ」と啓太が一蹴する。

確かに東京は駅の間隔も狭いし、交通手段がたくさんあるから長時間歩くこともなかった。

同じ距離を歩いたはずの啓太は毛皮に覆われてるくせに涼しそうで、なんだか負けた気がした。

以前と同じルートを辿って大仏殿の中に入ると、先日と変わらない様子の大仏様が出迎えてくれる。

まさかこんなすぐに東大寺に来ることになるとは。

「あれやな」

彼は柱の穴を見つけると、そちらへ一直線に歩き出す。

人気は先日と変わらずまばらで、柱の穴は大仏の左後ろにポツンと存在していた。

「よし、やろか」

そう言って啓太は、私の方を見ながら柱の穴を指さす。

なんというか、情緒もへったくれもない。

先日、人目を盗みながら穴をくぐった時でさえちょっと恥ずかしかったのに、ほぼ初対面の人に見守られながら地面にはいつくばって穴を潜るなんて新手の辱しめではないだろうか。

「あ、うん……」

返事はしてもその場から動こうとしない私に、啓太は首を傾げながら「はよ」と言う。

「ち、ちょっと……待って……」

ソワソワと周りを見渡す私に時間を持て余したのだろうか。

「じゃ、俺先にくーぐろ」

そう言って彼はしゃがみ込むと、柱の穴に頭を通した。
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