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せめて一度だけ
しおりを挟む「あっ……!」
足元の何かにつまずき、私は草むらの中へと倒れ込んだ。
暗闇の中しつこく追いかけてくる男は、私の姿を見失ったようだ。彼はまだ遠くで声を荒らげているけれど……私は背丈の高い草に身を隠し、男の追跡をやり過ごす。
(い、痛……)
もうどのくらい走り続けたのだろうか。男から逃げなければ、ブレアウッドまで戻らなければと無我夢中で走ってきたけれど、靴も履かずに走り続けた私の足は、すでに限界を迎えていた。
擦り傷だらけの足の裏は、見れば血が滲んでいる。走っている間に痛めてしまったのか、足首もズキズキと鈍く痛んだ。もう、これ以上は走れる気がしない。
いや、走らなければならない。このままここにいれば、そのうち見つかってしまうだろう。ナイフを持った男は、私なんかに騙されたせいで異常なほど激昂している。今にも私を殺さんばかりの勢いだ。
あんな奴に捕まるわけにはいかないのに……私はみるみるうちに弱気になっていった。
もしかしたら、もうここで死んでしまうかもしれない。そんなことまで頭をよぎる。
死ぬ前に、ブレアウッドに帰りたかった。精霊達に謝りたかったし、完成したアレンフォード家も見たかった。そして、ルディエル様に会いたかった。
私は無意識に、胸元に下げた指輪をぎゅっと握りしめた。
精霊の声が聞こえるという、不思議な指輪。ルディエル様には「まだつけないで」と言われていたけれど……せめて一度だけでも、この指輪をつけることは許されないだろうか。
死んだらもう永遠に指に通すことはできない。私はきっと、死んでも死にきれないだろう。
(ごめんなさいルディエル様。……約束を破ります)
私は指輪をチェーンから外すと、そっと指へすべらせる。
大きいかと思われた指輪は、指に通した瞬間、私の指へぴたりとはまった。まるでオーダーしたもののようにちょうど良く、私の指へ馴染んでいる。
(なんてきれいなの……)
月明かりでもわかるサファイアの輝きが、私の心を少しだけ救ってくれる。指輪をつけただけなのに、気のせいか指先から力が満たされていくような感覚まで覚えた。まるで、周りの空気がまるごと変わっていくような……
――ケガしたの?
そんな時、私の耳元に声が届く。
小さく可愛らしい、子供の囁きにも似た不思議な声。
――いたそう
――なおしてあげる
囁く声に振り向くと、私の足元で小さな精霊達が飛んでいた。
みんな頭には小さな花が咲いている。ブレアウッドの精霊でもなく、セルヴェイルで見た精霊でもない。この草原に住む精霊なのだろうか。
「え……私……」
今、精霊の声が聞こえている。
この指輪をつけたおかげだ。ルディエル様の言っていたことは事実だった。まさか本当に精霊の声が聞こえるようになるなんて。
感動で胸がいっぱいになる。ずっと、彼らの声を聞きたいと思っていたから。どんな声で、どんなことを話すのだろうと、想像だけがふくらんで――。
彼らの声は想像していたよりもはるかにキラキラと透き通っていて、それでいて神秘的だった。夢みたいだ。
擦り傷だらけの足を見かねた花の精霊達は、私の足に星屑のような光を振りかけた。
光が触れたところから、足の痛みがふっと消えていく。傷だらけだった足の裏もきれいに直してくれたようだ。
彼らの優しさに、思わず涙がにじんでしまう。
「すごい……! ありがとう!」
私は、小声のまま彼らにお礼を伝えた。
気を良くした精霊達は、くるくると私の周りを飛び回る。
――ネネリアでしょ?
――しってるよ
花の精霊達は、知るはずのない私の名を口にした。
「え……? なぜ私の名前を知っているの?」
――みんなさがしてる
――さがせ、さがせ、って
どうやら私は、精霊達からも捜索されていたようだ。
ブレアウッドを飛び越えて、こんなところまで名前が知れ渡ってしまっている。
「探してくれていたの……?」
――いまもさがしてるよ
「今も?」
――きこえるでしょ
私は、真っ暗な草むらの中で耳を澄ました。
草が掠れる音に混ざって、遠くからかすかに声がする。風のような、木の葉のざわめきのような、鳥の呟きのような……私には懐かしくも感じられる声だった。
しかしその時。
「ここにいたのか」
頭上からは、低く恐ろしい声がした。
見上げた先に――あの男がナイフを握りしめ、こちらを見下ろしていた。
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