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結
秦国 1
「荊の旦那は失敗したんですよ」
男から告げられても、高漸離は黙っていた。
「いいところまで行ったらしいんですけどね。最後の最後で失敗したそうだ」
驚きはない。この話は既に市井に広く伝わっている。
秦に対する正使として向かった一行は実は刺客であったと。
手土産に持っていった樊於期の首も、督亢の地図も、すべては秦王と面会するための餌だったと。
九賓の礼をもって出迎えた王に対して、荊軻は忍ばせた匕首で斬りかかったと――。
「なんでも秦王が返り討ちにしたって話だ。あとは衛士たちが寄ってたかって膾切りってね。なんとも可哀想な話だ。そう思いませんか高さん。あの御仁もやれ義士だ上卿だなんて乗せられて浮かれなきゃ、こんな身分不相応な話に飛びつくこともなかっただろうに」
昔であれば、この時点できっと殴りかかっていた。なにもせず高漸離はそう思う。
「そうすればあんたたちはまだ、一緒に歌ってられただろうにねえ」
まあその方が俺には好都合なんだが。正直すぎる呟きに乾いた笑いが漏れる。以前燕の街にいたこの人攫いは、ずっと姿を見なかった。戻ってきたのは荊軻が死んだからというわけだ。
「どうだい高さん。もう天下は定まったんだよ。荊の旦那も燕もなくなっちまった。あんた、かなり苦労したんだろ? 薊の街が陥ちてからずっと逃げ回って、下人にまで身をやつしていたんだって? いけないねえ。それこそ荊の旦那が嘆いちまう。楽人が手を大事にしないでどうするんだい」
男の言うことは間違っていない。荊軻の縁者たちは皆、秦から追われることになった。ある者は捕まり、ある者は黙って姿を消した。
高漸離も自分の身分と名を捨て、世間の目から隠れて生きてきた。それは生きる意味自体が分からなくなるまで続いた。
ひょんなことから筑を撃つように命じられ、高漸離の生はまた流転した。今は名楽士としてこの街で知らぬ者はなく、様々な場所に呼ばれる毎日だ。無論、この日々が長く続くとは思っていない。
「ところでどうです。今度こそ、王宮まで呼ばれてみるってのは」
男はそう言ってにんまりと笑う。
「驚かないでくださいよ。あの皇帝陛下が、あんたの筑を聴きたいと思し召しなんですよ。どうです、ここで一旗揚げるってのは。もう天下は秦のものになったところだ、今更意地を張ってどうするんだい」
「……どうせ断ったところで、前と同じことを企んでいるんだろ?」
「話が早くて助かるね」
男は一歩近づいてきた。
「もう荊の旦那も田光先生もいないんだ。逆らっても無駄なのは分かってんだろ」
「そうだな」
高漸離は頷いた。抵抗するつもりはない。
「とりあえずはそれ以上近づかないでくれ。俺は口が臭いのが苦手なんだ。――秦へ行ってやってもいい」
え、と目を瞬かせる男に、ことさらにこやかに笑いかけてやった。
「行ってやってもいいと言ったんだ。それともその気はなかったか?」
違う、と慌てて手を振り始めた男の様子に、高漸離は腹を抱えて笑った。楽しくなくても笑う術はすっかり身に着いていた。
秦へ向かおうと決めたのは、なにも栄達を求めたわけではない。富貴にもう興味はない。
荊軻の身内は今、見つかれば等しく死罪を言い渡される。その命令はまだ撤回されていないはずだ。もしかして命取りになるかもしれないこの行動だが、高漸離にはなんの感銘ももたらさなかった。
始皇帝に会えるというのなら、きっとそれは宮中のはずだ。そこで荊軻は命を落とした。
ならば彼に、筑の一曲でも手向けたい。それが、一度捨てた筑と再び一緒になってから、ずっと抱いている願いだった。
実際、咸陽に入った高漸離の正体はすぐにばれた。しかし彼は捕らえられたが、殺されはしなかった。筑を撃つ才がそれだけ惜しまれたからだ。
群臣たちの反対は押し切られ、皇帝の側に召し上げられた。ただし、その目を潰すことを条件として。
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