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第一章
第3話 春の嵐
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休日。
それは学業という日々過酷なストレスにさらされる学生にとって心身を癒す絶好の機会である。
残念ながら葵の心にはそれほど余裕がなかった。
愛猫が液体になるという前代未聞の事態の対処をこの数日ずっと考えていた彼女は……気晴らしに散歩に出ることにした。
「いい天気ね。さつま」
キャリーバッグから外に出したさつまはぴくぴくと髭を動かし、あたりの様子を探っていた。
さつまはもともと野良猫だったせいなのか、たまに外に出たがることがあり、そういうときにはこの公園を利用することがあった。
あるいは、ノルウェージャンフォレストキャットの血が入っている可能性が高いからかもしれない。
猫友に言わせると犬っぽい猫なんだとか。だからこそ脱走しないようにベスト型のハーネスは外に出るとき(動物病院なども含めて)は必ず着用している。
公園といっても片隅に遊具があるだけのこぢんまりとした場所ではない。
公園の内部にテニスコートや野球場、隣にはゴルフコースがあるという近場では最も大きな公園で、市が運営している。
近場に春らしい色とりどりの花が咲き、ランニングしている女性、家族連れでバーベキューにいそしむ人、犬を連れて散歩している人など見ているだけで心が落ち着……かなかった。
ベンチに座ったまま天を仰いでため息をつく。
「はあー。やっぱり何がどうなってんのかわかんないわ」
猫毛がつかないように着てきたナイロン製のジャケットの裾をいじる。その間もさつまのハーネスだけはもう片方の手で離さない。
万が一にも出血しないように手袋は厚めのものを選んだ。家の中ならともかく出先で液体になるところを見られるわけにはいかない。
「それこそ漫画や映画みたいに実験動物扱いされてもおかしくないわよね……」
妄想と言われればその通りだが、世の中には猫の命を何とも思っていない人間がいることは身に染みてわかっている。
春の陽気に誘われたのか、さつまは尻尾を丸めてアスファルトの地面に横になっていた。
「私も寝ようかしら。いや、さすがに風邪ひくわね」
もう四月だが上着は欠かせないほどには寒い。一人暮らしになってから健康にはとにかく気を付けてきた。もしも自分の身に何かがあればさつまの面倒を見る人がいなくなる。
ふと、視線を平行にすると誰かがこちらにやってくるのが見えた。犬……多分ドーベルマンを連れているようで、動きやすそうな恰好をしていた。
「すいません。道をお尋ねしてよろしいですか?」
たおやかで美しい声だったが、女性の声に聞き覚えはない。たまたま遠くまで来てしまったのだろうか。
(私は犬飼ったことないからわかんないけど、結構暴走する犬って多いらしいし)
「構いませんよ。どこまででしょうか」
「東大水駅までの道を教えていただけませんか?」
この辺りはいくつかの路線に囲まれており、似たような名前の駅も多いので、慣れていない人だとどの駅に行けばいいのかわからなくなることが多い。この女性もそういう手合いだろう。
「それならここをまっすぐ南に……あ、いえ、そこに見える大きな道をずっと下ると線路が見えるはずです。そこを左に曲がれば辿りつけるはずですよ」
私も生まれてからこの町で暮らしているわけではないけれど、道案内ができる程度の土地勘はある。まあ、方向音痴でもあるのであまり自信はないけれど。
すると彼女は妙なことを言い出した。
「日本人でフランス語を学ばれているのは珍しいですね」
「へ? 私、フランス語なんて……」
しまった。
私はなぜか自分がいろいろな言語を理解できるようになってしまったことを失念していた。目の前の女性はどうやらフランス語で話しかけていたらしい。なんとかごまかす方法を考えていると。
「五月様。どうやら当たりですね……ワン。お目当てのギフテッドではないようですがワン」
若い男性の声が聞こえた。
妙な語尾だがすっきりとした良い声だ。しかしその声の主は見当たらない。スマホから話しかけているのだろうか。
「そうですね。反応が薄いですが、それは私たちには関係ありません。アポロ。手早く済ませてください」
少し低くなった女性の声に応じてか、かぱりとドーベルマンの口が開いた。
獰猛な白い牙と赤い舌が覗く。
反応できたのは嫌な予感がしたから。それだけだ。
ハーネスを掴み、全力で飛びのいた。ぐいっと引っ張られたさつまが小さく鳴き、その影をかすめるようにがちんとドーベルマンの口が閉じられた。
「さつま! 大丈夫!? いきなり何すんのよあんた!? いや、ていうか、あんた会話してたわよね!? もしかしてさっきの声、そのドーベルマンの声!?」
「え……?」
怒りの視線を向けるが、むしろ彼女は困惑した様子だった。それがどうにも癇に障る。
「そんなことに今更驚きますか?」
「はあ!? 驚くに決まってるでしょうが!」
「五月様。このオーナー……もしや何も事情を知らないのでワン?」
「かもしれませんね。もしかするとギフテッドがしゃべることさえできないのかもしれません。ですが、むしろ都合がいいですね。何も知らないまま、その猫を仕留めます」
「――――――」
事情は分からない。事態はさっぱり呑み込めない。
だが一つだけわかっていることがある。
こいつらはさつまを、私のたった一人の家族を傷つけようとした。それだけは許してはいけない。
「冗談じゃないわよ!」
啖呵を切った私にも動じず、死刑を告げる裁判官のように淡々と語る。
「抵抗するのなら……容赦はしません。アポロ」
アポロ。それがドーベルマンの名前なのか。
件のアポロは右前足を持ち上げ……それをさつまや私ではなく、地面に振り下ろした。
その勢いはすさまじく、土が抉れ、前足から血が飛び散るほどだった。
唖然としていたが、それよりもさらに驚くべきことに、ドーベルマンの前足はグロテスクに盛り上がり、一本だった前足は二本に分裂した。
「な……え、ちょ……」
「その反応だと本当に何も知らないようですね」
その言葉は正しくない。
私は液体になったさつまを連想していた。つまりこのドーベルマン、アポロもさつまと同じ特異な能力を持っているとようやく理解した。
理解したが、状況の理解が追いつかない。
グルルルル、とアポロが唸る。
ようやく正気を取り戻した私はさつまを抱きかかえ、一目散に逃げだした。
それは学業という日々過酷なストレスにさらされる学生にとって心身を癒す絶好の機会である。
残念ながら葵の心にはそれほど余裕がなかった。
愛猫が液体になるという前代未聞の事態の対処をこの数日ずっと考えていた彼女は……気晴らしに散歩に出ることにした。
「いい天気ね。さつま」
キャリーバッグから外に出したさつまはぴくぴくと髭を動かし、あたりの様子を探っていた。
さつまはもともと野良猫だったせいなのか、たまに外に出たがることがあり、そういうときにはこの公園を利用することがあった。
あるいは、ノルウェージャンフォレストキャットの血が入っている可能性が高いからかもしれない。
猫友に言わせると犬っぽい猫なんだとか。だからこそ脱走しないようにベスト型のハーネスは外に出るとき(動物病院なども含めて)は必ず着用している。
公園といっても片隅に遊具があるだけのこぢんまりとした場所ではない。
公園の内部にテニスコートや野球場、隣にはゴルフコースがあるという近場では最も大きな公園で、市が運営している。
近場に春らしい色とりどりの花が咲き、ランニングしている女性、家族連れでバーベキューにいそしむ人、犬を連れて散歩している人など見ているだけで心が落ち着……かなかった。
ベンチに座ったまま天を仰いでため息をつく。
「はあー。やっぱり何がどうなってんのかわかんないわ」
猫毛がつかないように着てきたナイロン製のジャケットの裾をいじる。その間もさつまのハーネスだけはもう片方の手で離さない。
万が一にも出血しないように手袋は厚めのものを選んだ。家の中ならともかく出先で液体になるところを見られるわけにはいかない。
「それこそ漫画や映画みたいに実験動物扱いされてもおかしくないわよね……」
妄想と言われればその通りだが、世の中には猫の命を何とも思っていない人間がいることは身に染みてわかっている。
春の陽気に誘われたのか、さつまは尻尾を丸めてアスファルトの地面に横になっていた。
「私も寝ようかしら。いや、さすがに風邪ひくわね」
もう四月だが上着は欠かせないほどには寒い。一人暮らしになってから健康にはとにかく気を付けてきた。もしも自分の身に何かがあればさつまの面倒を見る人がいなくなる。
ふと、視線を平行にすると誰かがこちらにやってくるのが見えた。犬……多分ドーベルマンを連れているようで、動きやすそうな恰好をしていた。
「すいません。道をお尋ねしてよろしいですか?」
たおやかで美しい声だったが、女性の声に聞き覚えはない。たまたま遠くまで来てしまったのだろうか。
(私は犬飼ったことないからわかんないけど、結構暴走する犬って多いらしいし)
「構いませんよ。どこまででしょうか」
「東大水駅までの道を教えていただけませんか?」
この辺りはいくつかの路線に囲まれており、似たような名前の駅も多いので、慣れていない人だとどの駅に行けばいいのかわからなくなることが多い。この女性もそういう手合いだろう。
「それならここをまっすぐ南に……あ、いえ、そこに見える大きな道をずっと下ると線路が見えるはずです。そこを左に曲がれば辿りつけるはずですよ」
私も生まれてからこの町で暮らしているわけではないけれど、道案内ができる程度の土地勘はある。まあ、方向音痴でもあるのであまり自信はないけれど。
すると彼女は妙なことを言い出した。
「日本人でフランス語を学ばれているのは珍しいですね」
「へ? 私、フランス語なんて……」
しまった。
私はなぜか自分がいろいろな言語を理解できるようになってしまったことを失念していた。目の前の女性はどうやらフランス語で話しかけていたらしい。なんとかごまかす方法を考えていると。
「五月様。どうやら当たりですね……ワン。お目当てのギフテッドではないようですがワン」
若い男性の声が聞こえた。
妙な語尾だがすっきりとした良い声だ。しかしその声の主は見当たらない。スマホから話しかけているのだろうか。
「そうですね。反応が薄いですが、それは私たちには関係ありません。アポロ。手早く済ませてください」
少し低くなった女性の声に応じてか、かぱりとドーベルマンの口が開いた。
獰猛な白い牙と赤い舌が覗く。
反応できたのは嫌な予感がしたから。それだけだ。
ハーネスを掴み、全力で飛びのいた。ぐいっと引っ張られたさつまが小さく鳴き、その影をかすめるようにがちんとドーベルマンの口が閉じられた。
「さつま! 大丈夫!? いきなり何すんのよあんた!? いや、ていうか、あんた会話してたわよね!? もしかしてさっきの声、そのドーベルマンの声!?」
「え……?」
怒りの視線を向けるが、むしろ彼女は困惑した様子だった。それがどうにも癇に障る。
「そんなことに今更驚きますか?」
「はあ!? 驚くに決まってるでしょうが!」
「五月様。このオーナー……もしや何も事情を知らないのでワン?」
「かもしれませんね。もしかするとギフテッドがしゃべることさえできないのかもしれません。ですが、むしろ都合がいいですね。何も知らないまま、その猫を仕留めます」
「――――――」
事情は分からない。事態はさっぱり呑み込めない。
だが一つだけわかっていることがある。
こいつらはさつまを、私のたった一人の家族を傷つけようとした。それだけは許してはいけない。
「冗談じゃないわよ!」
啖呵を切った私にも動じず、死刑を告げる裁判官のように淡々と語る。
「抵抗するのなら……容赦はしません。アポロ」
アポロ。それがドーベルマンの名前なのか。
件のアポロは右前足を持ち上げ……それをさつまや私ではなく、地面に振り下ろした。
その勢いはすさまじく、土が抉れ、前足から血が飛び散るほどだった。
唖然としていたが、それよりもさらに驚くべきことに、ドーベルマンの前足はグロテスクに盛り上がり、一本だった前足は二本に分裂した。
「な……え、ちょ……」
「その反応だと本当に何も知らないようですね」
その言葉は正しくない。
私は液体になったさつまを連想していた。つまりこのドーベルマン、アポロもさつまと同じ特異な能力を持っているとようやく理解した。
理解したが、状況の理解が追いつかない。
グルルルル、とアポロが唸る。
ようやく正気を取り戻した私はさつまを抱きかかえ、一目散に逃げだした。
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