うちの猫は液体です

秋葉夕雲

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第一章

第35話 あなたはだあれ

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 葵は髪の毛とリボンをいじりつつどこか別の場所を見ているような顔だった。
「福笑い?」
 何かの比喩とは予想ができたが、実感として理解するのは五月には難しかった。
「そ。私、目の形とか色とか、髪形とか、そういうのなら頑張れば記憶できるのよ。でも、それを全体としてまとめた印象を記憶できない。認識できない。多分この二つは同じね」
「パーツ単体なら理解できても、全体を組み立てることができない。そういうことですか」
「そんな感じじゃないかしら」
「もしかして赤いリボンを右に着けているのは、自分の顔を見分けるためですか?」
「そうね。どうも赤色は他よりも印象に残りやすいのよ。その次が青。左右非対称なのも同じね」
 五月も女性として自分の顔は毎日見る。その顔さえも見分けることができないというのはどんな感覚なのか想像ができなかった。
「で、二つ目。変化を予測できないのよ」
「変化。表情の変化ですか」
「表情だけじゃないわ。角度とか髪形とか、そういう変化を上手く認識できないの。だから静止画だと頑張れば覚えられるわ」
「例えば、写真で見ている人と実際に会った時に印象が違うことがあります。あなたの場合はそれが極端に働いているのですか?」
「先生もそんな感じのこと言ってたわね。でも、何度も会ってる人ならぼんやりとわかるのよ」
「私の場合は上着を脱いだだけでわからなったんですね」
「悪かったわね」
「責めるつもりはありません。努力でどうにかできるものでもないのでしょう?」
「まあね。中学生のころ、何とかしてクラスメイトの顔を覚えようとして見たこともあったけど、結局無意味だったわ」
「失礼を承知で聞きますが……あなたはご両親の顔まで見分けることができなかったのですか?」
 そこは地雷に近い場所だったのか、葵はしばし沈黙した。
「小学生高学年くらいなら……なんとか他の人と見分けられるようにはなってたわ。時間の力って偉大ね」
「……それ以前は……?」
 やはりまた黙る。それでも諦めたように口を開いた。
「昔。私が保育所に通っていたころ」
 唐突に時間が飛んだ。おそらく、それが葵の一番深いところにある思い出。
「これは後から考えたことだけど、季節の変わり目だった。お母さんはちょっと風邪気味だった。だから、私を保育所に連れて行った時と服装と声が違っていたのよ。ちょっとだけだけどね。でも、それだけで私はお母さんが見分けられなかった」
「それは……あなたが悪いんじゃありません」
「そうね。でも、きっとお母さんはショックを受けたでしょうね。あんまり覚えてないけど私、この人はママじゃないって泣き叫んでたそうよ」
 五月は胸に痛みを覚えた。
 大事に育てていた娘からそんな言葉をかけられた母の気持ち。そんなひどい言葉を言ってしまった娘の気持ち。
 どちらの心情も理解するのは難しいが、想像するだけで胸が締め付けられそうだった。
「結局その後お父さんが迎えに来てくれたんだけど……いろいろあったそうよ。もしかしたら、虐待とかも疑われたのかもしれない。検査して、相貌失認が判明したから疑いは晴れたみたいね」
「ご両親はそれから……どうなさったんですか?」
「どう……うーん、いろいろなお医者さんに診てもらったけど、どの人も治す方法はないって断言したそうよ。世間にとって私は普通じゃないけど、私にとってはこれが普通なのよ。両親は多少時間がかかったけどそれを理解してくれた。今考えるとそれってすごいことで、とても感謝してる」
 病気とは何らかの異常を表す状態だ。
 ならば生まれつきそうであるものを病気と呼んでよいのか。
「だからとにかく顔がわからなくても何とかなるように工夫してくれたわ。例えば、服を何種類かに限定してローテーションを組んだり、髪を切るときは事前に私に伝えておくとか。目立つ髪留めにするとか。あ、あとはやっぱり名札ね。私にとって名札は生命線だったのよ」
「中学や高校でも名札はあったんですか?」
「中学はあったし、高校はあるところを選んだわ。しょっちゅう付け忘れてくる人もいるし、何度も注意してるから口うるさいって思われてるでしょうけど。そんなこんなで上手くやってたのよ」
 おおむね語り終えたと思ったのか葵は軽く息を吐いた。
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