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第二章 岩山の試練
第一話 ありふれた不幸
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洪水とは天災である。
これは西暦二千年を経る地球上で誰しもが理解していることではあるが、一方で天災に対する備えも万全とはいかないまでも対処するための知識と技術が蓄積されていることも疑いようがない。
だが古代人にとって洪水とは単なる天災ではない。
大洪水が起こり、文明を滅ぼしたとされる神話は世界中に普遍的に観測される。
こと、メソポタミアに住まう人々にとって洪水とは神々の意志の表れとされた。
ゆえにメソポタミアの最高神であるエンリルが嵐を司り、洪水を起こす神として畏れ、同時に恐れられたのは決して偶然ではなかったのである。
手を加えられていない庭のようなぼさぼさとした髪を強引に撫でつけた少年はふらふらとした足取りで洞窟の奥から日の当たる地上に戻ってきた。
しかしそれは少年の心を安らかにするとは限らない。
夏の日差しが容赦なく彼を襲う。傷だらけの腕にチクチクとした痛みが走る。
いよいよ本格的な夏が到来したウルクは日中に出歩くことを極力避けなければならないほど強烈だった。
だがしかし、その日差しでさえもこれから彼を待ち受ける障害に比べればたいしたことではなかった。
「おせえぞ! ザムグ!」
ザムグと呼ばれたぼさぼさ頭の少年が声のしたほうに目を向けると小太りの中年がずかずかと足を踏み鳴らし、近づいてきた。
ザムグが何かを言うよりも先に小太りの男はザムグの髪を無造作に掴む。痛みに顔を歪めてもおかしくないはずだが、こんなことは慣れっこだと言わんばかりに身じろぎもしない。
「ようやく今日の分は終わりか!? いつまでかかってる!」
小太りの男の酒臭い息に顔をしかめながら、ザムグはきりっとした黒い目を小太りの男に向ける。
「おい? なんだその目は? 何か文句でもあるのか?」
「ありません。ギルド長。それよりも早く酒をしまいに行かせてください。大事な商品ですから」
ちらりとザムグが抱えていた壺に目をやると、『雨の大牛』と名付けられているギルドのギルド長は舌打ちだけして離れていった。ザムグにこれ以上ちょっかいをかけてせっかくの収穫物を台無しにすることを嫌ったのだ。
すぐ近くの温度調整のため地下に作られた酒の保管所に足を踏み入れる。
ザムグが抱えている壺より大型の壺がいくつか保管されている。
ザムグはここに来るといつも憂鬱な気分になった。薄暗く、物言わぬ壺だけが陳列されているここは墓場のようだと思っていたからだ。そしていつかこの墓場に自分も埋められるような気がしてなおさら気分が暗くなってしまう。
大きな壺に小さな壺の中身を注ぐ。
先ほどザムグが言ったように壺の中身は酒だ。
この洞窟……神々が地上にもたらした掟によって迷宮と化した洞窟には酒が湧く泉がある。それだけを聞くとあまたの人々が目をぎらつかせそうだが、そう大した量が湧くわけでもなく、あまり品質も良くない。
ワインやシカルと呼ばずに単に酒と呼ぶのはどれとも呼べないぼやけた味だからだ。
だがそれでも数人が糊口をしのぐ程度の稼ぎにはなるのである。
適正に賃金が分配されていればの話だが。
ザムグとその仲間はギルド長にこき使われていたのだ。
父親の借金のかたらしい。奴隷にならなかっただけましと言われればその通りなのだが、決して安全でも楽でもない仕事を押し付けられているのは内心で忸怩たる思いがあった。
迷宮である洞窟には酒の湧く泉があるが、その道中には腐った死体が現れる。
ウサギや小鳥くらいならまだいいが、オオカミのように危険な動物が襲ってくることもある。しかもこの死体は激しく腐敗しているため臭いもきつく、返り血でも浴びれば三日は臭いがとれない。
この迷宮が敬遠される理由の一つであった。
だからこそ数人しかいないギルドにこの迷宮の探索とは名ばかりの酒集めが押し付けられ、ギルド長は日銭を稼ぐことができ、ザムグたちは何とか生活できていた。
正直に言えば逃げたかった。
もしも彼一人ならばとっくの昔に逃げ出していただろう。
だがザムグは逃げないし、逃げられない。
彼には仲間と妹がいるのだから。
これは西暦二千年を経る地球上で誰しもが理解していることではあるが、一方で天災に対する備えも万全とはいかないまでも対処するための知識と技術が蓄積されていることも疑いようがない。
だが古代人にとって洪水とは単なる天災ではない。
大洪水が起こり、文明を滅ぼしたとされる神話は世界中に普遍的に観測される。
こと、メソポタミアに住まう人々にとって洪水とは神々の意志の表れとされた。
ゆえにメソポタミアの最高神であるエンリルが嵐を司り、洪水を起こす神として畏れ、同時に恐れられたのは決して偶然ではなかったのである。
手を加えられていない庭のようなぼさぼさとした髪を強引に撫でつけた少年はふらふらとした足取りで洞窟の奥から日の当たる地上に戻ってきた。
しかしそれは少年の心を安らかにするとは限らない。
夏の日差しが容赦なく彼を襲う。傷だらけの腕にチクチクとした痛みが走る。
いよいよ本格的な夏が到来したウルクは日中に出歩くことを極力避けなければならないほど強烈だった。
だがしかし、その日差しでさえもこれから彼を待ち受ける障害に比べればたいしたことではなかった。
「おせえぞ! ザムグ!」
ザムグと呼ばれたぼさぼさ頭の少年が声のしたほうに目を向けると小太りの中年がずかずかと足を踏み鳴らし、近づいてきた。
ザムグが何かを言うよりも先に小太りの男はザムグの髪を無造作に掴む。痛みに顔を歪めてもおかしくないはずだが、こんなことは慣れっこだと言わんばかりに身じろぎもしない。
「ようやく今日の分は終わりか!? いつまでかかってる!」
小太りの男の酒臭い息に顔をしかめながら、ザムグはきりっとした黒い目を小太りの男に向ける。
「おい? なんだその目は? 何か文句でもあるのか?」
「ありません。ギルド長。それよりも早く酒をしまいに行かせてください。大事な商品ですから」
ちらりとザムグが抱えていた壺に目をやると、『雨の大牛』と名付けられているギルドのギルド長は舌打ちだけして離れていった。ザムグにこれ以上ちょっかいをかけてせっかくの収穫物を台無しにすることを嫌ったのだ。
すぐ近くの温度調整のため地下に作られた酒の保管所に足を踏み入れる。
ザムグが抱えている壺より大型の壺がいくつか保管されている。
ザムグはここに来るといつも憂鬱な気分になった。薄暗く、物言わぬ壺だけが陳列されているここは墓場のようだと思っていたからだ。そしていつかこの墓場に自分も埋められるような気がしてなおさら気分が暗くなってしまう。
大きな壺に小さな壺の中身を注ぐ。
先ほどザムグが言ったように壺の中身は酒だ。
この洞窟……神々が地上にもたらした掟によって迷宮と化した洞窟には酒が湧く泉がある。それだけを聞くとあまたの人々が目をぎらつかせそうだが、そう大した量が湧くわけでもなく、あまり品質も良くない。
ワインやシカルと呼ばずに単に酒と呼ぶのはどれとも呼べないぼやけた味だからだ。
だがそれでも数人が糊口をしのぐ程度の稼ぎにはなるのである。
適正に賃金が分配されていればの話だが。
ザムグとその仲間はギルド長にこき使われていたのだ。
父親の借金のかたらしい。奴隷にならなかっただけましと言われればその通りなのだが、決して安全でも楽でもない仕事を押し付けられているのは内心で忸怩たる思いがあった。
迷宮である洞窟には酒の湧く泉があるが、その道中には腐った死体が現れる。
ウサギや小鳥くらいならまだいいが、オオカミのように危険な動物が襲ってくることもある。しかもこの死体は激しく腐敗しているため臭いもきつく、返り血でも浴びれば三日は臭いがとれない。
この迷宮が敬遠される理由の一つであった。
だからこそ数人しかいないギルドにこの迷宮の探索とは名ばかりの酒集めが押し付けられ、ギルド長は日銭を稼ぐことができ、ザムグたちは何とか生活できていた。
正直に言えば逃げたかった。
もしも彼一人ならばとっくの昔に逃げ出していただろう。
だがザムグは逃げないし、逃げられない。
彼には仲間と妹がいるのだから。
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