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クマさん、バイバイ……
しおりを挟む私は再び彼の手によって浴室に運ばれる。前回同様に丁寧なほど献身的な世話を受けて、私はトイレから続く辱めに耐えきった。
ドクはドライヤーまで用意してくれていたようで、ユートの腕は怠くなることなく、髪が乾かされる。
「アイちゃんの髪の毛、きもちイイねェ♪」
私の髪の毛は彼の手でニギニギと形を変えられている。彼は両手で髪を握り「ウサギさん♪」と言って、ケラケラ笑っていた。
ユートは自分の年齢を18歳だと言ったが、言動のせいかもっと幼く感じられる。私も年齢に関して、人にケチをつけられる立場ではないのだが、それにしても……。
私が彼の幼い言動に頭を悩ませている間も、彼は未だに私の髪を弄んでいる。「ウサギさん」と言って掴んでいた髪束を、上の方で丸めて「クマさん♪」と言い出すユートを制止し、私はベッドに横たわる。
「あァ……。クマさん、バイバイ……」
背中の方で悲し気な声が聞こえるが、気にしたら負けだ。彼の一挙一動に反応していたら、私の身が持たないことは十分によくわかった。
私は手帳に『もう寝ます』と記載して、ユートに見せる。本当は眠くないけど、これ以上彼に構われるのも遠慮したい。
「もう、寝るの? わかったァ……」
彼は電気を消す。私は彼に背を向けてベッドにうずくまった。
「ねェ、アイちゃん」
「……」
「ねェねェ、アイちゃん」
彼は私が喋れないと知っているのに、名前を呼んでくる。しばらく続いたその呼びかけも寝たふりをして無視を決め込むと、彼は私の背中をツツッと指で線を書くようになぞる。一瞬ビクリと反応してしまうが、そのまま無視を続けた。
――一体何をしているのか……。
その指の動きが『アイ』と書いているのが分かり、私はハァとため息をつく。身体を動かし、彼の方へ振り返った。
――私の降参。一体何なの?
すると彼は悪戯っ子のようにクスクス笑って、私を捕まえるように私の背中に腕をまわす。
「捕まえたッ♪」
「……」
――勘弁してくれ……。
不覚にも私はキュンとしてしてしまい、頭を抱える。今が視界を閉ざす暗闇の中で本当に良かった。今、きっと、私はだらしない顔をしている。私が変な顔になっているのを知るのは私だけでいい。相手は私を監禁している異常者。気を許すのは絶対によくない。
私が悶々としていると上から欠伸をする声が聞こえ、優し気な声音が落ちてくる。
「おやすみ、アイちゃん」
そこでやっと、私はユートから解放された。
◇◆◇◆
――ここは……?
目の前に見覚えのない景色が広がっている。正面には澄んだ湖が広がっており、その水は透けるように底がはっきりと見える。湖の奥の方は翡翠色に変化していた。顔を上げると青々とした山脈が連なっており、遠くの大きな山頂には白く雪が積もっているようにも見える。
裸足になっていた私は、その湖に足をそっと浸ける。触れた場所から水面に波紋が広がっていき、奥の奥まで続いていく。湖の水は少々冷たさを感じるが、私はそのまま足を沈めていく。
――きもちいい……。
もう一方の足も湖に浸けて、辺りを歩いて回る。程よい冷たさに清められている感覚がして心地よい。足を振り上げて飛沫を飛ばす度に、あちこちに輪ができて広がっていく。なんだかそれが面白くて繰り返していると、誰かが私を呼ぶ声がして、私はその声の主を探した。少し離れた場所に大きな木と、その下でこちらに手を振る男性がいる。
私の中で愛しいという感情が湧きたつ。服が濡れるのを気にせず、バシャバシャと飛沫を上げながら湖から出て、愛しの人の元へと走り出す。近づくに連れ、そのシルエットがハッキリとしていく。黒い髪に白い肌。
――見たことがあるような、ないような……。
私が彼の傍に辿り着いても、なぜかその顔を捉えることはできず、そこだけ影が落ちたように暗くて見えない。でも彼から向けられる見えない視線はとても優しい。
「何してたの?」
「湖が奇麗だったから、足を浸けて遊んでたんだよ」
彼は「そっか」と言って笑う。その顔は決して見えないのに、こちらに微笑みを向けているのがわかり、私もそれに応えるように笑った。
大きな木を背に座った彼の足を枕にして、ゴロンと寝転ぶ。ここは私の特等席。なぜだかそう思った。
彼は近くに咲いてあった花を一輪摘み取る。器用に茎を丸めて輪を作り、私の左手を取る。花の指輪が小指にはめられ、彼はその指に唇を当てた。
「……はオレの運命の人だよ。この小指はオレが貰うね」
彼は小指にチュッチュと続けてキスをする。その姿が可愛くて愛しさを感じながらも、私は彼に手を離すように促し、右手でその花の輪を小指から外す。彼から一瞬声が漏れて、悲しい視線がこちらに向けられる。
「ダメ。全然ダメ。いい? 運命なんて言葉で片付けないで。何だか神様頼みじゃない」
私は外した指輪を薬指に嵌めなおす。うん。これがいい。これでいい。
「貴方自身が一生を共にする誓いを立てて?」
私が言い終えると同時に強い力で抱きしめられる。
「……ちゃ……っ」
締め付けられるような抱擁で苦しいのは私の方なのに、私を抱きしめる相手はつらそうに声を漏らす。それがなんだか放っておけなくて、私も彼の背中に手をまわし、落ち着けるように、あやすようにポンポンと背中を叩く。
「本当に子供みたいな人ね」
私は我が子を抱きしめるように、大きな背中に手を這わせて目を閉じる。この大きな子供の声を、生きている暖かさをもっと感じたい。
◇◆◇◆
「アイちゃん、アイちゃん」
私はユートの声で目が覚める。
――あぁ、あれは夢だったのか。
ぼんやりとしながら欠伸をする。とても美しい場所、それにとても心地よさを感じる夢を見ていた気がする。
「寝すぎだよ、アイちゃん」
彼は「つまんない」と言いたげな目でこちらを見る。私は「ごめん」と伝える代わりに、お腹からグゥ~っと返事をした。
「あははっ♪ じゃあ、ご飯にシよっか」
ユートは当たり前のように私を抱きかかえて移動する。たどり着いた先はどうやらキッチンのようで。ドクが言っていたように、レトルト食品がドンっとまとめて置いてあった。
「わァ、なァに、コレ?? アイちゃん、作り方わかる?」
私は頷くと彼は私を地上に下ろした。ユートはどうやら作り方が分からないらしく、世話係を一旦中止するらしい。
目の前の袋を手に取ると、袋には『あさげ』と表記されていた。段ボールの中をゴソゴソと探ると、チンして食べる『お米』を見つける。
――まぁ、これでいいか。
キョロキョロと周りを見渡し棚を開け、ヤカンを取り出し水道水を入れる。IHのクッキングヒーターの電源を入れてヤカンを沸くのを待ち、電子レンジにお米を突っ込む。ユートは私の一連の動作をずっと見ていて、「ヘェ」とか「わァ」とか漏らしていた。
器に味噌とカヤクを取り出し、グラグラと白い蒸気を出すヤカンのお湯を注いでいく。ピーッとけたたましい音を立てレンジが「できたぞ」と私を呼ぶ。アチチと軽く指にヤケドという拷問を科しながら、急いで近くのダイニングテーブルに運んで蓋を開ける。先ほど棚の中を家探した時に見つけた割り箸を添えて、手を合わせる。
――頂きます。
「おいシい?」
私は彼の言葉に頷く。そのままユートからの視線を感じながらも、私は手を止めることなく完食する。再び手を合わせると、ユートの方からグゥ~とお腹の音が聞こえた。
「オレもお腹すいたなァ……。アイちゃんを部屋に戻シたら、オレも食べよォ~っと」
私はいつもの部屋へと戻され、ユートは部屋から出て行った。
それから食事以外の私の生活は、ユートに管理されるようになっていった。身体が問題なく動くようになっても、トイレへ連れて行き股を拭くのも、お風呂で身体を洗うのも私ではなく彼の管理。
なんとも言えない日々を過ごし、ユートに管理される生活に、恥ずかしさや情けなさを感じてはいたが、それでも慣れていった頃――
「オレがアイちゃんのご飯用意する♪」
ユートは私が唯一自分でできる、食事という行為にまで、その手を伸ばしてきた。
『何で!?』
「アイちゃんのお世話それだけ出来てないンだもン。ずっとやり方見てたシ、オレ出来るよ! アイちゃんはソコに座ってて!」
ユートは私を椅子に座らせ、レトルト食品を探る。いつも私がやっているようにヤカンで水を沸かし、お米を電子レンジにセットする。
「えっと、このボタンを押すんでショ? あと、ハシ、ハシ~」
彼は沸いたヤカンの白い蒸気に手を近づける。
「アチッ!!」
すぐに右手を引っ込めて、ゆっくりと顔だけこちらに振り返る。何か言いたげでとても悲しい表情だった。お椀にお湯を注いで、箸でグルグルとかき回す。お椀をトレーに乗せて私の前に置くと、彼はレンジに呼ばれて行った。
「ヌァッ! アチッッ!!」
ユートはレンジからご飯を取り出すために、何とか持ち上げようとするが、熱くて持てないらしい。しばらく睨めっこして、彼は服の袖を伸ばして、熱さを軽減しながら何とか私の前まで運ぶ。
「うぅ……。アイちゃんいっつもこんな熱い思いしてたンだね……」
「……」
正直ヤカンの方はユートが湯気に触ったのが悪いし、お米に関しては熱を持たない容器の端ではなく、全体を持とうとしていたからだ。そんな違いもわからずに、心底感心するといった目で見てくるユートを見て、私は思わず笑ってしまった。
「え!? アイちゃん笑った!? 初めてだねェ、もっと笑って見せて?」
彼の言葉にハッとして、表情を引き締める。彼はつまらなそうに「なんでー?」と言う。その時、彼の指が赤くなっているのが目に留まる。
そんなに真っ赤にして、どうして冷やそうと思わないのか。私は内心ではぶつくさ言いながら、彼の手を取って水道水に当てさせる。
「??」
ユートは不思議そうな顔を私に向けている。そんなことは気にしない。指は真っ赤になっているが、酷い火傷ではないだろう。5分ほど水道水に当てた後、彼の手を解放して蛇口を閉める。そのまま私は椅子に戻り、彼も追いかけるように座った。私は眼前で手を合わせる。
「頂きます」
いつも心の中で唱えるだけの言葉が、私の口から音として発せられる。反射的に口元に手を当て、小さく「あ」と口を開くとその通りに音が出た。
――あ、私喋れる。
「アイちゃん喋れるようになったの!?」
私が自分の声が出たことに驚いていると、彼はまるで自分のことのように喜び始める。「アイちゃんが喋った♪」と騒ぎ、彼は椅子から立ち上がって私を抱き上げ、まるで父親が我が子にするように高く持ち上げる。
「良かったねぇ、アイちゃん! オレも嬉しい♪」
彼のまさかの行動に呆気に取られていたが、私を抱え上げてクルクルと回る姿に、吹き出してしまう。
「ふふっ。喜びすぎでしょ」
「うん、オレ嬉しい♪」
「もう十分だよ。お願いだから、降ろして?」
ユートは私の願いを聞き届け、私を椅子に下ろす。
「オレの料理冷めちゃったかな? 早く食べて食べてっ♪」
正確には料理とは言えないだろうが、今日のご飯はユートが用意してくれたもの。お椀に手を添えると、とっくに熱は冷め温くなっている。だが、温いくらいの方が丁度いい。
私がお椀に口を付け、ご飯を食べている間、まるでご飯をお預けにされている犬のような顔でこちらを見るユートに一言声をかける。
「美味しいよ。ありがとう」
「♪」
彼は満足そうな顔をして頷いた。
それからだろうか、私がユートに対して少し好意的に捉えるようになったのは。今までのユートの印象は自分を監禁して、子供を殺し、その肉を食べる異常者でしかなかった。彼の行動全てが不愉快なものに思えたし、頭がおかしい人物としか見れなかった。
だけど、彼の不思議なまでの私への献身的な姿勢が、少しずつ私の意識を変えていき、彼を怖いと思う印象は段々と薄れていった。
◇◆◇◆
いつも通りにベッドの上で目を覚ます。このベッドで寝起きするのも慣れたものだ。しかし、普段と違うのは隣にユートがいないこと。いつもなら私の隣でベッドに寝ているか、起きて椅子に座っているのに。
私は久方ぶりに何の支えもなく自分の足で地面に立ち、壁伝いに移動してユートの名前を呼ぶ。
「ユート? ユート、どこ?」
私は檻があるユートの部屋、トイレ、風呂場、キッチンに向かうがどこにもいない。
――どこに行ったんだろう……。
彼は今ここにいない。その事実に気付くと、四六時中ユートと一緒にいる時には思いもしない考えが頭をよぎった。
――今なら……。
今なら逃げられるかもしれない。ユートの事は嫌いではない。だが、やっぱり今の状況はおかしいのだ。自分の足で歩くこともこんなに覚束ない。このままじゃ歩けなくなるのも時間の問題だ。ここに留まれば留まるほど、私は彼に依存するしかなくなってしまう。身体だけではなく、心までも。今だって浸食され始めているのだから。
私は頼りない足取りで、今まで足を運ぶ機会がなかった玄関を探す。入ったことがない部屋はいくつかあるが、それを無視しながら歩き回っていると上下に繋がる階段を見つける。
――どっちに行こう……。
私が今まで過ごした部屋には窓一つない。それを踏まえると、おそらくわたしのいる階は地下。ならば玄関は上の階にあるはず。
私は足を引きずりながら階段を昇る。明るい日差しが部屋に入り込んでいるのを見て、私の足は段々と軽い足取りへと変わっていく。
階段を昇りきると、目の前に玄関が見える。扉の一部が厚いガラスで出来ており、そこから太陽の光が入ってきていた。しかし、希望の扉はチェーンロックが掛かった状態で、鎖がグルグルと巻かれており、極めつけに南京錠が付けられていた。近づいてみるとその鎖の上には埃が積もっている。
押しても引いても揺らしても、ドアが開くことはない。ならばと、手当たり次第に視界に入るドアに手をかけるが、どの扉も開かない。
――なんなの……?
玄関も他の扉も開かない。それにここには玄関があるのにもかかわらず、そこら中に埃が積もり、しばらく足を踏み入れた形跡がない。
足元を見ると、私が歩き回った跡がハッキリと残っていた。私は急いで足の裏に付いた埃を払い、逃げるように階段を下りた。
――やばい、やばい。
私は急いで風呂場へと行き、足に水をかける。埃はすぐに取れ、使用済みのタオルを使って足を拭く。
――焦ったぁ……。
私は探索を切り上げて部屋に戻り、ベッドの上に腰を降ろす。はっきりと分かったのはここが地下で、地上は上の階で、扉は開かないということ。
上の階は暫く誰も足を踏み入れた形跡はなかった。歩き回って分かったことだが、屋敷と言っても差し支えない家の広さに驚く。
――何なんだ、ここは……。
この場所はユートやドクの所有する屋敷なのだろうか。一人想像しても、何もわからず、答えが出ることはない。
疑問だらけで混乱していることに加え、大量に埃を吸い込んだせいか、頭が痛い。しばらく頭を抱えていると、部屋のドアが開かれユートが姿を現す。
「ただいま、アーイちゃん♪」
「おかえり。どこか行ってたの?」
「ウン♪ ちょっとね」
彼は一体どこから外出しているのか聞くことが出来ないまま、グルグルと頭を悩ませてその日は過ぎていった。
◇◆◇◆
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