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外界
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夜明け前に雨が止んだ。国境の手前に横たわる、なだらかな山脈が薄ら青く浮かび上がる頃、城下町の西門に行き当たった。今すぐに熱い湯に浸かり、全身をすっかり洗い流して柔らかな寝台に身を預けたかったが、王宮の私室以外にあてはない。
倦怠感が漂い、遅れてきた眠気に襲われる。カトレアは仕方なく林の陰に隠れ、雨に濡れた外套にくるまり横になった。露の残る草むらや、じっとりした髪や肌がたまらなく不快で、結局うとうととしただけで太陽に無理矢理起こされた。
蓑虫のように寝そべったまま、冬の間にやせ細った木々の隙間から目を凝らし様子をうかがう。門のそばには数名の衛兵が立ち、行商人と思わしき荷馬車がやって来ると通行手形を確認し、開門するという光景が何度か繰り返された。
アイリス村へ向かうとなると、まず食料の調達が懸念される。小弓を所持していれば野兎などを狩ることは出来るが、たしなみ程度の狩猟しか行っていなかったため、食料として処理する術は持ち合わせていない。
思うや否や、胃の鳴る音が聞こえた。カトレアはとりあえず飲み水を確保すべく、小川を探しに林の中へ入った。
昨夜の雨で、川は多少濁りが生じている。しゃがんだものの、雨水の混じった真水にためらい、何度もすくっては流れの中に戻す。ろくに寝ずに雨の中を歩いたため、口内の泡立つ表面がくっきり浮かび、舌がだれてくる。
耐え切れず、思い切って口をつけると、思いのほか水は淀んでいなかった。カトレアは渇きが収まるまで無我夢中で水をすくい、喉を鳴らして飲み込んだ。清々しく冷えた水は果実酒よりも甘かった。
はちきれんばかりに膨れた革袋を提げ、再び門の近辺まで戻る。城下町の方から憲兵がやって来て、慌ただしく言葉を交わしている。頭巾を目深に被り、耳を澄ますと、やはりカトレアの話題だった。どうやら行方不明という情報しか行き渡っておらず、動転する者もいれば、話半分に聞くに留める者もいる。家出程度に捉えているのだろう。
仮にも唯一の王位継承者が自害したと知れ渡れば、民は混乱し、コルデホーザの威厳が損なわれる。イーデンはすぐには情報を開示せず、カトレアの身勝手さを民に植え付けてから、その死を知らせるつもりだろう。涼しい顔の奥に潜む狡猾さに吐き気がする。
ジャックは、何故あのような男に雇われる気になったのだろう。元が本当に傭兵ならば、やはり金目当てで引き受けたのだろうか。
だがそれだけの理由で、騎士の務めをこなせただろうか。王宮でも評判高いレイと並べ立てられ、『常盤の騎士』と呼ばれた男だ。反面、カトレアを無粋にからかい、粗雑な口づけまで浴びせた男。
薄い唇の感触が生々しく蘇り、カトレアは手の甲で乱暴に唇を拭った。無垢な唇を奪われたおぞましさからではない。何の感情もなく、ただカトレアをひるませるために試みられた行為が許せなかった。そして一時でも、あの男に心を揺るがせた自分自身も。
裏切られた失望は、何故かレイよりも赤の他人であるジャックに強く残った。
門の開閉する音に混じって、やたら声高に喋る男の声が耳に入り、カトレアは我に返った。これから城下町に入るのか、荷馬車に大量の藁を積んだ農夫が御者台の上から衛兵と話している。雛の巣のようなあごひげをたっぷり蓄えた、ずんぐりした体型の男だ。
「何だあ? 今日はやたら憲兵がうろちょろしてんなあ!」
居合わせた憲兵から事情を聞くと、農夫は大仰に反応を示した。
「王宮で騒ぎだって? おいおい、また戦争になるんかい? 全く、そんなんじゃ遺された蘭姫様がいたたまれねえや!」
言葉を濁す憲兵や衛兵にふて腐れると、農夫は許可を得て門をくぐっていった。カトレアは目を瞠り荷馬車を見つめた。
何の気なしにつぶやかれたのは、まさしく同情だった。王宮で向けられる同情は口先だけで、親身になって発せられたものはほとんどなかった。農夫が口にしたのも他人事のようではあったが、彼には王宮の者にはない、情け深さを感じたのだ。
おそらく彼は近隣の農村からやって来た者だ。町で藁を卸し、陽が暮れる頃には村に戻る。逆算して、太陽が昇りきる前には再び南門から出てくるはずだ。その時一緒に乗せてもらおう。上手く頼めば、彼なら快くうなずいてくれる。
カトレアは身を潜めたまま、水だけを摂り、じっと南門を観察していた。霧雨に洗われた空気は心地よく澄み、風が撫でる草と土の匂いがささやかな癒しをもたらしてくれた。
小川に水を汲みに行って三度目を数えた頃、先刻の農夫が姿を現した。藁の代わりにいくつかの荷袋を積んでいる。年老いたロバを操り、城下町を後にする農夫を横目に見ながら林を駆けた。
城下町の外壁が砂ぼこりの向こうに霞み、坂道を下った所で、カトレアは荷馬車の背後に出ると声を張り上げた。
「そこの荷馬車、待ちなさい!」
急に手綱を引っ張ったのか、ロバがいななくと同時に農夫がぎょっとして振り向く。カトレアは頭巾を下げ、なるべく顔が見えないように手のひらを差し出した。
「わたしを乗せて! あなたの向かう所までで構わないから!」
農夫の表情はうかがえないが、明らかに怪訝な様子を漂わせている。
「はあ……。お前さんのような娘っ子が、何でまた? それに、やたら偉そうな口の利き方すんなあ。ひょっとして、お前さん……」
心臓が止まる。つい、王宮で指図するような口振りになってしまった。ここで正体がばれてしまったら、とんだ笑いものになる。
「あれだ、蘭姫様に憧れて、喋り方まで似ちまったんだろ!
」
頭巾の下からそっと覗くと、農夫は歯の欠けた口を開けて朗らかに笑っている。カトレアは心の中で胸を撫で下ろし、何とかのったふりをする。
「そ、そうなの。わたし、百花祭でお見かけして以来、カトレア様にすっかり惚れ込んでしまって」
我ながら滑稽な嘘だ。そのような娘が、実際にいるのかも知らないというのに。カトレアの代わりに毒に倒れた侍女の眼差しが、カトレアの口元を引きつらせた。
そこでふと、妙案が浮かんだ。カトレアはでこぼことした道に両膝をつき、大げさにうなだれる。
「それで、王宮の侍女となって働いていたのだけど、暇を言い渡されてしまったの……」
「おやおや、そいつは気の毒だったなあ。これから故郷に帰るところかい? その割には、荷物が少ないけどよお」
ぎくりと肩を震わせる。冷や汗をかきながら、何とかそれらしい言い分を連ねる。
「気にしないで。大きな荷物は王宮の方から送ってもらうよう、頼んであるの」
農夫は納得したのか、ふーんと大きく息をつく。必死になっている自分が極めて無様に思えて仕方がなかった。
だが、王女としての荷物を一切合切手にしていたら、それこそ正体がばれていただろう。
宝石が散りばめられた手鏡、希少な薔薇の香油を閉じ込めた小瓶、カトレア専用の茶器にお気に入りの紅茶缶。あんなものを手にラランジャの地を踏んで、亡命した薬花師たちを説得出来るものか。
自分の浅はかさにそれ以上言葉を継げずにいると、農夫が御者台を降りて手を差し伸べた。
「まあ、お前さんの故郷がどこか知らないけどよ。こっからアイヴィッド街道っつう広い道に出る。そしたら夕方にはわしの家があるアイリス村に着くから、乗ってけ。な?」
気さくな農夫の表情を仰ぎ見たかったが、カトレアは頭巾を上げることなく、手を取り立ち上がった。
「……ありがとう」
「何だあ? さっきから頭巾被ったまんまで。えらい恥ずかしがりやだな!」
呆れたように笑う農夫に引き上げられ、カトレアは荷台の空いた所に座らせてもらった。古びた荷馬車の感触は固かったが、残った藁の上に落ち着くといくらかましになった。
突然、頭上から小さな紙袋が投げ渡される。控えめに見上げると、農夫は上半身を反らし、紙袋を指した。
「城下町の朝市で買ったんだよ。もう冷めてるけど、食べてみな!」
柔らかな紙袋の中身は、干し肉を挟んだ麦のパンだった。王宮では白パンばかりを口にしていたため、馴染みのない薄茶色をしているが、途端に空腹を思い出し一口かじる。もさもさとした食感と、固まった干し肉は歯触りが悪いが、ひどく安堵感をもたらした。
王女の身であったなら、決して出会うことのなかった人。口にすることのなかった味。希少な茶菓子を味わうように腹に収めると、カトレアは胸元のロケットに手を伸ばした。
(お母様。どうか、わたしを守って……)
うららかな陽射しを浴びながら、カトレアはいつしか眠りに落ちていった。
倦怠感が漂い、遅れてきた眠気に襲われる。カトレアは仕方なく林の陰に隠れ、雨に濡れた外套にくるまり横になった。露の残る草むらや、じっとりした髪や肌がたまらなく不快で、結局うとうととしただけで太陽に無理矢理起こされた。
蓑虫のように寝そべったまま、冬の間にやせ細った木々の隙間から目を凝らし様子をうかがう。門のそばには数名の衛兵が立ち、行商人と思わしき荷馬車がやって来ると通行手形を確認し、開門するという光景が何度か繰り返された。
アイリス村へ向かうとなると、まず食料の調達が懸念される。小弓を所持していれば野兎などを狩ることは出来るが、たしなみ程度の狩猟しか行っていなかったため、食料として処理する術は持ち合わせていない。
思うや否や、胃の鳴る音が聞こえた。カトレアはとりあえず飲み水を確保すべく、小川を探しに林の中へ入った。
昨夜の雨で、川は多少濁りが生じている。しゃがんだものの、雨水の混じった真水にためらい、何度もすくっては流れの中に戻す。ろくに寝ずに雨の中を歩いたため、口内の泡立つ表面がくっきり浮かび、舌がだれてくる。
耐え切れず、思い切って口をつけると、思いのほか水は淀んでいなかった。カトレアは渇きが収まるまで無我夢中で水をすくい、喉を鳴らして飲み込んだ。清々しく冷えた水は果実酒よりも甘かった。
はちきれんばかりに膨れた革袋を提げ、再び門の近辺まで戻る。城下町の方から憲兵がやって来て、慌ただしく言葉を交わしている。頭巾を目深に被り、耳を澄ますと、やはりカトレアの話題だった。どうやら行方不明という情報しか行き渡っておらず、動転する者もいれば、話半分に聞くに留める者もいる。家出程度に捉えているのだろう。
仮にも唯一の王位継承者が自害したと知れ渡れば、民は混乱し、コルデホーザの威厳が損なわれる。イーデンはすぐには情報を開示せず、カトレアの身勝手さを民に植え付けてから、その死を知らせるつもりだろう。涼しい顔の奥に潜む狡猾さに吐き気がする。
ジャックは、何故あのような男に雇われる気になったのだろう。元が本当に傭兵ならば、やはり金目当てで引き受けたのだろうか。
だがそれだけの理由で、騎士の務めをこなせただろうか。王宮でも評判高いレイと並べ立てられ、『常盤の騎士』と呼ばれた男だ。反面、カトレアを無粋にからかい、粗雑な口づけまで浴びせた男。
薄い唇の感触が生々しく蘇り、カトレアは手の甲で乱暴に唇を拭った。無垢な唇を奪われたおぞましさからではない。何の感情もなく、ただカトレアをひるませるために試みられた行為が許せなかった。そして一時でも、あの男に心を揺るがせた自分自身も。
裏切られた失望は、何故かレイよりも赤の他人であるジャックに強く残った。
門の開閉する音に混じって、やたら声高に喋る男の声が耳に入り、カトレアは我に返った。これから城下町に入るのか、荷馬車に大量の藁を積んだ農夫が御者台の上から衛兵と話している。雛の巣のようなあごひげをたっぷり蓄えた、ずんぐりした体型の男だ。
「何だあ? 今日はやたら憲兵がうろちょろしてんなあ!」
居合わせた憲兵から事情を聞くと、農夫は大仰に反応を示した。
「王宮で騒ぎだって? おいおい、また戦争になるんかい? 全く、そんなんじゃ遺された蘭姫様がいたたまれねえや!」
言葉を濁す憲兵や衛兵にふて腐れると、農夫は許可を得て門をくぐっていった。カトレアは目を瞠り荷馬車を見つめた。
何の気なしにつぶやかれたのは、まさしく同情だった。王宮で向けられる同情は口先だけで、親身になって発せられたものはほとんどなかった。農夫が口にしたのも他人事のようではあったが、彼には王宮の者にはない、情け深さを感じたのだ。
おそらく彼は近隣の農村からやって来た者だ。町で藁を卸し、陽が暮れる頃には村に戻る。逆算して、太陽が昇りきる前には再び南門から出てくるはずだ。その時一緒に乗せてもらおう。上手く頼めば、彼なら快くうなずいてくれる。
カトレアは身を潜めたまま、水だけを摂り、じっと南門を観察していた。霧雨に洗われた空気は心地よく澄み、風が撫でる草と土の匂いがささやかな癒しをもたらしてくれた。
小川に水を汲みに行って三度目を数えた頃、先刻の農夫が姿を現した。藁の代わりにいくつかの荷袋を積んでいる。年老いたロバを操り、城下町を後にする農夫を横目に見ながら林を駆けた。
城下町の外壁が砂ぼこりの向こうに霞み、坂道を下った所で、カトレアは荷馬車の背後に出ると声を張り上げた。
「そこの荷馬車、待ちなさい!」
急に手綱を引っ張ったのか、ロバがいななくと同時に農夫がぎょっとして振り向く。カトレアは頭巾を下げ、なるべく顔が見えないように手のひらを差し出した。
「わたしを乗せて! あなたの向かう所までで構わないから!」
農夫の表情はうかがえないが、明らかに怪訝な様子を漂わせている。
「はあ……。お前さんのような娘っ子が、何でまた? それに、やたら偉そうな口の利き方すんなあ。ひょっとして、お前さん……」
心臓が止まる。つい、王宮で指図するような口振りになってしまった。ここで正体がばれてしまったら、とんだ笑いものになる。
「あれだ、蘭姫様に憧れて、喋り方まで似ちまったんだろ!
」
頭巾の下からそっと覗くと、農夫は歯の欠けた口を開けて朗らかに笑っている。カトレアは心の中で胸を撫で下ろし、何とかのったふりをする。
「そ、そうなの。わたし、百花祭でお見かけして以来、カトレア様にすっかり惚れ込んでしまって」
我ながら滑稽な嘘だ。そのような娘が、実際にいるのかも知らないというのに。カトレアの代わりに毒に倒れた侍女の眼差しが、カトレアの口元を引きつらせた。
そこでふと、妙案が浮かんだ。カトレアはでこぼことした道に両膝をつき、大げさにうなだれる。
「それで、王宮の侍女となって働いていたのだけど、暇を言い渡されてしまったの……」
「おやおや、そいつは気の毒だったなあ。これから故郷に帰るところかい? その割には、荷物が少ないけどよお」
ぎくりと肩を震わせる。冷や汗をかきながら、何とかそれらしい言い分を連ねる。
「気にしないで。大きな荷物は王宮の方から送ってもらうよう、頼んであるの」
農夫は納得したのか、ふーんと大きく息をつく。必死になっている自分が極めて無様に思えて仕方がなかった。
だが、王女としての荷物を一切合切手にしていたら、それこそ正体がばれていただろう。
宝石が散りばめられた手鏡、希少な薔薇の香油を閉じ込めた小瓶、カトレア専用の茶器にお気に入りの紅茶缶。あんなものを手にラランジャの地を踏んで、亡命した薬花師たちを説得出来るものか。
自分の浅はかさにそれ以上言葉を継げずにいると、農夫が御者台を降りて手を差し伸べた。
「まあ、お前さんの故郷がどこか知らないけどよ。こっからアイヴィッド街道っつう広い道に出る。そしたら夕方にはわしの家があるアイリス村に着くから、乗ってけ。な?」
気さくな農夫の表情を仰ぎ見たかったが、カトレアは頭巾を上げることなく、手を取り立ち上がった。
「……ありがとう」
「何だあ? さっきから頭巾被ったまんまで。えらい恥ずかしがりやだな!」
呆れたように笑う農夫に引き上げられ、カトレアは荷台の空いた所に座らせてもらった。古びた荷馬車の感触は固かったが、残った藁の上に落ち着くといくらかましになった。
突然、頭上から小さな紙袋が投げ渡される。控えめに見上げると、農夫は上半身を反らし、紙袋を指した。
「城下町の朝市で買ったんだよ。もう冷めてるけど、食べてみな!」
柔らかな紙袋の中身は、干し肉を挟んだ麦のパンだった。王宮では白パンばかりを口にしていたため、馴染みのない薄茶色をしているが、途端に空腹を思い出し一口かじる。もさもさとした食感と、固まった干し肉は歯触りが悪いが、ひどく安堵感をもたらした。
王女の身であったなら、決して出会うことのなかった人。口にすることのなかった味。希少な茶菓子を味わうように腹に収めると、カトレアは胸元のロケットに手を伸ばした。
(お母様。どうか、わたしを守って……)
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