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日常
日常
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AM6:50 起床
目覚ましを止めて、暫し夢の名残に浸る。瞼がまた閉じそうになるのを必死で堪える。けれども、抗えない眠気が……
そう思った次の瞬間、もう一度目覚ましが鳴り響いた。二度寝してしまう時のために、五分後にも鳴るよう設定しているのだけど。そうか、さっきから五分は寝てしまったのか、私は。
ああ、眠い。
けれど、もそもそとベッドから起きだして、仕方なく制服に着替える。身だしなみもある程度整えたら、顔を洗いに行く。冷たい水で、シャキッとするためだ。
それから、朝食を食べにリビングへ。
リビングには、既に私以外の家族が揃っていた。市外にある普通の会社に勤める父。近所のスーパーでパートをしている母。小学二年の弟。
私の家は平凡だ。特筆するべきことがあるとしたら、父と母の仲があまりよくないということだろうか。でも、しょっちゅう喧嘩しているわけじゃない。むしろ、あまり必要以上の会話をせず、冷めている。二人がにこりと笑い合うことも、ほとんどない。
でも、そのことに私は慣れている。まだ私が小さかった頃――小学校低学年くらいの頃までは、にこやかに話していたような気がするけれど。
まあ、それはどうでもいい。今の雰囲気も、私はなかなか気に入っているから。
テーブルに置かれた朝食は、トーストとヨーグルト。
私が席に着くと、父は新聞を読むのをやめ、立ち上がった。父は、今日も朝食を食べずに出勤するのだろう。これは、よくあることだった。
「今日も学校にちゃんと行ってこい。真奈、優希」
父は、私たち姉弟に向けて、家を出ていく時に一言。返事に、私たちは言う。毎日交わされる言葉だ。
「お父さん、行ってらっしゃい」
母は、こちらを見ない。対面式のキッチンで、お湯を沸かすのに一生懸命なふりをしている。けれど、一言だけ言う。
「行ってらっしゃい」
父は、そのまま出ていった。
あとに残った私たちは、それぞれ朝食を食べる。
それから、私と弟は一緒の時間に家を出る。学校の方角は途中まで同じだけど、さすがに並んで歩くことはしない。優希は小走りで、前方に見えた友達のところへ行く。私は、たまに知り合いと話したりしながら、登校する。歩いて行ける距離に学校があるっていいものだ。
あと三十分したら、母は出勤するのだろう。
AM8:15 学校、教室
席――窓側の三番目に座っていた私は、突如、声をかけられた。
「まーな。おはよう」
私の机の前にやってきたのは、亜梨沙だった。女の子らしいふわりとした長い髪を持っている、私の自慢の親友だ。
「おはよ、亜梨沙。――今日、遅くない?」
いつもはもっと早く来るのだ、亜梨沙は。
私の疑問に、亜梨沙は恥じらう様子を見せた。
「うん……実は昨日、寝るのが遅くなっちゃって」
「夜更かしなんて、ますます珍しい」
私はよくするけれど、と心の中で付け足す。正直に言えば、昨夜もそうだった。勉強がちょっと……終わらなかったから。
亜梨沙は優等生の鑑みたいな子なので、私のような理由じゃないだろうと思ったけれど。
「ええとね……勉強が終わらなくて」
なんと、同じ理由だった。一体、亜梨沙はどうしたんだろう?
「塾で出された問題を解いていたら、今日の授業の予習をする時間が減っちゃって、それでなの」
なるほど、優等生ならではの理由だったか。私は、予習なんてやろうと思ってもやれた試しがない。ほんと、尊敬してしまう。
「やっぱりすごいわ、亜梨沙は。そういえば最近、塾に通い始めたんだっけ」
「うん、親が勝手に決めちゃって」
亜梨沙は困ったように言った。彼女の両親には何度も会ったことがあるけれど、とても仲がいいようだった。それに、子どもへの関心の持ち方も違う。うちとは、正反対とも言えた。
「あ、でも、今日は塾がない日だったよね?」
「うん」
亜梨沙が頷いた。それから、彼女は先回りして誘ってきた。
「今日の放課後、どこかに遊びに行こう」
これに対する、私の答えは決まっていた。
「もちろん。どこ行く?」
「うーん、駅前に新しくアイス屋さんができたってママが言ってたから、そこに行ってみない?」
「アイスか、いいよね。チョコがいいなあ」
「真奈ってば、いつもチョコばっかり。そのアイス屋さんには変わり種のものもあるみたいだから、たまには違うのにしてみたら?」
亜梨沙は少々、呆れ気味だ。けれど、なんと言われようと、私の意見は変わらない。
「いいの、チョコで。私、冒険はしない主義だから」
「イチゴとかだっておいしいのに。真奈は本当に安定志向なのね」
「そのほうが、堅実でいいでしょ」
私は反論する。私と亜梨沙は、この辺が違う。亜梨沙は、外見が真面目そうで非冒険主義に見えるのに、実は中身は冒険家なのだ。予習復習とか、しっかりするのにね。
「――それなら、将来は手堅く公務員?」
将来は外国を飛び回りたい、と公言している亜梨沙が問う。
……困ったなあ。
けれど、ちょうどタイミングよく教室の前のドアが開いて、先生が入ってきた。
「おーい、ホームルーム始めるぞ」
ここで、将来の話は立ち消えになり、亜梨沙は自分の席へ戻っていった。私は、正直ほっとする。答えたくなかったのだ、実は。
AM10:30 学校、廊下
「音楽かぁ。音楽室って遠いよねぇ」
亜梨沙が、少し憂鬱そうに言う。同感だったので、私は頷く。
「ほんと。でも、今から体育よりはマシだよ。なんか曇ってきたから、途中できっと雨が降ってくるよ」
窓の外の空を見る。朝は、雲はあったけれど晴れていたのに。今はどんよりと曇っている。放課後もこんな天気だったら――ましてや雨が降っていたら、せっかくアイスを食べようとしても、気分が上がらない。
亜梨沙も、窓の外を見た。
「あ、本当。それなら、音楽でも仕方ないね。濡れるのはちょっと嫌だから。――あ、どこかの組の体育が終わったところみたい」
確かに、校庭から校舎へと歩いて戻ってきている生徒が数人見える。その人たちは遅いようで、廊下の前方からがやがやと声が聞こえ、体操着姿の生徒たちが姿を現した。上履きの色が同じだから、同学年だろう。
「あれ、三組だよ」
亜梨沙が、慌てたように小声で耳打ちしてきた。その途端、私の心臓は跳ね返る。どうしようと思いつつ、目で探してしまう。
「いた、あの三人の右側」
亜梨沙がもう一度耳打ちしてきたけれど、私はとっくに見つけていた。
ほっそりとした身体、優しげな瞳、色白の肌。隣の友人と笑いあう声も、男子にしては少し高めかもしれない。かっこいいというよりは、かわいいという形容のほうが似合いそうな男の子。
すれ違いざまに、私は息を止めて見つめる。彼はそのまま通り過ぎたけれど、私はそれだけで充分だった。
亜梨沙が振り返りながら言う。
「今日はラッキーだったね。駿河くんと会えて」
「ちょっ、大きな声で言わないでよ」
「小声だよ、これ」
それでも、言われると恥ずかしい。
亜梨沙は小首を傾げた。
「でも、意外だなぁ。真奈って、ああいうかわいいタイプが好きだったんだ」
「好きっていうか、いいなと思っただけだよ」
元々は、かわいい男の子って頼りなくてタイプじゃないと思っていた。それなのに、少なくとも「いいな」と思っている。不思議だ、自分でも。
そういえば、と私は亜梨沙に訊いた。
「亜梨沙はどうなの? 好きな人とか、気になる人はいないの?」
「うーん」
亜梨沙は上を向いた。
「今はいないかなぁ」
「じゃあ、好きなタイプは?」
「休日も筋トレとかしていて、運動部で活躍するような人がいいな。あと、頼りになる人」
「それなら、うちのクラスではサッカー部の佐藤くんとか? 部長だし、一年からレギュラーだったみたいだし」
「うーん、なんだかタイプじゃないの。もっと、爽やかな感じかなぁ」
意外に注文の多い亜梨沙に、私は次々と運動部の男の子の名前を出す。その度に、亜梨沙は「なんだか違うんだよねぇ」と言うものだから、すっかり私は盛り上がってしまった。
結局、亜梨沙が「いい」と言う人は見つからなかったけれど。
PM4:30 駅前、アイスクリーム屋『グラス』前
「やっぱりアイスは最高」
『グラス』前のテーブル席に座って、私が言う。アイスはチョコだ、もちろん。亜梨沙は、迷った末に黒ゴマのアイスを選択した。どんな味なんだろう?
「午後になって晴れて、よかったね」
夏が近づいてきている――というか既に突入しているこの時期では、晴れて暑いくらいだ。この席は外だけど、日陰なので助かっている。
「息抜きになるよね。帰ったら勉強っていうことも忘れられるし」
「うん、そうだね」
亜梨沙は、黒ゴマのアイスをおいしそうに口に運んでいる。私のチョコアイスも、もちろんおいしい。
「これなら、金欠中でもお金を払った価値があるよ」
「わたしも。今月ぎりぎりだけど、まあいいかっていう気分になっちゃう」
「――え、まさか、亜梨沙も金欠?」
しっかりしている亜梨沙は、いつもお金には余裕があるのだけど。
「うん……実は、将来、外国のいろいろな場所を訪れるなら、英語以外の言語も必要かなと思って。今から勉強しておこうと、まず、中国語の教材を買ってみたの。そうしたら、お小遣いがピンチになっちゃって」
どこまでしっかりした女の子なんだ、亜梨沙は。将来の目標を決めているだけでもすごいのに、それに向けて努力を始めているなんて。
少し、胸に痛みが走る。
羨ましいや。
「すごいなあ、亜梨沙は。英語だって、けっこう喋れてるよね? テストの点だっていつも高いし」
「そんなことない、まだまだだよ」
今の状態に満足することなく、いつも向上心を持っているんだよなあ。その亜梨沙の姿勢を、私は密かに尊敬してるし、見習いたいとも思う。――まあ、大抵、三日くらいすると忘れちゃうんだけれど。
「でもさー今の課題はお金が足りないってことだよね。あーあ、もう少しすればバイトできるんだけどな」
「まだ半年以上あるもんね」
「いや、でも一年以内だし」
もうすぐとも言えるよね? という言葉を、私はなぜか飲み込んだ。
どうしてだろう。卒業して、亜梨沙や他のみんなと離れるのが寂しいのだろうか。そりゃあ、寂しいだろうけど、それだけじゃないような気がする。なにか別の理由があるような気がするんだけれど……
「真奈、アイス溶けてるよ」
気がつくと、カップの中にチョコアイスが溶けて、液体になり始めていた。慌てて、アイスを食べる手を再開する。
さっきのは少し考えすぎかもしれない。余計なことで頭を働かすような余力は、私にはないし、それに――
「……太っちゃうかなぁ」
なんの脈絡もなく亜梨沙が言ったので、また考え込もうとしていた私は驚いた。
「なに言ってんの。ほっそりしてるくせに」
「でも、実は太っちゃって。それに、真奈のほうがほっそりしてるよ」
「着やせして見えるからだよ、私は。なんなら、家までダッシュで帰る?」
「えー、走るのはちょっと苦手だなぁ」
それから、私は会話に夢中になり、違和感を忘れてしまった。
PM8:00 自宅、リビング
夕食はスパゲッティ。母がよく作る料理だ。
テーブルに座っているのは三人。母と弟、私。そして、食卓での会話の主は、もっぱら弟の優希だ。
「今日ね、国語のテスト、百点だったよ」
と言って、優希はテーブルの下からテストの紙を出した。どうやら、私と母に見せるために、前もってランドセルから出してきていたらしい。その国語のテストには沢山の赤い丸がついていて、点数欄には大きく100と書かれていた。
「すごいじゃん」
「頑張ったのね、優希」
私と母が相槌を打つ。優希が一番言いたいのは、本当は父なんだってことが分かっているから、私はちょっと胸が痛い。けれども、父は相変わらず、今日も残業で帰りが遅い。これは生活するために仕方のないことだし、早く帰ってきてもらっても、私は特に話したいこともないから別にいいんだけれど。それでも、弟はまだ寂しいらしいのだ。
今日は、優希が寝る前に父が帰ってきてくれればいいんだけれど。さすがに、優希がかわいそうに思える。
優希が違う話題に移ったので、私は、今度は真剣に聞いてあげることにした。
PM9:00 自宅、自室
目の前には、教科書とノート。
数字の羅列と格闘し終えたと思ったら、今度は発音も分からないような単語の列挙。大人になったら使わないだろう、私はずっと日本に暮らすつもりなんだよー、と言いたい。……言ってもどうにもならないことではあるけれど。
なんで亜梨沙は、これらに興味を持てるんだろう。もともとの頭の作りが違うのかな。だとしたら、神様は不公平だと思う。
そんなことに思考が移ってしまって、集中力が続かない。
――仕方ない、なにか飲んでこよう。
私は立ち上がり、飲み物を得るためにキッチンへ向かった。迷ったけれど、麦茶を飲むことにした。コーヒーなんかを飲んだら、眠れなくなりそうだ。勉強するにはいいかもしれないけれど、寝不足は避けたい。
私がコップに注いだ麦茶を、ごくごくと飲み干した時、玄関から音が聞こえた。私はすぐに、その音の正体を理解する。
父が帰ってきたんだ。
時計を見ると、まだぎりぎり、優希が起きている時間。
私はコップを流し台に置き、急いで優希の部屋に向かう。すると、既に弟は部屋を飛び出していて、廊下ですれ違った。弟の部屋からも、父が帰ってきた音が聞こえたんだろうか。それとも、いつ帰ってくるのか、じっと耳を澄ましていたのかもしれない。
私は少し戻って、玄関先から聞こえる声に耳を澄ます。父と弟、二人の声だ。優希の声は弾んだ調子だった。そして寡黙な父は、優希の話をちゃんと聞いて、相槌を打ってくれているようだ。
よかったね、優希。
私は微笑み、二人の姿を確認してから、自分の部屋へと戻った。
PM11:00 就床
勉強は、一応終わらせた。今日こそ予習をしよう、と思ったけれど、もう頭は限界。ぼうっとして、眠気が襲ってくる。
こういう時は、無理をしないほうがいいはず。半分眠りながら予習をしても、頭に入るわけがない。
私は、ベッドに入る。昨日よりは早く眠れそうだ。
瞼を閉じながら、思う。これで、今日一日が終わると。
いつも通りの一日が、眠りにつくのだ。
目覚ましを止めて、暫し夢の名残に浸る。瞼がまた閉じそうになるのを必死で堪える。けれども、抗えない眠気が……
そう思った次の瞬間、もう一度目覚ましが鳴り響いた。二度寝してしまう時のために、五分後にも鳴るよう設定しているのだけど。そうか、さっきから五分は寝てしまったのか、私は。
ああ、眠い。
けれど、もそもそとベッドから起きだして、仕方なく制服に着替える。身だしなみもある程度整えたら、顔を洗いに行く。冷たい水で、シャキッとするためだ。
それから、朝食を食べにリビングへ。
リビングには、既に私以外の家族が揃っていた。市外にある普通の会社に勤める父。近所のスーパーでパートをしている母。小学二年の弟。
私の家は平凡だ。特筆するべきことがあるとしたら、父と母の仲があまりよくないということだろうか。でも、しょっちゅう喧嘩しているわけじゃない。むしろ、あまり必要以上の会話をせず、冷めている。二人がにこりと笑い合うことも、ほとんどない。
でも、そのことに私は慣れている。まだ私が小さかった頃――小学校低学年くらいの頃までは、にこやかに話していたような気がするけれど。
まあ、それはどうでもいい。今の雰囲気も、私はなかなか気に入っているから。
テーブルに置かれた朝食は、トーストとヨーグルト。
私が席に着くと、父は新聞を読むのをやめ、立ち上がった。父は、今日も朝食を食べずに出勤するのだろう。これは、よくあることだった。
「今日も学校にちゃんと行ってこい。真奈、優希」
父は、私たち姉弟に向けて、家を出ていく時に一言。返事に、私たちは言う。毎日交わされる言葉だ。
「お父さん、行ってらっしゃい」
母は、こちらを見ない。対面式のキッチンで、お湯を沸かすのに一生懸命なふりをしている。けれど、一言だけ言う。
「行ってらっしゃい」
父は、そのまま出ていった。
あとに残った私たちは、それぞれ朝食を食べる。
それから、私と弟は一緒の時間に家を出る。学校の方角は途中まで同じだけど、さすがに並んで歩くことはしない。優希は小走りで、前方に見えた友達のところへ行く。私は、たまに知り合いと話したりしながら、登校する。歩いて行ける距離に学校があるっていいものだ。
あと三十分したら、母は出勤するのだろう。
AM8:15 学校、教室
席――窓側の三番目に座っていた私は、突如、声をかけられた。
「まーな。おはよう」
私の机の前にやってきたのは、亜梨沙だった。女の子らしいふわりとした長い髪を持っている、私の自慢の親友だ。
「おはよ、亜梨沙。――今日、遅くない?」
いつもはもっと早く来るのだ、亜梨沙は。
私の疑問に、亜梨沙は恥じらう様子を見せた。
「うん……実は昨日、寝るのが遅くなっちゃって」
「夜更かしなんて、ますます珍しい」
私はよくするけれど、と心の中で付け足す。正直に言えば、昨夜もそうだった。勉強がちょっと……終わらなかったから。
亜梨沙は優等生の鑑みたいな子なので、私のような理由じゃないだろうと思ったけれど。
「ええとね……勉強が終わらなくて」
なんと、同じ理由だった。一体、亜梨沙はどうしたんだろう?
「塾で出された問題を解いていたら、今日の授業の予習をする時間が減っちゃって、それでなの」
なるほど、優等生ならではの理由だったか。私は、予習なんてやろうと思ってもやれた試しがない。ほんと、尊敬してしまう。
「やっぱりすごいわ、亜梨沙は。そういえば最近、塾に通い始めたんだっけ」
「うん、親が勝手に決めちゃって」
亜梨沙は困ったように言った。彼女の両親には何度も会ったことがあるけれど、とても仲がいいようだった。それに、子どもへの関心の持ち方も違う。うちとは、正反対とも言えた。
「あ、でも、今日は塾がない日だったよね?」
「うん」
亜梨沙が頷いた。それから、彼女は先回りして誘ってきた。
「今日の放課後、どこかに遊びに行こう」
これに対する、私の答えは決まっていた。
「もちろん。どこ行く?」
「うーん、駅前に新しくアイス屋さんができたってママが言ってたから、そこに行ってみない?」
「アイスか、いいよね。チョコがいいなあ」
「真奈ってば、いつもチョコばっかり。そのアイス屋さんには変わり種のものもあるみたいだから、たまには違うのにしてみたら?」
亜梨沙は少々、呆れ気味だ。けれど、なんと言われようと、私の意見は変わらない。
「いいの、チョコで。私、冒険はしない主義だから」
「イチゴとかだっておいしいのに。真奈は本当に安定志向なのね」
「そのほうが、堅実でいいでしょ」
私は反論する。私と亜梨沙は、この辺が違う。亜梨沙は、外見が真面目そうで非冒険主義に見えるのに、実は中身は冒険家なのだ。予習復習とか、しっかりするのにね。
「――それなら、将来は手堅く公務員?」
将来は外国を飛び回りたい、と公言している亜梨沙が問う。
……困ったなあ。
けれど、ちょうどタイミングよく教室の前のドアが開いて、先生が入ってきた。
「おーい、ホームルーム始めるぞ」
ここで、将来の話は立ち消えになり、亜梨沙は自分の席へ戻っていった。私は、正直ほっとする。答えたくなかったのだ、実は。
AM10:30 学校、廊下
「音楽かぁ。音楽室って遠いよねぇ」
亜梨沙が、少し憂鬱そうに言う。同感だったので、私は頷く。
「ほんと。でも、今から体育よりはマシだよ。なんか曇ってきたから、途中できっと雨が降ってくるよ」
窓の外の空を見る。朝は、雲はあったけれど晴れていたのに。今はどんよりと曇っている。放課後もこんな天気だったら――ましてや雨が降っていたら、せっかくアイスを食べようとしても、気分が上がらない。
亜梨沙も、窓の外を見た。
「あ、本当。それなら、音楽でも仕方ないね。濡れるのはちょっと嫌だから。――あ、どこかの組の体育が終わったところみたい」
確かに、校庭から校舎へと歩いて戻ってきている生徒が数人見える。その人たちは遅いようで、廊下の前方からがやがやと声が聞こえ、体操着姿の生徒たちが姿を現した。上履きの色が同じだから、同学年だろう。
「あれ、三組だよ」
亜梨沙が、慌てたように小声で耳打ちしてきた。その途端、私の心臓は跳ね返る。どうしようと思いつつ、目で探してしまう。
「いた、あの三人の右側」
亜梨沙がもう一度耳打ちしてきたけれど、私はとっくに見つけていた。
ほっそりとした身体、優しげな瞳、色白の肌。隣の友人と笑いあう声も、男子にしては少し高めかもしれない。かっこいいというよりは、かわいいという形容のほうが似合いそうな男の子。
すれ違いざまに、私は息を止めて見つめる。彼はそのまま通り過ぎたけれど、私はそれだけで充分だった。
亜梨沙が振り返りながら言う。
「今日はラッキーだったね。駿河くんと会えて」
「ちょっ、大きな声で言わないでよ」
「小声だよ、これ」
それでも、言われると恥ずかしい。
亜梨沙は小首を傾げた。
「でも、意外だなぁ。真奈って、ああいうかわいいタイプが好きだったんだ」
「好きっていうか、いいなと思っただけだよ」
元々は、かわいい男の子って頼りなくてタイプじゃないと思っていた。それなのに、少なくとも「いいな」と思っている。不思議だ、自分でも。
そういえば、と私は亜梨沙に訊いた。
「亜梨沙はどうなの? 好きな人とか、気になる人はいないの?」
「うーん」
亜梨沙は上を向いた。
「今はいないかなぁ」
「じゃあ、好きなタイプは?」
「休日も筋トレとかしていて、運動部で活躍するような人がいいな。あと、頼りになる人」
「それなら、うちのクラスではサッカー部の佐藤くんとか? 部長だし、一年からレギュラーだったみたいだし」
「うーん、なんだかタイプじゃないの。もっと、爽やかな感じかなぁ」
意外に注文の多い亜梨沙に、私は次々と運動部の男の子の名前を出す。その度に、亜梨沙は「なんだか違うんだよねぇ」と言うものだから、すっかり私は盛り上がってしまった。
結局、亜梨沙が「いい」と言う人は見つからなかったけれど。
PM4:30 駅前、アイスクリーム屋『グラス』前
「やっぱりアイスは最高」
『グラス』前のテーブル席に座って、私が言う。アイスはチョコだ、もちろん。亜梨沙は、迷った末に黒ゴマのアイスを選択した。どんな味なんだろう?
「午後になって晴れて、よかったね」
夏が近づいてきている――というか既に突入しているこの時期では、晴れて暑いくらいだ。この席は外だけど、日陰なので助かっている。
「息抜きになるよね。帰ったら勉強っていうことも忘れられるし」
「うん、そうだね」
亜梨沙は、黒ゴマのアイスをおいしそうに口に運んでいる。私のチョコアイスも、もちろんおいしい。
「これなら、金欠中でもお金を払った価値があるよ」
「わたしも。今月ぎりぎりだけど、まあいいかっていう気分になっちゃう」
「――え、まさか、亜梨沙も金欠?」
しっかりしている亜梨沙は、いつもお金には余裕があるのだけど。
「うん……実は、将来、外国のいろいろな場所を訪れるなら、英語以外の言語も必要かなと思って。今から勉強しておこうと、まず、中国語の教材を買ってみたの。そうしたら、お小遣いがピンチになっちゃって」
どこまでしっかりした女の子なんだ、亜梨沙は。将来の目標を決めているだけでもすごいのに、それに向けて努力を始めているなんて。
少し、胸に痛みが走る。
羨ましいや。
「すごいなあ、亜梨沙は。英語だって、けっこう喋れてるよね? テストの点だっていつも高いし」
「そんなことない、まだまだだよ」
今の状態に満足することなく、いつも向上心を持っているんだよなあ。その亜梨沙の姿勢を、私は密かに尊敬してるし、見習いたいとも思う。――まあ、大抵、三日くらいすると忘れちゃうんだけれど。
「でもさー今の課題はお金が足りないってことだよね。あーあ、もう少しすればバイトできるんだけどな」
「まだ半年以上あるもんね」
「いや、でも一年以内だし」
もうすぐとも言えるよね? という言葉を、私はなぜか飲み込んだ。
どうしてだろう。卒業して、亜梨沙や他のみんなと離れるのが寂しいのだろうか。そりゃあ、寂しいだろうけど、それだけじゃないような気がする。なにか別の理由があるような気がするんだけれど……
「真奈、アイス溶けてるよ」
気がつくと、カップの中にチョコアイスが溶けて、液体になり始めていた。慌てて、アイスを食べる手を再開する。
さっきのは少し考えすぎかもしれない。余計なことで頭を働かすような余力は、私にはないし、それに――
「……太っちゃうかなぁ」
なんの脈絡もなく亜梨沙が言ったので、また考え込もうとしていた私は驚いた。
「なに言ってんの。ほっそりしてるくせに」
「でも、実は太っちゃって。それに、真奈のほうがほっそりしてるよ」
「着やせして見えるからだよ、私は。なんなら、家までダッシュで帰る?」
「えー、走るのはちょっと苦手だなぁ」
それから、私は会話に夢中になり、違和感を忘れてしまった。
PM8:00 自宅、リビング
夕食はスパゲッティ。母がよく作る料理だ。
テーブルに座っているのは三人。母と弟、私。そして、食卓での会話の主は、もっぱら弟の優希だ。
「今日ね、国語のテスト、百点だったよ」
と言って、優希はテーブルの下からテストの紙を出した。どうやら、私と母に見せるために、前もってランドセルから出してきていたらしい。その国語のテストには沢山の赤い丸がついていて、点数欄には大きく100と書かれていた。
「すごいじゃん」
「頑張ったのね、優希」
私と母が相槌を打つ。優希が一番言いたいのは、本当は父なんだってことが分かっているから、私はちょっと胸が痛い。けれども、父は相変わらず、今日も残業で帰りが遅い。これは生活するために仕方のないことだし、早く帰ってきてもらっても、私は特に話したいこともないから別にいいんだけれど。それでも、弟はまだ寂しいらしいのだ。
今日は、優希が寝る前に父が帰ってきてくれればいいんだけれど。さすがに、優希がかわいそうに思える。
優希が違う話題に移ったので、私は、今度は真剣に聞いてあげることにした。
PM9:00 自宅、自室
目の前には、教科書とノート。
数字の羅列と格闘し終えたと思ったら、今度は発音も分からないような単語の列挙。大人になったら使わないだろう、私はずっと日本に暮らすつもりなんだよー、と言いたい。……言ってもどうにもならないことではあるけれど。
なんで亜梨沙は、これらに興味を持てるんだろう。もともとの頭の作りが違うのかな。だとしたら、神様は不公平だと思う。
そんなことに思考が移ってしまって、集中力が続かない。
――仕方ない、なにか飲んでこよう。
私は立ち上がり、飲み物を得るためにキッチンへ向かった。迷ったけれど、麦茶を飲むことにした。コーヒーなんかを飲んだら、眠れなくなりそうだ。勉強するにはいいかもしれないけれど、寝不足は避けたい。
私がコップに注いだ麦茶を、ごくごくと飲み干した時、玄関から音が聞こえた。私はすぐに、その音の正体を理解する。
父が帰ってきたんだ。
時計を見ると、まだぎりぎり、優希が起きている時間。
私はコップを流し台に置き、急いで優希の部屋に向かう。すると、既に弟は部屋を飛び出していて、廊下ですれ違った。弟の部屋からも、父が帰ってきた音が聞こえたんだろうか。それとも、いつ帰ってくるのか、じっと耳を澄ましていたのかもしれない。
私は少し戻って、玄関先から聞こえる声に耳を澄ます。父と弟、二人の声だ。優希の声は弾んだ調子だった。そして寡黙な父は、優希の話をちゃんと聞いて、相槌を打ってくれているようだ。
よかったね、優希。
私は微笑み、二人の姿を確認してから、自分の部屋へと戻った。
PM11:00 就床
勉強は、一応終わらせた。今日こそ予習をしよう、と思ったけれど、もう頭は限界。ぼうっとして、眠気が襲ってくる。
こういう時は、無理をしないほうがいいはず。半分眠りながら予習をしても、頭に入るわけがない。
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