私だけの世界

青江 いるか

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少年

現れた少年

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「真奈―」
 夏休みもだいぶ近づいた日。休み時間に、亜梨沙が私のところへ来た。
 「昨日ね、塾だったんだけれど」
 「――駿河くん?」
 私が小声で訊くと、亜梨沙は「そうそう」と頷いた。
 ……実は、亜梨沙が通っている塾に、最近、駿河くんも通い始めたらしいのだ。しかも同じクラスで、曜日と時間が週に一回だけ合っているらしい。それで、亜梨沙は私のために、塾での駿河くんの様子を報告してくれるのだ。
 「彼、頭がいいんだね。塾で見ているとわかる。よく、勉強を教えてって頼まれているし」
 駿河くんのことは、なるべく『彼』と呼ぶことにしている。これなら、もし他の人に聞かれても、『彼』が誰なのかわからないから。
 「だから、真奈も『教えて』って頼んでみたら? 話すきっかけに」
 「いやいや、無理だって」
 亜梨沙は簡単そうに言うけれど、私にしたら大変なことなのだ。
 「だいたい私、まともに話したこともないのに、『教えて』だなんて変に思われるよ。クラスも違うし、共通の友達がいるわけでもないし、同性ならまだしも、異性だし」
 色々、無理だと思う理由を並べる。けれど亜梨沙は、はっとした顔で言った。
 「それじゃ、共通の友達を作っちゃおうよ。塾で一緒のクラスに、橋田さんっていう女の子がいて友達になったんだけれど、その子、彼と幼馴染みみたいなの。それで、よく勉強を教わっているみたいなのね。だから、真奈も彼女と友達になって、一緒に、彼に勉強を教えてもらうっていうのはどう?」
 幼馴染みと聞いて、私は反射的にびくっとした。そりゃあ、駿河くんと仲がいい女子はいるだろう。わかっていたけれど、事実を突きつけられて何だか胸に刺さった。
 「……でも、打算的に友達になるって、なんか嫌かも。それに、友達の友達に勉強を教えてっていうのは、図々しいって思われそうだし」
 私は、自分で思っていたよりも落ち込んだ声を出してしまったのかもしれない。亜梨沙は少し、顔を曇らせた。
 「――そうだね。でも、彼、優しいから、図々しいなんて思わずに快く引き受けてくれると思うよ」
 私は、またびくっとした。亜梨沙のその口調は、さも彼をよく知っているかのようだ。
 心臓が嫌な感じに脈打つ。ざわざわする。
 そんな私に気づいてか、亜梨沙は慌てて言った。
 「あ、塾で何回か挨拶したことがあるから、それで思っただけだけどね。優しい人みたいだなぁって」
 その言葉に、後ろめたいものは感じられなかった。それはそうだ。亜梨沙は私の友達なんだから。
私は、ほっとする。
でも、そんな気持ちの変化に戸惑ってしまう。なぜ、ざわざわしたの? なぜ、ほっとしたの?
――もしかしてこれが、嫉妬というもの?
私がこんな考えにとらわれている間も、亜梨沙は喋っている。私はそれを、集中してはないまでも、聞いていた。
「でも、真奈の気持ちもわかるかも。彼、顔は整っているほうだし、なにより優しい人だから――」

『真奈、わたし――』

 突然、頭の中に声が響いた。おぼろげながらに、泣きそうな少女の姿が見えた。
 ……なに、いまの?
 亜梨沙は相変わらず喋っているから、私だけに聞こえたらしい。だとしたら、今のは私の頭の中でのことなのか。
 「――それでも、わたしはやっぱり、もっと頼りになりそうな男子がいいなぁ。って、真奈?」
 亜梨沙が、不思議そうに首を傾げた。
 はっとして、私は急いで首を横に振る。きっと、疲れが溜まっているんだ。もしかしたら、睡眠が足りないのかもしれない。今日は本当に、早く寝よう。
 「ううん、なんでもない。そうだね、真奈には、もっと男らしい人がいいよ。いっそ、年上とか」
 私は上手にごまかせたようで、亜梨沙が不審がる様子はなかった。でも、自分で自分を訝しがることになった。だって、今のは、私が考えるよりも先に、言葉が口から出てきたのだ。言葉が勝手に舌の上を滑ったみたいだと言えばいいのか。そして、それを私は制御できておらず、身体のずっと奥から、ただ見ているだけのような、変な心地。
 「えーそうかなぁ。そういえば、年上って考えたことなかったかも」
 「考えてみたら? 今、学校では私たちが最上級生だけど、塾とかには高校生もいるでしょ」
 また、ひとりでに口が動く。深層ではわからないけれど、少なくとも表層の私の意識は、それを意図していないというのに。
 駄目だ。このままじゃ駄目だ。
 どうにかしないと、自分が恐ろしくなる……
 「あ、そういえば、次って数学だったよね。真奈、今日当たるんじゃなかった?」
 亜梨沙が不意にそう言い、私は少し遅れて反応した。
 「……あ……うん、そうだった。私、予習してないや。ごめん亜梨沙、ちょっと教えて」
 ほっとした。今のは、ちゃんと自分で言えた。ひとりでには口は動いていない。意図して出した言葉だ。よかった……
 「もう、仕方ないなぁ。数学の西先生、怖いもんね」
 「うん、お願いします」
 私は笑って言った。
 そうだ、頭の中で響いた声と、浮かんだ少女のことは忘れよう。今、覚えなくてはならないのは、ちゃんと目の前にいる、みんなの目にも見えるこの少女から教えてもらう、数学だ。
 まあ、やりたくはないんだけれど、みんなの前で叱られるよりはマシだし。


 結局あれから、幻聴も幻覚も起こらなかった。
 亜梨沙に教えてもらった数学はバッチリで、授業で恥をかかずに済んだし、給食は好きなカレーライスだったし、駿河くんとは二回もすれ違えたけれど……なぜか、気分が落ち込みそうだった。
 なぜだろう? 私の中に、コントロールできない自分がいると気づいてしまったから?
 自分でもわからない自分がいるというのは、けっこう怖い。それを忘れられたら気持ちが幾分楽になるだろうとは思うけれど、決して忘れられないだろうということもわかっている。一度知ってしまえば、たとえ普段は気づかないふりができていても、時々思い出してしまうだろうから。
 こういう、覚えていたくないことに限って、いつまでも心の中に残ってしまうものだし。たとえば、小さいときに見た怖い夢とか。さすがに、今思い出しても怖いとは思わないし、だいぶ情景が薄らいできているものの、怖い夢を見たということは覚えている。どこまでもどこまでも鬼に追いかけられる夢とか、ナイフで刺された夢とか。
 そんなことを考えていたからか、ふと気づくと、帰り道から逸れていた。でも、特に驚かなかった。落ち込んだ時、自然とここに足が向くのはいつものことだ。
 商店街の中。シャッターを下ろした店もあるけれど、まだ活気は充分ある。アーケードの商店街じゃないものの、そのぶん空を見上げることができて、私はむしろ嬉しかった。
 商店街に来たといっても、私は買い物をしに来たわけじゃない。誰かに会いに来たわけでもない。ただ、お気に入りの場所があるのだ。
 私は、八百屋と和菓子屋の間の路地に入る。細く、ぎりぎり二人がすれ違えるくらい。日差しが建物で遮られていて、夏なんかはいい休憩場所だ。路地の中間あたりまで来れば、こちらに気づく人もいない。路地を出れば、その先に土手がある。そこも気持ちのいい場所だ。
 私は立ち止まり、ふと空を見上げた。今日は快晴。両脇の建物の間で、青く澄んだ空が見える。路地の暗さとのコントラストが、絶妙だと思う。やや暑くなってきたけれど、これを見ると和む。
 不意に、土手のほうから風が吹いてきた。私は大きく息を吸い、そして吐いた。
 もう、気分はだいぶ回復していた。いつもそうだった。ここへ来ると気持ちがリセットされるのか、落ち込んでいても大抵は気力を取り戻せる。こんな路地裏に来るだけで と不思議がられるのが嫌なので、このストレス解消法を誰にも言ったことはないけれど。
 私は、もう一度深呼吸をしてから、路地を抜けて土手のほうへ行った。路地裏から出て、その明るさに自然と目を細める。その時だった。
 声がした。
 「お前は、なにがしたいんだ?」
 男の人の声だった。私が振り向くと、つい今しがた私が出てきた路地に、声の主と思われる少年がいた。腕を組んで、厳しい顔でこちらを見ている。その迫力に、私は一瞬たじろいだ。
 「……誰?」
 警戒しながら私が問うと、少年――私と同じか少し上くらいの年だろう――は、睨んだような目を私から離すことなく、そっけない返事をした。
 「小世界監督官」
 「――は?」
 なにそれ?
 私が思わず聞き返すと、少年はますます険しい顔になった。
 「俺もこの役名は気に入っていないが、他に適当な名前が思いつかないからな。仕方なく、こう名乗っている。つまり、この役を簡単に言うとだな、お前みたいな、魂だけがふらふらと彷徨って、変な世界を造っている奴を、元の肉体に無事に戻す仕事だ」
 ……言っていることの意味が、半分もわからない。特に後半部分が。なんか、魂とか、オカルトっぽい用語が飛び出してきたけど、この人、なんなの?
 逃げたほうがいいかな……
 そんな私の様子を見て取ったのか、少年は険しい顔から一転、呆れた顔に変わった。
 「もしかして、気づいてないのか、お前。この世界が現実じゃないってことに」

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