私だけの世界

青江 いるか

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崩壊

幻聴と幻覚

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夏。
 刺すような暑さがやってくる。そして、夏休みもまた。
 受験生には、勉強の夏だ。
 私も御多分に漏れずそうで、参ってしまう。頭に詰め込み過ぎて、パンクするんじゃないかってくらい。毎日友達と遊びまわっている弟が恨めしい。いいさ、そのうち夏休みの終わりが来て、宿題をやっていないことに気づいて慌てることになるから。
 勉強と言えば、私は今、塾に行こうかどうか迷っている。塾に行けるだけのお金は、たぶん両親が持っているから、行く気があれば行かせてくれるだろう。受験生だし、他のクラスメイトも行っている人が多いし。
 このことを亜梨沙に相談したら、彼女はなぜか、困ったような顔をした。答えも、
 「行っていなくても受かる人は受かるから……」
 と、小さな声でいっただけで、明答しなかった。
 いや、私は塾に行っている亜梨沙より、成績が下なんですが。
 まあ、嫌みっぽいわけではなかったけれど、いつもと違うような亜梨沙の様子が気にかかった。なんとなく、その理由は思い当たる節がある。あまりそれを考えたくはないんだけれど。
 亜梨沙の言葉の端々から、感づいてしまうのだ。彼女はあまり、隠し事が上手なほうじゃないから。
 前に亜梨沙から話に聞いていた橋田さん。塾で同じクラスで、駿河くんの幼馴染みだという女の子。どうやらその子、駿河くんに気があるみたいなのだ。はっきり言って、ショックだ。私以外にも駿河くんのよさを分かっている人がいるというのは、嬉しいことでもあるかもしれない。でも、もし二人が付き合ったら……と考えると、それは嫌だ。今までみたいに、亜梨沙ときゃーきゃー言うことができなくなってしまう。しかもその橋田さんという子は、駿河くんと付き合えるように協力してほしいと、亜梨沙に頼んでいるみたいなのだ。気が強い子らしく、亜梨沙もなかなか、やんわりと断るのに骨を折っているらしい。
 亜梨沙が橋田さんに頼みに積極的に協力するとは考えられないけれど、もし塾で亜梨沙と橋田さんと私が揃ったら気まずいと考えているのかもしれない。それは自然だ。私だって、そういう場を好んで作りたくはない。そういう事情があって、亜梨沙の返事が煮え切らなかったのだろう。
 それか、他に思い当たることとしては、彼女が受験というプレッシャーと必死で闘っているからかな、と思う。それで、いつもと違う態度になってしまったのかもしれない。亜梨沙の志望校はかなりレベルが上だし、両親の期待も大きいだろうから。塾に行く回数も増やしたと聞いた。そのせいで会う回数は減ったけれど、文句は言えない。相変わらず、まめに駿河くんの様子をメールしてくれるから。しかも、塾に行く回数が増えたからか、彼に会う回数も増えたらしい。話を聞いていると、橋田さんと会う回数も増えたみたいだけど。でもまあ、他人の友達関係をあれこれ言うつもりはない。私は橋田さんを直接には知らないし、ただ彼女が駿河くんに気があるということで、彼女を嫌ったりしない。でも、どんな人か気になりはする。それでも、あまり会ってみたいという気はしないけれど。私って狭量なのかな。
 そういえば、駿河くんの志望校はどこなんだろう。こればかりは、亜梨沙に訊いても分からないだろうな。いや案外、橋田さんから聞いたりして、知っているかもしれない。けど、そういう方法で知るのは、なんだか悔しい。やっぱり私って、心が狭いのかな。
 まあ、とりあえず、夏休みが明けたら、駿河くんと彼の友人たちとの会話に耳をそばだてていよう。受験生だから、志望校の話題くらい出るだろう。私は一応、家から一番近い、学力も平均くらいの高校を志望しているんだけれど、駿河くんと同じ高校に行けたらいいなとも思う。もしレベルの高いところだったら……その夢は諦めるしかないかな。いや、そういう時のために、今から必死で勉強しておこうか。
 できれば、亜梨沙とも駿河くんとも同じ高校へ行きたい。駿河くんが通ったら、亜梨沙とふたりできゃーきゃー騒ぎたい。……それって、今の生活と変わらないな。たぶん私は、今の生活がずっと続けばいいなと思っているんだろう。
 なんだか、感傷めいた気持ちになっている。そんな思いにとらわれている場合じゃないんだけれど。
 今の問題は、目の前にある数学なのだ。それから目を逸らすために、いろいろ他のことを考えてしまったけれど、向き合わなくては終わらない。
 ただ、途中までは解いたのだ。けれど、その先、どうやって答えを導き出せばいいのか分からない。解答集には答えしか――そこまで辿り着く道筋というものが載っていないのだ。ページの都合とかそういうことでだろうけれど、そこはなんとか頑張って載せてほしかった。頼りとなる教科書を見ても分からない。応用というのは難しい。
 頭を回転させる。ぐるぐると様々な公式が巡るけれど、ひとつとして掴めない。考えても考えても、すり抜けて行ってしまう感じだ。
 何分かそうしていたけれど、これでは埒が明かないと気づいた。ここまで考えても無理なら、これを続けていても同じなんだろう。
 こういう時は、そう、休憩をしよう。別に、勉強が嫌だからとか誘惑に負けたからじゃなく、一回数学から離れて、考えをリセットさせるためだ。疲れて、頭が上手く働かないから、解けないんだろう。こういう時に無理して勉強しても、きっといいことはない。だから、休憩を取るのは、仕方のないことだ。
 ……なんて自分に言い訳しているけれど、その実、嬉しくて仕方ない。そういえば冷凍庫にアイスがあったと思い出し、私はキッチンへ行った。
 キッチンには、母がいた。
 「どうしたの?」
 「休憩」
 喉も渇いていたので、私は先に、冷蔵庫から一リットルのコーラを取り出してコップに注いだ。
 母が尋ねてくる。
 「勉強はどうなの」
 「ちゃんとやってるよ。今は休憩なんだって」
 「それならいいけど」
 母は、あまりうるさく勉強や生活のことを言わない。関心がないのか、自主性を重んじてくれているのか。話をしようとすればちゃんと聞いてくれるし、学校行事にも来てくれるので、自主性を重んじているだけだと思う――いや、思いたい。たぶん、父もそうなのだと。仲がいい家族――たとえば亜梨沙の家とか――を見ると、少し心が締めつけられるけれど、煩わしいことがなくて、今の状態もいいんじゃないかとも思う。あっさりしているほうが、たぶん私には合っているのだ。
 アイスを探そうと、私は冷凍庫を開ける。
 「あれ?」
 まさか、という思いで私は声を上げた。がさがさと冷凍庫内を探すけれど……
 「なんでアイスないの」
 昨日まではあったはずだ。明日食べようと狙っていたのだから。楽しみにしていたのに、なんで。チョコレートのカップアイスだったのに。
 私の嘆きに気づいて、母が言った。
 「ああ、それなら、さっき優希が遊びに行く前に食べていたけど」
 「ええっ、そんな……」
 チョコのアイスは私のもの、という暗黙の了解があったはずだった。そのかわりに、優希が好きなソーダのアイスはとっておいてあげているのだ。なのに、ひどい。今度ソーダのアイスを見つけたら、仕返しに食べてやろうか。……いや、それもかわいそうか。私はお姉ちゃんだし、心を広く持たないと。
 それでも、溜め息をついてしまう。楽しみにしていたことが急になくなると、結構こたえるものだ。
 そんな私に、母が声をかけた。
 「仕方ないね、今から買い物に行くから、ついでに買ってこようか」
 「え、いいの? やったあ」
 思いがけない言葉に、私の心はすぐに持ち直した。
 「チョコのアイスだったね。カップがいいとか、なにか要望はある?」
 私はうきうきして、様々な形状のチョコアイスを思い浮かべながら、一番なにがいいかを考えた。
 「えーとね……」

 『――だから、どっちがいい? 真奈、優希』

 声が響いた。疲れたような、けれど吹っ切れたような顔をした、女性の姿も浮かんだ。
 私は、鼓動が一瞬にして速くなったのを感じた。この前と同じ……これで二回目の幻聴と幻覚。
 私、そんなに疲れているのかな……。勉強でそれほど追いつめられていた? それとも寝不足なのかな。確かに、昨夜も遅くまで起きていたけれど。
 「真奈? なににするの」
 黙り込んだ私に、母が訝しげに訊いてくる。私は慌てて言った。
 「あ、えーとね、カップのやつがいい」
 「そう、分かった。じゃあ、今から行ってくるわね」
 そう言って、母はキッチンから出ていく。私の様子がおかしいとは思わなかったようだ。たぶん、どんなアイスにするか迷っている風に、母の目には映ったのだろう。
 私は母が出て行ってからも、その場に突っ立っていた。
 あの少年がもたらした恐怖は、ここのところ静まっていた。日々の忙しさに紛れ、忘れかけてさえいたのだ。時々思い出しても、前のような恐怖は抱かない。あんなことで悩んで、馬鹿らしかったと思っていた。
 けれど――さっきの幻聴と幻覚で、否応なしに少年の言葉を思い出す。最初のころに抱いた恐怖とともに。
 『時々、なにかを思い出すことがあるんじゃないか』
 そうなのだろうか。この幻が、本当の記憶なんだろうか。
 でも、幻はとても曖昧だ。友人の少女は、泣きそうな顔でなにを言おうとしていたのだろう。女性は、子どもたちになにを選ばせようとしていたのだろう。
 そういう肝心なところが、全然分からない。
 この世界は、本当におかしいのだろうか。
 ……それとも、少年の言葉に耳を傾けようとしている私のほうが、彼と同じくおかしいのだろうか。
 そもそも、現実ってなんなんだろう。
 私は目を閉じ、額を左手で押さえた。頭痛がしてくるようだ。こんなことを繰り返していては、いつか私はおかしくなってしまう。
 ……もう、おかしくなっているのかもしれないけれど。
 そんなことを、自嘲気味に考えた。

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