8 / 42
第二章
3.恋物語
しおりを挟む別荘に帰るなり、アルエットはすぐに部屋にこもって夢中になって本を読んだ。
あんなに寂しいと感じていた孤独な時間が、今ではかえってありがたい。誰にも邪魔をされずに物語の中に入りこめるのだから。
ランプの明かりだけで文字の列を目で追っていく。
物語は、セヴランという王子とリエルという孤独な伯爵令嬢が互いの身分を隠して出会い、恋に落ちるという内容だった。それぞれ親が決めた婚約者がいながらも恋心を抑えきれず、駆け落ちまで考えるようになるが、それが王子の婚約者にばれてしまい、彼の将来を想うなら身を引けと言われた伯爵令嬢が涙ながらに一方的に別れを告げる。
「ああ……どうなってしまうのかしら……」
いじわるな婚約者が姉の姿と重なって、主人公の令嬢が気の毒でならない。いつの間にか目に溜まっていた涙の雫がぽたりとページに落ちてしまい、慌ててドレスの袖で目元をぬぐう。
時計の針はすでに深夜を回っていて、暖炉の火もすでに消えてしまっていた。
アルエットはソファから立ち上がってベッドに滑り込むと、ヘッドボードに寄りかかって続きを読み進めた。
ページはもう半分を超えていて、物語は切ない空気を孕みながら結末へ向かっていく。王子の婚約者が過去にも王子に近づこうとしていた女性たちの命を狙うような危険な脅迫行為を行なっていたことが発覚したり、伯爵令嬢の婚約者にも裏の顔があったりと怒涛の展開から、最後にはセヴランとリエルの婚約が認められ、二人は抱擁と熱いキスを交わして物語は幕を閉じた。
「よかった……」
本を閉じて漏れるのは安堵のため息。そして胸の奥に宿る温かい光。
(彼が物語の人物と同じ名前にするから……)
まるで自分と青年の物語のように感じられて、アルエットは頬を染めた。掌で触れると少し熱い。ずいぶんと本の中にのめり込んでしまったようだ。
「か、勘違いしてはだめ。偽りの名前を名乗るのにちょうど手元にこの本があったからでしょう」
今のミスダールには同じ年頃の人間は見かけないから、退屈しのぎに相手をしてくれているだけだろう。青年の優しさはアルエットだけに向けられた特別なものではない。あとで傷つかないためにもそこははき違えてはいけない。
(だけど不思議……。歳が近いというならジェルマン様だってそうだけど、あの人とは違う。セヴランはそばにいても嫌な気持ちにならない)
それはきっと青年が必要以上にアルエットの心に踏み込んでこないからだろう。無遠慮な姉の婚約者はこちらの気持ちを考えることなく近づいてきて、平気で土足で心を荒らしていく人間だ。
(セヴランに会いたい……)
ランプの明かりを消してベッドのシーツを肩まで引き上げ、アルエットは目をつぶった。
翌日、図書館の庭園の一角でアルエットはセヴランと再会した。
「読みました。最後に二人が幸せになって本当によかったです。現実ではつらいことばかりだけど、本っていいですね。どんな人にもなれるし、どんな体験もまるで自分のことみたいに感じられて」
ベンチに腰掛け、アルエットは本のざらついた表紙を指先で撫でた。
「つらい現実を変えたいと思ったことは?」
「そんなこと、とうの昔に諦めてしまいました。私が声を上げても誰にも届きませんから」
アルエットは苦笑いを浮かべた。答えながらそんな自分が情けなくて瞳が潤む。
「今まではいなくても、これからの未来は誰にもわからない」
「ふふ、セヴランは優しいですね。たしかにこれからのことは誰にもわかりませんよね」
もしかしたらアルエットを大切にしてくれる人が現れるかもしれない。希望を持って生きろと彼は慰めてくれているのだ。
瞬きすると、小さな涙の粒がぱちんと弾けて春の空気に溶けていった。
「また別の本を借りましょう。セヴランは図書館には入ってみましたか? 面白そうな本がたくさんあるんですよ」
「リエル。せっかくだから、その言葉遣いを改めないか?」
「え?」
「本当の名前も、身分も、住んでいるところも知らない。それならここで知り合った俺達は対等な関係だ」
「……もしかして、友人になってくれるのですかっ?」
使用人にすら避けられていたアルエットにとって、友人を作ることは憧れの一つだった。
ただの話し相手から友人として接してくれるという青年の懐の広さにアルエットは感心する。
「……まあ、そんなところだ」
アルエットが身を乗り出して尋ねてしまったからなのか、セヴランはおかしそうに笑った。
(へ、変な人間だと思われたかしら)
頬が熱くなって、慌てて彼から目を逸らす。
「では、図書館へ行こうか」
「は……、じゃなくて、う、うん……」
気恥ずかしくて、返事がごにょごにょと小さくなってしまった。
先に立ち上がった彼に倣ってベンチから腰を上げると、突然右手を引かれる。慌てたアルエットは前のめりによろけた。
「すまない。思っていた以上に体が軽くて驚いた」
そう言って転びそうになったアルエットを抱き留めたセヴランは、申しわけなさそうに眉根を下げた。
驚いたのはこちらの方だ――
心臓が口から飛び出しそうになってしまった。背が高くほっそりとして見えるセヴランだったが、勢いよくよろめいたアルエットを受け止めても微動だにしない。その上、背中に回されている腕は力強くアルエットを支えている。
ほんのりと鼻腔をくすぐるフレグランスは深くて清廉な森の空気のような落ち着いた香りがして、大人の色気をもろに浴びてしまったような感覚にくらくらと眩暈がした。
「大丈夫か、リエル?」
「だい、じょうぶ……」
バクバクと心臓が高鳴っているのを気づかれないように、そっと彼から離れる。しかし、右手は繋がれたままだ。
(このまま……行くの?)
いくらセヴランが優しくても、どんな女性にもこういうエスコートをするのだろうか。少々やり過ぎではないのか?
思い浮かべた比較対象が残念な男ジェルマンしかおらず、アルエットは頭を振って大嫌いな公爵令息の顔を脳内から振り払った。
温かくて大きな手に包まれながら、アルエットは前へ歩き出した。
2
あなたにおすすめの小説
冷徹宰相様の嫁探し
菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。
その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。
マレーヌは思う。
いやいやいやっ。
私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!?
実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。
(「小説家になろう」でも公開しています)
婚約破棄されました(効率の悪い労働でした) ― 働いてない? 舞踏会は、充分重労働ですわ! ―
ふわふわ
恋愛
「働いていない?――いいえ、舞踏会も社交も重労働ですわ!」
前世で“働きすぎて壊れた”記憶を持ったまま、
異世界の公爵令嬢ルナ・ルクスとして転生したヒロイン。
生まれながらにして働く必要のない身分。
理想のスローライフが始まる――はずだった。
しかし現実は、
舞踏会、社交、芸術鑑賞、気配り、微笑み、評価、期待。
貴族社会は、想像以上の超・ブラック企業だった。
「ノブレス・オブリージュ?
それ、長時間無償労働の言い換えですわよね?」
働かないために、あえて“何もしない”を選ぶルナ。
倹約を拒み、金を回し、
孤児院さえも「未来への投資」と割り切って運営する。
やがて王都は混乱し、
なぜか彼女の領地だけが安定していく――。
称賛され、基準にされ、
善意を押し付けられ、
正義を振りかざされ、
人格まで語られる。
それでもルナは、動かない。
「期待されなくなった瞬間が、いちばん自由ですわ」
誰とも戦わず、誰も論破せず、
ただ“巻き込まれない”ことを貫いた先に待つのは、
何も起きない、静かで満たされた日常。
これは――
世界を救わない。
誰かに尽くさない。
それでも確かに幸せな、
働かない公爵令嬢の勝利の物語。
「何も起きない毎日こそ、私が選び取った結末ですわ」
白い結婚を捨てた王妃は、もう二度と振り向かない ――愛さぬと言った王子が全てを失うまで』
鍛高譚
恋愛
「私は王妃を愛さない。彼女とは白い結婚を誓う」
華やかな王宮の大聖堂で交わされたのは、愛の誓いではなく、冷たい拒絶の言葉だった。
王子アルフォンスの婚姻相手として選ばれたレイチェル・ウィンザー。しかし彼女は、王妃としての立場を与えられながらも、夫からも宮廷からも冷遇され、孤独な日々を強いられる。王の寵愛はすべて聖女ミレイユに注がれ、王宮の権力は彼女の手に落ちていった。侮蔑と屈辱に耐える中、レイチェルは誇りを失わず、密かに反撃の機会をうかがう。
そんな折、隣国の公爵アレクサンダーが彼女の前に現れる。「君の目はまだ死んでいないな」――その言葉に、彼女の中で何かが目覚める。彼はレイチェルに自由と新たな未来を提示し、密かに王宮からの脱出を計画する。
レイチェルが去ったことで、王宮は急速に崩壊していく。聖女ミレイユの策略が暴かれ、アルフォンスは自らの過ちに気づくも、時すでに遅し。彼が頼るべき王妃は、もはや遠く、隣国で新たな人生を歩んでいた。
「お願いだ……戻ってきてくれ……」
王国を失い、誇りを失い、全てを失った王子の懇願に、レイチェルはただ冷たく微笑む。
「もう遅いわ」
愛のない結婚を捨て、誇り高き未来へと進む王妃のざまぁ劇。
裏切りと策略が渦巻く宮廷で、彼女は己の運命を切り開く。
これは、偽りの婚姻から真の誓いへと至る、誇り高き王妃の物語。
引きこもり聖女は祈らない
鷹 綾
恋愛
内容紹介
聖女ポーラ・スターは、引きこもっていた。
人と話すことができず、部屋から出ることもできず、
彼女の意思表示は、扉に貼られる小さなメモだけだった。
「西の街道でがけ崩れが起きます」
「今日は、クラムチャウダーが食べたいです」
祈らず、姿も見せず、奇跡を誇示することもない聖女。
その存在は次第に「役立たず」と見なされ、
王太子リチャードから一方的に婚約を破棄され、聖女の地位も解かれる。
──だが、その日を境に、王国は壊れ始めた。
天候不順、嵐、洪水、冷害。
新たに任命された聖女は奇跡を演じるが、世界は救われない。
誰もが気づかぬまま、
「何もしない聖女」が、実はすべてを支えていた事実だけが残されていた。
扉の向こうで静かに生きる少女と、
毎日声をかけ続ける精神科医フォージャー。
失われていく王国と、取り戻されていく一人の人生。
これは、
祈らない聖女が選んだ、
誰にも支配されない静かな結末の物語。
『引きこもり聖女は祈らない』
ざまぁは声高でなく、
救いは奇跡ではなく、
その扉の向こうに、確かにあった。
不憫な侯爵令嬢は、王子様に溺愛される。
猫宮乾
恋愛
再婚した父の元、継母に幽閉じみた生活を強いられていたマリーローズ(私)は、父が没した事を契機に、結婚して出ていくように迫られる。皆よりも遅く夜会デビューし、結婚相手を探していると、第一王子のフェンネル殿下が政略結婚の話を持ちかけてくる。他に行く場所もない上、自分の未来を切り開くべく、同意したマリーローズは、その後後宮入りし、正妃になるまでは婚約者として過ごす事に。その内に、フェンネルの優しさに触れ、溺愛され、幸せを見つけていく。※pixivにも掲載しております(あちらで完結済み)。
『悪役令嬢は、二度目の人生で無言を貫く。~処刑回避のために黙っていただけなのに、なぜか冷徹宰相様から「君こそ運命の人だ」と溺愛さています~』
放浪人
恋愛
「もう、余計なことは喋りません(処刑されたくないので!)」
王太子の婚約者エリスは、無実の罪を着せられた際、必死に弁解しようと叫び散らした結果「見苦しい」と断罪され、処刑されてしまった。 死に戻った彼女は悟る。「口は災いの元。二度目の人生は、何があっても口を閉ざして生き延びよう」と。
しかし、断罪の場で恐怖のあまり沈黙を貫いた結果、その姿は「弁解せず耐え忍ぶ高潔な令嬢」として称賛されてしまう。 さらに、人間嫌いの冷徹宰相クラウスに「私の静寂を理解する唯一の女性」と盛大な勘違いをされ、求婚されてしまい……!?
「君の沈黙は、愛の肯定だね?」(違います、怖くて固まっているだけです!) 「この国の危機を、一目で見抜くとは」(ただ臭かったから鼻を押さえただけです!)
怯えて黙っているだけの元悪役令嬢と、彼女の沈黙を「深遠な知性」と解釈して溺愛する最強宰相。 転生ヒロインの妨害も、隣国の陰謀も、全て「無言」で解決(?)していく、すれ違いロマンティック・コメディ! 最後はちゃんと言葉で愛を伝えて、最高のハッピーエンドを迎えます。
婚約破棄されたので、自由に生きたら王太子が失脚しましたあ
鍛高譚
恋愛
名門アーデン公爵家の令嬢 ロザリー・フォン・アーデン は、王太子 エドワード・カミル・レグノード の婚約者として誰もが認める完璧な貴族令嬢だった。
しかしある日、王太子は突如 “聖女” を名乗る平民の少女 セシリア・ブランシュ に夢中になり、ロザリーに無情な婚約破棄を言い渡す。
「これは神の導きだ! 私の本当の運命の相手はセシリアなんだ!」
「ロザリー様、あなたは王太子妃にふさわしくありませんわ」
──ふたりの言葉を前に、ロザリーは静かに微笑んだ。
「……そうですか。では、私も自由に生きさせていただきますわね?」
だが、これがロザリーの “ざまぁ” 逆転劇の幕開けだった!
神託と称して王太子を操る “聖女” の正体は、なんと偽者!?
さらに王室財政を私物化する 汚職貴族との黒い繋がり も発覚!?
次々と暴かれる陰謀の数々に、王宮は大混乱。
そして、すべての証拠が王の手に渡ったとき──王太子 エドワードは王太子の地位を剥奪され、偽の聖女と共に国外追放 となる!
「ロザリー様を捨てた王太子は大馬鹿者だ!」
「やっぱり王妃にふさわしかったのはロザリー様だったのよ!」
社交界ではロザリーへの称賛が止まらない。
そしてそんな彼女のもとに、なんと隣国の 若き王クラウス・アレクサンドル から正式な求婚が──!?
「私はあなたの聡明さと誇り高き心に惹かれました。私の王妃になっていただけませんか?」
かつての婚約破棄が嘘のように、今度は 本物の愛と自由を手にするチャンス が巡ってくる。
しかし、ロザリーはすぐに頷かない。
「私はもう、誰かに振り回されるだけの人生は選びません」
王妃となる道を選ぶのか、それとも公爵家の令嬢として新たな未来を切り開くのか──?
夫が運命の番と出会いました
重田いの
恋愛
幼馴染のいいなづけとして育ってきた銀狼族の族長エーリヒと、妻ローゼマリー。
だがエーリヒに運命の番が現れたことにより、二人は離別する。
しかし二年後、修道院に暮らすローゼマリーの元へエーリヒが現れ――!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる