愛と死の輪廻

栗菓子

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第2話 首つり人形Ⅱ

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リサという女は本当に魅力的で、夫と踊った彼女のようにいいえ、それ以上に存在感があり、女王のような風格があった。
大柄で、豊満な古代の女神のような姿。しかし戦う女戦士のようにも見えた。
どう見ても、彼女は貴族以上のような貴人だった。まさか王族? かすかな疑念とともにアンはリサを手厚く介抱した。他の救いを求める人たちも介抱した。

それしかアンの出来ることはなかった。 
人間なんて綺麗にするか汚くするかどちらかだ。アンは綺麗にするのを選んだだけだ。
アンは善良ではない。唯の凡庸な女だ。しかし、どちらかというと綺麗にするのが好きだからというだけでアンはこの役目を背負っているのだ。

本当の善良な人って? アンは知りたがった。見て見たかった。リサにこんな酷いことをする夫にも会ってみたかった。アンは人間をまだ何も知らないらしい。

アンはまるで見えない透明な箱入り娘のようだった。

必死で穴から現実や真実を覗こうとしている子どものようだった。

アンは自分を恥じた。わたしは盲目の羊だったのだ。少しでもよく見えるようになりたい。解るようになりたい。

アンはおそるおそると自分の透明な箱から一歩ずつ歩く覚悟を決めた。

「貴女は不思議な方ですね。わたしは貴方のような魅力的な方を見たのはほんの少しだけです。」

アンは紅潮しながらこどものように舌足らずに言った。あまりしゃべらなかったから口調は舌足らずになってしまう。アンは恥ずかしくても頑張った。

彼女のような人が気になったのだ。

リサは皮肉気に笑って、アンに事実を伝えた。
「貴女はまるでこどものような女ね。夫に見放されても淡々と生活している。それどころがこの女の掃き溜めの離宮を美しく変えた。それはとても凄い事が貴女はわかっていないのね。」

アンはよくわからなかった。彼女は唯綺麗にしたかっただけだ。
誰だって、綺麗にしたいと思うだろう。そうリサに伝えた。
するとリサはこうつぶやいた。
「そうね・・。誰でも考える事。でもやらなかったことを貴女がやったのよ。これは大きな一歩よ。」

アンはどうもよくわからないながらも、なにか改革者のような事をしたらしい。難しい事を考える人の言動はわからないことばかりだ。


アンは知らないうちに、女の追放の場。掃き溜めのような汚い離宮を、何も考えずに無心にひたすら綺麗にし続けた。
子どもみたいに小柄な女は、だだ綺麗にしたいだけだと女達も分かった。

アンは少し足りない感じの女だったが、結果的に女達を良くし、環境を綺麗にした。

義理堅い女や、その恩を忘れない女も居た。 アンは唯、ひたすらに一生懸命自分にできることをやった。

「弱い者も何もしないよりまし」とアンは人生を諦めないで少しでも良くしようと頑張った。

女達は己の人生を振り返り、色々と失敗や栄光の時を思い返しながら最後の場所は綺麗にしたいと思うようになった。そして安らかな死を得たいとも思った。

そして、ここにいる女にはある共通点がある。夫に見放された妻と言うことだ。

或る者は、自分より寵愛されていた女を出し抜き、略奪して夫の愛を得たと豪語した女も居た。それでも、奪った愛は必ず自分より若く美しく強い女に奪われる。それはまるで運命の理のようだった。

「あたしは、あの女を上手く騙して幸福になった。夫の愛を手に入れたと思ったあの時が幸福の絶頂だったよ。所詮この世は奪い奪われる世界だったよ。あたしにとっては。馬鹿だねえ。あたしは。あたしも年老いることが当時はわからなかった。あたしが少し弱ったら、冷酷な夫は、あたしよりも若くて美しく強い女を選んだよ。当然だね。あたしも奪ったし覚悟がなかった・・。」

「若いころは本当に残酷で無知な女だったよ。あたしは。でも年老いて知恵を持ち、ほんの少し世界や、運命の理が見えた途端、あたしは夫に捨てられた。今思えば、夫は面白い面白いと子どものようにあたしたちの女の戦いをどこか馬鹿にして見ていたね・・仕方がないね。夫のほうが頭が良いし、面白い玩具にしか見えなかったんだろう。妻のことは・・。」

アンはふと素朴な疑問を抱いてその略奪女に問いかけた。

「貴女は夫を・・愛していたの?好きだったの?だから欲しかったの?」

彼女は思いもよらない事を聞かれたような顔をした。目を見開き、あんぐりと口を開けた。
しばらくして彼女は雷に打たれたように何かに気づいたような驚愕に満ちた顔をした。

「ああ・・あたしは本当に馬鹿だった・・。ううん。違うよ。あの時は生きるために夫の愛を得なきゃ生きていけないと思っていたんだ。そうだね。ほら古代の奴隷は殺しあって勝った方が生の勝利と権利を得たろう。
あれと同じだよ。あたしは生きるために夫の愛を略奪したんだ。夫自身への愛はなかったよ。あたしはいつも後になって気づくんだ・・。馬鹿だったよ。前の寵愛されていた女のほうが多分夫を愛していたと思う。だってあの女は夫を幸福にしてと言ったもの・・。あたしは夫を幸福にするなんで思いつかなかったよ。自分の幸福と勝利の事しか考えていなかった。あたしはもしかしたら本当の伴侶を引き離したのかもしれない・・。」

略奪女は呆然と蒼白な顔をして呟いた。
リサはしばらくその話を聞いて、ふふっと笑った。
「何を今更。お前のような女が奪ったからといって、また他に新しい女に奪われたではないか?どうやらその夫とやらは、お前たちを真実愛してはいなかったようだな。その以前の寵愛された女も哀れな者よ。男を愛していたらしいな。しかし夫は略奪を受け入れたのだ。結局夫も誰も真実愛していなかったのだ。 哀れなのは愛していた女よ。」

「ああ・・そうだったんだ。そうだね。」

アンと略奪女は深く納得して頷いた。やっと人生の真実の一端を垣間見た気がしたのだ。
 
略奪女は今更ながらに深く後悔しているようだった。
アンは深い溜息をついた。略奪女はそうしなければ生きてはいけないと思うような境遇だったのだ。
なのに、夫だけがまた新しい寵愛する女を得て、なんだかアンはその夫がわからなくて厭になった。

夫は本当に幸福なのだろうか? 誰も愛していないくせに受けいれて、そのくせ突き放す。
なんだ。それは・・。アンにはその男が理解できなかった。

自分の夫はまだわかるが、略奪女のトルフィー勝利の杯のような男を不審に思った。
その男は本当に人間らしい心はあるのだろうか?

アンはもやもやした心を抱えながら働いた。

リサはクスクスと笑いながら、そういう男もいるのだとアンに子どものように語りかけた。

「受け入れながらも、最後の領域を踏み越えたら途端に突き放す野生の獣のような男だ。

その男は絶対に受け入れない領域があったのだ。奪う女を内心どう思っていたかはわからぬよ。
唯、奪った女は今ここに追放されている。これが事実よ。

その男の事はもう忘れた方が良い。そんなことよりお前は自分の夫は気にならぬのか。」

「ああ・・。」

アンは嫌な顔をした。侍女の言葉が忘れられなかった。アンは自己完結をすると言われた。
アンはどうしたらいいかわからなかった。

そういえばわたしは夫の好みや生き方を何も知らない。生きるだけで精一杯で夫婦とは名ばかりの他人より遠い関係だった・・。

これでは夫に見放されても無理はない・・。とアンは今更のように略奪女のように後悔した。

リサはクスクス笑いながら手紙でも出したらどうだと提案した。

はっとアンは目を丸くした。思いつかなかった。少し足りない頭を振り絞って夫に手紙を書いてみよう。

彼女は子どものように決心した。

リサには感謝の言葉を告げ、アンは手紙をどのように書いたらいいか思案した。

生れてはじめてアンは自分の運命を変える努力をしようとしていた。

リサは去っていくアンの後ろ姿を目を細めて眺めていた。


☆アン視点☆

嗚呼・・わたしは馬鹿だわ。今更のように気づくなんで・・
夫の好みがわからないから無難に白い便箋をアンは選んだ。その中に乾燥させたドライフラワー1輪を入れた。
カモミールという黄色の小さな花だ。花言葉はごめんなさいだ。

夫が誤解することのないよう、ちゃんと、白い便箋に丁寧に書いた。

〇〇様 
アンです。

この花はカモミールと言って花言葉は御免なさいという意味です。
生きるのに精いっぱいで、夫たる貴方様にちゃんと妻として向き合おうとしていませんでした。
今更のように、この離宮で過去を振り返って考えました。
わたしはやはり足りない女のようです。今頃貴方に歩み寄ろうとする努力が足りなかったとは思いもよりませんでした。
わたしは貴方の好みも知りません。こんな妻は不合格ですね。申し訳ありません。わたしは自己完結すると言われました。見えない壁があるとも。わたしは無意識に貴方を排除していたのでしょうか?
だとしたら申し訳ありません。
わたしは妻として貴婦人としての役割を果たそうと必死でした。貴方が不満に思うのは分かります。
もう遅いとは思いますが、貴方の好みや生き方を教えていただけませんか?
わたしはいつも気づくのが遅いのです。これでは見放されても文句は言えません。
ごめんなさい。
足りない妻で不満に思うのはわかります。

〇〇様。貴方様の幸福をお祈りいたします。
                        アンより。


簡潔だが素朴に実直にアンは己の思いを告げた。手紙を丁寧に封筒に入れ、侍女に命じた。

元夫の家に届けてくれ。拒絶されるかもしれないか、その時は諦めるとアンは嘆願した。

侍女は複雑な顔をして「分かりました。アン様・・。」と恭しく手紙を大切に抱えて扉を開いて出ていった。

ふうとアンは溜息をついた。昔の妻が未練がましく縋り付いていると嫌悪されるかもしれないが、何もしないよりましなのだ・・多分、夫は本当に相応しい伴侶を得ているかもしれない。これはアンの自己満足なのだ。

アンは夫に今こそありったけの思いを伝えようと決心した。
侮蔑されようともかまわない。愚かと言われようともかまわない。これはアンの魂の成長のためでもある。


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