王子の溺愛癖を、私はまだ知らない。

Wataru

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忘れようとすると、痛む

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舞踏会まで、あと二日。

 その事実を意識しないようにしていたのに、王宮の空気は否応なく知らせてくる。
 廊下を行き交う侍女たちの足取りが忙しない。
 花が運び込まれ、飾り付けの準備が始まっていた。

 エリナは、できるだけ普段通りに過ごしていた。

 仕事に集中する。
 余計なことを考えない。

 ――離れると、決めたのだから。

 午前の用事を終え、部屋に戻ったときだった。

「エリナ様。お荷物が届いております」

 侍女がそう言って、細長い箱を運び込む。
 見覚えのない包みだった。

「……私宛、ですか?」

「はい。差出人のお名前は、ありません」

 胸の奥が、ひくりと鳴る。

 覚えがない。
 それなのに、嫌な予感よりも先に、妙な確信がよぎった。

 侍女が去り、部屋に一人になる。
 エリナはしばらく箱を見つめたまま、動けずにいた。

(……違う)

 思い浮かべた顔を、頭の中から追い払う。

 深呼吸をして、そっと蓋を開けた。

 中に収められていたのは、淡い色合いのドレスだった。
 装飾は控えめで、けれど生地は上質。
 派手さはないのに、不思議と目を引く。

「……」

 声が出なかった。

 広げてみると、サイズはぴたりと合っている。
 丈も、肩のラインも。

 まるで――
 最初から、エリナのために誂えられたかのように。

 添えられていたのは、小さなカードだけだった。

『舞踏会に』

 それだけ。

 差出人も、説明もない。

 エリナは、胸の前でカードを握りしめた。

(……どうして)

 舞踏会に出る予定だということ。
 好みの色。
 体の寸法。

 誰かが、知っている。

 偶然だと片づけるには、あまりに整いすぎていた。

 鏡の前で、そっとドレスを当ててみる。
 淡い色が、肌によく馴染む。

 ――似合っている。

 その事実が、怖かった。

(……着ない)

 一瞬、次の言葉が浮かぶ。

 着てはいけない。
 これは、関わってはいけない人からのものだ。

 なのに、視線はドレスから離れなかった。

 忘れようとした。

 あの声も、あの夜も、
 そして、このドレスがここにある理由も。

 そう思った瞬間――
 胸の奥が、きゅっと締めつけられた。

「……っ」

 理由の分からない痛みだった。

 思い出そうとしたわけじゃない。
 ただ、遠ざけようとしただけなのに。

 それだけで、心が拒むように痛む。

(……どうして)

 忘れたほうがいいと、分かっている。
 関わらなければ、きっと安全でいられる。

 なのに――
 忘れようとするたび、胸が痛む。

 それが、いちばん怖かった。

 その日の午後、舞踏会の話題が耳に入る。

「今年は、どなたが目立つのでしょうね」
「新しい妃候補もいらっしゃいますし」

 エリナは微笑みながら相槌を打つ。
 けれど、心は別のところにあった。

 夜になり、部屋に戻る。

 ドレスは、寝台の上に置いたままだ。
 片づける気には、なれなかった。

 灯りを落としても、目を閉じても、
 頭に浮かぶのは、あの路地裏と、低い声。

(……来るな)

 そう言われたはずなのに。

 エリナは、そっとドレスに触れた。

 指先に伝わる、柔らかな感触。
 それだけで、胸がざわめく。

(……行かない、って決めたのに)

 それでも、心のどこかで思ってしまう。

 ――もし、このドレスを着て舞踏会に行ったら。

 誰に、見せるつもりなのだろう。

 答えが浮かびそうになって、エリナは目を閉じた。

 まだ、知らない。
 知りたくない。

 けれど。

 この贈り物が、
 「来る前提」で用意されていたことだけは、
 もう否定できなかった。
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