王子の溺愛癖を、私はまだ知らない。

Wataru

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忘れられない

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 舞踏会の翌朝、王宮は不思議なほど静かだった。

 昨夜の華やかさが嘘のように、廊下には落ち着いた空気が戻っている。
 エリナは窓辺に立ち、薄いカーテン越しに差し込む光を眺めていた。

 胸の奥に残る重さは、まだ消えない。

(……大丈夫)

 そう言い聞かせるように、息を整える。

 特別じゃなかった。
 それだけのことだ。

 あの人にとって、自分は数ある妃候補の一人。
 それ以上でも、それ以下でもない。

(それでいい)

 妃候補としては、正しい在り方だ。

 なのに。

 ふと、鏡台の上に置かれたドレスが目に入る。
 昨夜着ていた、あの淡い色。

 もう着ることはないはずなのに、
 視線がそこから離れなかった。

 エリナは、そっと目を伏せる。

(……忘れよう)

 そう決めたはずなのに、
 忘れようとすればするほど、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

 その日、仕事に出ても集中できなかった。

 薬草の仕分けをしながら、何度も手が止まる。
 名前を呼ばれて、はっと顔を上げることもあった。

「エリナ様、お疲れですか?」

 侍女の気遣う声に、慌てて微笑み返す。

「いえ、大丈夫です」

 本当は、少しも大丈夫ではなかった。

 昼を過ぎた頃。
 廊下を歩いていると、ひそひそとした声が耳に入る。

「昨日の舞踏会で……」
「王子様、どなたかと踊られたそうよ」

 その言葉に、胸の奥がひくりと鳴った。

 足を止めるわけにはいかない。
 エリナは歩調を変えず、そのまま廊下を進む。

「淡い色のドレスの方だったって」
「やっぱり、もうお決まりなのかしらね」

 笑い声が、背後で弾んだ。

(……王子様が、誰かと踊った)

 それだけの話のはずなのに。

 なぜか、昨夜の光景が脳裏をよぎる。

 仮面の男が、別の女性と手を取り合っていた姿。
 楽しげに、何度も曲を重ねていたあの場面。

(……違う)

 エリナは、心の中で小さく否定する。

 あの人が、王子様だなんて。
 そんなはず、あるわけがない。

 仮面の男は、名前も素性も分からない。
 王子様と結びつける理由なんて、どこにもないのに。

 それでも――

 噂の言葉と、記憶の映像が、
 不自然なほど、重なってしまう。

(……考えすぎ)

 噂は、噂でしかない。
 自分が見たものも、ただの一場面だ。

 それなのに。

 胸の奥が、静かに沈んでいく。

(……私は、誰にも選ばれていない)

(王子様にも、選ばれなかった)

 その事実が、胸の奥に重く落ちる。

 そして、もうひとつ。

(仮面の人にも……)

 昨夜、視線を交わしただけの相手。
 名前も、素性も分からない男性。

 その人にも、選ばれなかった。

(……何を、落ち込んでいるの)

 舞踏会で踊らなかった。
 それだけのことだ。

 誰かに声を掛けられなかったからといって、
 何かが失われたわけでもない。

 妃候補なのだから。
 王子の視線を待つ立場なのだから。

 そんなことで、
 こんなにも胸が痛む理由なんて、ないはずなのに。

(……どうして)

 どうして、こんなにショックを受けているのだろう。

 王子様にも選ばれず、
 仮面の男性にも選ばれず。

 ただそれだけの夜だったはずなのに。

 期待してはいけない相手に、
 勝手に意味を見出して、
 勝手に傷ついている自分が――

 ひどく、情けなかった。

 エリナは、足を止めなかった。

 聞こえないふりをして、通り過ぎる。

(……関係ない)

 自分には関係ない話だ。

 そう思いたいのに、
 なぜか胸の奥が、また小さく痛んだ。

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