王子の溺愛癖を、私はまだ知らない。

Wataru

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静かな違和感

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 執務室には、紙をめくる音だけが響いていた。

 男は机に向かい、書類に目を落としている。
 視線は動いているが、内容はほとんど頭に入っていなかった。

(……気づいたか?)

 ふと、そんな考えが浮かぶ。

 馬車事故のこと。
 あのときの距離。
 呼ばれた言葉。

 ――殿下。

 あの一声が、耳の奥に残っている。

 気づかれてもおかしくはない。
 だが、確信には至っていないはずだ。

(まだ、だ)

 男は、何事もなかったように書類を重ねる。

 もし気づいていたなら、行動が変わる。
 視線が揺れる。
 距離を詰めるか、逆に避ける。

 ――だが、そうはなっていない。

 相変わらず、無駄に忙しそうで。
 必要以上に、きちんとしている。

(……分かりやすい)

 安心しようとした、その瞬間。

 胸の奥に、わずかな緊張が残った。

(面倒だな)

 遊びが、遊びでなくなる境界。
 それはいつも、気づかぬうちに越えている。

 男は、深く息を吐いた。

 今はまだいい。
 確信されていない。
 こちらが主導権を握っている。

 それだけで、十分だ。

 ――そう、思うことにした。



 一方。

 回廊を歩くルシアンは、無意識に拳を握っていた。

 胸の奥に残るのは、あの光景。

 人だかりをかき分けて辿り着いた先で、
 ルシアンは、信じられない光景を目にした。

 兄が――
 エリナを、腕に抱いていた。

(……兄上が?)

 一瞬、思考が止まる。

 すでに馬車は止められ、
 周囲は騒然としている。
 事故の瞬間は、もう終わっていた。

 それでも。

 迷いなく身体を引き寄せ、
 庇うように抱き留めている、その姿は――

(反射、だったのか……)

 計算でも、演技でもない。
 咄嗟に出た動き。

 兄が、
 自分の身を顧みずに、
 誰かを守るなんて。

 ルシアンは、息を呑んだ。

(遊びのはずだろう)

 そう聞いていた。
 そう、信じていた。

 なのに。

 エリナを抱き留めていたときの兄の表情が、
 頭から離れない。

 冷静で、感情がないように見えて――
 それでも、どこか張りつめていた。

(……止められない)

 自分にできることは、何だったのか。

 忠告する?
 問いただす?

 どれも、意味を持たない。

 兄は、いつだって自分の内側だけで完結してしまう。

 守りたいと思う気持ちと、
 踏み込めない距離。

 その両方が、ルシアンを立ち止まらせていた。

(エリナ様は……)

 今、どんな気持ちでいるのだろう。

 怖かったはずだ。
 混乱しているはずだ。

 それでも、きっと彼女は――
 何も言わない。

 無理をして、笑って。
 自分の中で、答えを出そうとする。

(それが、一番危ないのに)

 ルシアンは、歩みを止めた。

 自分は、味方だ。
 そう言った。

 けれど、味方でいるだけで、
 本当に守れるのだろうか。

 兄の背中と、
 エリナの背中。

 その間にある距離は、
 思っている以上に、深くて暗い。

(……無力だな)

 そう思った瞬間、
 ルシアンは、唇を噛みしめた。

 それでも。

 目を逸らすつもりはなかった。

 たとえ止められなくても、
 見ていることだけは、やめない。

 静かに決意し、再び歩き出す。



 同じ時間。

 王宮のどこかで、
 同じ名前を思い浮かべている者がいることを、
 彼らはまだ知らない。

 すれ違ったまま、
 確かめることも、踏み込むこともできず。

 それでも、
 偶然にしては近すぎる距離で、
 視線と意識だけが絡まり続けている。

 このまま、何も起きなければいい。
 そう思っている者はいない。

 起きてしまうと分かっているからこそ、
 誰もが、平静を装っている。

 ――次に何かが起きたとき。

 その均衡が、
 簡単に崩れることだけは、
 静かに、確実に予感されていた。
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