王子の溺愛癖を、私はまだ知らない。

Wataru

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来なかった理由

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 執務室に、午後の静けさが戻っていた。

 書類はすでに片づいている。
 報告も、決裁も、ひと通り終わっている。

 ――それなのに。

 男は、何度目か分からない視線を、扉の方へ向けていた。

(……来ないな)

 薬草の在庫報告。
 「後ほど、改めてお持ちします」

 そう伝えられた、と侍女は言っていた。

 だから、待っていた。
 別に、急ぐ用事でもない。
 時間が押しているわけでもない。

 それでも。

(……来るはずだった)

 自分でも理由の分からない確信だけが、胸の奥に残っている。

 男は、指先で机を軽く叩いた。

 侍女に任せていた仕事を、
 わざわざ本人が届けに来た。

 それ自体が、珍しい。

(確かめに来たか?)

 馬車の件。
 あの瞬間。
 聞こえた声。

 ――殿下。

 気を失う直前の、あの表情。

 何かを察した顔だった。
 だが、確信した顔ではなかった。

(……なら、来る)

 自分だと気づいたなら、
 距離を取ろうとするだろう。

 だが、気づきかけた程度なら。
 迷いがあるなら。

 人は、確かめに来る。

 男は、そう思っていた。

 だから、待った。

 だが――

 扉は、開かない。

 時刻だけが、静かに進んでいく。

(……妙だな)

 椅子の背にもたれかかり、
 男は天井を仰いだ。

 距離を取ろうとしていた。
 それは、分かっている。

 だが、
 “来ない”のは、違う。

 避けるなら、最初から来ない。
 わざわざ「後ほど」と言う必要はない。

(……何か、あったか)

 執務室の前。
 回廊。
 そこで、誰かと会った可能性。

 考えが、ひとつ浮かび――
 すぐに、名前がついた。

(……第二王子)

 舌打ちしかけて、堪える。

 あいつは、
 守る側に立つ男だ。

 余計な言葉をかけ、
 余計な安心を与える。

 それが、
 今、一番――面倒だった。

(俺を疑う前に、誰かに遮られた?)

 その可能性が、
 胸の奥を、ちくりと刺す。

 男は、無意識に立ち上がっていた。

 窓辺に歩み寄り、
 王宮の中庭を見下ろす。

 人の動き。
 侍女の往来。

 その中に、
 淡い色のドレスは見えない。

(……来なかった、か)

 それだけのことのはずなのに。

 胸の奥に残るのは、
 思っていたよりも強い――違和感。

 焦り、ではない。
 不安、とも違う。

 もっと、
 自分でも名前をつけたくない感覚。

(……まぁいい)

 男は、視線を戻し、
 机に置かれた書類に手を伸ばした。

 今は、まだ。

 気づかれたわけでもない。
 拒まれたわけでもない。

 ただ――
 予定通りに、動かなかっただけだ。

(……次は)

 そう考えた瞬間、
 ふと、思い浮かぶ。

 花束を受け取ったときの反応。
 手紙を捨てられなかった話。

 あれほど、分かりやすかったのに。

(……逃げた、か?)

 その考えに、
 男は、わずかに眉をひそめた。

 逃げられるのは、
 想定していなかった。

 距離を取るのは、いい。
 悩むのも、迷うのも。

 だが。

(……俺の視界から消えるのは、違う)

 それは、
 この遊びの“外”だ。

 男は、机の引き出しに手をかける。
 中にあるのは、
 同じ筆跡の、短い言葉たち。

 だが、今日は触れなかった。

(……もう一段、必要か)

 気づかせる。
 逃げ切れないと、思わせる。

 それでいて、
 確信させない。

 男は、静かに息を吐いた。

(……来なかった理由)

 それが分からないままなのが、
 ひどく、気に入らない。

 だから。

 次は――
 こちらから、動く。

 その決意だけが、
 執務室に、静かに残った。
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