王子の溺愛癖を、私はまだ知らない。

Wataru

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消えたはずの力

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 医務室は、昼間にしては静かすぎた。

 第一王子バルディンは、扉の前で足を止める。
 中から聞こえてくるのは、抑えた声と、慌ただしい足音。

「……何を騒いでいる」

 低く問うと、侍女がはっとして振り返った。

「で、殿下……! いえ、その……」

 言い淀む視線が、寝台のほうへと向く。

 そこに横たわっていたはずの第二王子――ルシアンは、
 すでに上体を起こし、静かにこちらを見ていた。

「兄上」

 落ち着いた声。
 昨夜、大きな怪我を負っていたとは思えないほどだ。

 バルディンは、無言のまま近づいた。

 視線は、額。
 昨夜、確かに血に濡れていた場所。

(……ない)

 傷が、ない。
 包帯すら、外されている。

「医師は?」

「先ほど、確認を終えました。もう問題ないと」

 侍女が慌てて答える。

 バルディンは眉をひそめた。

「問題ない、で済む怪我だったか?」

 一瞬、空気が張り詰める。

 ルシアンは、ほんのわずかに肩をすくめた。

「僕も驚いています。眠っている間に、手当てが進んだようで」

 あまりに自然な言い方だった。

 だが――
 バルディンの胸の奥に、わずかな引っかかりが残る。

(説明が、軽すぎる)

 昨夜の状況を思い出す。
 血の量、倒れ方、騒ぎの大きさ。

 それが、一晩で跡形もなく消える?

「……昨夜、誰がここに出入りした」

 問いは、淡々としていた。

 侍女が一瞬、視線を伏せる。

「そ、それは……記録では、夜番の者と医師のみですが……」

 歯切れが悪い。

 バルディンは、それ以上追及しなかった。
 代わりに、ルシアンへ視線を向ける。

「覚えはないのか」

「ありません。眠っていましたから」

 即答だった。

 嘘をついているようには見えない。
 だが、すべてを話しているとも思えなかった。

「そうか」

 短く言って、バルディンは踵を返す。

「しばらくは安静にしておけ。……それだけだ」

 扉が閉まる。



 足音が遠ざかったのを確認してから、
 ルシアンは、ゆっくりと息を吐いた。

(……危なかった)

 兄は、まだ“気づいていない”。
 だが、違和感には触れ始めている。

 視線を、包帯の外された額に落とす。

(間違いない)

 あの治り方。
 あの感覚。

 幼い頃、城にいた――
 治癒能力者に触れられたときと、同じだった。

(……エリナ様)

 名前を、心の中だけで呼ぶ。

 昨夜。
 医務室を出ていく背中を見たという従者の証言。

 偶然では、ない。

 ルシアンは、ぎゅっと指を握った。

(兄上には、まだ知られたくない)

 知られた瞬間、
 彼女は“守られる存在”ではなくなる。

 利用されるか、
 囲われるか――
 どちらにせよ、穏やかな未来はない。

(……僕が、隠す)

 それが、弟として。
 そして――

 彼女の味方であると決めた、自分の役目だ。

 ルシアンは、そっと目を閉じた。

 静まり返った医務室に、
 新たな緊張だけが、静かに残っていた。

 医務室を出たバルディンは、回廊を歩きながらも足を緩めなかった。

(……早すぎる)

 それが、頭から離れない。

 治ったこと自体ではない。
 治り方だ。

 説明が整いすぎている。
 まるで、“触れてはいけない理由”を最初から用意していたかのように。

 バルディンは、無意識に拳を握った。

(消えた治癒能力者は、本当に……)

 続きを考える前に、その思考を切り捨てる。

 ――まだだ。

 今は、確かめる材料が足りない。

 だが。

 何かが、確実に動き始めている。

 その予感だけが、
 冷たい影となって、背中に残っていた。

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